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tablaboyの道日記

祈りによる世界平和運動、祈り研究をライフワークとし、音楽、散歩が趣味です。音楽に関する記事、スピリチュアリティーに関する記事、祈りに関する記事、随時アップしてゆきますので、楽しんでください(^^♪ 世界人類が平和でありますように

先生のレッスン場の近くに「タパシア」というレストランがあり、そこでご飯を食べることが多い。

写真のほかに、ご飯のプレートがついて、40ルピーでおなかいっぱいになる。

日本人でも、とてもおいしく食べれる。

日本円で、110円くらいだと思う。

外人は私一人、いつも現地の人となんやかやとおしゃべりしながら、家族のように、たのしく食べている毎日なのだ。


tablaboyの道日記-tapashia

indo ni imasuga mada net ni jibun no PC wo tunagukotoga dekinainode eigo de kaiteimasu.mousugu unageruyounanode ironna koto wo shoukai siteyukitaito omotte imasu.soremade omatikudasaimase.

nihonni umaretadakede siawase ni omoimasune.

ato nihon ha mizu ga tadade nomeru kotoga siawasedesune.mizunitaisuru kannsha ga totemo daijidana to tuukann simasita.tabla ha sugoi reberu ga takaku kiga tookunarisounahodo takusan mananndeimasu.maa sonnnatokorode nihongoga tukaeruyouni narimasitara dekirudake kuwashiku kakutumoridesu.

deha


May peace prevail on earth

with love see


you bye now

以下のお話は1972年の、五井先生56歳のお誕生祝賀会でのお話ですが、五井先生が、ご自分のことを紹介しています。

全く自分を偉く見せる想いも、虚栄も、気どりもない、愛そのもの、誠実そのもの、飾らない心、裸の心、真の心、そのままで光り輝いた心・・
こういう人間になりたいなー、と思わない日がないほど思っています。

とにかく何の力みも無理もなく、24時間愛が放射されている人間・・・こんな人探しても見つかるもんじゃございません。これは恋愛に近いかも知れませんね。

それほど愛を禁じえない、とても慈愛に満ちた師なのであります。


56歳お誕生祝賀会でのお話


以下は和尚の家族に対する洞察ですが、今の時代の人間関係の歪に対して大きなヒントになると思いますので、読んでみたください。
いじめ、家庭内暴力、性犯罪、民族紛争、宗教戦争、宗派争い・・・
これらの問題の根源はどこにあるか、和尚は、意識の光を当てています。


“最も時代遅れなものが家族という現象だ。
家族はもうその役割を果たした。
もういらない。
実際、今や家族は、人間の進化にとって最も邪魔な存在だ。
家族は国の構成単位であり、州の構成単位であり、教会の構成単位であり、醜いものすべての構成単位だ。
ローマ法王のいうことはある意味で正しい・・・家族というものがなくなれば教会に未来はない。
というのも、家族とその家族による子供たちへの条件づけというものがなければ、どこからキリスト教徒を、ヒンドゥー教徒を、イスラム教徒を獲得するというのか? 
故に、私はいう「家族は消え去らねばならない」と。
家族というものがなくならない限り、国家や教会というようなあらゆる醜い怪物が存続し続ける。
家族というものが、我々の神経症の根本原因であるのだ。
そこで、我々は家族というものの精神的構造を、そして、家族というものが人間の意識にどういうことをしたか理解しなければならない。
そこで、まず最初のことは、家族というのは、宗教的観念を、政治的信条を、ある哲学を、ある神学を子供に植え付ける。
子供は全く純真無垢で、すべてを受け入れ、とても傷つきやすく、家族の言いなりになってしまう。
たとえその子供がノーといえるとしても、家族に依存しているが故に、ノーといえない。
子供は全く家族というものに依存している。子供は全く自分の力でどうすることもできない。
そこで、家族のいうことを聞かなければならない。
家族がどんなナンセンスなことをいおうとそれに同意しなければならない。
家族は子供が真理を探究することを助けない。
家族は子供に信仰を与える。
が、信仰というものは真理の探究にとって害毒であるのだ。
ひとたび、子供が信仰というものを背負い始めると、探究するということがくじかれ、力をなくしてしまう。
子供の翼が信仰というものを持つことによってもぎ取られたのだ。
すべての子供が途方も無い知性を持ってこの世に生まれてくる。
しかし、家族というものが子供を知恵遅れにしてしまう。
というのも、知性のある子供と一緒に生活することは、厄介だからだ。
子供は、物事を疑い、懐疑的に接し、探究する。
子供は家族のいうことや社会のいうことに従わない。
子供は反逆的だ・・そして、家族というのは従順で、いうことを聞き、自分たちのまねをする子供を欲する。
故に、まさに最初から知性の種がぶち壊されねばならない。
知性の芽が吹き出すいかなる可能性もないように、子供の知性はほとんど完全に燃やし尽くされねばならない。
カルカッタのマザーテレサは貧しい孤児たちを救済し、世界中から尊敬を受けている。
しかし、ちょうど2,3日前、アメリカからプロテスタントの家族がマザーテレサのところにやってきた。
彼らは子供がほしかったのだ。
そして、それが彼女がやり続けてきたことだ。
彼女は孤児たちを育て、その孤児たちを養子として引き取ることのできる家族に渡すということをやってきた。
子供たちがよりよい生活をできるように。
だが、そのプロテスタントの家族は、彼らがカソリックでないという単純な理由で、子供を養子としてわたすことを拒否された。
ということは、マザーテレサが孤児たちを救済している理由は、孤児たちのためではないということだ。
その目的はカソリック教徒の数を増やすことにあったのだ。
それが本当の目的だ。
そして、ノーベル賞が何か別のことにたいして与えられる。
孤児たちを救済していると。
だが、本当の目的は政治的なものだ。
マザーテレサにノーベル賞を与えたことで、ノーベル賞の価値は引き下げられてしまった。
もうノーベル賞は何の価値もない。
今や、うそつきが、詐欺師が、偽善者がノーベル賞をもらっている。
私は家族ではなく、コミューンをというものを説いている。
コミューンは家族に代わるものだ。
家族は、第一に子供を条件づけてしまう。第二に、家族はすべての狂気の原因である。子供が一人の女性、母親、また、一人の男、父親に育てられる場合、もしそれ子供が男の子であれば、彼は母親にその意識が固着してしまう。
また、その子供が女の子であれば、意識が父親に固着してしまう。
今では、そのことは心理学的に証明された事実だ。
男の子の意識には、その母親の像がインプリントされてしまう・・そうなると、その子は一生母親と全く生き写しの女性を探し求めるということになる。
女の子の場合もそれと同様だ。
彼女は父親に取って代わる恋人を探そうとするだろう。
だが、それは不可能なことだ。
そういうことは決して成就したことがない。
もしこのいわゆる家族というものが存続してゆくなら、この世に愛が成就することはありえない。
愛がなければ、喜びがない。
愛がなければ、惨めであることが、我々の行き着くところだ。
もし我々が家族というものを選択するなら、惨めであることを選んだのだ。
コミューンは、全くことなる現象だ。
コミューンの中では、ある特定の人間が子供の意識を占領するということはない。
ここには、少なくとも300人の小さなサンニャーシン、男の子、女の子がいるがいる。
その子供たちの多くが、夜父親、母親のところに決して帰ってこない・・彼らには沢山のおじさん、おばさんがいる。
コミューン全すべてが彼らのものなのだ!
そして、このコミューンの中で小さな子どもたちは彼ら自身の個性を持ち始めた。
彼らは自分自身で道を歩み始めた。
彼らの心は母親にも親に父親にも、家族にも固着していない。
彼らは自分たちの家族でない人々と道を歩んでいる。
彼らの父親、母親もまたお互い執着していない。
つい先日、ティルタの娘、ソーマが私に手紙を書いてよこした
「バグワン、私、ママのプーナムと一緒に一か月イギリスに行くの。当然、あなたと会えなくし、ティルタとも会えないし、私の育ての親、クリシュナにも会えなくて寂しいわ・・。」と。
これはビューティフルだ。
育ての親に会えなくて寂しいとは。
コミューンでは、親が変わり続ける。
親は決まっていない。
子供たちは、沢山の育ての母親、父親たちと出くわす。
子供たちは、決して一人の人間に意識が固着してしまうことがない。
そのことは子供たちに広い視野と自由と多次元性を与える。
コミューンで育った子供たちは決して一人の人間に心がとらわれることがない。
彼らは、さまざまな女性を母親に持つ体験をすることができ、さまざまな男たちを父親に持つ経験をすることができる。
彼は心がとらわれることなく、川が流れるように生きてゆく。
彼は池の中に生きない。
彼は背景が変化し続ける川に浮かんで生きる。
そのことは、彼が多くの人々を愛することができる力を持つことを助ける。
また、自分がどういう女性と自分の人生を生きたいか、どういう男性と自分の人生を生きたいか、そのことにたいして混ぜ合わさったより広い視野を持つということになる。
彼の母親達全員が彼に統合されたヴィジョンを与えてくれる。
そこには一人の女性が存在するのではなく、様々な女性、様々な質がすべて一つに溶け合う。
すべてが一つに融合する。
そういう中で育った子供たちは、自分の人生においてうまく愛を見つけることができるだろう。
というのも、彼らはいかなる人間、いかなる人格にも心が固着していないのだから。
彼はその人間の人格よりもその人の質により関心がある。
そして、彼は自分のパートナーに対して所有的である必要はないということを知っている。
というのも、彼の親たちが所有的でなかったことを体験しているからだ。
あらゆるものが移り変わり続けていた、生のように。
結婚というものは死んでいる。
それは固まったものだ。
それは日用品だ。
それは物のようだ・・家具のようだ。
それはバラの茂みのようではない。
今日、一杯に花が生い茂っているかと思えば、明日にはその花がすべて散ってしまう。
今日、緑で一杯だと思えば、明日には、葉っぱが黄色くなり、落ち始める。
コミューンで育つ子供たちは、あらゆるシーズンを、あらゆるムードを、あらゆる葛藤を、あらゆる苦悩を、あらゆるエクスタシーを知ることだろう。
彼らはそれによってさらに中心に根づき、大地に根を下ろす。
彼らは生が決まったものではないということを知るだろう。
彼らは生から何も期待しない。
というのも、生は決まったものではないのだから。
彼らはあらゆる変化を受け入れられる。
彼らは、生とともに自分を変えることができ、決して生の軌道から外れることはない
彼らは常に生と同調して生きてゆく。
そのことが、この人類をより全体にし、より健全にし、より愛に満ちたものにし、より喜びにあふれたものにするために必要とされることなのだ。
当然、そうなれば教会は消え去る。
国家は消え去る。
人種は消え去る。
それらは消え去ることが必要だ・・それらは長生きしすぎた。
それらは死体のように生きている。
それらは焼かれ、埋葬されねばならない。
我々は死体を引きづっている。
そして、それらの死体は悪臭をはなっている。
あなたはその死体に香水を振りかけ続け、どうにかそれらの死体と一緒に家で暮らそうとする。
法王は、恐れているに違いない・・ひとたび家族というものがなくなってしまえば。
教会はなくなってしまう。
「pope」という言葉は父を意味する。
「papa」という言葉と同じだ。
キリスト教徒は父なる神と呼びさえする。
それはただ家族というものが広がったにすぎない。
宗教の全アイデアが家族というコンセプトに根ざしている。
父なる神、神の子イエス、聖霊、誰だ、このばかな男は? 
彼らはそこに女性、母を入れることもできなかった。
そうしたほうがより論理的だというのに
法王は恐れているに違いない・・彼は結婚をしていない男女が性的な交渉の持ったつきあいをすることに反対している。
さあ、それは全く非論理的だ。
男と女が結婚前に一緒に暮らさない限り、自分にふさわしいパートナーを選ぶ可能性はない。
そんな分かり切ったこと!
多くの女性を、多くの男性を経験しないで、どうして自分の人生を一緒に生きてゆくに相応しい人を選ぶことができよう?
だが、法王一味は、男女が結婚前に性的交渉を持つことを禁じている。
だから、人々は一目見て恋に落ちてしまう。
それはナンセンスだ。
そうして、その同じ人たちが、恋は盲目、という。
まず最初、彼らは目つぶしを投げつけておいて、恋は盲目だという。
その作戦がわかるかね?
男の子と女の子は、13才か14才で性的に成熟する。
だが、彼らが結婚するのは、25才か30才近くになってからだ。
その15年間、16年間という間が、彼らが最も性的ポテンシャルのあるとき・・・。
というのも、男の子は、17才から18才という年齢が性的にもっとも力のあるときなのだ。
二度と再び、その時期と同じほどのパワー、その時期と同じほどの若い活力にあふれることはない。
しかし、彼が結婚するころには、ほとんどしなびている。
そうして、あなたがたは彼のことを汚い老人と呼び始める。
おかしな論理だ! 
彼が若いときには、女性と性的関係を持つことを許さなかった。
というのも、彼が女性と性的交渉を持つことを許さなければ、彼の性的欲求すべてが頭に入り始め、性的欲求は頭脳的なものになる。
そうすると、彼のマインドは醜悪なるものになる・・・
というのも、その時、頭は性的エネルギーが流れ込むことのできる唯一小さなスペースだからだ。
でなければ、その性的エネルギーはどこへ行けばいいというのか?
彼の性的エネルギーのはけ口を全く許さなければ、それは頭に蓄積されはじめる。
そこが唯一の場所だ・・
地下室、あなたが社会的に許されないものを投げ捨てつづけてきた場所。
それはマインドの無意識の部分に蓄積されている。
結婚前に男女が性的交渉を持つことは非常に科学的なことだ。
それは許されねばならない。
それは人権の一部とならねばならない。
男と女が親密な関係になることを決め、長い期間一緒に生活することを決める前に、多くの恋愛関係を経験することが、すべての人間の基本的権利の一つとならねばならない。、
あなたが多くの男女関係を楽しむとき、あなたはそこから選択できる。
どういう女性が、どういう男性が自分にあっているのか、どういう女性が、どういう男性が自分の魂の栄養になるのか、見分けられる。
私は全面的に男女が結婚前に性的交渉を持つことに賛成だ。
それなしでは、人類は狂気のままだろう。
あなたが光明を得るまで、結婚前の性的交渉はいいことだ。
だから、光明を得る前に、できるだけ多くの異性との経験を持っていてほしい。
というのも、あなたが光明を得てしまえば、私にはどうすることもできない!
その時、あなたは卒業だ。”
   

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
最近は格闘技が盛んで、力や技を競い合い、強いものが勝つ、という風になっています。でも、強いものが勝ち、弱いものは負けるなら、正義というものが成り立たないのです。

強いものだけが勝ち残り、幸せになり、繁栄するなら、弱肉強食で、動物と同じレベルです。
そういう生き方では、本当の幸せがくるとはとても思えません。


以下のお話は五井先生の『不動の心』からですが、現在の弱肉強食の政治、経済、法律、文化、教育から脱却するヒント、方法が示されています。
参考にしていただければ、幸いです。



人間は光です


人間というのは、ここに肉体があるんだけれども、実はここにあるのではなくて、光が流れて来ているんですよ。純粋な無念無想というか、空といいますか、そういう状態で光そのものになっているわけです。だから常に自分が光にのって、光そのものになって動いているわけです。植芝先生はそうなんです。光そのものだから、業の肉体はないんですよ。
肉体が立っていますから、肉体だと思って、向うはぶつかってくるけれども、光だから打てないんですよ。形があるけれどもない。そういう人にいくらぶつかっていっても駄目です。ちよっと見ると、遊んでいるみたいでしよう。八百長みたいにわざとぶつかっているように見えるかもしれませんが、かかってゆくほうは一生懸命汗を流している。汗を流してわざと出来るものじゃないですよね。一生懸命打っているんだけれど、どうしようもない。どうしてかというと、そこに植芝先生はいないんです。私が見るとよくわかる。肉体なんかありやしない、光があるだけですよ。宇宙にひろがっていますから、いくら打ったって無駄です。住んでいる次元、世界が違う。それと同じように、人間は空になって、我欲がなんにもなければ、本当は光そのものになっている。だから、不幸というものも、事故というものも、病気というものも、貧乏というものもぶつかって来ない。何故ぶつかって来ないかというと、事故でも病気でも貧乏でもみんな業想念なんです。カルマなんです。
業想念というのは何かというと、自分は神さまの光であるなどと思ってもみない。人間は人間で、肉体だと思っている想いがもとなのです。その業想念の波の中で生きているから、業想念がぶつかると、怪我をしたり、貧乏になったり、或いは病気になったりするんです。ところがそこをぬけ出して、神さまの中に全部入っている人は、光そのものになっているわけです。或いは光の波に乗せてもらっているわけです。業があると業をつかんでいるわけです。業と業とは仲がいいから、つかまれてしまう。業のままでいたら、怪我をするか、悪いことをされるかするんですけど、それが、五井先生という名前を通して、咄嗟に光の中に入ってしまうと、業は消えてしまうんです。業が離れちゃう。

   幸福をつかむ方法


この世の中で幸福をつかむにはどうしたらいいかというと、光の波に常に乗っていることなんです。或いは自分が光になってしまうことです。光そのものになればそれは覚者というんです。植芝先生がそうですね。そうなってしまえばいいんだけど、なかなかそうなるには大変です。例えば植芝先生のような人が、宇宙と一つになればいいんだ、やってごらんなさい、というけれどどうやっていいかわからないですよね。植芝先生は遊んでいるみたいにやっているから、それをそのまま真似してみよう、なんてやったら、木刀で撲られちゃう(笑) 形を真似してもだめです。
宇宙と一つになるには、何生かけた前の世前の世から修行に修行を重ねて来た人が、また今生でうんと修行して、それでああなるわけです。名人達人を超えた超人、神の化身というんですね。神さまと全く一つになっている。全く一つになっているから、神さまを打つわけにはいかないです。神さまというのは宇宙にひろがっているのだから。それは光そのものになっているということと同じです。
ですからお弟子さん達も随分長いことやっている人がたくさんあります。みんな術として、技としては出来ますね。しかし植芝先生のように鮮やかにはいかない。何故出来ないかというと、技ではないからです。すっかり空になって、神さまの中にすっかり入ってしまっている。”


※植芝先生とは、植芝盛平翁(上記写真左側)のことで、合気道の開祖であり、伝説の神人武道家のことである。

インド古典音楽をご存知ない方は聞きなれない名前かもしれませんが、ハリ・プラサードといえば、誰もが認知するインド最高のバンスリ(インドの横笛)奏者です。
ハリ・プラサードと和尚は、和尚がまだ少年のころ、パガル・ババという聖者の紹介で知り合ったのです。
詳しい物語をここでは紹介できませんが、興味ある方はゴールデン・チャイルドフッド([出版社]ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン)を読んでください。英語で読みたい人はここ で読めます。

とても興味深いと思います。

インド音楽と瞑想の世界がどれほど深くかかわっているか、理解できると思います。
このパガル・ババという聖者自身がバンスリの名手で、ハリ・プラサード、パンナラル・ゴーズ、サッチ・デヴァという3巨匠の前でも演奏したことがあるそうです。

また、多くのインド古典音楽の巨匠たちに和尚を紹介したのでした。
和尚は特に、ハリジのバンスリが「黄金の中庸」、と褒め称え、ハリジは和尚一人のために何千マイルも旅して、和尚の前で演奏したということでした。

いかに二人の間が親愛に満ちたものであるかわかります。

ということで、インド音楽と和尚がとても深くかかわっていることを紹介させていただきました。








人間には、機根というものがあり、同じ真理を探究するのでも、人によって全くたどるコースが違います。

山に登るにも、急斜面をよじ登るのが好きな人もいれば、なだらかな道を楽しみながらゆっくり登るのが好きな人もいます。

同時に違う道をたどることはできません。

ここでは、易しく、多くの人が山頂にたどり着ける道を中心に、さまざまな道のあり方について解説してくださっています。


『自力行と他力行』

五井先生の提唱された世界平和の祈りは、シャンバラのキーポイントといわれ、いかに苦しみ少なく、いかに多くの人を、新しい次元へを移行させるか、地球を滅ぼさないで進化させるか、ということに焦点を絞った教えになっています。
それで、マイトレーヤ大師も、ヨガの七大聖であるクートフーミ大師、モリヤ大師も、五井先生にコンタクトしてきたのでした。

永安先生は、このお話の中で、わかりやすくこの教えの特徴を説明してくださっています。


『世界平和の祈り』

この世のすべての経験は、より大きな人間、より包容力のある人間、より愛深い人間になるためのレッスンだ、と思います。
そして、この肉体世界の学びを卒業した人は、魂の子孫のサポート役になり、より大きな使命を持って神霊の世界で働くようになります。
そして、神霊と協力しながら、よりよい星にしてゆく。
そして、やがて他の星の開拓、サポートをするようになります。
会社組織とおなじです。電話番、雑用、営業、企画、人事、広報、法務など様々な部署を経験し、課長、部長、役員、社長、会長、相談役と立場が大きくなり、やがて、他の星の開拓のために働いてゆくのだと思います。
これでこのシリーズをおわります。
長い間ありがとうございました。

 人間関係こそ愛を磨く大事なもの

 恋愛も結婚も、また他の人間関係にしても、すべて因縁生によるものなのです。
 ということは、人間は今世だけの生命ではなく、永遠の生命のなかの一駒としての今生であり、その生れ変りのなかで縁を結んできた者同士が、今世で再び三度び巡り会い、お互いに果たし得なかった因縁生を修整し、浄化し、その体験を生かして、自己の愛をより成長させていくためにあるのです。
 ところが、自己の愛を成長させるどころか、現われた因縁生が、自分に不都合と思えば、相手を責め裁いたり、憎み悲しみという業想念、つまり悪因縁として、再び自己の因縁生として潜在意識に入れてしまうのです。これでは因縁生が循環してしまうことになります。
 輪廻転生はこうしてつくられていくのです。
 因縁生の浄化のための果し合いは、お互いに過去世で何らかの関係を結んでいた者同上が、その時に果し得なかったものを今世で、その貸し借りを清算するべく、夫婦、親子、兄弟姉妹、或いは他の様々な人間関係となって、再び縁を結び果し合おうとするのです。
しかし、必ずしも、お互いに過去世に関わりがなくとも、その人の持っている因縁生の波動が、同じような波動を持っている人に共鳴し、そこに新たな人間関係が生じていく場合もあるのです。
 例えていえば、交通事故のような場合、加害者と被害者が前世に直接関わりがなくとも、お互いの持っている因縁生の波が共鳴し、引きつけ合って事故を起す、ということもあるからです。
 こうして善くも悪くも、因縁生によってその人の人間関係や出来事がつくられていくのです。その人の意識が低ければ、起った問題に対して、自己中心的に対処し、相手に対する憎しみや、恨み、怒りといった業想念を発し、さらなる悪因縁として自分のなかに取り入れてしまうのです。これは自ら不幸をつくっていくことになります。また、その人が意識を高めて因縁生の仕組みをよく知って、起ってきた問題に対処したら、悪い出来事であってもそれを善因縁に変えて、未来を幸せにしていくこともできるのです。
 また、過去世の因縁だから、現われる時がきたら現われてくるわけですが、それを結果として現わすまえに、縁のうちにそれと気づいて、そのエネルギーを善い方に転換して、善因縁に変えてしまうこともできるのです。これが因縁因果の仕組みをよく知っての、賢明な生き方となるのです。

 様々な体験を通して大きな個へ…

 この三次元世界の人間を動かしているものは因縁因果の法則です、因縁因果という言葉が抹香臭いといって嫌う人がいますが、どんなに嫌だといって避けても拒否しても、この三次元世界では厳然として、この法則に左右されているのが人間です。
 因縁因果は原因結果の仕組のことです。因が縁にふれ、結果と現われてくるはたらきのことです。その他に牽引の法則(類は類をもって集まる)。償いの法則(天に唾すれば自分に返る)。作用反作用の法則(振子のように右に傾き過ぎれば、それを修整するために左に行き過ぎるといったように、振幅を繰り返しながら中庸の道に則っていく)といった様々な法則があります。これらをカルマの法則と言いますが、こんなに幾つも法則があったら、いったいどれを守ればよいのか、というふうに考えるでしょうが、これらの法則の根本にあるものは 「愛」です。愛とは調和であり中心を得ることでもあるわけですので、人間が愛にもとるような行為をしたら、必ず修正されるようになっているのです。
 人間はこうしたカルマの法則に支配されながら、そのなかで人間関係を通して様々な愛のありかたを学んでいくのです。体験を通してこそ、はじめて人様の苦しみ悲しみが遜解できるのであって、他者への同悲同喜の想いは、業を体験し、それを愛に換えたところから、生れてくるのが慈悲心です。
 こうして人間は、小さな個(自己中心的な生きかた)から、大きな個(人々の苦しみ悲しみを理解し、自分も他者も一つという自覚)、さらに白とか他とかの相対世界を超えて、「一なるもの」と一体化していくまでに、自己を進化、向上(次元上昇)させていくのが、人間としての真実の在りかたなのです。その過程としての様々な人間関係や物事を通して、学んでいくのが今日の人間の姿なのです。

 真の愛行の難かしさ

 愛とは、生命の一体観によって湧き上ってくるものです。愛して心が痛んだり苦しんだり、自分の思うようにならないから憎しみに変る、というのは業想念の自己愛からくるものですから、真の愛とはいえません。
 真の愛行は、神のみ心をひびかせることです。愛することによって自も他も共に、生命が生き、この世界も愛に満ちた美しい世界にしてゆくことです。ですから愛するということは、人間としての本来の使命でもあるのです。しかし、こうした愛行ができる人は、余程心境の高い人であって、真理に目覚めた人といえます。
 この世界は、まだ三次元の相対世界です。業想念波動(肉体人間観からくる自己中心的な生きかた)に満ち満ちた世界です。
 また、人間も、直接神の分霊として、内に神性を持っていても、物質波動である肉体に制約され、思うように生命の本質を働かすことができません。愛を行ずるにしても情のほうに傾きがちです。情は執着心を伴います。そこで、愛していると思いながら、愛と情を混同し、相手を自分の思いでがんじがらめに束縛してしまっているかもしれません。それは愛と情の区別がついていないからです。 愛と情の見分けかたは。どれほど自分自身の行為に、自我想念があるかで見ていけばわかります。    
 「愛しています」と、簡単に言うことはできますが、真の愛を行なうことは、まことに難しいことなのです。だからといって愛することをやめてしまったら、人間は潤いを無くし、頑な人間になっていくでしょう。
 真の愛そのものとなることは、無条件にすべてを受容できる人となることです。それは悟りそのものの姿です。だからこそ、人間は愛しては傷つき、苦しみ、悲しみ、それでもなお愛さずにはいられないのです。  
そうした体験に培われ、それらを乗り越え、生きとし生けるものの、哀しみを自己の哀しみとして、やがて、すべてを赦し、すべてを受け入れ、愛でつつみこめる大慈大悲の人となれるのです。
 愛することは人間性を豊かにし、この世界も住みやすい美しい世界にしてゆくことです。
 様々な人間関係を通し、特に恋愛、結婚というありかたを通して、人間は愛を学びながら成長してゆくようになっているのです。
 魂の大小と因縁生のありかたから、今までとは違う視点で、恋愛・結婚の種々相を例として上げてお話してきました。
 これから恋愛を望んでいる人たち、すでに恋愛中の人たち、或いは年頃のお子さんを持った親御さんたちに是非「魂からみた恋愛」を読んでいただきたい。恋愛という甘美な言葉のひびきに酔い痴れて、因縁生のままに不幸な人生をつくっていかないように、また、恋愛というロマンチックな装いのヴェールを剥いで、醜い因縁生の素顔を覗き見てしまうことになるかもしれませんが、そうしたあり様のなかで、自分にとって真実のパートナーとは、どういう人かがわかっていただけたら、嬉しいことです。
 また、すでに結婚生活をなさっている方々には「魂からみた結婚」に上げた幾つかの例を通して、夫婦とは何なのか、お互いに夫婦として何を学び合っていかねばいけないのか、因縁生とはいかなるものかがわかっていただけると思います。
 私たちは様々な人間関係の体験を通して、愛を学んでいき、自己をより完成させていこうとしているものであることを、知っていただけたら、この「魂からみた恋愛・結婚」を著した目的が成就されます。ありがとうございました。