こんにちは。窓際族博士課程院生のtyatyaotyaです。
最近特に感じるのは、博士課程孤独だなーってことです。
うちの学校が零細大学院なことももちろんそれを強調する材料になっております。
が、しかし
そもそも同じ院生ったって修士と博士だと母数からそもそも違うし。
特に文系はチームで何か研究するっていうより、自分の問と課題を自分で形にするのがデフォルトの研究スタイルなので、突き詰めてしまえばデータベース(図書館・実物含む)とパソコンがあればどこでも一人で研究できてしまうのです。
史料が必要な史学とか、調査やるぞーってなると話は別かもしれませんが、基本研究は単身でやるものです。
一方、理系の院生の方の記述を拝見していると、そもそも研究テーマ自体が所属する研究室で共有された、上から引き継ぐものであることが多いように見受けられますが、文系だと師匠(指導教員)と弟子(ゼミ生)の研究テーマがジャンルからして違うこともわりとあることですし。
うちのゼミみたいに、引き入れたのはそっちなのに「専門外だから基本的なところ以外の指導はできないよー。他の先生にきいてねー」ってなってしまい、途方に暮れる人も出てしまったり。
うちよりちょっと大きい大学でも、博士自体はいても学校に出てこないとか、ジャンルに偏りがあって「一緒に困難を共有
頑張ろうね
」みたいな感じにはならないことが基本だと思うし。
いや、有名大学院の博士同士の関係なんて想像もできないが。
そうすると、いろいろなところで散見される
アカデミアにおいては「一匹狼」が強い
っていう言説はまあそうなのかなぁと思いまして。
いやいや、著名な先生を見てみてくださいよと。
有名な院生の皆さん見てみなさいよと。
みんな対人関係強者ばっかで、群れてるじゃないですかと。
まあそうですが。
大事なのは、どれだけ友人がいようが、家族仲がよかろうが、指導教員との関係が良好だろうが、先輩後輩仲に恵まれようが。
自分の論文を書き上げて、研究業績つくって、自分の問に答えるのは自分自身しかいませんよってことなのかなと。
群れてる時が有効にはたらくことはあれど、結局のところ深夜に一人パソコンの前で踏ん張れるかってところじゃないかなと。
最近、今更ながら
ピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン』を精読しているのですが
これによると、「アカデミア」自体が身体化された性向と財産・肩書の形で客体化された相続資本によって決定される「可能性の場」への軌道による、その階級にとって「そこに向かいやすい」ものになってるといえる。
言い換えれば、「アカデミア向き」な性向を持つ階級のほうがアカデミアのポストを取りやすい相続資本をそもそも備えてるってこと。
もちろん、ブルデューはその階級がとりやすい「位置」が、完全にハビトゥスの中に残る諸特性によってだけ定義されるわけではないっていってるけど、「統計学的関係である」とは言ってるので、ばらつきはあるけどそうなる傾向があるってことかな。
中学受験っ子だった小学生時代の塾のクラス分けを思い返してみると、「一人で勉強ガンガン進められる子」と「みんなでやるor先生とか親にべったりくっついて教わらないとできない子」の分布がどうなってるかは一目瞭然ですよ。
ブルデューが言いたかったこととちょっと違うかもしれないけど。
あと、教職課程の関係でやってた学童ボランティアでの、学校がある地域差による「子どもの子供らしさの違い」とか?
開発地区で、高級志向の住宅街も近い地区の子は中学受験しない子が少数派な新自由主義思想ベースのバリバリ自己責任、プライド劇高な子が多かったり。
下町チックなのんびり地区、ほぼみんな地元中学に進学するタイプの学校だと自習時間自体が機能してないし、でも一人で本読む子と、みんなで絵描いてる子と、先生にくっついて絡みながら宿題やってる子と、廊下走って先生に追いかけてもらいたい子と、みたいな?
違う?
で、私はどっちかというと後者の子ってわけですが。
最近自覚しましたが、人にだいぶ依存するタイプですが。
ブルデューベースで考えるなら、私が今陥ってるのって、
自身の持つ相続資本(身体化・客体化双方含む)が生み出す慣習行動が、客観的条件の以前の状態に合わせられているので、現在の環境にうまく適応できない状態ってこと?
私、「成り上がり者」と同じ扱いってこと??
自分の専門からはちょっと遠いので、精読に自信はない……。
今これ
読んで勉強し直してる……。
大したこと書いてないけど、長いので後半に続く~![]()


