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建物と街の探訪

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1998年に破綻した旧長銀の本店ビルは変な感じ


 日比谷公園から撮影した、かつての日本長期信用銀行の本店ビル(現在は新生銀行)。

 この建物を見るたびに、正面玄関の上方の突き出た部分のバランスの悪さが気になる。

 どういう思いで、こういうデザインを採用したのか不思議だ。

 このブロックには、マスコミ関係のビルが並んでおり(その昔はNHKもあった)、金融機関は余り見当たらない。

 ここに長銀が本店ビルを構えた経緯は、どういうものだったのだろう。




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大建築家・辰野金吾もビックリ、超高層ビルに見下ろされる日本銀行


 東京駅も設計した明治の建築家・辰野金吾 東京帝大教授の代表的な建築物である日本銀行も、三井がすぐ近くに超高層ビルを建てたものだから、こういう風景が現れた。

 日本銀行が建設された頃には、新橋駅と上野駅の間に鉄道はなく、したがって東京駅や神田駅も存在しなかったので、ここには余裕の空間が広がり、日銀はハード的にも日本橋のひとつの象徴だったと思われる。

 伝統的建物と高層ビルのコントラストの妙は続く。



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財務省が高層合同庁舎に転居したら……


 財務省の横、文部科学省の裏に、高層の合同庁舎ビルが建った。

 このビルの向こうには、我が国最初の高層ビル・三井の霞が関ビルが構える。

 財務省(かつての大蔵省)が、戦前から続く、この軍艦のような建物から、今様の機能的な高層合同庁舎ビルに転居したら、「この国のかたち」の変化の象徴的なひとつの出来事としてマスメディアの話題になるのだろう。



 ※写真をWクリックすると、大きく迫力がでます。



  



 

東インド会社の人集め    ~古今東西、借金は怖い~

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(東京・汐留に再現された旧新橋停車場駅舎/高層ビルの谷間にあって風情には欠けると感じる)

(なお、本文とは関係ありません)



東インド会社の人集めは大変で、「あこぎ」なこともしたそうだ


 旅行 travel は trouble 苦労 と語源を一にしているそうだが、現代と違って長距離を移動することは、かつて大変なことだった

 ましてや、欧州からアフリカ最南端を経由してアジアに来るのは、生命を賭けた大仕事だった。


 東インド会社について書かれた本によると、積極的に交易に携わる人だけでは航海等に人手が不足するので、港の歓楽街で酒や賭博で借金を作らせて証書をとり、ほとんど監禁状態で船に乗り込ませて、アジアに送り込んだこともあったそうだ。


 今の日本にも、不自然な養子縁組による「ネーム・ロングリング」などは、借金が主な原因と聞くし、「変な新興宗教」に、いまだ人が集まる一因は多重債務という説もある。


 何百年も前に西欧からアジアに来た人の中にも、借金で首が回らないため仕方なく来た人がかなりいたようで、古今東西、借金は怖いものだと痛感した。

 長崎の出島や、開港時の横浜にいた欧米人は、それぞれ具体的には、どのような人々だったのだろうか。






東京都心の廃駅跡にて   ~旧万世橋駅跡~

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旧万世橋駅跡


 万世橋駅は、明治45年(1912年)4月に中央線の終着駅としてオープン、その後、中央線は延伸し、大正3年(1914年)12月に中央ステーションとして東京駅がオープンしたため、万世駅の役割は大きく減少した。

 そして、昭和18年(1943年)事実上廃駅となった。

 しかし、万世橋駅の跡は半世紀以上経過した今も残っている。


 写真(上)は、総武線・御茶ノ水駅~秋葉原駅間の車中から見た駅跡

 (下)は、神田川から見た駅跡 (Wクリックすると大きくなります)



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都心の廃駅跡だから、余計に哀愁


 旧万世橋駅界隈は、大正時代には東京有数の繁華街(神田須田町など)だったそうで、万世橋駅前には、開設時の時代を反映して、広瀬中佐(「坂の上の雲」でもお馴染み)と杉野兵曹長の像が建てられていたそうです。


 関東大震災では大変な被害にあい、この界隈にオオカミが出没したということを書いてある本もありました。

 また、後藤新平の帝都復興計画の大きな舞台でもあります。

 ところが、不思議なくらい当時の写真が残っていないのは残念です。


 東京の都心、今は秋葉原の喧噪が聞こえてくるような場所に、このような廃駅跡が残っており、雑草が生い茂っているのをみると、私には哀愁が漂う感じがします。

 もっとも、ブラタモリでタモリ氏は、そのような哀感はさらさら感じていないようでした。


 大河ドラマなどは人物を中心に展開していますが、都市や街をテーマにしたものがあっても面白いと思います。

 もっとも、原作者には相当の力量が求められるものと考えられます。