〔引用者注:大日本帝国憲法公布の時点で維新三傑(薩摩:大久保、西郷、長州:木戸)は全て亡くなっている。1877年、木戸病没、西郷自刃、1878大久保暗殺。1883年、岩倉病没。岩倉使節団の留守組(土佐:板垣、後藤、肥前佐賀:大隈、大木、江藤、副島)は、1873年、明治六年の政変で辞職下野して既に居ない。また1881年、明治十四年の政変でイギリス型議院内閣制・早期の憲法公布・国会の2年後開設を主張した大隈を公家政治家・三条、岩倉が追放、議会は10年後の1890年にした。即ち、維新の主な政治家で政府に残っているのは、伊藤ぐらいになっている。木戸、大久保が「共和制でも民主制でもない君民共治」と言う理由は、1871年-1873年、岩倉使節団の米欧回覧で、(1)米国の民主制が利権的であることを見た、(2)プロシアで弱肉強食の国家間競争を見た、日本は建国途上で強い国権が要る、(3)国民が憲政に習熟していない、(4)欧米では宗教が国民統合の機軸だが、日本の仏教・神道は機軸に成れない、などを挙げられる。伊藤にはこれに加えて(5)明治六年の政変で天皇大権により政府の意思を通した経験があり、主な維新志士が政府内に残っていない中で政治を行うのに、今後も天皇大権が必要であった。(6)これに公家政治家・三条、岩倉などの天皇親政を求める流れが元々あり、明治憲法は天皇主権になった。即ち天皇大権を警戒しながらも、伊藤自身も必要とした。他方、1900年(明治33年)政党嫌いの天皇の不興を買いながら、立憲政友会を結党。ところがその伊藤は、1909年に暗殺された。外見上政党政治に見えても、しかしあくまで君主主権・専制君主制なので、内閣が議会・政党・国民の意思に制約されず行動する超然主義が成り立ち、「玉(天皇の意思)を取れば」公家政治に特有の観念的状況認識で、暴走して敗戦に至るまで止まらない。1868年(明治元年)から1945年まで77年間、日本は天皇親政だった。プロイセン憲法と比べても「君主の国憲遵守の誓約」が無い。他方、国民主権・議員内閣制は1947年から2013年まで66年間しか経っていない。〕

1893年 釣魚島を西太后が下賜した M-p64〔引用者注:中国の主張だが、1885年貸与願い・明治政府の調査・編入とどちらが先と見るか〕

〔下賜したのは、明治政府との交渉が関連するか〕
【孫崎本の争点1:歴史的にどちらが先に領有を主張したか】・・cf.グリーンランド

【孫崎本の争点2:1895年1月尖閣諸島の日本併合をどう見るか】
1894年6月 朝鮮政府に対する東学教徒の反乱に、清国が属国保護を理由に出兵。日清間の天津条約に基づき日本も出兵。日本は清軍の駐留が朝鮮の自主を定めた日朝間の江華条約に違反と主張。

1894年8月-1895年3月  日清戦争(甲午戦争)
〔清・朝間の宗主国・属国関係の否定、朝鮮での日清の勢力争い、主な戦場は朝鮮半島、満州、黄海〕

1895年1月14日 明治政府の閣議決定「無主の地として尖閣を領有」標杭を立てる(台湾併合の3か月前) T-p118 (日清戦争中)T-p142

1895年4月17日 下関条約署名(法的には尖閣諸島の日本編入と台湾等併合は切り離して行った)T-p118

1895年5月発効 「下関条約(馬関条約)で清国から割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれない」(外務省Q&A)

〔引用者注:結局、1879-1890年の日本と清朝が琉球について行った交渉で、合意に至らないまま、尖閣諸島の日本併合と下関条約を分けて処理した・・・つまり日本の主張である「無主の地」と、中国の主張である台湾の一部とは、ずっと平行線の見解の相違のまま・・・だからこそ鄧小平の言う次世代での知恵が必要になる!!!〕

【孫崎本の争点3:尖閣諸島は日本の下、及び第二次大戦後沖縄の一部として扱われたか、台湾の一部として扱われたか】

1895年 開拓請願者、古賀辰四郎に30年無償貸付、その後私有地になる(大正島を除く)。アホウドリの事業、明治末期、99戸248人が居住。その後1940年無人島。 T-p119
1895年4月 露仏独三国干渉(清国が干渉を働き掛けてロシアを引き込む)

1896年 露清秘密同盟条約(日本を仮想敵国に、朝鮮半島を含めた攻守同盟、シベリア鉄道が東三省を通過するのを認める)

1897年 ドイツこう州湾占領、ロシア旅順・大連(遼東半島)租借強要
1900年 庚子事変(こうしじへん)・義和団の乱、西洋に排外的襲撃をした義和団を、清朝が支持して西欧列強等八か国に宣戦布告して公館を攻撃した。

1902-1923年 日英同盟(英国は満州から撤兵しないロシアを牽制したい、清国における利権の維持。第一次:締結国が他国(1国)の侵略的行動(対象地域は中国・朝鮮)に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止する、更に2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦する。第二次:英国のインドにおける特権と日本の朝鮮に対する支配権を認めあう、清国に対する両国の機会均等。)

1904年2月8日 - 1905年9月5日 日露戦争(満州と朝鮮半島をめぐる日露の確執) T-p78

〔清国は、日清戦争の下関条約(第一条清・朝鮮間の宗属関係を否定、第二条割譲)の遼東半島を、露仏独三国干渉(清国が干渉を働き掛けてロシアを引き込む)で返還させた上で、露清秘密同盟条約

(日本を仮想敵国に、朝鮮半島を含めた攻守同盟、シベリア鉄道が東三省を通過するのを認める)を結んだが、却ってドイツこう州湾占領、ロシア旅順・大連(遼東半島)租借強要を受けて、列強による中国分割に至る。〕

〔戦病死日本8万8千人、ロシア4万2千人、戦費年間歳入の7倍うち半分近くを外債発行〕

1905年 1月28日 閣議決定「無主の地として竹島を日本領に編入」

(日露戦争中、戦略の必要上) T-p77 T-p142
1905年 桂・タフト協定(米国は大韓帝国における日本の支配権を確認、日本の保護国になることが東アジアの安定に貢献する。日本はフィリピンにおける米国の支配権を確認した)
1905年 9月 ポーツマス条約(日露講和条約)ロシアは満州および朝鮮から撤兵し、日本の朝鮮半島における優越権を認める。日本に樺太の南部を割譲する。戦争賠償金には応じない〔軍事的財政的に戦争継続できない日本政府は、賠償金を放棄して講和を結んだ。講和交渉で不利になるのを避けるため政府は実情を公表できず、戦時中に増税による耐乏生活を強いられてきた国民は憤り、怒りは講和を斡旋したアメリカにも向けられた〕
1910年 8月22日 - 1945年 8月15日 韓国併合(1909年10月26日伊藤博文暗殺後) T-p77 T-p80

1911年 - 1912年(民国元年) 辛亥革命、清朝を倒し共和制・中華民国を樹立した。

1912年中華民国臨時政府成立、1912年清国皇帝退位、しかし分裂等もあり全国を統一したのは1928年南京国民政府。中国の範囲を五族協和(漢族、満州族、蒙古族、ウイグル諸民族、チベット族)としたが、当該のモンゴル、西域ムスリム社会、チベット3か国は清国皇帝退位で清との宗属関係は無くなったと主張。

1914-1918年 第一次世界大戦
1917-1922年 臨時外交調査会(国論を統一して外交を政争の外に置く、各党党首を取り込むととも軍部の統帥権を制約)

1917年 ロシア革命
1918年 ロシア帝国崩壊
1918-1922年 第一次大戦中に、日本は、日米英仏伊による対独牽制とロシア革命妨害でシベリア出兵を行い、ウラジオストク、北樺太、沿海州、満州、バイカル湖東部、西部イルクーツクを4年間占領した。

占領地に傀儡国家を画策した。1925年まで北樺太を占領した。村落を焼き払った。軍紀が退廃して不法行為もあった。ロシアの歴史認識、国民感情では、忘れていない。

1919年 (第一次世界大戦)パリ講和会議(日本は山東省権益と、パラオ、マーシャル諸島の統治権を得た)

1919年 日本がパリ講和会議国際連盟委員会で人種的差別撤廃提案(各国均等、外国人に均等公正の待遇を与え、人種や国籍により法律上・事実上差別を設けないことを約す。差別が常態化している欧米諸国にとって急進的内容)否決。

1919年 米国で人種暴動(レッドサマー、シカゴ人種暴動、オマハ人種暴動、エレイン人種暴動。講和会議での自国政府の行動に対して)

〔1861-1865年、南北戦争。南部11州が合衆国を脱退、北部23州と内戦。奴隷制と貿易で対立。1865年奴隷制禁止後も、1964年公民権法まで有色人種への個人の人種差別は合法、人種分離は合法だった〕
1919-1946年 国際連盟(第一次世界大戦の教訓から発足した国際平和機構)

1921年 四カ国条約(米英仏日の条約。各国が太平洋方面にも持つ属地・権益の相互尊重。米国による日英同盟の妨害)

1924年 米国で移民法成立(各国からの移民の上限を、1890年の国勢調査時の2%以下にする、東欧・南欧・アジア出身者を厳しく制限する。特にアジア出身者は全面的に移民禁止。日本国民の対米感情の悪化)

【男子選挙権と治安維持法・・・永遠に続く天皇主権】
1925年(大正14年)4月 治安維持法。1928年(昭和3年)緊急勅令で改正して構成要件を「国体(天皇主権)変革」と「私有財産制度の否認」に分離し前者の最高刑を死刑にした。「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者・・」。一般に国体は、その国の基礎的な政治の原則だが、大日本帝国憲法・治安維持法では「神が天皇に与えた日本の永遠の統治権(天壌無窮の神勅)」になる。『日本書紀』天孫降臨の段で天照大神が孫らに下した3つの神勅(三大神勅)1番目が「天壌無窮の神勅 - 葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」。1889年、大日本帝国憲法公布。

1890年、天皇が自ら発した「教育ニ関スル勅語」は、道徳に関する言葉を並べた後で「以(もっ)テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)スベシ」(永遠に続く天皇を助けなさい)と括っている。

〔補足:「天皇の統治権」が国体なので、国民主権・議院内閣制の憲法改正を政党が掲げると「国体を変革する結社」になる。cf.1881年、明治十四年の政変〕
1925年(大正14年)5月 衆議院議員選挙法改正、納税額による選挙権の制限を撤廃、25歳以上の男子に選挙権、有権者数は1920年約300万人(人口比5.5%)が、改正後1928年(昭和3年)約1240万人(人口比20.1%)と4倍。ただし1945年まで女子に選挙権は無い。

1930年(昭和5年)桜会結成、日本の軍事国家化と翼賛議会体制への改造を目指す超国家主義的な秘密結社・軍閥組織、親米路線を廃し反米反中華民国への転換と政党内閣を廃して軍事政権を樹立する国家改造構想

1931年ー1940年 閑院宮載仁親王(皇族)が参謀総長。1940年に陸軍大臣に辞表を出させて倒閣した

1933年~1940年 昭和研究会、近衛文麿(五摂家)の政策研究団体。

1940年、大政翼賛会に発展的解消。解散後も活動継続した昭和塾は、1941年尾崎秀実がソビエト連邦「ゾルゲ諜報団」のスパイであることが発覚逮捕されて解散。尾崎はコミンテルンの工作として、1937年盧溝橋事件で日中戦争不拡大方針・国民党との早期講和に反対する論陣を張った。1938年、第一次近衛声明「国民政府を相手とせず」に影響を与えた。近衛内閣は国民党政府との和平交渉を打切り、日中戦争の拡大泥沼化、日米戦争へつながる政策を取る。

1936年(昭和11年) 軍部大臣現役武官制とは何か、根拠規程は何か
〔(1)陸軍省官制及び海軍省官制にどう規定するかによるので改正可能、(2)仮に現役将官に限るとの規定があったとしても、運用で予備役・後備役・退役の将官を現役に復帰させて大臣に任命することは可能、ただし人事上は省内権力闘争に敗れて予備役・退役等になることがあり、この場合は省側が復活を望まない、また(3)大日本帝国憲法は外見的には立憲主義だが条文は専制君主なので、天皇が議会を経る立法と別に命令による法規の制定をできる、(4)具体的には官制の改正を命令するか、別の命令、例えば「軍部大臣が欠けるときは内閣総理大臣に兼務させる」と命じれば足りる、(5)問題点は二つあり、「天皇が直轄する軍隊の最高幹部がなんら倫理的葛藤なしに天皇の指名した首相を拒否・倒閣する」矛盾、「天皇が首相候補を指名して組閣命令を出しながら、軍部大臣欠員のため組閣断念するのを見ても、何ら憲法上の専制君主の権限を行使しない」不作為、(6)組閣を妨害したのは陸軍だけで大臣を出さなかったり辞職して倒閣したりしている、海軍は大臣を出さなかったことはなく予備役から現役復帰もある、(7)1900年(明治33年)、最初の現役規程は、議会・政党政治に対抗して、藩閥・軍部が自らの意向を抜きに組閣出来ないように作った、他方1913年(大正2年)には現役に限る規定を削除した(山本権兵衛内閣)、武官制は残っているが予備役・後備役・退役まで広がり組閣が容易になった、ところが1936年(昭和11年)広田内閣のときに復活させた。1937年に宇垣(予備役陸軍大将)に天皇が組閣命令を出すが、陸軍が大臣候補を出さないため、宇垣は「自身の現役復帰と陸相兼任」を勅命するよう求めるが得られず組閣断念。1940年には米内内閣の陸相が単独辞職して倒閣。

1938年2月17日 防共護国団の約600名が立憲民政党と立憲政友会の本部を襲撃、事前に政党本部襲撃計画案を見た近衛はこれを修正している。

1941年 6月 独ソ開戦 
1941年 7月 日本は「満蒙国境警備、ソ連軍侵攻阻止」を名目に関東軍を兵力増強して日ソ国境で関東軍特種演習を行い、ドイツ軍からのソ連軍の首都モスクワ防衛を妨げた。ソ連から見て中立条約違反。
1941年12月 真珠湾攻撃 T-p67(日本からの開戦通告は伝達されず、米国から見て奇襲攻撃になった)

1942年 6月 ミッドウェー海戦で敗北(国内には秘匿された) T-p68
1943年11月22日 米英・中華民国、カイロ会談(対日戦争継続を確認)
1943年11月28日 米英ソ、テヘラン会談(戦後のポーランド国境を西オーデル・ナイセ線、東カーソン線とすべき)。米国(ルーズベルト大統領)がソ連に対日参戦を要請。(トルーマン大統領「日本本土に進入すれば、日本軍をアジアと中国大陸に釘付けにできても、50万人の米国軍の死傷を見込む。従ってソ連の対日参戦は重大」)(関東軍が日本に帰れなくする) M-p100-p101

〔引用者注:戦後のソ連による日本兵のシベリア拘引・抑留1945-1956は過酷で非人道的だが、歴史の文脈からすると、米軍の進駐統治を安全に進めるためにはプラスなので、少なくとも1951年サンフランシスコ条約までは、米ソが呼応して行っていたと考えるのが自然である〕

1944年 東京裁判所は「釣魚群島は台湾州の管轄」とし、台湾警備府長官は管轄区内と認めた M-p70〔引用者注:中国の主張だが、当時まで、台湾も日本の支配下だったので、どの役所が担当するかは、日本統治組織内の行政区割にすぎず、領土の帰属とは無関係〕

1945年 2月 ルーズベルトからスターリンあて書簡「サハリン(樺太)の南半分とクリル列島(千島列島)の領有を承認する」 M-p100

1945年 2月 米英ソ、ヤルタ会談「(米ソ、ヤルタ協定)ソ連の対日参戦、樺太南部・千島列島のソ連領有」「協定は日本を拘束しないが、米ソを拘束する」M-p100-p101「米国はソ連との関係で「約束を反故にする国」になることはできないから、北方四島でソ連に異を唱えることは無い」M-p103  T-p32
1945年 7月17日- 8月 2日 ポツダム会談(米国、英国、ソ連)「ポーランドとの国境を旧プロイセンを含む西側に移動、ケーニヒスベルクをソ連に委譲」(戦勝国が敗戦国を割譲するだけで、歴史的にどの国に属する土地か、という議論は吹っ飛んでいる) M-p96

ポツダム会談では、ソ連の参戦は、モスクワ宣言1943と国連憲章103条による国際社会との協力と説明

 
1945年 7月26日 ポツダム宣言(米国、英国、中華民国)「日本に無条件降伏を求める」「日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国、並びに我らの決定する諸小島」
1945年 8月 9日 ソ連が 8月8日宣戦布告。満州、朝鮮半島北部及び南樺太、千島列島に攻め込む(2月ヤルタ会談に基づく)。(満州居留民、17万6千人の被害。日本兵60万人のソ連抑留。 T-p32-p34)
1945-1952年の7年間、連合国の占領が続く。 T-p34
1945年 米軍政下(沖縄の一部として扱う)

【女性の参政権】
1925年(大正14年)5月 衆議院議員選挙法改正、納税額による選挙権の制限を撤廃、25歳以上の男子に選挙権。1925年4月 治安維持法。1928年、緊急勅令で改正して構成要件を「国体(天皇主権)変革」と「私有財産制度の否認」に分離し前者の最高刑を死刑にした。有権者数は1920年人口比5.5%が、改正後1928年人口比20.1%と4倍。

1931年、婦人参政権を認める法案が衆議院を通過、貴族院の反対で廃案。

1945年12月衆議院議員選挙法改正公布、女性に国政参政権。

1946年、地方制度改正、女性地方参政権。世界で見ても、男性が社会参加を行い、女性は男性を支えるとの意識が背景。

〔主な国の女性参政権〕
1902年 オーストラリア、1917年 ソビエト連邦、1919年 ドイツ、

1920年 アメリカ 1928年 イギリス
(第二次大戦後)
1945年 フランス、イタリア、日本、1952年 ギリシャ、1993年 スイス
2005年 イラク、クウェート

サウジアラビアは女性に参政権がない。

【公娼制・・営業許可を得た売春(対償を受け不特定の相手方と)、私娼・・営業許可を得ない売春、管理売春・・人を自己の管理下に置いて売春させる、単純売春・・自ら相手を見つけて売春する】
1958年 売春防止法施行、管理売春を禁止・罰則、以降営業許可を得た売春は無い(以下、時代を遡る)
1900年(明治33年)娼妓取締規則、公娼制度を前提に規制、非公認を取り締まる、娼妓廃業の自由(貧しい親に売られる、前借金に縛られる、だまされて強要されるなど廃業できない)
1889年 娼妓稼業を16歳未満に許可しない、1900年18歳未満に許可しない

1873年(明治6年)公娼取締規則
1617年 遊郭設置許可「吉原」(性犯罪の防止、参勤交代の武家の性処理、不審者の発見、遊女屋を特定地域集める、私娼取締まり)日本各地に遊郭が栄えたが、性病が蔓延した(梅毒・淋病)
1585年~大阪三郷遊郭、京都柳町遊里、遊女屋営業、「人心鎮撫の策(秀吉)」

(前近代)ローマ帝国:公娼・私娼、売買奴隷、捕虜、誘拐女性、捨て子などが娼婦

欧州:公娼制、徴税対象、娼婦登録公認制・私娼、性病対策・兵士風紀退廃防止

中国:戦乱など捕虜・被征服者の女性、戦争報酬・賞与
朝鮮:妓生・女官は歌舞など技芸から、官吏・辺境軍人の性的奉仕も兼ねる、外交の貢ぎ物、また高麗・李朝時代の身分制度で、支配階級両班、中庶階級(中人・吏属)、平民階級、賤民階級(七賤・・商人・船夫・獄卒・逓夫・僧侶・白丁・巫女、奴婢・・主人の財産として売買・贈与)、日本の進出に伴い遊郭業・日本人業者・朝鮮人業者が増える、騙して人身売買・誘拐事例が増える

〔軍用売春、戦時性暴力〕
戦地での性を、私娼型・慰安所型・強姦型に分ける。
英米軍は本国での廃娼運動・公娼制廃止があり、主に私娼を利用するが、植民地での公娼制・慰安所は維持し、強姦もある。欧州戦線でフランス人、ドイツ人に、沖縄、日本進駐で強姦がある。日本占領時には、日本政府が連合軍向けの慰安所を作った(特殊慰安施設協会1945.8-1946.3)。
独仏軍には軍管理の慰安所があった。インド駐留英軍、伊軍、日本軍に慰安所・戦地での強姦があった。ソ連軍はドイツ占領で集団強姦、満州・朝鮮半島で強姦。韓国軍、在韓米軍向けの慰安所があった。現在の米軍では軍内性暴力が課題。

問題解決は戦争を無くすこと。

1950年 周恩来外交部長「台湾と中国に属するすべての領土の回復」を目指すと声明 M-p70 

〔引用者注:中国の主張だが、一般的な決意表明で、尖閣諸島の帰属を決めることとは無関係。またそもそも台湾はいつから中国なのか、ということもある。日清戦争で清国から日本に割譲したのはそうだが、台湾原住民から見れば、漢民族は外来勢力だ。中国がチベットを統治することをチベット人が納得していないということもある。〕

〔もともと台湾本島は台湾原住民が居て、誰でも行ける船舶の寄港地、倭寇の根拠地でもあった。明朝が滅亡した残党が1662年にオランダの東インド会社を駆逐上陸して統治し、その明朝残党を撲滅するために清朝が台湾制圧して1684年に福建省に編入したが、支配したのは台湾本島の一部に限られる。台湾の先の尖閣諸島に漢民族、満州族の統治は及んでいない。〕

1951年 9月 8日署名  サンフランシスコ条約「日本は、台湾に対する全ての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定 M-p71

〔引用者注:孫崎本はM-p70-71で中国の主張を並べた後で、この記述を加えている。ところが「日本が取得した時点で、尖閣諸島は台湾の一部だったのか、無主の地だったのか」が争点なので、この記述はミスリードである〕

1951年 9月 8日署名ー1952年サンフランシスコ条約の時点で、中華民国も中華人民共和国も、尖閣諸島を米軍政下に置くことに抗議していない。T-p120
1951年 サンフランシスコ条約で南西諸島の一部として、米国の施政権下に置かれた(つまり台湾の一部であれば台湾に返還だが、そうではなくて沖縄の一部として扱われた) M-p69 T-p119
【東郷本の争点1:戦後処理で尖閣はどう扱われたか】・・・

1951-1972の過程で国際的には日本領として扱われたことに疑義は無い。T-p119-p121

〔引用者注:国際連合(UN連合国)1945年発足、各国加盟、イタリア1955年、日本1956年、中華人民共和国1971年、東西ドイツ1973年〕

1964年 7月 米国公民権法【米国の人種差別】1865年奴隷制禁止後も、公民権法まで有色人種への個人の人種差別は合法、人種分離は合法だった

1968年  国際連合アジア極東経済委員会レポート「尖閣諸島海域に石油の埋蔵量がある」(中国と台湾の尖閣領有の立場を顕在化させた)T-p121
1969年 3月 2日 中ソ国境・珍宝島で軍事衝突、中ソの死者各30-40名 M-p21.p24

1969年 4月 国防部長、林彪が毛沢東の後継者になる M-p30  〔1966文化大革命、紛争を通して地位強化〕

 周恩来首相とコスイギン首相が国境画定交渉 〔(1)現状維持、(2)武力不行使、(3)論争がある地域の調整 → 1991中ソ国境協定、中国領と合意、ゴルバチョフ〕 M-p33
1970年 9月 1日 琉球政府声明「報道によると台湾国民政府がG社に海中油田の鉱業権を与え、大陸棚条約に基づき尖閣が国民政府の領有と主張しているが、看過できない」(この時点で戦後25年経過しているので、戦勝国が放置してきたというのは筋が通らない)T-p122

1970年-1971年 中華民国外交部声明「釣魚台列嶼は台湾省に属するので、米国が管理終結するときは、中華民国に返還すべきと述べてきたが、日本に返還するので驚いている」 M-p70 〔引用者注:連合

国である中華民国の主張だが、通らなかった。つまり台湾に属するというのは自明ではなく、「日清戦争の下関条約とは別に、その以前に「無主の地」を「先占の法理」によって取得した」という日本の主張に沿って処理したことになる〕

1971年12月30日 中華人民共和国外交部声明「米日両国が、沖縄返還協定で釣魚島嶼を返還区域にしているのは領土侵犯だ」 M-p71

「明代に中国の海上防衛区域に含まれている、台湾に付属する島嶼だ、日清戦争を通じて掠め取った」 T-p123

〔引用者注:海上防衛区域というのは広く設定するから領土ではない、他方、法的には尖閣諸島の日本編入と台湾等併合は切り離しているが、台湾併合の3か月前で日清戦争と同時期なのは確かだ〕

〔引用者注:1970中華民国、1971中華人民共和国の明確な主張に係わらず通らなかったのは、前記のとおり、台湾に属するというのが自明ではないから〕
【東郷本の争点:清国の支配が尖閣に及んでいたか?】・・・明代に東シナ海は倭寇が航海して明の沿岸警備と衝突していた。明代の文献に尖閣は航路上の目標として出てくるが自国領という記載は無い。T-p125-p127
【東郷本の争点:先占の法理、国際法の解釈】・・・1933年国際司法裁判所は、東グリーンランドの判示で「主権者としての意図があり現実に示したとき」としたが、明国・清国の行動は満たしていない。T-p127-p128
【東郷本の争点:日本政府の調査をどう見るか?】・・・1885-1895年に調査。1885年明治政府内務省の照会に外務省は、清国で島名を付けている、清国の新聞が台湾近くの島を日本が占領すると疑っている、他日の機会にゆずり今は認めないとした(井上清著作)。10年後の1894-1895年「当時と事情も違ってきている」との再照会に「異議なし」とした(井上清著作)。1894年8月-日清戦争から1895年4月17日、下関条約署名の正に間の1895年1月14日、明治政府の閣議決定「無主の地として尖閣を領有」で標杭を立てた。欧米が作った国際法で合法的と判示されても、日清戦争・台湾併合という歴史の中で起きたことであるのは事実。T-p129-p131

1972年 3月 8日 外務省基本見解「無人島で、清国の支配が及んでいないのを現地調査のうえ編入した」 T-p123

1972年 5月15日   米国から、沖縄の施政権が日本に返還された(尖閣諸島を含む) M-p69 T-p119

(米国国務省は(いつの発言?)施政権と主権は別個のものなので、主権をめぐり食い違いが起きたときは、当事国が協議して解決すべきだ) M-p70
〔引用者注:米国の一般的な立場で、現在も同じ。ただし米国が占領統治を行い、かつ施政権の返還先を台湾でなく日本としたことは、その時点で連合国は、尖閣諸島が日本に帰属すると整理したことになる〕
1972年 5月20日 中華人民共和国が国連事務総長に書簡を出して、上記の尖閣諸島を含む返還に抗議した M-p71

1972年 日中国交正常化で、「(田中対周恩来)小異を捨てて、大同につく」「(田中)尖閣諸島について、どう思うか?(周恩来)今回は話したくない、石油が出なければ台湾も米国も問題にしない」(中国側は「釣魚島の帰属を一時棚上げにし、子孫に残して解決させることに合意した」、日本側は棚上げという言葉は使っていない)M-p73-p81

〔引用者注:孫崎本はM-p73-p81の記述で、中国が棚上げを提案するのは、周恩来や鄧小平が寛容な政治家だからというニュアンスで書いている。ところが前記のとおり1972沖縄返還にあたり、1970中華民国、1971中華人民共和国の「釣魚群島は台湾に属する」という主張は国際社会で通らなかった。だから時間を置かずに同じ主張をしても中国に「分が無い」から先送りして、かつ「一時棚上げ」に言及することで中国の立場を表明して将来の再交渉の余地を残したかったからだろう。つまりおよそ100年以上前の1879-1890年に日本の明治政府と清朝が琉球の範囲について交渉して以来の見解の相違・平行線を今後も続けるという意思表明をしたのだ。〕〔何でもそうだが、「事実経過と法解釈」を厳密に行ったうえでなければ、「相手も納得できる現実的な解決策」を提案することもできない。この点で孫崎本は厳密でない。M-p73-p81の記述は、参考になる情報を含んでいるが、一部にミスリードもある〕

1972年  キッシンジャー訪中(毛沢東、周恩来会談「日本とソ連が政治的な結びつきを強めたら危険」)

1972年 9月 日中国交回復  〔明文ないが=(1)現状維持、(2)武力不行使、(3)日本の管轄を容認〕 M-p34 T-p43

1973年-1974年 尖閣諸島を旧知の古賀善次から栗原国起、栗原和子が購入 T-p136

1975年 日中漁業協定(1回目)自国の船に措置を行う(相手国の船は旗国に通報)

1978年 4月 (日中平和友好条約の交渉中)108-140隻の中国漁船が尖閣諸島周辺に集まった、一部は領海内に入り二週間後に退去(上海市水産局・革命委員会が煽り、市党委員会・党中央委員会が止めた) M-p23 M-p75 M-p166

1978年 5月  上記事件について、日本大使と中国次官の協議「次官が会談を打ち切ろうとしたが、大使が条約を結べなくなると食い下がった」「その結果、国交正常化の際の双方の態度に変わりは無いと確認した」M-p75〔引用者注:1972年国交正常化から6年経ち、条約交渉にあたり「一時棚上げ」を止めて再交渉しようとしたことを否定できない〕

1978年 8月 (日中平和友好条約の交渉)園田・鄧小平外相会談(中国側:国交正常化でも条約交渉でも触れないことにした、釣魚島、大陸棚の問題があるが、脇に置いて考える)(鄧小平:我々の世代は問題の解決を見つけていないが、将来の世代は解決方法を見つけるはずだ)(園田:日本が既に実効支配をしている、あえて話を持ち出せば中国も領有権を主張せざるを得ない)M-p76-p79 (改革開放路線で市場経済を導入する時期で、大目的のために次世代送りした)T-p131-p133
1978年 8月 魚釣島に灯台を建設(1996年7月北小島に第二灯台)T-p135
1978年10月 鄧小平来日(鄧小平が棚上げに言及して、福田はコメントなし)M-p79
1982年 海洋法に関する国際連合条約署名、1994年発効
1989年 天安門事件(趙紫陽失脚、保守派江沢民総書記:ソ連崩壊もあり、共産主義での国民統合が難しく、愛国主義を前面に出した)M-p84

1990年10月 中国外交部副部長対駐中国大使(日本の見解が異なることを知っている、国交正常化のときに中日は棚上げに同意している)M-p79 

〔引用者注:これまで繰り返し出てきたように、棚上げに言及しているのは中国側だけ。それは日本の実効支配が日本の領有に固定化しないように、1879-1890年の日本と清朝の平行線に戻すために繰り返し言及している。それを、両国が同じレベルで暗黙裡に棚上げに同意しているはずだ、とする孫崎氏の解釈は、外交官として妥当でなく、資質を欠いているとさえ言える〕
1992年2月 中国の領海及び隣接区法「釣魚島は中国に属する」法律に明記した。cf.海洋法200カイリ

〔引用者注:孫崎本は1989年天安門事件からの愛国主義を要因に挙げるが、海洋法ではないのか?〕M-p84 (1989年天安門事件後に導入した愛国教育は日本を対象にすることになるが、日本において国連海洋法条約の発効が1996年に予定していた)T-p134

1994年 海洋法に関する国際連合条約発効(1982年署名)。排他的経済水域(EEZ) T-p108

1996年 7月 北小島に第二灯台建設 T-p135
1996年 9月15日 ニューヨーク・タイムズ「モンデール駐日大使は、米国は尖閣諸島の領有問題にいずれの側にもつかない。米国は日米安保条約で介入を強制されない。」
1996年 米国「尖閣諸島は日本の管轄下にあるので、安保条約が適用される。尖閣の主権は係争中で、米国はいずれの立場も取らない。」

1997年調印 日中漁業協定(2000年発効、2回目)(北緯27度以南の協定水域で既存の漁業秩序を維持する)(自国の船に指導監督を行い、違反事件を処理する)(相手国の船の違反は、相手国に通報する)(注:操業していない船には無害通行権がある)M-p81-p84(漁業に限って尖閣周辺での共同に合意した、ただし実施では円滑ではない) T-p135

〔孫崎本は「定住が難しい島で、日本人も中国人も定住していない」M-p61としているが、東郷本は「アホウドリの事業で、明治末期には99戸248人が尖閣諸島の島々に住んだ、その後1940年に再び無人島になった」T-p119と記述している。〕

2002年10月 日本政府総務省が尖閣諸島の魚釣島、北小島、南小島を所有者(栗原国起)から賃借する(注:久場島は栗原和子〔母親〕所有)。内閣参事官室「平穏安定に保つため(日本の政治団体が上陸、台湾香港の漁船が領海侵犯)、取材を含む第三者の上陸は認めない」 T-p136-p137
2004年 3月24日 中国人活動家が上陸、沖縄県警が拿捕、那覇に連行、26日に強制送還。(速やかな送還で事態は拡大しなかった) T-p137

2004年 3月24日 米国国務省副報道官「尖閣諸島は日本の管轄下にあるので、安保条約が適用される。尖閣の主権は係争中で、米国はいずれの立場も取らない。」
2005年10月 米国国務長官・国防長官、日本外務大臣・防衛庁長官署名「日米同盟、未来のための変革と再編」で「島嶼部への侵攻への対応」は日本が行うことに書いてある。M-p157
2008年12月 8日 中国の海洋調査船2隻が領海を9時間半航行、1時間停泊。中国外務省報道局長「中国の領土で合法」。国家海洋局海監総隊副隊長「実効支配の実績が重要」。(管轄権を実力で示すと行き着く先は武力衝突しかない)T-p138

〔引用者注:孫崎本は、2010年9月7日中国漁船が海上保安庁巡視船に体当たりしたことを、産経ニュースが「領有化という中国政府の意思を示したもの」という報道に対して、海上保安庁の8-9月の退去警告件数を示して、むしろ日米軍事関係強化に利用する米国側の扇動に注意が必要と記述して、2008年12月の中国海洋調査船の動きには言及していない。ミスリードだろう。〕M-p130-p139

2010年 2月 文芸春秋、アーミテージ元国務省副長官とハーバード大学教授ジョセフ・ナイの対談「日本が尖閣を守らなければ、日本の施政下でなくなり、米国も尖閣を守れなくなる」M-p1582010年 中国のGDPが、日本を超えた(「ライバル関係」「敵対関係」「資源が絡む」は武力衝突になりやすい)M-p85-p86

(孫崎氏:鄧小平、周恩来のもとで、「棚上げ(日本の領有権容認、武力行使抑制)」「日中漁業協定で紛争回避」)

〔引用者注:中国が棚上げしたのは永久にではなく、一時的にであり、それはその時点1972で中国に「分が無い」から先送りしたのであって、当然、日本の領有権を容認するなどということは有り得ない、孫崎氏のこういう解釈・感覚は、1990年で前述したとおり外交官としての資質を欠いている。中国は、およそ100年以上前の1879-1890年から一貫して再交渉の機会を伺っている〕M-p85-p87

2010年 6月 8日 管内閣が「領有権問題は存在しない」とする答弁書
2010年 8月16日 米国国務次官補「日米安保条約は、日本の管轄下にある地域に適用されるので、尖閣諸島に適用される」

2010年 9月 7日中国漁船が海上保安庁巡視船に体当たりしたため、逮捕状を請求して、公務執行妨害で逮捕する、地検に送検、17日後の24日に処分保留で釈放 〔日中漁業協定の、違反操業は退去させ、取り締まりは漁船の所属国に通知する、とは違う扱いになった〕 M-p60

中国は、ガス田の交渉中止、フジタ社員を軍事管理区域撮影名目で逮捕、レアアース輸出停止

【引用者注:中国漁船が体当たりする前に、日中漁業協定の適用で対応できなかったのか???】

【東郷本の争点】・・・(1)油田の共同開発の合意が数日後にあるのを潰すために対日強硬派が仕掛けたという謀略説(2)日本が国内法で処理するのは、鄧小平の棚上げに抵触する(3)2008年12月のように実効支配を実力で示すために軍艦が威嚇のために出てくると撃つこともある  T-p139-p141
2010年 9月16日 産経ニュース「中国政府内で尖閣諸島の実効支配が機関決定された可能性があり(日米関係筋)」

2010年 9月24日 時事通信「クリントン米国国務長官:日米安保条約は、尖閣諸島に適用される」(条約の対象になることと、実際に米軍が出ることと同じではない。) M-p155
2010年 9月29日 リ・クワンユー元シンガポール首相「10年後に中国は日本より強い海軍を持つ、それを考慮しなければならない」M-p91

2010年10月 3日 産経ニュース「日米両軍で制空権、制海権を確保後、尖閣諸島を包囲して上陸した中国軍の補給路を絶ち兵糧攻めにする」(制空権、制海権を確保するとは、中国と戦争に入り、戦闘機を撃墜して軍艦を撃沈することを意味する)M-p159

2010年10月12日 読売新聞「中国国家海洋局:今後5年で巡視船を30隻建造する」M-p167

2010年10月21日 衆議院で前原外務大臣発言「1978年10月25日の鄧小平の記者会見発言は、中国側の一方的な発言で日中の合意はない」 M-p89 
〔引用者注:前原が憲法改正して集団的防衛にしたいのはともかく、棚上げに言及しているのは中国側だけで、1990年等両国が同じレベルで暗黙裡に棚上げに同意しているはずだ、とする孫崎氏の解釈は、外交官として妥当でなく、資質を欠いているとさえ言える〕〔他方、中国が一時的にも棚上げしている間は、日本に有利な展開であり、軍事衝突を避けることもできるので、活用すべきだという意味であれば、孫崎氏の提案は妥当である。また「棚上げを否定することが紛争を起こりやすくしているM-p90」という指摘はそのとおりで、日本の主張をいつどの程度明示的に行うかには十分注意する必要がある。しかし鄧小平も周恩来も永久に棚上げするとは言っていない。だから、相手も納得する平和的などういう妥協点に達するかというのは課題だ〕
2010年10月22日 CNN「海上自衛隊の潜水艦が4年間で16隻から6隻追加して22隻になる」(中国は潜水艦50-60隻、原子力潜水艦8-10隻)

2010年10月27日 中国軍系軍事科学学会副秘書長「鄧小平の「論争を棚上げして共同開発する」方針は、論争は棚上げできるが主権は明確にしなければならない」 M-p90
〔引用者注:時期から見て、前記の外務大臣発言へのリアクションかもしれないが、軍事行動を起こして取り戻すという考えが中国に無い訳ではない。過去にソ連ともベトナムとも軍事衝突していて、中国にとって軍事的解決の敷居は低い。他方、第二次大戦後の国連憲章は、自衛以外の戦争に制約を設けている。日本が軍事的衝突を避けて、平和的解決に向けるには、国連憲章を含む国際法による解決を繰り返し主張することが有効だろう。中国は国内では法治でなく人治で、上位下達で最終的には何でもできる。この染み付いた思考行動パターンは指導部の習い性なので、国際関係にも法治でなく人治で対応しようとすることがある。この思考行動パターンが改まるには時間が掛かる。ちなみに米国のダブルスタンダードにも似たところはある。〕
2010年11月 4日 ワシントン・タイムズ「中国のミサイルは、在日米軍基地を破壊できる。中・短弾道弾80、クルーズ・ミサイル350」「米議会、米中経済安全保障再考委員会:中国は、アジアの米軍基地6箇所のうち、グアムを除く5箇所(嘉手納、横田、三沢と在韓基地)を機能不全(滑走路、管制機能)にできる。」M-p161
〔引用者注:だからグアム移転か〕
2010年12月17日 新防衛大綱閣議決定「中国の軍事的動向は、地域・国際社会の懸念事項」(国防の重点を南方シフト) T-p141

2010年12月30日 朝日新聞「中国軍が南シナ海で、離島に上陸奪取する作戦計画を立てて演習をしている。空爆による防衛力の排除、揚陸艦で上陸、米軍空母艦隊の進入阻止」 M-p92
2011年 1月  オバマ大統領の首席補佐官に金融大手幹部を任命(金融・産業界は中国との融和協調を望み、産軍複合体は緊張対決を望み、両者の間で対中国政策の綱引きがある) M-p131
2011年 2月18日 産経「米国国防長官:2025年までに中国がステルス機能を持つ戦闘機200機を配備予定」

2011年 2月19日 読売新聞「中国軍が対艦弾道ミサイルの配備を始めた。射程約2000キロで、米軍空母戦闘群の接近を阻止する。」

2011年 8月24日、 9月25日 中国漁業監視船2隻が一部領海内を含む尖閣諸島周辺を航行、排他的経済水域で無届の調査活動 T-p141

2011年 9月 アーミテージ元国務省副長官「日米関係が冷え込む中、中国は尖閣でどこまで許されるか試そうとしている」 M-p133(米国は、尖閣を日米軍事関係の強化に利用する M-p139)

2012年 4月16日 東京都知事が尖閣諸島購入を表明する
2012年 9月11日 国が購入、中国で反日デモ、暴動。中国が明示しないまま経済制裁的行動(通関遅延、招待等中止、旅行者渡航禁止)、尖閣諸島に公船派遣。
2030年 世界のGDPシェア予測、2008年の人口は、中国13億3000万人、米国3億人、日本1億3000万人。中国の1人当たりGDPが米国の4分の1になれば米国のGDPを超える。 M-p216

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■ 改めて私の結論は「過渡的な民族国家で、国境を考える誤り」(60号)、「国境の長期の解決方針」(61号)です。また「国境領土を考える注意点」(62号)の総括として、【北東アジアの領土交渉三原則】T(東郷本)提唱・・・に賛同します。 T-p150-p151

(1)現状を変更しようとする国は力を用いない
(2)実効支配している国は話し合いに応じる
(3)両国が知恵を出して衝突に至らないメカニズムを考える

【参考、補足】
(1)メールマガジン・バックナンバー

60号) 「過渡的な民族国家で、国境を考える誤り」

https://ameblo.jp/t1997/entry-11385605315.html?frm=theme

61号) 「国境の長期の解決方針」

https://ameblo.jp/t1997/entry-11427933315.html

62号) 「国境の長期の解決方針を導いた考え方」〔1〕国境領土を考える注意点

https://ameblo.jp/t1997/entry-11553449279.html?frm=theme

63号) 「国境の長期の解決方針を導いた考え方」事実経過の認定・・詳細年表「南千島(国後島、択捉島)

https://ameblo.jp/t1997/entry-11567474428.html?frm=theme

64号) 「国境の長期の解決方針を導いた考え方」事実経過の認定・・詳細年表「竹島

https://ameblo.jp/t1997/entry-11572999043.html?frm=theme

65号) 「国境の長期の解決方針を導いた考え方」事実経過の認定・・詳細年表「尖閣諸島」前編

https://ameblo.jp/t1997/entry-11753460318.html?frm=theme

65号) 「国境の長期の解決方針を導いた考え方」事実経過の認定・・詳細年表「尖閣諸島」後編

https://ameblo.jp/t1997/entry-11753729772.html?frm=theme


●「ウクライナ南東部、クリミア半島と国後島、択捉島」
~南千島(国後島、択捉島等)については、(1)歴史的経緯〔1945年 2月ルーズベルトからスターリンあての書簡及び米英ソのヤルタ会談(米ソのヤルタ協定)で「樺太南部と千島列島をソ連が領有することを認める」としたことの変更〕、(2) 南千島を日本及び第三国が軍事利用しない保証(1945真珠湾攻撃の空母艦隊は択捉島から出港した)、(3)ロシア系住民の権益保護、が要点になる。
https://ameblo.jp/t1997/entry-11802971061.html

(2)引用者のWebサイト
(ア) 随想
「50年単位の国益」相互互恵の「開かれた国益」を目指すこと(イラク開戦の前)
   http://www.hi-ho.ne.jp/t1997/z-50nentanikokueki.htm
 8月15日を「平和を祈念する日」に
   http://www.hi-ho.ne.jp/t1997/z-815heiwakinen.htm
 映画「CASSHERN(キャシャーン)」渾身の力(思い)を込めた作品
   http://www.hi-ho.ne.jp/t1997/z-casshern.htm
 コソボ(旧ユーゴ)紛争ー民族主義、排外主義ー
   http://www.hi-ho.ne.jp/t1997/z-kosobofunsou.htm
(イ) 「究極の目標」http://www.hi-ho.ne.jp/t1997/m-kyuukyokunomokuhyou.htm
(ウ) 「米を食う虫、美しい明日」http://www.hi-ho.ne.jp/t1997/m-utukushiiasu.htm