幸せになる方法 | tablaboyの道日記

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祈りによる世界平和運動、祈り研究をライフワークとし、音楽、散歩が趣味です。音楽に関する記事、スピリチュアリティーに関する記事、祈りに関する記事、随時アップしてゆきますので、楽しんでください(^^♪ 世界人類が平和でありますように

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
最近は格闘技が盛んで、力や技を競い合い、強いものが勝つ、という風になっています。でも、強いものが勝ち、弱いものは負けるなら、正義というものが成り立たないのです。

強いものだけが勝ち残り、幸せになり、繁栄するなら、弱肉強食で、動物と同じレベルです。
そういう生き方では、本当の幸せがくるとはとても思えません。


以下のお話は五井先生の『不動の心』からですが、現在の弱肉強食の政治、経済、法律、文化、教育から脱却するヒント、方法が示されています。
参考にしていただければ、幸いです。



人間は光です


人間というのは、ここに肉体があるんだけれども、実はここにあるのではなくて、光が流れて来ているんですよ。純粋な無念無想というか、空といいますか、そういう状態で光そのものになっているわけです。だから常に自分が光にのって、光そのものになって動いているわけです。植芝先生はそうなんです。光そのものだから、業の肉体はないんですよ。
肉体が立っていますから、肉体だと思って、向うはぶつかってくるけれども、光だから打てないんですよ。形があるけれどもない。そういう人にいくらぶつかっていっても駄目です。ちよっと見ると、遊んでいるみたいでしよう。八百長みたいにわざとぶつかっているように見えるかもしれませんが、かかってゆくほうは一生懸命汗を流している。汗を流してわざと出来るものじゃないですよね。一生懸命打っているんだけれど、どうしようもない。どうしてかというと、そこに植芝先生はいないんです。私が見るとよくわかる。肉体なんかありやしない、光があるだけですよ。宇宙にひろがっていますから、いくら打ったって無駄です。住んでいる次元、世界が違う。それと同じように、人間は空になって、我欲がなんにもなければ、本当は光そのものになっている。だから、不幸というものも、事故というものも、病気というものも、貧乏というものもぶつかって来ない。何故ぶつかって来ないかというと、事故でも病気でも貧乏でもみんな業想念なんです。カルマなんです。
業想念というのは何かというと、自分は神さまの光であるなどと思ってもみない。人間は人間で、肉体だと思っている想いがもとなのです。その業想念の波の中で生きているから、業想念がぶつかると、怪我をしたり、貧乏になったり、或いは病気になったりするんです。ところがそこをぬけ出して、神さまの中に全部入っている人は、光そのものになっているわけです。或いは光の波に乗せてもらっているわけです。業があると業をつかんでいるわけです。業と業とは仲がいいから、つかまれてしまう。業のままでいたら、怪我をするか、悪いことをされるかするんですけど、それが、五井先生という名前を通して、咄嗟に光の中に入ってしまうと、業は消えてしまうんです。業が離れちゃう。

   幸福をつかむ方法


この世の中で幸福をつかむにはどうしたらいいかというと、光の波に常に乗っていることなんです。或いは自分が光になってしまうことです。光そのものになればそれは覚者というんです。植芝先生がそうですね。そうなってしまえばいいんだけど、なかなかそうなるには大変です。例えば植芝先生のような人が、宇宙と一つになればいいんだ、やってごらんなさい、というけれどどうやっていいかわからないですよね。植芝先生は遊んでいるみたいにやっているから、それをそのまま真似してみよう、なんてやったら、木刀で撲られちゃう(笑) 形を真似してもだめです。
宇宙と一つになるには、何生かけた前の世前の世から修行に修行を重ねて来た人が、また今生でうんと修行して、それでああなるわけです。名人達人を超えた超人、神の化身というんですね。神さまと全く一つになっている。全く一つになっているから、神さまを打つわけにはいかないです。神さまというのは宇宙にひろがっているのだから。それは光そのものになっているということと同じです。
ですからお弟子さん達も随分長いことやっている人がたくさんあります。みんな術として、技としては出来ますね。しかし植芝先生のように鮮やかにはいかない。何故出来ないかというと、技ではないからです。すっかり空になって、神さまの中にすっかり入ってしまっている。”


※植芝先生とは、植芝盛平翁(上記写真左側)のことで、合気道の開祖であり、伝説の神人武道家のことである。