▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
美しい明日「イズムと個人史」
2014年1号、通刊65号 2014年1月13日(日)
イズムは組織でなく個人のもの、政治は市民生活の不可欠な一部
▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
<目次>
■ ご挨拶 :
■ この国のかたち:
【1】「過渡的な民族国家で、国境を考える誤り」(60号)
【2】「国境の長期の解決方針」(61号)
    〔1〕歯舞群島、色丹島は、日本に帰属する、南千島(国後島、

択捉島)は面積二等分線で分割する
    〔2〕竹島と尖閣諸島は、各島の中央二等分線を国境にする
【3】「国境の長期の解決方針を導いた考え方」
    〔1〕国境領土を考える注意点(62号)
    〔2〕事実経過の認定・・詳細年表「南千島(国後島、択捉島)」

(63号) 「竹島」(64号)「尖閣諸島」(今回65号)
【参照文献】
「日本の国境問題ー尖閣・竹島・北方領土」(孫崎享、ちくま新書、

2011.5、@760)
「日本の領土問題ー北方四島・竹島・尖閣諸島」
 (東郷和彦、保阪正康、角川oneテーマ21、2012.2、@762)
<本文>
■ ご挨拶 :読者登録ありがとうございます。
 ナショナリズム、排外主義に陥りがちな国境領土について、歴史の来

し方行く末を見通して根源的な発想からどう解決するか、国際人権規

約の「内外人平等」の理念を引きながら【1】「過渡的な民族国家で、国

境を考える誤り」(60号)を書きました。
次に具体的な案として【2】「国境の長期の解決方針」(61号)を示しまし

た。これが私の結論です。
 以下は補足として、【3】「国境の長期の解決方針を導いた考え方」を

4回に分けて示します。〔1〕国境領土を考える注意点(62号)は、要点

を列挙しました。前々回
(63号)以降の〔2〕事実経過の認定は、各島の詳細年表を時系列で書

き出します。

 また62号の総括として、【北東アジアの領土交渉三原則】T(東郷本)

提唱・・・に賛同します。 T-p150-p151
(1)現状を変更しようとする国は力を用いない
(2)実効支配している国は話し合いに応じる
(3)両国が知恵を出して衝突に至らないメカニズムを考える

 世界をより良く変えられるか?それは鏡の中の貴方、私次第

(man in the mirror)
感想、情報提供など返信があれば歓迎します。

---------------------------------------------------------

■ はじめに :
 中国の党大会(2012年11月)で幹部が交代しました。「核心的利益」

という主張は党方針として継続したので、南シナ海を始め戦略的に

軍備増強を続けます。尖閣諸島の棚上げも止めたようで、実効支配

の機会を伺い続けるでしょう。軍事衝突も有り得るが、事態を混乱さ

せるだけで解決にはなりません。「核心的利益」とは「台湾、チベット、

新疆ウイグル」で、次に「南シナ海、尖閣諸島」。
 次に最近言い出した「中国の夢(The China Dream)」。中華民族の復

興だが、アヘン戦争(1840年)で英国に敗れ、日清戦争(1894年)で日本

に敗れ、諸外国に攻め込まれてきた屈辱的な歴史を乗り越えて、経済

大国になって国際的地位を高めることです。
更にアメリカと対等な大国になり世界を二分し、いずれ米国を超えて世

界で一番の強国になるということでしょう。これを「個人の夢、国家の

夢」とするそうなので、民族主義的な外交政策になります。
 これは国民統合を「共産党の指導、社会主義制度」から「共産党の

指導、中華思想」に置き換えるのかもしれません。他国に従属しない

に止まらず、他国を従属させたい衝動も見えます。清国以前は、

冊封(さくほう)と言う君臣関係的外交を近隣国に求めていました。

具体的には「臣下の礼を求め、見返りに貿易権益や国内統治の権威

を与える」中国を中心にする国際秩序=中華秩序ということです。
 以前、非同盟運動というのがあり、中国はオブザーバー参加してい

た。「米ソの東西冷戦下でいずれの陣営にも属さない、反植民地、民

族自決」であったが、今や中華秩序とは。

----------------------------------------------------------

■ この国のかたち:
【3】「国境の長期の解決方針を導いた考え方」
 〔2〕事実経過の認定・・詳細年表「尖閣諸島」(今回65号)

1392-1910年 李氏朝鮮〔1393-1637年、明の朝貢国、1637-1894年、

清の朝貢国、1864頃-1910年、清・欧米及び日本の影響力を受けた時

代、3区分〕1429-1879年 琉球王国〔中国と冊封関係〕
1534年 中国の古い文献で、冊封使の記述「赤尾嶼(釣魚群島)を過

ぎると、琉球に属する古米山(久米島)」 M-p63
〔引用者注:中国の主張だが、赤尾嶼は海上航路の目印のようなもの

で、この記述が中国領である根拠にはならない〕〔引用者注:また釣魚

島か、魚釣島(うおつりしま)かは、中国語と日本語では主語述語が逆

なので、意味はない(台湾では釣魚台列嶼、中国では釣魚島およびそ

の付属島嶼)〕
1556年 「倭寇討伐総督に任命して、「籌海図編」に「釣魚島など」を中

国福建省海防区域に入れている」 M-p64  
〔引用者注:中国の主張だが、倭寇に対する海防区域というのは「防衛

線をここに張る」ということで、イコール国境ではない。また「釣魚島な

ど」が何を指しているか?現在の沖縄の一部まで入れているなら、そ

れはまさに防衛線に過ぎない〕〔また倭寇は広範囲に進出していたよ

うだが、倭寇と国境線は絡まない〕
1562年 明朝の冊封使の記述「赤尾は琉球地方と界する山なり」

M-p63  
〔引用者注:中国の主張だが、赤尾は境界と言っているので、通常、

土地の境界石はどちらにも属さないので、この記述が中国領である

根拠にはならない〕
「国際法の発見を領土取得の根拠にすれば16世紀から中国の領土」

M-p63
〔引用者注:中国の主張だが、発見であれば、そこを航海する人は

中国人に限らず誰でも知っていた〕
(明の嘉慶年間)「日本一鑑」「釣魚島は小島(台湾)小嶼(付属する

島)なり」 M-p63〔引用者注:これは台湾に属するという認識を示して

いる。ただし地理的には、与那国島・西表島・石垣島の先島諸島も、

台湾に近いが、台湾領ではない〕
1592-1598年 文禄・慶長の役(日本の豊臣秀吉と明・李氏朝鮮

連合軍との戦争、朝鮮半島を経て明の征服「唐入り」を目指す、

秀吉の死で終了、西国大名が出兵で疲弊した一方で損耗を免れた

徳川家康が主導権を持つに至る、明が弱体化し女真(満州族)が

強大化する要因になる)
1600年頃 台湾は倭寇(13世紀~16世紀)の根拠地だった
1609年 薩摩藩島津氏が、当時琉球国の領土だった奄美大島に

進軍。次いで沖縄本島に上陸し、首里城は開城した。以後、琉球国

は薩摩藩の付庸・従属国になり、薩摩藩へ貢納、江戸幕府に使節

を派遣。その後、明朝滅亡後の清にも朝貢を続け、薩摩藩と清へ

両属という形をとりながら、独立国を保った。
1644年 明朝が滅亡し、満州族の清が進出
1662年 「反清復明」勢力が拠点確保のため、台湾から東インド会社

を駆逐
〔引用者注:尖閣諸島は地理的には台湾に近いが、その台湾を中国

系政権が支配したのはこれが初めて、かつ支配は本島の一部だけ

で、無人の島嶼には及んでいない。更に1874年宮古島島民遭難の

時点でも、清国政府は台湾先住民は「化外」で統治の及ばない領域

だと主張した。〕
1683年 清朝が台湾を制圧

1840-1842年 アヘン戦争(清英)〔英国は、茶、陶磁器、絹の貿易

赤字を埋めるためにアヘンを輸出した〕
1853年 米国海軍黒船が那覇に来航し、開港を求めた。薩摩藩は

この裁断を江戸幕府に仰ぎ、アヘン戦争の経過から強硬策が得策で

ないと考えた幕府は、琉球の開港を許可した。
1854年 日米和親条約(江戸幕府、下田、函館開港、蒸気船に燃料、

水、食料を補給)
1854年 琉米修好条約で那覇が開港。
1855年 江戸幕府とロシア帝国の日本国魯西亜国通好条約(=日魯

和親条約、日露通好条約、下田条約)
~(1)千島列島における、日本とロシアとの国境を択捉島と得撫島の

間とする(2)樺太においては国境を画定せず、これまでの慣習(両国

民の混住の地)のままとする
(3)ロシア船の補給のため箱館(函館)、下田、長崎の開港(条約港

の設定)
1856-1860年 アロー戦争(清英仏)〔第二次アヘン戦争、清を半植民

地化した〕

1858年 1月 廷臣八十八卿列参事件(日米修好通商条約に反対する

攘夷派の岩倉を含む公家が関白邸に押し掛け勅許を阻止した)
〔引用者注:後に1871年ー1873年岩倉使節団として米欧を回覧する

岩倉だが、この時は公家政治に特有の、世界の動向や彼我の力関係

を捉えていない観念的状況認識で行動している。〕
1858年 6月 日米修好通商条約(勅許のないまま江戸幕府の開国・

積極交易派が条約調印に踏み切った)
〔引用者注:武家政治は、戦国時代をくぐり抜け、力関係の現実認識

を基礎に方針決定する。施策は原理原則に拘らず、方便であり柔軟

でさえある。他方、力を蓄えるために殖産振興や軍備増強も視野に

入れる。〕
1858年 安政五カ国条約(日米・日英・日仏・日露・日蘭)
1858年 8月 戊午の密勅(孝明天皇が、将軍の臣下である水戸藩へ

直接勅書を下賜した、幕府が勅許なく日米修好通商条約に調印した

ことへの呵責、御三家及び諸藩は幕府に協力して公武合体の実を

成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよとの命令、上記2つの

内容を諸藩に廻達せよという副書)
〔引用者注:前記と同じく公家政治の観念的状況認識で、攘夷推進

を主張している。なお、天皇親政は実務能力を欠いているので、幕府

を通した委任統治で処理しようとしている。〕
1858年10月-1859年 安政の大獄(尊皇攘夷の条約反対派や将軍

継嗣の一橋派等100人以上を処罰、江戸城内での活動を制限された

一橋派が京都で政治運動を行い、朝廷の権威により失地回復を図

ろうとした)
〔引用者注:天皇の権威で独裁的権力を握るのは、「玉(天皇の勅命)

を取る」と言い、日本の歴史に繰り返す傾向がある。政権を支える民

力が弱いことが根本原因。〕
1860年 万延元年遣米使節(日米修好通商条約の批准書交換のた

め、米国蒸気船で渡航、護衛名目で江戸幕府の咸臨丸も渡航)
〔引用者注:江戸幕府は、鎖国中も長崎出島や使節、留学生派遣を

通して、外国の知識を継続的に仕入れている。1871年岩倉使節団

にも、旧幕臣が書記官等として参加して、明治新政府の政策を官僚

として遂行している。1873年明治六年の政変で、西郷と土佐、肥前

(佐賀)派が下野すると、旧幕臣勝海舟が海軍卿に就いて危機を乗

り越えている。〕
1860年 3月 桜田門外の変(水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士が彦根藩

の行列を襲撃して大老・井伊直弼を暗殺)
1860年 4月 幕府側:四老中連署書簡、皇妹和宮の将軍徳川家茂

への降嫁を希望(京都所司代経由関白)
〔引用者注:欧米列強の進出に、幕藩体制では対応ができないとい

う認識が拡がる中で、天皇の権威と幕府の実務能力を結び付ける

方策。〕
朝廷側:岩倉「和宮御降嫁に関する上申書」(内乱を避ける公武一

和、政治は朝廷が決定し幕府が執行する、条約破棄を決定)
〔引用者注:岩倉は公家政治家なので、天皇親政が原点にある。

また条約破棄は公家政治に特有の観念的状況認識。〕
1860年 6月 朝廷側:孝明天皇が条約破棄・攘夷を条件に降嫁を

認める
1860年 7月 幕府側:四老中連署書簡(7-10年以内に破約攘夷す

る)と約する
〔引用者注:幕府は破約攘夷が現実的選択肢とは考えていないが、

妥協、方便として、時間軸を入れることで、将来での解決を図って

いる。〕
1860年 清国が英仏と北京条約  〔欧米列強の進出→復権を求

める国民感情〕 M-p24
1861年 長州藩:長井雅楽(公武一和・開国論、後に藩内で尊攘激派

に排斥され、1863年切腹)「航海遠略策」を天皇に提出(朝廷主導の

公武合体、現実的開国・将来的攘夷)、長州藩が公武斡旋役になる

1861年-1865年 南北戦争:米国内戦、北部23州が南部11州の分離

独立を阻止した(北部:工業保護貿易・奴隷不要、南部農業自由貿

易・奴隷必要)(1865年12月憲法修正第13条奴隷制禁止、1868年7月

第14条司法裁判上の平等取扱、1870年2月第15条投票権制限禁止

ただし被選挙権は規定無し、また1964年7月公民権法まで個人の

人種差別は合法、人種分離は合法)(奴隷制廃止は英国領1833年、

仏領1848年、蘭領1863年、米国本土1865年)

【米国の人種差別】
1865年奴隷制禁止後も、1964年7月公民権法まで有色人種への差別

は合法だった
1883年最高裁判決「修正第14条は私人(個人・企業団体)による差別

には当てはまらない」
1896年最高裁判決「分離すれど平等」「公共施設での有色人種分離

は人種差別に当たらない」(交通機関、水飲み場、トイレ、学校、図書

館、公共機関、ホテル、レストラン、バー、スケート場、有色人種分離

は合法)
1917年第一次世界大戦、1941年第二次世界大戦、1950年朝鮮戦争

で「黒人部隊」編成
1963年キング牧師演説「I Have a Dream」、1964年7月公民権法、

1965年ベトナム戦争で初めて「黒人部隊」編成されず(1865年奴隷制

禁止から100年!!)、ポリティカル・コレクトネスによる反人種差別の

啓蒙(1980年代「用語における差別・偏見を取り除くために政治的な

観点から見て正しい用語を使う」)

1862年1月-1863年1月(約1年間:1862年5月-11月ロンドン万国博覧

会にも参加) 文久遣欧使節(江戸幕府が英仏蘭露、プロイセン、ポ

ルトガル1858年修好通商条約の新潟、兵庫開港、江戸、大坂開市延

期と、ロシアとの樺太国境画定のため、派遣した交渉使節38名、英国

海軍の蒸気船で渡航、英国等と5年延期覚書を調印)(幕臣福沢諭吉

も参加)
1862年 4月 朝廷側:幕府の書簡(10年以内に破約攘夷)を公表し、

実行しないときの親征攘夷を宣言 → 尊王攘夷派が佐幕派を排斥
〔引用者注:幕末から明治以降にかけて、天皇親政を目指す公家政

治家が明確に存在して、武家政治に影響を与えている。観念的状況

認識を基に、原理から直接方針決定するので、日本の歴史を迷走さ

せる原因になっている。〕
1862年 長州藩:一転して破約攘夷(通商条約破棄、対外戦争覚悟)

を藩論に採用
1862年 4月 薩摩藩:京都守護に入京(朝廷から勅使を出させること

で幕政の改革を推し進めようと)
1862年 5月 寺田屋事件1/2(薩摩藩・島津久光(公武合体・幕政

改革派)が、藩内の尊王攘夷派を鎮圧)(注:藩主の父、島津久光)
〔引用者注:薩摩藩主にとっては、明治維新も公武合体・幕政改革

の延長上にある。後1871年明治四年の廃藩置県に反対している。

藩主自身は欧米の政治経済についての知識が不足している。西郷

隆盛が明治新政府の中で、藩主との調整に当たるが、後に1877年

西南戦争で明治新政府との内戦に至る。〕
1862年 5月-11月 ロンドン万国博覧会(文久遣欧使節が開会式に

参加)
1862年 6月 文久の改革(勅使を江戸へ派遣、薩摩藩・島津久光が

随行、一橋家当主を将軍後見職に任命した)(その他大名の参勤交

代を隔年から3年ごとに、幕臣をオランダへ留学、西洋式兵制)
1862年 8月 朝廷側:公卿連名で「四奸二嬪」岩倉他を親幕派と弾


〔引用者注:天皇親政を目指す公家政治家の中では、下級公家出身

の岩倉は、現実から学ぶ姿勢があり、統治には武家政治の実務能

力が必要と判断した上で、朝廷主導の公武合体を考えている。1871

年の岩倉使節団による米欧回覧を経てもなお、天皇主権の明治憲

法を作る要因になる。〕
1862年 9月 生麦事件:現・横浜市鶴見区生麦付近で、薩摩藩主の

父・島津久光の行列に、制止を聞かず騎乗で乗り入れたイギリス人

を、供回りの藩士が抜刀して殺傷した(1名死亡、2名重傷)、薩摩藩

の意図を超えて朝廷内で攘夷一色になる、なおこの一行の中には

後の明治政府の大久保利通も居た)
〔引用者注:このイギリス人は教養が低く他国文化への礼を欠いて、

非白人に粗暴な振る舞いをする人物だと清国北京駐在イギリス公

使は報告している。〕
1862年-1883年、1895年-1900年、計25年間 英国公使館通訳、駐

日英国公使:アーネスト・サトウ日本滞在
〔引用者注:1866年週刊英字新聞『ジャパン・タイムズ』(横浜で行)

発行に論文を掲載。この記事が『英国策論』として翻訳出版される。

骨子は「将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の

条約はその将軍とだけ結ばれたものである。したがって現行条約の

ほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものであ

る。独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。現行

条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政

権を将軍から諸侯連合に移すべきである。」〕

1863年 2月 英仏蘭米4カ国艦隊が横浜に入港、幕府に圧力を加えた
1863年 4月 足利三代木像梟首事件(室町幕府将軍3代の木像の首

が賀茂川に晒された、倒幕を暗示)
1863年 6月 攘夷実行の日(孝明天皇が幕府に要望)
〔引用者注:歴史を振り返ると、天皇親政、公家政治、明治以降の政

府で天皇の権威による独裁的権力が、日本の歴史を迷走させる。

1863年下関事件、薩英戦争、1864年馬関戦争を経ても、アヘン戦争

後の半植民地化のようにならないのは、日本が武家政治だったこと

に加えて、欧米から見て貿易相手として比重が低かったこと、地理

的に遠いことも幸いだった。〕
1863年 下関事件(長州藩が馬関海峡を封鎖し、米仏蘭艦船を砲撃、

報復に米仏軍艦が長州軍艦を砲撃)
1863年 7月 朔平門外の変(破約攘夷派の公家が襲撃暗殺される)

(他方この頃、尊王攘夷派が「天誅」暗殺を頻発)
1863年 8月 英が薩摩藩船を拿捕、薩摩藩が英艦隊を砲撃、薩英戦

争(鹿児島市街焼失、英艦隊側も損傷)(和平後に、薩摩藩は英国か

ら武器を入手、軍備の充実に努める)
〔引用者注:武家政治は、力関係の現実認識を基礎に、施策は方便

なので、方針変更が早い。〕
1863年 9月 天皇の大和行幸の詔勅(神武天皇陵、春日大社で攘夷

親征の軍議をして伊勢神宮に行幸する)
〔引用者注:天皇親政を目指す公家政治家が、あきらめずに粘る。〕
1863年 9月 八月十八日の政変・文久の政変(会津藩・薩摩藩公武

合体派が、長州藩尊皇攘夷派、攘夷急進派公家を京都から追放)
〔引用者注:後に1866年3月、薩摩藩は幕政改革の展望が開けず、

倒幕に転じる⇒薩長同盟〕

【当時の攘夷論】
「破約攘夷論」(即刻破棄):幕府によらず天皇親征による攘夷、長州

藩(「航海遠略策」から変更)
「大攘夷論」(漸進的破棄):公武合体派、大政委任論、幕政改革、

親幕派公家、薩摩藩(島津久光)、(勝海舟)
孝明天皇:「破約攘夷」だが「大政委任」で、「天皇親征による攘夷」

ではなく「幕府を通した攘夷」(→幕政改革) → 天皇の勅命(「玉」)

を破約攘夷派・公武合体派が取り合う
〔解釈:現実的な状況認識を欠いた朝廷側の保身である即刻攘夷

(勅命)が、1858年-1864年の迷走を招いた、cf.李氏朝鮮、明治政府

は開国和親・条約改定〕

1863年 長州五傑、英国留学(伊藤博文も参加、長州藩・松下村塾

・尊王攘夷・留学後開国論に転じる・倒幕運動)
1863年 清朝の冊封使の記述「赤尾嶼と、古米山の間に海溝があり、

中外の境である」 M-p63
〔引用者注:地理的に海溝を境だという認識を示していて、それを是

とするなら、台湾側になる。ただし領有という意味では弱い〕

1864年 7月 池田屋事件:長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派を、

京都守護職配下の新選組が襲撃(攘夷派は多数が殺害捕縛される、

後の新政府により俗に「殉難七士」と呼ばれる)
1864年 8月 馬関戦争:馬関海峡封鎖で経済的損失を受けた英と

仏蘭米の艦船が馬関と彦島砲台を砲撃、占拠(英国留学から帰国

した伊藤博文が通訳として和平交渉)
(長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷を放棄、海外から新

知識・技術を導入)
〔引用者注:1863年下関事件、1864年馬関戦争、英国留学を経て

方針変更。攘夷を放棄、倒幕は継続。〕
1864年 8月 禁門の変・蛤御門(京都を追放されていた長州藩が、

京都市中で市街戦を繰り広げた、約3万戸が焼失)(禁門の変後、

長州藩は「朝敵」となり、第一次長州征討が行われる)

1865年-1883年、計18年間 駐日英国公使:ハリー・パークス日本滞


1865年11月 兵庫(神戸)開港要求事件:英仏蘭米4カ国艦隊が兵庫

沖に侵入して、1858年安政五カ国条約の勅許と兵庫の開港を迫った、

孝明天皇が京都に近い兵庫の開港に反対した、条約のみ勅許
〔引用者注:1858年1月、廷臣八十八卿列参事件から1865年11月、

兵庫(神戸)開港要求事件までの即刻攘夷(勅命)は、天皇、公家の

自己保身が動機で、日本の独立をどう維持するか?という武家政治

の動機とは違い、同床異夢。これは李氏朝鮮が勇ましく仏米を攻撃

した1866年、丙寅洋憂(朝仏)1867年、辛未洋憂(朝米)と類似してい

て、その国の歴史を迷走させる。〕

1866年 3月 薩摩藩、長州藩が薩長同盟(薩摩藩は長州藩を支援

する、京都を制圧していた「橋会桑」一橋派、会津藩、桑名藩と決戦

も想定)(薩摩藩も幕政改革の展望を開けなかったため)
1866年 3月-5月 週刊英字新聞『ジャパン・タイムズ』(横浜で発行)

英国公使館通訳アーネスト・サトウ匿名論文:『英国策論』
1.将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条約は

その将軍とだけ結ばれたものである。したがって現行条約のほとん

どの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。
2.独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。
3.現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本

の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。

1866年 丙寅洋憂(朝仏)李氏朝鮮が「鎖国と攘夷政策」でフランス

艦隊を退ける
1867年 辛未洋憂(朝米)李氏朝鮮が「鎖国と攘夷政策」でアメリカ

艦隊を退ける
1867年 パリ万国博覧会(江戸幕府、薩摩藩(日本薩摩琉球国太守

政府)、佐賀藩が出展)
1868年 明治元年(1867年大政奉還)〔1889年大日本帝国憲法公布

までの21年間は、政体書等による天皇親政で、実質は明治維新志

士と旧幕臣官僚による統治。〕
〔開国和親〕
1868年 御誓文(5箇条、明治政府の基本方針、「(1)広く会議を興し、

万機公論に決すべし」「(2)上下心を一にして、さかんに経綸を行うべ

し」「(3)官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心を

して倦まざらしめんことを要す」「(4)旧来の陋習を破り、天地の公道

に基づくべし」「(5)智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」)

政体書(太政官7官、議政官・行政官・神祇官・会計官・軍務官・外国

官・刑法官)
1868年 政体書による府県藩三治制(幕府直轄地のうち城代・京都所

司代・奉行の支配地を府、それ以外を県、大名領地を藩にした)また明

治政府への中央集権化のため、大名の領地・領民を天皇に返還させ

(1869年版籍奉還)、更に藩を廃止して県にして、旧藩主を東京に移住

させ、中央政府から県令を派遣した(1871年廃藩置県)。逆に琉球は、

薩摩藩から切り離して1872年琉球藩とし、8年遅れて1879年廃藩置

県。薩摩藩と清への両属を続けていたことが背景にある。
1868年-1869年 戊辰戦争:新政府軍による武力倒幕(1867年10月倒

幕及び会津桑名討伐の密勅、1868年1月鳥羽・伏見の戦い、1868年

7月上野戦争、1868年6月北越戦争、
1868年6月会津戦争、1868年10月箱館戦争)

1868年 朝鮮が日本からの書契を受取拒否(従来、宗主国清の皇帝

だけが使っていた「皇」「勅」の文字があったため)
〔朝鮮:1868年以来国交交渉をするが、李氏朝鮮は、清を宗主国とす

る冊封関係、事大朝貢体制を維持し、鎖国攘夷なので進まない 

→1876年 日朝修好条規、朝鮮が清の冊封から独立した国家主権を

持つ独立国であることを明記〕
1871年 9月 日清修好条規〔両国が欧米から押し付けられていた不

平等条約の内容を相互に認め合うという対等条約〕〔他方、李氏朝鮮

は鎖国攘夷、清と宗藩関係を維持→日本が朝鮮と国交交渉→1876

年に条約〕

1871年12月-1873年 9月〔岩倉使節団(約1年9月、岩倉具視、木戸

孝允(桂小五郎)、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳以下、使節46

名、随員18名、留学生43名)、(西洋文明の調査、旧幕府が結んだ

条約を明治政府に置き換える予備交渉)、アメリカ(8か月)、イギリス

(4か月)、フランス(2か月)、ベルギー、オランダ、ドイツ(3週間)、ロ

シア(2週間)、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア(ウ

ィーン万国博覧会視察)、スイス、計12カ国。帰途にヨーロッパ諸国

の植民地訪問(セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海等)。〕
〔引用者注:政府の主要メンバーが長期間政府を離れ外遊する異

例の旅だが、西洋文明と背景を見聞して、明治新政府の施策に影

響が大きい。旧幕臣が書記官として多数参加して後に官僚として政

策を遂行する。帰国後、久米邦武編著『米欧回覧実記』(1878年

明治11年、5冊組で全100巻)を発行して、西洋事情を伝えた。〕
1873年 明治六年政変〔政府首脳の半数と軍人、官僚約600人が職

を辞した〕
〔引用者注:岩倉使節団派遣で維新三傑(薩摩:大久保、西郷、長州

:木戸)のうち西郷が残り、留守組(土佐:板垣、後藤、肥前佐賀:

大隈、大木、江藤、副島)と12か条の約束(渡航組の不在中に大きな

改革はしない)をした。ところが留守組は急進改革派で「鬼の居ぬ間

に洗濯」と改革を進める。1872年土地売買解禁、郵便施行、新紙幣

発行、学制制定(国民皆教育、小学校・〔旧制〕中学校・大学)、鉄道

開通式(新橋ー横浜)、改暦(陰暦うるう年から太陽暦へ)、初代司法

卿(肥前佐賀出身、江藤新平:大蔵省及び地方庁での行政権・司法

権の分離、裁判所設置)、1873年徴兵令(侍から農民町民の兵役義

務へ)、正院改造(参議の構成変更〔薩摩、長州、土佐、前佐賀各1

名を、薩摩1、長州1、土佐2、肥前佐賀3とし、渡航組の長州木戸を

除くと西郷の他は土佐2、肥前佐賀3になった〕)、地租改正(地価税、

藩から国税へ)〕
〔引用者注:「参議の構成変更から政変へ」の背景は予算で何を重

視するかで、長州:井上、渋沢=大蔵省⇒兵部省陸軍省予算に対

して、肥前佐賀:大隈、大木、江藤=文部卿、司法卿⇒小学校、裁

判所設置で対立した。国の制度としては、官僚(大蔵省)、行政(正

院参議)、立法(議会無し)、司法が未分化で、権力が大蔵省=長

州に在ったのに対して、参議の構成変更=で予算の決定権限を参

議に移した。何故、未分化なのかというと天皇親政だから。〕

【当時の外交課題】
〔清国:1872年琉球藩が日清への両属を続けていたこと →1874年

 宮古島島民遭難で台湾出兵、国際的に琉球民は日本人と承認さ

れる形になった(後述)〕〔朝鮮:1868年以来国交交渉をするが、李氏

朝鮮は、清を宗主国とする冊封関係、事大朝貢体制を維持し、鎖国

攘夷なので進まない →1876年 日朝修好条規、朝鮮が清の冊封

から独立した国家主権を持つ独立国であることを明記〕
〔ロシア:樺太は国境を画定しない日露混住の地で、日本人、ロシア

人、アイヌ人の三者間の摩擦が増えた → 1875年樺太・千島交換

条約、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の

千島18島をロシアが日本に譲渡する(日本は国内問題に集中する

ため)〕
〔英国米国:小笠原諸島の帰属、1543年スペイン人が発見、1675年

江戸幕府が漂流民の報告を元に調査を行い「此島大日本之内也」

という碑を設置、19世紀から欧米捕鯨船が寄港、1827年英国が領有

を宣言、1830年米国人・ハワイ人が入植、1857年米国ペリーが寄港

してハワイからの移民を首長に任命、1862年幕府は咸臨丸で官吏を

派遣、居住者に日本領土であること、先住者を保護することを呼びか

け同意を得る、同年駐日本の各国代表に小笠原諸島の領有権を通

告、八丈島から入植 →1876年明治政府が小笠原諸島の日本統治

を各国に通告、日本の領有が確定、内務省出張所設置 →第二次

大戦後、米国の占領下、1968年日本に返還〕
〔琉球:琉球国が1609年以降、薩摩藩と清への両属 →(中略)1879

年琉球で廃藩置県〕
〔条約改定:江戸幕府が欧米各国と結んだ条約が1872年から改訂時期〕

1873年 大院君失脚(朝鮮国王の父、鎖国政策、王朝再建制度改革)

し、閔妃(高宗の正室、高宗の後継をめぐり大院君と対立、開国政策

・親日的→清国を頼る事大主義→親露政策→大院君及び開化派や

日本と対立的、情勢により立場が変遷-1895)

〔引用者注:欧米列強の進出に、朝鮮王朝は守旧で有効に対応でき

ない、観念的状況認識で風見鶏。これに対して、国の近代化を目指

す勢力、人士は居なかった。韓国はそういう自国の歴史を見直すこ

とが先決。他方、日本の天皇・公家も、自己保身から即刻攘夷を抽

象的に主張して国内改革を迷走させた。清国朝廷も近代化を妨げた。〕
【参考:幕末日本の内乱・・・天皇親政・攘夷を追求して、公家政治家が

武家政治と主導権を争う】
1858廷臣八十八卿列参事件、1858戊午の密勅、1858-1859安政の大

獄、1860桜田門外の変、1860岩倉「和宮御降嫁に関する上申書」、

1861長井雅楽「航海遠略策」、1862朝廷が幕府に破約攘夷を求め、

実行しないときの親征攘夷を宣言、1862長州藩が破約攘夷に転じる、

1862薩摩藩が入京し幕政改革を求める、1862寺田屋事件1/2薩摩

藩内の尊王攘夷派を鎮圧、1862文久の改革、勅使により将軍後見職

任命、1862朝廷側の公卿連名で「四奸二嬪」親幕派弾劾、1863攘夷

実行の日(天皇が幕府に要望)、1863下関事件、長州藩が米仏蘭艦

船を砲撃、1863朔平門外の変、破約攘夷派の公家暗殺、尊王攘夷派

が「天誅」暗殺、1863天皇の大和行幸詔勅(攘夷親征の軍議)、1863

八月十八日の政変・文久の政変(会津藩・薩摩藩公武合体派が、

長州藩尊皇攘夷派、攘夷急進派公家を京都から追放)、1864池田屋

事件、京都守護職配下の新選組が長州藩・土佐藩など尊王攘夷派

を襲撃、1864禁門の変・蛤御門(京都を追放されていた長州藩が、

京都市中で市街戦、1866薩摩藩は幕政改革の展望が開けず、倒幕

に転じる⇒薩長同盟(京都を制圧していた「橋会桑」一橋派、会津藩、

桑名藩と決戦も想定)、1868明治元年
【李氏朝鮮の攘夷戦争・・・1866年、丙寅洋憂(朝仏)李氏朝鮮が「鎖国

と攘夷政策」でフランス艦隊を退ける、1867年、辛未洋憂(朝米)李氏

朝鮮が「鎖国と攘夷政策」でアメリカ艦隊を退ける】
【清国朝廷の攘夷戦争・・・1900年、庚子事変(こうしじへん)・義和団の

乱、西洋に排外的襲撃をした義和団を、清朝が支持して西欧列強等

八か国に宣戦布告して公館を攻撃した。2か月で北京及び紫禁城を

制圧されて、清朝は年間歳入の5倍の賠償金を支払うことになる。】

1874年 台湾出兵(宮古島島民が台風で台湾南部に漂着したが、台

湾先住民に拉致殺害された。明治政府は清国に事件の賠償等を求

めたが、清国政府は台湾先住民は「化外」であり、統治の及ばぬ領

域での事件だと拒否した。軍事行動の準備中に西郷従道(弟)が出

兵を強行して事件発生地域を制圧した。清国が日本軍の出兵を保民

のためと認め、遭難民に対する見舞金と戦費賠償金を日本に支払い、

日本は撤退。国際的に琉球民は日本人と承認される形になった。な

おこの時期に明治政府での琉球の位置づけは、琉球藩1872-1879年。)
1875年 江華島事件(日本の軍艦が、朝鮮江華島付近で砲台から攻

撃を受けて反撃し一時占領した)
1875年(明治8年) 樺太・千島交換条約~(日露混住の地:日本人、

ロシア人、アイヌ人の三者間の摩擦が増えたことを契機)樺太での

日本の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の千島18島をロシア

が日本に譲渡する
〔朝鮮:1868年以来国交交渉をするが、李氏朝鮮は、清を宗主国と

する冊封関係、事大朝貢体制を維持し、鎖国攘夷なので進まない〕
1876年 日朝修好条規 〔朝鮮が清の冊封から独立した国家主権を

持つ独立国であることを明記、片務的領事裁判権や関税自主権の

喪失等の不平等条約的条項がある、朝鮮は開国して、その後似た

条約を西洋諸国と結ぶ(米、英、独、仏、露)〕〔1868年明治元年以来

の国交交渉→1875年軍艦派遣を伴う砲艦外交 cf.黒船来航〕
1879年 琉球で廃藩置県〔琉球国(1429年ー1879年、450年間)は、

最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島(八重山列島・宮古

列島)までを統治した →1609年 薩摩藩島津氏が、当時琉球国の

領土だった奄美大島に進軍。次いで沖縄本島に上陸し、首里城は

開城した。以後、琉球国は薩摩藩の付庸・従属国になり、薩摩藩へ

貢納、江戸幕府に使節を派遣。その後、明朝滅亡後の清にも朝貢

を続け、薩摩藩と清へ両属という形をとりながら、独立国を保った。

 →明治政府の地方組織の中央集権化では、大名領とは別に扱っ

た。即ち1871年廃藩置県では鹿児島県としたが、1872年には切り

離して琉球藩とし、次いで8年遅れて1879年廃藩置県した。日清

への両属を続けていたことが背景にある。清と冊封関係の終了〕
〔引用者注:孫崎本は、琉球国が清と冊封関係にあったと書いてい

るが、1609年以降、薩摩藩と清への両属を続けていたことには触れ

ていない M-p12〕
1879-1890年 日本と清朝が琉球の範囲について交渉(36島嶼で釣

魚島は入っていない) M-p69
〔引用者注:中国の主張だが、もともと日本の主張は「無主の地」で、

中国の主張は台湾の一部。ここが見解の相違の発端か・・・他方、

1662年に「反清復明」勢力が本島に入ったが、1874年宮古島島民

遭難でも、清国は「化外」と主張している。〕

1880年(明治13年)興亜会発足。アジアの興起、欧米との対等・

凌駕を志向する。非薩長藩閥出身の自由民権運動者や佐幕派と

連携。会の発会式に清国駐日公使代理も出席、支那語学校開設等。

前身に1877年振亜社、朝鮮開化派を支援するが、1884年甲申政変

が失敗すると対外強硬論に転じる。1900年に東亜同文会(1898年ー

1946年、現在の霞山会の前身)に吸収合併、清国の変法洋務派支援

と孫文の革命派支援の2潮流ある。
〔同床異夢:1871年-1873年岩倉使節団派遣で維新三傑(薩摩:大久

保、西郷、長州:木戸)のうち西郷が残り、留守組(土佐:板垣、後藤、

肥前佐賀:大隈、大木、江藤、副島)は急進改革派で「鬼の居ぬ間に

洗濯」と改革を進めたが、後に政府内政変で下野する。この結果、

専制君主を戴く「公家政治家・藩閥政府・軍部」対「政党政治」になる

が、米欧の弱肉強食と植民地化されるアジアを見て、米欧に伍する

という同床にありながら、アジア諸国に対して、吸収併合と開化派支援

という異夢を見る。後の大東亜共栄圏には同床異夢が混在している。

1919年の人種的差別撤廃提案は後者。cf.アジア主義、黒龍会(中国・

満州・ロシア国境を流れる黒龍江からの名称)〕
1881年 明治十四年の政変、国会開設運動で憲法制定論議が高ま

る。天皇親政、君主大権ビスマルク憲法、イギリス型議院内閣制憲

法などの選択肢の中で、政府内の意見聴取で、イギリス型議院内

閣制・早期の憲法公布・国会の2年後開設を主張した大隈重信を、

太政大臣・三条実美、右大臣・岩倉具視が、政府から追放した。三

条は尊皇攘夷急進派の公家政治家で1863年八月十八日の政変で

は京都を追われた(七卿落ち)天皇親政、岩倉は国会開設・憲法制

定に消極的、伊藤は漸進的に今は決めず上院設置のための華族制

度改革(華族に維新の功臣等)を提議した。

1882年5月 米朝修好条規 〔清国が斡旋して、米国と清国の条約案を

朝鮮が事後承諾、清が日本の朝鮮進出と属国消滅を警戒した、朝鮮

で鎖国政策終焉〕
1882年10月 中国朝鮮商民水陸貿易章程 〔朝鮮は清の属国で領事

裁判権を得る他〕
1882-1885年6月 清仏戦争〔ベトナム(阮朝)領有を目指すコーチシナ

戦争1858年-1862年以降のフランス進出→北ベトナムから中国南部

(清朝)を結ぶ陸路開拓→中国南部、国境地帯の軍閥・黒旗軍と対決

→阮朝は宗主国である清朝にも支援要請→1882年、清の遠征軍が

ベトナムに駐屯開始→1884年8月福建艦隊が敗北→中仏、天津条約
で講和(フランスが北ベトナム獲得と通商路確保)〕
1884年12月 朝鮮(閔氏一族)の事大政策

【事大主義(じだいしゅぎ)】
大に事(つか)えるという考えと行動を表す語。外交政策の1つでもあ

る。事大の語源は『孟子』の「以小事大」(小を以って大に事(つか)

える)である。孟子には越が呉に仕えた例が知恵として書かれてい

る。つまり「小国のしたたかな外交政策(知恵)」というのが本来の意

味であった。しかし後世になると大義名分論と結びついて、「小国で

ある自国はその分を弁えて、自国よりも大国の利益のために尽くす

べきである」といった「大国に媚びへつらう卑屈な政策」という否定的

なニュアンスを帯びるようになった。漢代以降、中国で儒教が国教化

されると華夷思想に基づく世界観が定着し、またその具現化として冊

封体制、周辺諸国にとっての事大朝貢体制が築かれることになる。
〔清は宗主国として、朝鮮は属国として、ともに冊封体制、事大朝貢

体制を維持しようとした。cf.1868書契受取拒否、1876日朝修好条規、

1882中国朝鮮商民水陸貿易章程〕

1884年 古賀辰四郎が探検(1885年貸与願い) M-p62
1884年 甲申事変、朝鮮開化派のクーデター。清が宗主国として

介入したので失敗。
1885年 清朝が台湾省を設置
〔引用者注:清朝の統治はようやく台湾本島までで、その先の無人島

に支配が及んでいないと考えられる〕
1885年以降現地調査のうえ、1895年1月、明治18年、無人島で、

清国他の支配が及んでいないので、沖縄県に編入した(外務省「尖閣

諸島に関するQ&A」)  
【「無主の地」先占の法理】 M-p62
1885年3月 福沢諭吉、脱亜論「この二国(中国・朝鮮)独立を維持する

道あらず、隣国の開明を待って共に亜細亜を起こす猶予あらず、その

伍を脱して西洋の文明国と進退を共にして、亜細亜東方の悪友を謝絶

する」 M-p216(支援していた朝鮮開化派による1884年、甲申事変が失

敗した失望感)(補足:1881年、慶應義塾に朝鮮留学生。壬午事変

1882年、後に漢諺(ハングル)混合文の新聞紙発行を人的に支援。)
 cf.1871年12月-1873年 9月、岩倉米欧使節団
1885年4月 天津条約(日清、双方とも軍事顧問の派遣中止、軍隊駐

留の禁止、止むを得ず朝鮮に派兵する場合の事前通告義務)
1885年12月  国標建設につき、清国との交渉が絡み、時宜に適わな

い(山県有朋内務卿) M-p68
1886年 長崎事件、清国の北洋艦隊が長崎港に入港したときに、水兵

が集団で上陸して、遊廓でのトラブルから市内で暴れまわり、鎮圧に

向かった警察官と水兵が抜刀して市街戦、双方とも80数人の死傷者を

出した。

1889年 大日本帝国憲法公布〔これ以前の21年間は、1868年、明治

元年御誓文、政体書等による天皇親政。実質は、公家政治家、明治

維新志士と旧幕臣官僚による統治。〕
【制定経過】1876年(明治9年)明治天皇が「元老院議長有栖川宮熾

仁親王へ国憲起草を命ずる勅語」。1880年(明治13年)元老院が「日

本国国憲按」を提出する。こ案は皇帝の国憲遵守の誓約や議会の

強い権限を定めるなどベルギー憲法(1831年)やプロイセン憲法

(1850年)の影響を強くうけていたため、公家政治家・岩倉具視らが

反対して、採択されるに至らなかった。1881年(明治14年)大隈が

イギリス型の議院内閣制の「憲法意見」を提出したが採用されない。

1882年(明治15年)参議・伊藤博文は政府の命でヨーロッパに渡り、

ドイツ系立憲主義の理論と実際について調査した。
【与えられた憲法】国民は憲法の内容が発表される前から憲法発布に

沸き立ち、至る所に奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列も催

された。当時の自由民権家や新聞各紙も大日本帝国憲法を高く評価

し、憲法発布を祝った。他方、福澤諭吉は「西洋諸国での国会の起源

は、政府と人民が相対して、人民の知力が増して君主の圧制を厭い、

抵抗する実力を持つに至り、政府が民心を得なければ内政外交が進

まないので、止むを得ず権力を分与したけれども、今の日本にそのよ

うな人民は居ない。」人民の精神の自立を伴わない憲法発布や政治

参加に不安を表明している。中江兆民は「我々に授けられた憲法が

果たしてどんなものか。玉か瓦か、その内容を見ないで、その名に

酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや。」
【君主を制約しない憲法】(1)裁判官は天皇が任命する、(2)貴族院は天

皇が任命する、衆議院は選挙だが天皇が解散できる、貴族院と衆議

院は対等、立法・予算に同意するが天皇が決定する、議会を経る立

法と別に命令による法規の制定をできる、(3)大臣は天皇が個別に任

命するので、天皇に対して責任がある、内閣総理大臣という規定が

無く各大臣に対する指揮監督権や任免権も無い、(4)陸海軍は内閣

に属さず、天皇が直轄する、(5)国民の権利は天皇が恩恵的に与え

るもので、法律で制限できる、(6)皇室は憲法の外にある、天皇を宮

中で補佐する内大臣が内閣総理大臣の選定に関わることがあった、

(7)外見的には立憲主義だが、条文は専制君主、(8)専制君主制であ

りながら、解釈改憲的に立憲主義の運用をして、天皇が能動的に統

治行為を行わないと、天皇に直結する権力が分立して、意思決定中

枢を欠く
【天皇親政】(1)幕末に尊王攘夷、幕政改革・公武合体から倒幕になっ

た、(2)新政府では幕府と天皇の並立の再現を避けるが、新政府と天

皇自体が並立であるのを、憲法条文で君主主権・専制君主制にした

にも拘らず、解釈改憲的に立憲主義の運用をしようとしたことは、運

用する人によって君主主権・専制君主制と立憲主義の間を揺れ動い

て、法治ではなく人治になってしまった、(3)他方、公家政治家・岩倉

らは一貫して天皇親政を求めた、(4)侍補は、明治天皇の君徳の培

養・補佐指導を目的に、1877年(明治10年)ー1879年宮内省内に置

いた役職。しかるに侍補は天皇親政の実現と、その補佐機関になる

ことを目指した。政府を立憲主義的に運用しようとする藩閥政治家と

綱引きになった、(5)結局、制定した憲法条文は君主主権・専制君主

制になった、(6)君主主権・専制君主制を、解釈改憲的に立憲主義の

運用を求める学説である天皇機関説(法人国家に統治権がある)は、

1935年(昭和10年)に貴族院議員・陸軍中将の批判を受けた。

(美しい明日「イズムと個人史」通刊65号後編、 2014年1月13日)へ続く


(1)メールマガジン・バックナンバー

60号) 「過渡的な民族国家で、国境を考える誤り」

https://ameblo.jp/t1997/entry-11385605315.html?frm=theme

61号) 「国境の長期の解決方針」

https://ameblo.jp/t1997/entry-11427933315.html

62号) 「国境の長期の解決方針を導いた考え方」〔1〕国境領土を考える注意点

https://ameblo.jp/t1997/entry-11553449279.html?frm=theme

63号) 「国境の長期の解決方針を導いた考え方」事実経過の認定・・詳細年表「南千島(国後島、択捉島)

https://ameblo.jp/t1997/entry-11567474428.html?frm=theme

64号) 「国境の長期の解決方針を導いた考え方」事実経過の認定・・詳細年表「竹島

https://ameblo.jp/t1997/entry-11572999043.html?frm=theme

65号) 「国境の長期の解決方針を導いた考え方」事実経過の認定・・詳細年表「尖閣諸島」前編

https://ameblo.jp/t1997/entry-11753460318.html?frm=theme

65号) 「国境の長期の解決方針を導いた考え方」事実経過の認定・・詳細年表「尖閣諸島」後編

https://ameblo.jp/t1997/entry-11753729772.html?frm=theme


●「ウクライナ南東部、クリミア半島と国後島、択捉島」
~南千島(国後島、択捉島等)については、(1)歴史的経緯〔1945年 2月ルーズベルトからスターリンあての書簡及び米英ソのヤルタ会談(米ソのヤルタ協定)で「樺太南部と千島列島をソ連が領有することを認める」としたことの変更〕、(2) 南千島を日本及び第三国が軍事利用しない保証(1945真珠湾攻撃の空母艦隊は択捉島から出港した)、(3)ロシア系住民の権益保護、が要点になる。
https://ameblo.jp/t1997/entry-11802971061.html