こんにちは。窓際族博士課程院生のtyatyaotyaです。

 

 

 

 

だんだん夏休みが近づいてまいりました。

大学の夏休みって長いんだけど、意外とやることやろうとすると忙しいし、グダると「何の成果も得られませんでしたァ!」な夏になるし気を付けないといけませんね。

みなさまの夏はいかがお過ごしの予定でしょうか。

 

 

 

で、その前には大体の大学で院生たちがスタッフとして動員される学期末試験があり、今が稼ぎ時!とばかりにあくせくお金を稼ぐわけですが。

その前にね!うちの大学では専攻内論文構想発表会があるのです……。

 

 

 

他の大学だといつぐらいにやってるんだろう?

うちは大体年二回、夏休み前と冬くらい。

零細大学院とはいえ修士は数えるほどはいるので、専攻の院生と大学院専任教員全員参加でやるとお昼はさんでやる感じになります。

いや、先生方は発表しないけど。

 

 

で、勝手にパワポ作って発表するわけにはいかないので発表に際して指導教員と相談しながらやるんですが。

普通は指導教員って一人じゃん。

あとは副査の先生で、適宜相談って感じじゃん。

でも私、実質3人指導教員いるのよな……。

 

 

 

一人目、指導教員。こちらが正規です。あんまり関係がうまくいっていない。

二人目、副査の先生。本当はこの先生が博士の時の指導教員になるはずだった。

三人目、学部、修士の時の指導教員。今は博論の指導補佐みたいな感じの立ち位置。

 

うわぁ……。どうしようね。

あっちをたてればこっちがたたず、みたいになりそうじゃない?

 

 

 

っていうか、それで4~5月に研究の方向性とかやることとかがうまく決まらずに迷走してたんだよな。

でね、何がヤバいって、同じ生徒を共同で見てるわけじゃないってこと。

情報の共有とか全然してない。

例えば、指導教員のとこで「今年はどこどことどこどこの学会で発表します。査読誌はこれとこれ、内容はこういうものを書きます」とか決めたとするじゃん。でも、別に他の二人の先生に共有とかはしない。

何のための共同指導ですか……?あ、別に共同で指導はしてないわ。「みんなでそれぞれが言いたいことを言う」みたいな感じだわ。

 

 

でさー。教員同士は「まあ○○先生のところではそうなんでしょうね……。」って感じで不干渉なのが暗黙の了解っぽいので、なんか問題がでて他の先生に「助けてー笑い泣き」っていっても「あら、大変ねニコ」でおわる。不干渉なので!

 

三人目の先生の方が言ってたのが「教員の意見を聞くっていうより、役に立つ部分だけ利用する気でやれ」なんだけどさ。

わかるよ。

言いたいことはわかるけど、結局三つ巴に挟まれて右往左往するのはわたしなんだよなあ……。

 

 

 

これから3人順番にアポとって、それぞれの先生の指導を先生間にも共有しつつ「ほっとかないでください!かまってもらわないと完成できません!ちゃんと見とかないと危ないですよ!ほんとですよ!ほら見て!真っ白!」と必死こいてアピールして面倒みてもらわないといけないのだ……。

 

 

なんかこの前マイクロマネジメントする側の大学教授が「ちゃんと自分で自分のマネジメントできないのに一丁前に文句いうなイラッおとなしくマイクロマネジメントされとけイラッ(意訳)」っていってるのをSNS上で見たんだけど、わたくしはそれめっちゃうらやましくてよ……。

 

なんなら、「先生、明後日研究指導です!よろしくお願いいたします!」「先生!学会入会申し込みの紹介者の署名おねがいします!(n回目)」「先生!(以下略)」みたいな感じよ、今。

私が分かってる予定なら急かせるけど、先生の方がよく知ってることだと期限過ぎてから「そういえばあれあった!ごめん!」みたいになること多数なんだが。

 

あと、3人の先生をグルグル回ってると、どこでなに指導されたかよくわかんなくなってくる……。

いちいちアポ取りも緊張するし。

ええん、準備する気がないんじゃないんです……。間に合わないんです……。

「自我を持て」とかいわれるけど、よくわからんから相談に来た人が確固たる自分の意見とかすでに持ってて、理論面も完璧です!とかありえなくないですかぐすん

 

 

先生方も忙しいよね……。

だがしかし!

 

先生方ドキドキ 連携してドキドキ(うちわフリフリ)

こんにちは。窓際族博士課程院生のtyatyaotyaです。

 

本日はブログを書き始めて1か月が経った記念に記事を書きます!

 

 

 

本ブログは零細大学院文学研究科所属、社会学専攻博士課程院生であるわたくしが人生どん詰まっていることに病み散らかしたことから始まりました。

 

周囲に相談できる同じ博士課程院生がおらず、SNSで見るキラキラ博士課程生は次元が異なり、指導教員ともうまくいかず、後輩である修士生たちにかっこ悪い姿を見せるわけにもいかずに鬱々しておりましたために、一度もやったことがないインターネット上の発信行為をえいやあとやってみようという気になったのです。

 

 

 

 

まあ辺境の地でブログ書いててもあんまりたどり着く人いないだろうし、コンスタントに文章書く+自分の考えを文章化する練習だと思ってとりあえずはじめてみよーみたいな感じで始まったブログ畑ですが、「コツコツやり続ける」ことが苦手なりに1か月続けることができました。

これも一つの「やったこと」として頼りにできる「過去」になるのかな。

 

 

こんな辺境にたどり着いて、ちらっと覗いてくださる方、足跡残してくださる方、ありがとうございますニコ

しばらくはここでてんてこを舞う予定ですので、またご縁があった際にはよろしくお願いします音譜

こんにちは。窓際族博士課程院生のtyatyaotyaです。

 

 

今回は前回記事

 

「一匹狼」が強いアカデミアで依存っ子が生き残るサバイバル術があるなら①(ついでにブルデュー) | 窓際族文系博士のモラトリアム観察記

 

の続きです。

 

 

 

自分が持っている客観的条件と性向がアカデミア向きじゃないなー、でも何とか博論書ききりたいなー、って時にどうしたらいいのかなっていう話がしたくて書き始めたのですが、ブルデューに紙面を割きすぎたため記事を分割いたしました。

 

 

 

 

さて、私は今回自らを「依存っ子」と称しましたが、こちらは「自己を外部依存で構築するタイプ」という意味で定義して使っております。

 

 

自分は、周りに影響を受けることはあるが、基本自分を信じて内在化した動機を原動力に、最後は自分だけを信じて「猪突猛進」し続けられるいわゆる「アカデミア向いてるタイプ」にはなれませんでした。

幼いころから、「やる気とはかけ離れている」と言われていたし、「自分をよりよくするため」に頑張るのは意味ないし、どうせできないやっていう気持ちになってしまう。それよりは、「あなたの学費いくらかかってるのに無駄にする気イラッ」とか、「今まで応援してくれた誰々に顔向けできない」とか、「先輩なのに矢面にたたないなんてどうなの?」とか、理由が外部にある方がやることに「意味」をみいだせたし、踏ん張れたし、頑張れた。

 

だから、アカデミアに入っても「自分が」やりたいこととか、かなえたい夢があるんでしょとか言われてもあまり原動力につながらないし、鬱々としたところからなかなか自分で脱出できなかった。

就活する人も、本当に「この職業につきたいんです!」って取り組んでる人、実際そんなにたくさんいないと思っていて。

自分が接続しやすい人生の「モデル」であったり、収入や時間の融通、休暇の取りやすさとかの関係上よさげな会社にするとか、友達がもう内定もってるのに焦って学校と提携してるとこをとりあえず受けるとか。

でも、一部の「聖職者であること」が求められる職種みたいに、アカデミアに入る人も一種の「崇高な精神」みたいなのを求められるなあみたいに思ったりとか。

 

 

 

でも、私は「自分」を信じることができません。

自分がやることに確信なんて持てたこともありません。

それで不安に支配されて動けなくなるけど、そうすると動けなくなるので何とか動かなくてはなりません。

 

 

幼少期はその時に母親が多分依存先になってくれて決めてもらっていたんだと思う。

でも、成人してから頼ることはできません。

じゃあどうしますか?ってのが問題です。

 

 

 

今のところの自分の答えは、「依存先の外部のモノ、人を積極的に作る」です。

ふつーの答えうーん引き延ばしといてこれかいうーん

でも、これ「部会教室すみっこぐらし族」には超むずかしいですよ。

 

あと、零細大学院だとそもそもの接続可能な人間関係が超狭いので、限界があります。

なので、人もそうだけど「依存先のモノ」も大事だなと思って。

 

 

実績が大事なのは就職や評価に響くっていうのは当たり前ですが、「依存っ子」にとってはより大事だと思います。

なぜなら、「自分の実力」とか「自分らしさ」とか「能力」とか、そういった内在するとされている力を何の根拠もなく信じられないし認識できるわけないから。

「やってきたことは、絶対に無駄にならないよニコ身についてるし、いつか役に立つよニコ」とか言われても信じられません。

いままで生きてきて、自分が何か優れた素質を発揮できたことがあったでしょうか。いやない。(反語)

 

なので、今までやってきたことも、自分の存在も無駄で無意味かもしれないけど、少なくともこれだけは生み出してきたよねっているのが物理的に証拠として存在しているのは強いと思うのです。

物理は消えない!パソコンのファイルみたいにうっかり消えない!!

 

もちろん過去は振り返らない方が強くいられるタイプも存在するとは思いますが、「依存っ子」はいわば過去に生きる者。

過去の産物をひたすら反芻するという一見無意味な行為でパワーを得るのだ!

 

 

 

 

卒論も、修論も、査読誌に出した論文もレポートも、できれば読み返したくない……。

が!読まなくてもいいので、一旦印刷して表紙つけて、物理的に本棚に置いておくのだ!

教免とか、社会調査士とかの資格も、ほっぽっといてないでちゃんとまとめておくのだ!

推しが励ましになる人だったら、たとえ勉強机でも近くにおいておけばいいし、いい結果のおみくじとかも励みになるなら貼っておいていいと思います。

少なくても、すぐに目につく場所じゃなくてもいいので「物理的に」用意しておく!

 

 

結局いざという時の支えってこういう「モノ」からえられるんじゃないかなって

今のところ思っていますって話でした。

 

 

ゆうて、依存先が人だと、向こうがこっちのこと構ってる暇ないことのほうが多いからねドンッ

 

 

 

 

 

こんにちは。窓際族博士課程院生のtyatyaotyaです。

 

 

 

最近特に感じるのは、博士課程孤独だなーってことです。

うちの学校が零細大学院なことももちろんそれを強調する材料になっております。

 

が、しかし

そもそも同じ院生ったって修士と博士だと母数からそもそも違うし。

特に文系はチームで何か研究するっていうより、自分の問と課題を自分で形にするのがデフォルトの研究スタイルなので、突き詰めてしまえばデータベース(図書館・実物含む)とパソコンがあればどこでも一人で研究できてしまうのです。

史料が必要な史学とか、調査やるぞーってなると話は別かもしれませんが、基本研究は単身でやるものです。

 

一方、理系の院生の方の記述を拝見していると、そもそも研究テーマ自体が所属する研究室で共有された、上から引き継ぐものであることが多いように見受けられますが、文系だと師匠(指導教員)と弟子(ゼミ生)の研究テーマがジャンルからして違うこともわりとあることですし。

うちのゼミみたいに、引き入れたのはそっちなのに「専門外だから基本的なところ以外の指導はできないよー。他の先生にきいてねー」ってなってしまい、途方に暮れる人も出てしまったり。

 

 

 

うちよりちょっと大きい大学でも、博士自体はいても学校に出てこないとか、ジャンルに偏りがあって「一緒に困難を共有ドキドキ頑張ろうねドキドキ」みたいな感じにはならないことが基本だと思うし。

いや、有名大学院の博士同士の関係なんて想像もできないが。

 

 

 

 

 

そうすると、いろいろなところで散見される

 

アカデミアにおいては「一匹狼」が強い

 

っていう言説はまあそうなのかなぁと思いまして。

 

 

 

 

いやいや、著名な先生を見てみてくださいよと。

有名な院生の皆さん見てみなさいよと。

みんな対人関係強者ばっかで、群れてるじゃないですかと。

 

まあそうですが。

大事なのは、どれだけ友人がいようが、家族仲がよかろうが、指導教員との関係が良好だろうが、先輩後輩仲に恵まれようが。

自分の論文を書き上げて、研究業績つくって、自分の問に答えるのは自分自身しかいませんよってことなのかなと。

 

群れてる時が有効にはたらくことはあれど、結局のところ深夜に一人パソコンの前で踏ん張れるかってところじゃないかなと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近、今更ながら

ピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』を精読しているのですが

 

 

 

 

 

 

 

これによると、「アカデミア」自体が身体化された性向と財産・肩書の形で客体化された相続資本によって決定される「可能性の場」への軌道による、その階級にとって「そこに向かいやすい」ものになってるといえる。

言い換えれば、「アカデミア向き」な性向を持つ階級のほうがアカデミアのポストを取りやすい相続資本をそもそも備えてるってこと。

もちろん、ブルデューはその階級がとりやすい「位置」が、完全にハビトゥスの中に残る諸特性によってだけ定義されるわけではないっていってるけど、「統計学的関係である」とは言ってるので、ばらつきはあるけどそうなる傾向があるってことかな。

 

 

 

 

 

 

中学受験っ子だった小学生時代の塾のクラス分けを思い返してみると、「一人で勉強ガンガン進められる子」と「みんなでやるor先生とか親にべったりくっついて教わらないとできない子」の分布がどうなってるかは一目瞭然ですよ。

ブルデューが言いたかったこととちょっと違うかもしれないけど。

あと、教職課程の関係でやってた学童ボランティアでの、学校がある地域差による「子どもの子供らしさの違い」とか?

開発地区で、高級志向の住宅街も近い地区の子は中学受験しない子が少数派な新自由主義思想ベースのバリバリ自己責任、プライド劇高な子が多かったり。

下町チックなのんびり地区、ほぼみんな地元中学に進学するタイプの学校だと自習時間自体が機能してないし、でも一人で本読む子と、みんなで絵描いてる子と、先生にくっついて絡みながら宿題やってる子と、廊下走って先生に追いかけてもらいたい子と、みたいな?

 

 

違う?

 

 

で、私はどっちかというと後者の子ってわけですが。

最近自覚しましたが、人にだいぶ依存するタイプですが。

 

ブルデューベースで考えるなら、私が今陥ってるのって、

自身の持つ相続資本(身体化・客体化双方含む)が生み出す慣習行動が、客観的条件の以前の状態に合わせられているので、現在の環境にうまく適応できない状態ってこと?

私、「成り上がり者」と同じ扱いってこと??

 

 

 

自分の専門からはちょっと遠いので、精読に自信はない……。

今これ

 

 

 

 

読んで勉強し直してる……。

 

 

 

 

大したこと書いてないけど、長いので後半に続く~おねだり

こんにちは。窓際族博士課程院生のtyatyaotyaです。

 

 

 

実は教免持ちです。

いえーい。

頑張りましたねぇ。

 

体感、院生って割と教免もってますよね。

例に漏れず、わたくしも学部時代にあくせく単位とりまして、実習行きまして、申請と説明会オールクリアで無事獲得にいたりましたね。

社会学部なので、取れるのは社会ですわね。

中学の社会と、高校の地歴・公民で三つ。

プラス、修士で取れる専修免許でコンプリートってわけです。

 

 

 

思い返すと、向いてる向いてないは別として、実習が大変すぎて。

人権は欲しい派なので積極的に免許を使って就職する予定はないのですが、「持っていること」と「やったことあること」は院生として求められる素養の近似値ではあるので意味はあるのかなあと。

講師として働きながら院生やってる人とかもたまに見ますし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いやいや、何が言いたいって

 

「ガチで教採受ける人」以外が教職課程続けるかやめるか選択する時期

 

が来ましたねって話です。

 

 

 

教職取ってる後輩から「辞めたいんですけど」って相談もらって、ガチ相談してきたから、そんな時期かーって思って。

 

なんとなく雰囲気で教職課程取り始めた人が「あ、これ大変な奴だ」って気づいてやめるのって大体2年生の初め~3年生の初めくらいだと思うんですけど、3年目の6月、4年目の6月は「教職課程にそれなりに覚悟持って踏ん張ってた人が揺らぐ時期」っぽいんですよ。

ここらで「介護等体験(3年)」「教育実習(4年)」っていう、どデカいイベントにぶち当たるから。

しかも、それが入試や就活っていう、人生を左右する避けられないライフイベントに重なってきて、時間的にも精神的にも、金銭的にも追い詰められるから。

 

まわりはもう、「教採受けて先生になるぞメラメラ」って人ばっかりになっている中、先生にならないのに「資格」のためだけにこんなに時間を消費して、体力消耗して、意味あるの?って揺さぶられるみたいね。

 

 

実際、教職とってると学科の卒業単位の2倍くらい授業取ることになるから3年生でも時間割はギチギチだし。

就活含めた将来への焦りとか。

教職とったことなんて、履歴書に書ける資格がちょっと増えるだけじゃないかとか。

友人は遊ぶ時間あるのに、自分はこれから指導案書かなきゃいけないのかとか。

こんなに悩んでるのに、同じ悩みの深刻さを共有できる人がなかなか身近にいないとか。

 

 

 

私がそういう後輩から相談を受けるなら、「教職に求める意味」と進路、あとは今の生活がどうかまずは聞いてみるかな。

教職課程取ってる中でなかなか弱音吐く機会無いと思うので、そういうの込みで「今、教職何単位残ってるの?」「前期で何取ってる?何先生?」みたいなところから色々聞いてみる。

で、「やめたい」って言ってるとこのコアが何か探ってみる。

辞めることは決定していて心理的なバックアップが欲しくて相談してくれたのか、続けるか迷っていて意思決定の材料が欲しいのか、やめたくないから背中を押してほしいのか。

単純に弱音とか愚痴とか言いにきてくれたのか。

 

あとはその子の性格的に教職すっぱりやめた方がプラスになるなら応援するし、後々影響残りそうなら理由付けしてあげたり強引めに引っ張って「続ける言い訳」をあげてみるとか。

「続ける言い訳」になんやかんや文句いいつつ乗っかってくるなら責任もってアンカーになって尻たたきするし。

パッとやめて他のやるべきことに注力するなら背中押すし。

 

 

結局なにが最適解かはわからないけど、私に相談してくれたならなんとかいい方向にいってほしいなって思う。

やめるにしろ続けるにしろ決めるのも責任とるのも結局は自分だけど、耐え切れなくなってばつんとやめてしまう以外の選択に向かえるといいね。

 

特に「自分が積み重ねてきたもの」が安心感につながる人にとっては、教免は輝くトロフィーくらいに自分の努力を証明してくれる上に実用性もあるので、取って損はないです!

 

使うにしろ使わないにしろ、自分だけで決めなくてもいいし、じっくり考えてみてねって話でした。

 

 

 

とりあえず、相談してくれた子は前期科目だけ単位とれるように引っ張ることになりました。

最終的な判断をどうするかはさておき、積み重ねてきた努力は裏切ることもあるけど無意味ではないから、いい方向にいきますようにスター