(メールマガジン2013年7月から)

 ナショナリズム、排外主義に陥りがちな国境領土について、歴史の来し方行く末を見通して根源的な発想からどう解決するか、国際人権規約の「内外人平等」の理念を引きながら【1】「過渡的な民族国家で、国境を考える誤り」(60号)を書きました。
次に具体的な案として【2】「国境の長期の解決方針」(61号)を示しました。
これが私の結論です。
 以下は補足として、【3】「国境の長期の解決方針を導いた考え方」を4回に分けて示します。〔1〕国境領土を考える注意点(62号)は、要点を列挙しました。今回以降の〔2〕事実経過の認定は、各島の詳細年表を時系列で書き出します。

 また62号の総括として、【北東アジアの領土交渉三原則】T(東郷本)提唱・・・に賛同します。 T-p150-p151
(1)現状を変更しようとする国は力を用いない
(2)実効支配している国は話し合いに応じる
(3)両国が知恵を出して衝突に至らないメカニズムを考える

 世界をより良く変えられるか?それは鏡の中の貴方、私次第(man in the mirror)


 日本の政権がころころ変わる中で、外交の断絶・劣化があり、ロシアは交渉に見切りを付けて、南千島(択捉、国後)の独自開発に踏み出しました。
 他方、ロシア連邦の大統領選挙で、メドヴェージェフに代わり、プーチン大統領が2期目の就任を2012年5月にして、任期6年間続きます(2018年5月)。得票率63%です。就任前から国境領土について「引き分け」や他国との「面積2等分方式」に言及して、解決に意欲を持っているようなので機会を逃さないことが必要です。
 択捉、国後島の独自開発でロシア化が進む一方で、サハリン州を含む極東連邦管区の開発資金需要があり、日本に参加を求めています。財政難の中でお金だけ出して、果実を得られない結果にならないよう、したたかな交渉が必要です。


【3】「国境の長期の解決方針を導いた考え方」
 〔2〕事実経過の認定・・詳細年表「南千島(国後島、択捉島)」(今回63号)

もともとアイヌ民族が住んでいたのを、徳川幕府、帝政ロシアが発見した。
1644年 正保御国地図が最古。
1713年、1739年 ロシア人が探検、上陸。
1754年 日本が「場所」開設。
1776年 ロシアが賦課。
1790年 最上徳内の調査。

19世紀に択捉島とウルップ島の間に国境形成。
1855年 日露通好条約で確定。 T-p71-p75
1855年 江戸幕府とロシア帝国の日本国魯西亜国通好条約(=日魯和親条約、日露通好条約、下田条約)
~(1)千島列島における、日本とロシアとの国境を択捉島と得撫島の間とする
(2)樺太においては国境を画定せず、これまでの慣習(両国民の混住の地)のままとする
(3)ロシア船の補給のため箱館(函館)、下田、長崎の開港(条約港の設定)
1875年(明治8年) 樺太・千島交換条約
~(日露混住の地:日本人、ロシア人、アイヌ人の三者間の摩擦が増えたことを契機)樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の千島18島をロシアが日本に譲渡する
1895年(明治28年) 日露通商航海条約で、1855年日露通好条約は無効が定められた
1902-1923年 日英同盟(英国は満州から撤兵しないロシアを牽制したい、清国における利権の維持。締結国が他国(1国)の侵略的行動(対象地域は中国・朝鮮)に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止する、更に2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦する)
1904年2月8日 - 1905年9月5日 日露戦争
1905年 7月 桂・タフト協定(米国は大韓帝国における日本の支配権を確認、日本の保護国になることが東アジアの安定に貢献する。日本はフィリピンにおける米国の支配権を確認した)
1905年 9月 ポーツマス条約(日露講和条約)ロシアは満州および朝鮮から撤兵し、日本の朝鮮半島における優越権を認める。日本に樺太の南部を割譲する。戦争賠償金には応じない
〔軍事的財政的に戦争継続できない日本政府は、賠償金を放棄して講和を結んだ。講和交渉で不利になるのを避けるため政府は実情を公表できず、戦時中に増税による耐乏生活を強いられてきた国民は憤り、怒りは講和を斡旋したアメリカにも向けられた〕

1914-1918年 第一次世界大戦
1917年 ロシア革命
1918年 ロシア帝国崩壊
1918-1922年 第一次大戦中に、日本は、日米英仏伊による対独牽制とロシア革命妨害でシベリア出兵を行い、ウラジオストク、北樺太、沿海州、満州、バイカル湖東部、西部イルクーツクを4年間占領した。占領地に傀儡国家を画策した。

1925年まで北樺太を占領した。村落を焼き払った。軍紀が退廃して不法行為もあった。ロシアの歴史認識、国民感情では、忘れていない。

1941年 4月 日ソ中立条約(有効期間5年~1946年4月)
1941年 6月 独ソ開戦 
1941年 7月 日本は「満蒙国境警備、ソ連軍侵攻阻止」を名目に関東軍を兵力増強して日ソ国境で関東軍特種演習を行い、ドイツ軍からのソ連軍の首都モスクワ防衛を妨げた。ソ連から見て中立条約違反。
1941年12月 真珠湾攻撃 T-p67(日本からの開戦通告は伝達されず、米国から見て奇襲攻撃になった)
1942年 6月 ミッドウェー海戦で敗北(国内には秘匿された) T-p68
1943年11月22日 米英中、カイロ会談(対日戦争継続を確認)
1943年11月28日 米英ソ、テヘラン会談(戦後のポーランド国境を西オーデル・ナイセ線、東カーソン線とすべき)。米国(ルーズベルト大統領)がソ連に対日参戦を要請。(トルーマン大統領「日本本土に進入すれば、日本軍をアジアと中国大陸に釘付けにできても、50万人の米国軍の死傷を見込む。従ってソ連の対日参戦は重大」)(関東軍が日本に帰れなくする) M-p100-p101
〔引用者注:戦後のソ連による日本兵のシベリア拘引・抑留1945-1956は過酷で非人道的だが、歴史の文脈からすると、米軍の進駐統治を安全に進めるためにはプラスなので、少なくとも1951年サンフランシスコ条約までは、米ソが呼応して行っていたと考えるのが自然である〕

1945年 2月 ルーズベルトからスターリンあて書簡「サハリン(樺太)の南半分とクリル列島(千島列島)の領有を承認する」 M-p100
1945年 2月 米英ソ、ヤルタ会談「(米ソ、ヤルタ協定)ソ連の対日参戦、樺太南部・千島列島のソ連領有」「協定は日本を拘束しないが、米ソを拘束する」M-p100-p101「米国はソ連との関係で「約束を反故にする国」になることはできないから、北方四島でソ連に異を唱えることは無い」M-p103  T-p32
1945年 4月 5日 ソ連側が日ソ中立条約を延長しないと通達(ソ連は破棄と表現するが、条約に該当する規定がない)
1945年 7月17日- 8月 2日 ポツダム会談(米国、英国、ソ連)「ポーランドとの国境を旧プロイセンを含む西側に移動、ケーニヒスベルクをソ連に委譲」(戦勝国が敗戦国を割譲するだけで、歴史的にどの国に属する土地か、という議論は吹っ飛んでいる) M-p96
ポツダム会談では、ソ連の参戦は、モスクワ宣言1943と国連憲章103条による国際社会との協力と説明 
1945年 7月26日 ポツダム宣言(米国、英国、中華民国)「日本に無条件降伏を求める」「日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国、並びに我らの決定する諸小島」
1945年 8月 6日 米国が広島に原爆投下
1945年 8月 9日 米国が長崎に原爆投下
1945年 8月 9日 ソ連が 8月8日宣戦布告。満州、朝鮮半島北部及び南樺太、千島列島に攻め込む(2月ヤルタ会談に基づく)。(満州居留民、17万6千人の被害。日本兵60万人のソ連抑留。 T-p32-p34)

【日ソ中立条約に破棄の規定はないが、4月5日にソ連は駐ソ連大使に破棄を通告している。ソ連の参戦は、日本にとっては予想できたこと。cf.関東軍特種演習や真珠湾攻撃もあり、あまり中立条約違反に拘った主張は自己矛盾を招く】
1945年 8月14日 ポツダム宣言受諾
1945年 8月16日 連合軍一般指令作成(受持区域)に関するスターリン発トルーマン宛通信「修正提案:千島全島を含める、北海道の北半分を含める」
1945年 8月18日 トルーマン発スターリン宛通信「修正提案:千島全島を含めるに同意する、北海道は含めない」M-p102(注:ここで北海道を含むと同意していたら、今もロシアが駐留していたかもしれない)

1945年 9月 2日 外相、参謀総長が東京湾上で降伏文書に署名
1945-1952年の7年間、連合国の占領が続く。 T-p34
1946年 1月 連合軍最高司令部訓令(領土の最終決定を意味しないと明記して T-p86)「竹島、千島列島、歯舞群島、色丹島等を除く」(注:前記の米ソの受持区域交渉を参照)
   英国大使館発本国あて意見具申「放棄する千島列島の範囲を曖昧にすれば、日本とソ連は永遠に争う」 M-p106
   米国研究書「1947年、米国国務省(ソ連封じ込め政策)領土問題を呼び起こせば、日ソ関係を険悪なものにすることができる」 M-p106 
〔引用者注:1945トルーマン発スターリン宛通信で「千島全島を含め」、1951サンフランシスコ条約で「千島列島を放棄」させているが、更に1946連合軍最高司令部訓令で「(竹島)歯舞群島、色丹島」に言及して、ソ連が進駐している〕
1946年 2月 ソビエトによる併合宣言
  (他方、米国による西南諸島・台湾・小笠原諸島の国連信託統治)
1946年 4月10日 総選挙第1党自由党の鳩山を追放処分にして、代わりに吉田が組閣 M-p118

1951年 9月 7日  吉田首相「千島南部の択捉、国後両島が日本領であることに、帝政ロシアが異を唱えたことはない」 M-p103 (注:1945年2月、米英ソのヤルタ会談では「千島列島をソ連に引き渡す」となっている。)
1951年 9月 8日署名  サンフランシスコ条約「日本は、千島列島に対する全ての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定 M-p103 T-p35(連合国側49ヶ国)
条約「千島列島並びに1905年9月5日ポーツマス条約(日露戦争の講和条約)で日本が獲得した樺太の一部(南樺太)及び近接諸島の権利権限請求権を放棄する」
(当時ソ連が北方四島を含め占拠実効支配していたがグロムイコ外務次官は署名しなかった) T-p35
1951年 9月 8日 (サンフランシスコ条約と同時締約)旧日米安全保障条約(この条約に基づき、GHQ部隊の米軍は在日米軍になり、他の連合国軍(主にイギリス軍)は撤収した)52年発効

1855年日露通好条約で日本に帰属した4島を1945年占拠。1875年千島樺太交換条約で日本領に確定した千島列島全島をサンフランシスコ条約で1951年放棄。 T-p34

【東郷本の争点:ソ連が署名していれば法的に日ソ間の戦後処理は終わっていた】・・・日本は「千島列島を放棄」することを認めていたため。 T-p36
【東郷本の争点:吉田茂全権は放棄する千島列島に北千島、南千島の両方を含むことを認識している】・・・その上で「千島南部の択捉、国後両島が日本領であることに、帝政ロシアが異を唱えたことはない」と演説している。歯舞、色丹は本土たる北海道の一部と演説。 T-p36-p38 M-p104  T-p71
【孫崎本の争点:外務省は後(1955年答弁)から南千島は含まないと解釈変更した】・・・1951年10月19日条約局長衆議院答弁 M-p104。1955年12月9日条約局長衆議院外務委員会答弁 M-p108、1956年2月11日外務政務次官国会答弁 M-p107。
1951年10月19日 条約局長衆議院答弁「条約の千島は、北千島、南千島の両方を含む。しかし歴史的には北千島と南千島は全く違う」 M-p104
1951年10月26日 日米安全保障条約特別委員長の衆議院説明「サンフランシスコ条約で千島、樺太の主権を放棄したので、国際司法裁判所に提起する道は無い。クリル列島(千島列島)は北千島、南千島の両方を含む」 M-p104

【引用者注:南千島の帰属は、連合国が決める権限を持っている。】
〔引用者注:これまで日ソ(露)間で南千島(択捉島、国後島)の帰属を交渉しているが、仮に日本の主張が通った場合は、サンフランシスコ条約の見直しにつながるので、締結した連合国との再交渉が必要になる。いずれかの国が異議を唱えることも理論上は有り得る。〕cf.1956年9月7日ダレス長官「日ソ交渉に関する米国覚書」M-p117-p118

1954年 アイゼンハワー大統領及びCIAは、吉田から鳩山への政権移行を憂慮 M-p119
1955年 3月10日 弟ダレスCIA長官「ソ連が歯舞、色丹を返還する可能性」兄ダレス国務長官「ソ連が千島列島の重要部分を放棄したら、米国は沖縄の施政権返還を迫られる」M-p119
1955年 4月 9日 米国国家安全保障会議対日政策「千島列島と南サハリンに関するソ連の主張に譲歩しない」 M-p119(←サンフランシスコ条約で日本は放棄している)
〔引用者注:ヤルタ会談前後の米ソ交渉経過にしらを切る方針になる〕
1955年10月 5日 鳩山首相「自由党と一部国民は、千島と南樺太の返還を要求しているが、サンフランシスコ条約で主権放棄したと思う」M-p120 T-p71
1955年12月 9日 条約局長衆議院外務委員会答弁「クリル列島に南千島は入っていないという解釈を今取っている」(解釈変更) M-p108
1956年 2月11日 外務政務次官国会答弁「サンフランシスコ条約の千島列島に、南千島の択捉、国後両島は含まれていない」(解釈変更)M-p107

【日ソ国交回復交渉】〔引用者注:ヤルタ会談前後の米ソ交渉経過を見れば、ここでの交渉は「サンフランシスコ条約で南千島(国後島、択捉島)を放棄したが、この条約に参加していないソ連との交渉で、ソ連が同意すれば、南千島(国後島、択捉島)返還の可能性がある」ということになる。しかし南千島を日本領にするには、改めて連合国の同意が必要になるはず。少なくとも、連合国のいずれかが異議を申し立てる余地はある。他方、米英ソ間はヤルタ会談があるので、米国が異議を申し立てることはない。〕
1955-1956年 日ソ国交回復交渉(ロンドン交渉)、日本政府方針「歯舞諸島、色丹島、千島列島及び南樺太が歴史的に日本の領土だと主張しつつ、全面的返還ではなく弾力的に交渉する」 T-p39 〔引用者注:サンフランシスコ条約で千島列島並び南樺太は放棄している〕(注:南樺太は日露戦争の戦利品)
日本案「択捉、国後、歯舞、色丹の主権回復」、(歯舞、色丹でまとまりかけるが、択捉、国後を要求する追加訓令を受ける) M-p110 T-p40
1956年7-9月 日ソ国交回復交渉(モスクワ交渉、外相全権)
ソ連案「歯舞、色丹の返還により領土問題を解決する」 M-p112、(歯舞、色丹で決着しようとするが、首相から同意するなと訓令を受ける) T-p40
1956年 8月19日 ダレス長官「サンフランシスコ条約でも千島列島をソ連に帰属させるとは決まっていない、もしそうしたら米国は沖縄併合を主張し得る」M-p117  
T-p42〔引用者注:ヤルタ会談前後の米ソ交渉経過にしらを切る妄言〕
1956年 9月 7日 ダレス長官「日ソ交渉に関する米国覚書」(日本はサンフランシスコ条約で放棄した領土主権を他に引き渡す権利を持っていない)M-p117-p118
【引用者注:南千島について日ソ交渉を行っても、サンフランシスコ条約上は、日本は当事者能力を持っていない。】

1956年10月12日-19日 日ソ国交回復交渉(首相訪ソ)
日ソ共同宣言「平和条約締結後に、歯舞群島、色丹島を引き渡す」(ソ連は領土の継続審議を文言に入れることを拒否)M-p113(背景、日本側:シベリア抑留の残り軍人1016名、民間人357名、計1373名、ソ連の拒否権行使を回避して国連等国際機関加盟、外交関係回復をしたい。)(ソ連側(フルシチョフ):日本と国交がないので経済・政策に悪影響がある、鳩山首相の影響力を強めて日本の政策をソ連との友好的関係を強化する方向に進めることを望んだ、日本は生産高世界3位の経済国) T-p35
〔引用者注:日本が日露戦争で獲得した南樺太は、サンフランシスコ条約で放棄したが、ソ連はこの条約に参加していないので、国際法的には帰属未定と言えないこともない。ただし1946年2月にソ連は併合宣言した〕

〔引用者注:国際連合(UN連合国)1945年発足、各国加盟、イタリア1955年、日本
1956年、中華人民共和国1971年、東西ドイツ1973年〕

1960年 ソ連グロムイコ声明。「日米新安保条約が反ソ的なので、日本から全外国軍(米軍)が撤退するときにのみ、歯舞群島、色丹島を引き渡す」 T-p35 T-p43
1960年1月19日 日米安保条約(改定)
1972年  キッシンジャー訪中(毛沢東、周恩来会談「日本とソ連が政治的な結びつきを強めたら危険」)
1972年  日中国交正常化 T-p43
1978年  日中平和友好条約 T-p44
1987年  ゴルバチョフ大統領「ソ連は米国の敵をやめた、一方的軍備削減」(米国が支援するが、保守派クーデターになった。)M-p122

【東郷本の争点:平和条約作業グループによる7回の議論】・・・T-p45 歴史的経緯は概ね一致した。法的意味は相違のまま。1945年2月米英ソのヤルタ会談で千島列島引渡しを約束して4島は入っている(日本は知らない)(戦勝国間の合意が優先する)。サンフランシスコ条約で放棄した千島列島に南千島は入っている(ソ連が署名国か否かは関係しない)。T-p45-p46
1989-1993年  アマコスト米国大使(米国は、対ソ経済支援に日本資金を流すために、北方領土を動かすよう日露に促した)M-p122
【東郷本の争点:ゴルバチョフ大統領来日時の日本側の三段階目標】・・・(1)択捉島、国後島が交渉対象だと文書で認めさせる、(2)歯舞群島、色丹島を引渡し実施、(3)択捉島、国後島の引渡し交渉をする。 T-p47-p52
【東郷本の争点:三回の文書合意】・・・(1)1991年海部ゴルバチョフ声明(声明に四島を明記、歯舞群島、色丹島引渡できず)、(2)1993年細川エリツイン東京宣言(声明に四島を明記、歯舞群島、色丹島引渡できず)、(3)2001年森プーチンイルクーツク声明(四島を解決する、歯舞群島、色丹島1956年宣言が出発点、択捉島、国後島の協議を拒否しない)。 T-p48-p62
【東郷本の争点:二回の日本提案】・・・(1)1991年10月中山太郎外務大臣提案(四島の主権を確認できれば返還時期、態様、条件は柔軟にする〔段階的返還を含む〕)、(2)1998年4月橋本龍太郎首相川奈提案(四島の北側に国境線、ロシアの施政権を一定期間認める)エリツイン大統領は関心を示すがロシアは断る T-p48-p56
【東郷本の争点:二回のロシア提案】・・・(1)1992年3月外相会談提案(非公表:歯舞群島、色丹島引渡しと択捉島、国後島の譲歩案)日本が断る、(2)1998年11月小渕エリツイン会談時提案(四島に共同立法共同統治案) T-p48-p57
1991年 4月18日 ゴルバチョフ大統領来日、日ソ共同声明「歯舞群島、色丹島、択捉島、国後島の帰属について議論した」M-p124(ゴルバチョフ:ソ連にも世論があり、海部首相が言う択捉島、国後島返還を前提にすることは、非現実的で受け入れ不可能)M-p124 T-p47-p52
1991年10月 ロシア支援25億ドル提案 T-p48-p53
1992年 3月 コズイレフ外務大臣来日、譲歩案(歯舞、色丹の引渡しと国後、択捉について譲歩)非公表。1991年の中山外務大臣提案は四島の「返還」は一括でなくとも、「主権確認は一括」という案。日本は「主権確認は一括」にこだわり、1992年提案を断る。 T-ap50-p54 
1993年10月 エリツイン大統領来日、東京宣言「真剣な交渉を行った」M-p125 T-p47-p52
1990-2002年 日本の対ロシア支援は無償9.9億ドル、有償56億ドル(領土の基本姿勢は何の変化もない)M-p126
1997年11月 クラスノヤルスク会談「2000年までの平和条約締結に努力する」 T-p56
1998年 4月 伊東市川奈会談 T-p56
日本案「四島の北側に国境線、ロシアの施政権を一定期間認める、共同開発をする」(1991年以来、四島の主権が認められれば、返還の時期、態様は柔軟にする、と言ったことの延長線)、エリツイン大統領は興味を示すが、他のロシア政府関係者は反対。M-p126  T-p56
1998年11月 小渕首相、ロシア訪問(川奈提案のロシア側回答、内容は?)M-p127 ロシア側から共同統治案(四島に共同立法)T-p57 
2000年 5月 プーチン大統領(エリツインの下、西側主導の経済改革が失敗。強いロシア復活を望む世論に転換)
2000年 9月 プーチン大統領来日「1956年共同宣言は有効」 T-p57-p62
2001年 3月 森プーチンイルクーツク声明(四島を解決する、歯舞群島、色丹島
1956年宣言が出発点、択捉島、国後島の協議を拒否しない)。 T-p48-p62 T-p58

【東郷本の争点:次の交渉は二回の日本提案と二回のロシア提案から出てくる】・・・
(1)中山提案(四島の主権を確認できれば返還時期、態様、条件は柔軟にする〔段階的返還を含む〕)、(2)橋本提案(四島の北側に国境線、ロシアの施政権を一定期間認める)。 T-p57-p62
2001年 4月 小泉内閣、田中外務大臣就任に伴う外務省の混乱で、イルクーツク声明に基づく協議は立ち消えになる。 T-p61
2003年   日露行動計画 T-p62
2005年 9月 プーチン大統領再来日(日本側の体制なく進展なし) T-p62

2006年   クリル開発計画〔2007-2015年、540億円投資、四島のインフラ整備〕
【東郷本の争点:戦略的決定 (1)日本とあらゆる案を協議して領土に決着を付ける、(2)四島の現状を放置せず開発と住民福祉の向上をする】・・・ 「モスクワから見捨てられているという島民意識に変化」T-p65-p67
2006年 9月 安倍内閣 VS プーチン大統領 T-p63
2008年   福田内閣、洞爺湖サミット VS メドベージェフ大統領 T-p63 
2009年 2月 麻生内閣  VS メドベージェフ大統領、会談「新たな独創的で型にはまらないアプローチ」 T-p63  T-p161-162 T-p177
【東郷本の争点:面積等分論が浮上】
2009年 5月 プーチン首相来日「あらゆるオプションを議論、面積等分論も検討対象」 T-p64 T-p177
2009年 5月 麻生内閣国会答弁「不法占拠」  T-p64
2009年11月 鳩山内閣 VS メドベージェフ大統領、会談スピーチ「戦後の結果について、地政学的に見直すことはできないが、日本との関係では別問題」 T-p64
【東郷本の争点:プーチン発言と合わせて驚異的な柔軟発言】
2009年 11月 鳩山内閣 鈴木宗男衆議院議員からの質問主意書回答「不法占拠」と言及。
【東郷本の争点:ロシアが領土交渉を凍結】・・・2006年の(1)日露領土交渉と(2)四島開発のうち後者だけで進む。 T-p65-p67

【引用者注】・・・要約
1941年4月日ソ中立条約(有効期間5年~1946年4月)に拘らず、6月に独ソ開戦すると、7月に日本は「満蒙国境警備、ソ連軍侵攻阻止」を名目に関東軍特種演習を行い、ドイツ軍からのソ連軍の首都モスクワ防衛を妨げた。
1943年11月テヘラン会談で米国(ルーズベルト大統領)がソ連に対日参戦を要請、
1945年2月スターリンあて書簡で「サハリン(樺太)の南半分とクリル列島(千島列島)の領有を承認する」M-p100(トルーマン大統領「日本本土に進入すれば、日本軍をアジアと中国大陸に釘付けにできても、50万人の米国軍の死傷を見込む。従ってソ連の対日参戦は重大」)(関東軍が日本に帰れなくする) M-p100-p101、
1945年2月ヤルタ会談「千島列島をソ連に引き渡す」。
1945年7月ポツダム宣言「日本国の主権は・・・並びに我らの決定する諸小島」を受諾、米ソ交渉を背景に1945年8月9日、満州にソ連が攻め込む。T-p321945-
1956年シベリア抑留は過酷で非人道的だが、歴史の文脈からすると、米軍の進駐統治を安全に進めるためにはプラスなので、少なくとも1951年サンフランシスコ条約署名までは、米ソが呼応して行っていたと考えるのが自然である。即ち現在の南千島の占領は、米ソ交渉とサンフランシスコ条約での千島列島放
棄に起因している、というのが要点。

2010年   NATOがロシアを敵から外す、パートナーとする
2010年 7月 「極東社会経済開発とアジア太平洋地域との経済協力会議」協力国に日本を挙げず。 T-p66
2010年11月 1日  メドベージェフ大統領、南千島(国後島)訪問
2010年11月 2日  米国国務次官補「北方領土は現在日本の施政下になく、日米安全保障条約は適用されない」
2010年12月24日  メドベージェフ大統領、四島ともロシア領と発言
〔引用者注:国際的には南千島2島は、連合国の一角である米英が参加したヤルタ会談とサンフランシスコ条約で根拠になる。歯舞、色丹は根拠はない。〕
2011年 1月  ロシア国防省視察団、択捉島、国後島訪問
2011年 1月  ロシア各省庁視察団、国後島訪問(地域発展、財務、運輸、経済発展、エネルギー、保健社会発展、漁業)
2011年 2月  管内閣、北方領土の日「大統領、南千島(国後島)訪問は許し難い暴挙」 T-p67 【東郷本の争点:今後の展望を持たない発言】
【東郷本の争点:交渉目標に自縄自縛】・・・ 四島一括という固定観念にこだわったために、1992年、2001年、2009年の好機に交渉をまとめられなかった。T-p68-p76
【東郷本の争点:日本は千島列島(北千島、南千島〔国後、択捉両島〕)と南樺太について、サンフランシスコ条約で主権放棄した】・・・その上で1955-1956年交渉で四島要求に転換している。 T-p71-p72

【東郷本の争点:歴史的には四島は固有の領土ではない】・・・アイヌ民族が住んでいたのを、徳川幕府、帝政ロシアが発見した。1644年の正保御国地図が最古。1713年1739年にロシア人が探検、上陸、1776年に賦課。他方、1754年に日本が「場所」開設。1790年に最上徳内の調査。19世紀に択捉島とウルップ島
の間に国境形成。1855年の日露通好条約で確定。 T-p71-p75
【東郷本の争点:北東アジアの領土交渉三原則を提唱】・・・ T-p150-p151
(1)現状を変更しようとする国は力を用いない
(2)実効支配している国は話し合いに応じる
(3)両国が知恵を出して衝突に至らないメカニズムを考える

2012年 5月 プーチン大統領就任、メドベージェフ首相。任期6年2期だと12年。T-p76 得票率63%。就任前から国境領土について「引き分け」や他国との「面積2等分方式」に言及して、解決に意欲を持っているようなので機会を逃さないことが必要。
ロシアのエネルギー関連プロジェクト  T-p167

【参考、補足】
(1)メールマガジン・バックナンバー

60号) 「過渡的な民族国家で、国境を考える誤り」

https://ameblo.jp/t1997/entry-11385605315.html?frm=theme

61号) 「国境の長期の解決方針」

https://ameblo.jp/t1997/entry-11427933315.html

62号) 「国境の長期の解決方針を導いた考え方」〔1〕国境領土を考える注意点

https://ameblo.jp/t1997/entry-11553449279.html?frm=theme

63号) 「国境の長期の解決方針を導いた考え方」事実経過の認定・・詳細年表「南千島(国後島、択捉島)

https://ameblo.jp/t1997/entry-11567474428.html?frm=theme

64号) 「国境の長期の解決方針を導いた考え方」事実経過の認定・・詳細年表「竹島

https://ameblo.jp/t1997/entry-11572999043.html?frm=theme

65号) 「国境の長期の解決方針を導いた考え方」事実経過の認定・・詳細年表「尖閣諸島」前編

https://ameblo.jp/t1997/entry-11753460318.html?frm=theme

65号) 「国境の長期の解決方針を導いた考え方」事実経過の認定・・詳細年表「尖閣諸島」後編

https://ameblo.jp/t1997/entry-11753729772.html?frm=theme
●「ウクライナ南東部、クリミア半島と国後島、択捉島」
~南千島(国後島、択捉島等)については、(1)歴史的経緯〔1945年 2月ルーズベルトからスターリンあての書簡及び米英ソのヤルタ会談(米ソのヤルタ協定)で「樺太南部と千島列島をソ連が領有することを認める」としたことの変更〕、(2) 南千島を日本及び第三国が軍事利用しない保証(1945真珠湾攻撃の空母艦隊は択捉島から出港した)、(3)ロシア系住民の権益保護、が要点になる。
https://ameblo.jp/t1997/entry-11802971061.html
(2)引用者のWebサイト
(ア) 随想
「50年単位の国益」相互互恵の「開かれた国益」を目指すこと(イラク開戦
の前)
   http://www.hi-ho.ne.jp/t1997/z-50nentanikokueki.htm
 8月15日を「平和を祈念する日」に
   http://www.hi-ho.ne.jp/t1997/z-815heiwakinen.htm
 映画「CASSHERN(キャシャーン)」渾身の力(思い)を込めた作品
   http://www.hi-ho.ne.jp/t1997/z-casshern.htm
 コソボ(旧ユーゴ)紛争ー民族主義、排外主義ー
   http://www.hi-ho.ne.jp/t1997/z-kosobofunsou.htm
(イ) 「究極の目標」http://www.hi-ho.ne.jp/t1997/m-kyuukyokunomokuhyou.htm
(ウ) 「米を食う虫、美しい明日」http://www.hi-ho.ne.jp/t1997/m-utukushiiasu.htm