本来の美術観賞
芸術などの職業は生産とは関係ないからと、低くとらえる思考自体に問題があります。「私は何ものか?」という哲学的問題を極めようとする試みには、この分野は大変貢献してきたのです。過去では少数の人の問題であったかも知れないが、現在の日本では少なからず多くの人の課題であり、若い人は特に避けられないでしょう。レオナルド.ダビィンチとかミケランジェロは中世では有名な人達ですが、この天才達の仕事の偉業は貴族とか教会などの資金を背景にしてますから、表現する内容も限られます。
日本の仏像彫刻が鎌倉時代が頂点であるのも同じです。
壮大で技術的の完成度は高いのですが、近代は個人の心の宇宙を描いた作品が評価が高いのです。
その時代背景を考えて、美術品を見ないと理解しづらい作品があります。宗教画などはその宗教に対する理解が先であります。
そもそも、美術に感心を持ちましたのが、10代半ばで学校の図書館で美術全集を見たのが始まりです。図書館は現在でも学生さんの進学の為の場所として有効に利用されていますが、この方法は以外に退屈なものでして、学ぶという観点からは目的が進学ぐらいでは面白くない。それで美術でも見ようかという考えが浮かぶ訳です。
その美術全集の後期印象派時代を開きますと現実の色彩とか形が歪められて、難解な数学の方程式に出会った気になります。それ以前の中世画は上手いで解決しますがね。「何故、これがいいのか知らん。」と思い解説の文を読んで「なるほど」と一応感心するもんですよ。
しかし、それは絵自体からの感動とか理解ではない。何故、顔の色が現実と違い、形が変形されるのか。現実と違うではないか。それに下手に描いてあると思うのです。それでも知りたいと思うと我慢して付き合うのが人の嗜好であります。
それで絵をキャンパスに複写してみると、セザンヌなんかは結構似たものが出きるのです。これが世界の名画かと思うのです。
これが美術鑑賞の難しさであります。有名な作品を理解出来ない苛立ちと偏差値教育で起こりがちな劣等感が生じる。
これは簡単に言い切れるのです。分からない作品は分からなくて良い。嫌いなものは嫌いで良い。好きなものを充分堪能すれば楽しいのです。近代芸術が万人に向けられて作られてはいないのですし、人間的熟成をしないと理解出来ない世界もあるのです。
その時点の解釈で付き合うのが全てです。それと従属的見方は作者に対しての評価に値しません。創る者も見る者も主体性こそ、芸術の本質であります。