本当に驚きました。

夢が現実になった感じですね。


10年前に発掘していた奈良時代の木簡に赤外線をあてて見たら、和歌が2首墨書されていてそのひとつは万葉集の歌だった・・・


ピンときにくいかも知れませんがこれは日本古代史上世紀の大発見なんです。

例えるなら、これまで化石のみで恐竜を研究していた動物学者が冷凍状態の恐竜の死体を発見したというくらい凄い話しな訳です。




木簡とは紙がほとんどない時代にそのかわりとして連絡文書や記録、荷札などに用いられた木を薄く削ったものです。


墨書されていた万葉集の歌とは


安積香山影副所見山井之淺心乎吾念莫國

「安積香山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」


「安積山の影までも見えるほど澄みきった山の泉ほど浅い心でわたしはあなたを思っているわけではありません」


橘諸兄がまだ賜姓降下する前、葛城王のころ陸奥国に派遣されましたが、宴会の規模や内容が気に入らない彼は「俺を誰やと思とるねん。俺は葛城王やねんぞ」と拗ねてしまいます。

その時、采女を務めていた女性が左の手に盃、右手に水をとって彼の膝を叩き、この歌を詠んだところ、王の不満も和らいでその後は長く酒宴を楽しんだということです。


橘諸兄といえば敏達天皇5世の孫にあたり、県犬養三千代を母に、あの光明皇后は妹にあたる位の人物です。

橘性のルーツともいえる人でしょう。



木簡にあったもう一つの歌は

「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」


「難波津に梅の花が咲いています。冬ごもりの後、ようやく春が来たと言わんばかりに梅の花が咲いています」


とても有名な歌です。

紀貫之は「古今和歌集」でこの2首を「歌の父母(ちちはは)」と紹介しています。

歌を習うならこの2首をお手本にせよ、という意味です。

木簡にはその2首が揃って墨書されたいたのですから更に驚きです。


ある歴史学者で大学教授が「生きていて良かった!」と言った気持ちがよくわかります。







以下ニュース記事引用

木簡に万葉集の歌

滋賀・紫香楽宮跡 歌集成立解明の手がかりに

5月23日8時2分配信 産経新聞


奈良時代に聖武天皇が造営した滋賀県甲賀市信楽町宮町の紫香楽宮(しがらきのみや)(742~745)跡から平成9年に出土した木簡の両面に、それぞれ和歌が墨書され、うち1首が最古の歌集「万葉集」の歌だったことが分かり、同市教育委員会が22日、発表した。木簡に記された万葉歌が見つかったのは初めて。木簡は万葉集成立以前に書かれたもので、歌集成立の過程などを探る画期的な発見として注目を集めそうだ。
 木簡に記されていたのは、「万葉集」巻16に収録されている「安積香山(あさかやま) 影さへ見ゆる山の井の 浅き心を我が思はなくに」。併せて記されていたのが、「難波津(なにわづ)の歌」として知られる「難波津に 咲くや木の花冬こもり 今を春べと咲くや木の花」で、いずれも漢字を仮名的に用いた万葉仮名で書かれている。
 2つの断片に分かれ、幅はいずれも2・2センチ、長さは14センチと7・9センチ。文字の大きさなどから、もともとは幅3センチ、長さ約60センチと推定できる。厚さは約1ミリ。「安積香山の歌」は7文字が、「難波津の歌」は13文字が残っていた。同市教委は、儀式や宴会で歌を詠むときに使われたとみている。
 2首は10世紀初頭、紀貫之らが編纂(へんさん)した「古今和歌集」の「仮名序」で「歌の父母(ちちはは)」と紹介されているポピュラーな歌。「源氏物語」などでも手習いの歌としてセットで登場する。今回の発見で、このセットの関係が『古今和歌集』を150年さかのぼることになり、これまで謎だった2つの歌の結びつきについても議論が高まりそうだ。

 木簡が出土したのは、宮殿などの遺構が確認されている紫香楽宮中枢部の西側の脇を流れる基幹排水路跡。同じ個所から出土した年号のある木簡13点から、天平15(743)年秋から745年春にかけて捨てられたと推定できるという。

 現地説明会の代わりに、25日午後1時から、甲賀市信楽町長野の信楽中央公民館で、「万葉歌木簡記念講演会」が開かれる。



万葉歌木簡の発見で「こりゃ、えらいこっちゃ」

05/23 07:02更新


「『阿佐可(あさか)』はすぐに読めた。瞬間的に万葉歌だと直感、ドキッとした。あの古今集のセット関係や、こりゃ、えらいこっちゃと…」

 大阪市立大 大学院の栄原(さかえはら)永遠男(とわお)教授(日本古代史)は、その瞬間の興奮を今も忘れない。
 木簡学会会長である栄原教授は昨年12月1日、それまで習書や落書きと考えられていた木簡のなかには歌会で使われたものもあるとして、「歌木簡」という新しいジャンルを提唱した。紫香楽宮跡調査委員でもある栄原教授が、同遺跡から出土した木簡の再チェックを開始したのは、その直後だった。
 運命の瞬間が訪れたのは、1週間あまり後の12月10日。「難波津の歌」が書かれた木簡の形状を詳しく調べようと、裏返したときだった。念のため、赤外線でも見たが、間違いない。
 しかし読めたのは一部で、まだ万葉歌と断定できなかった。そこで奈良文化財研究所が持つ、より性能が高い機械で解読、その結果、残りの4文字が判明した。そして、国文学者を交えた検討会議のなかで、「安積香山の歌」で間違いないとする見解に至った。
 栄原教授の定義に該当する「歌木簡」はこれまでに14点が出土。うち「難波津の歌」は9点ある。「歌の人気もあるが、調査者が難波津の歌の発見例を知っていたからこそ、これだけの数が見つかった。同じように今回の発見が、万葉歌木簡の次なる発見につながってほしい」


ニュース記事引用以上





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試合中、練習中、監督コーチから外野手に対してよく聞く怒鳴り声です。


外野手がハーフライナーや自分より前のフライを思い切り良くダッシュできず、ボールがワンバウンドで頭の上を超えていくというパターンが多いですね。

高く上がったフライだとまだ何とか足が動くのですが、ライナーだと身体が固まってしまって足が動かない・・・


でも、私はあまり「つっこまんかい!」とは言いません。


実は私も子供のころにこれで悩んでいた時期があります。

外野を守っていてライナー性の当たりがくると一瞬体が動かない、前へ行くべきか後ろへ下がらなければならないのか、その判断ができないわけです。

あーーー!と思っているうちに打球は自分の前に落ちてワンバウンドで頭を超えていきホームラン。

今は子供たちに偉そうにああだこうだと指導している私も、昔は皆と同じようにへっぽこ外野手だったわけです(笑)。


指導者からつっこめつっこめと言われ続けた私は逆に何でもかんでも前に突っ込んでしまうクセがついてしまったりして中々上手くいきませんでした。

なんとか捕れるようになりたかった私は西宮球場、またあるときは西京極球場までプロの試合を見に行ってレフト席の最前列でプロ選手の動きを観察しました。

バッターがレフトへ打つたびに「前!」「後ろ!」「定位置!」とできるだけ早く声に出して判断の練習です。


このときにわかったことですが、プロの外野手はピッチャーの投げたボールがバットに当たってから約30cmくらいですでにスタートを切っているんです。凄いと思いました。

でも小学生にそんなことが真似できるわけはありません。

私は苦肉の策で、ライナーが飛んできたときは指導者の教えとは逆に後ろへ下がることにしました。

すべてワンバウンドで処理することにしたわけです。

アウトにはできませんがホームランなどの長打は防げます。

ですから練習でも後ろへ下がりました。

でもそれがよかったのか弾道がよく見え、その練習を繰り返しているうちに前のライナーもすぐに捕れるようになりました。


面白いもので出来なかったことが出来るようになると、その後の上達は凄く早いです。

「塀際の魔術師」と呼ばれた元巨人の高田選手(現ヤクルト監督・浪商)の真似をして、外野オーバーの大飛球を真後ろ向きに追っていき落下点でくるりと振り返って捕球する技術もマスターしました。

これができてから守備範囲は相当広くなりました。

後ろの打球が処理できますから守備位置はその分前へ出れます。

レフトゴロアウトなんてしょっちゅうでしたし、7-4-3のダブルプレーも何回もありました。


ライナーも捕れなかった子供がたった一つの技術を習得することによって、その後の上達は飛躍的に伸びるものですね。

当時私は小学校4年生。

今のロジャースJrの皆さんと同じです。





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18日に行なわれたシニアBの公式戦。


先攻ロジャース1回の攻撃。

結局3点を先制しましたがこの回の走塁はみんな実に見事なものでした。

「走塁で奪った3点」といえるでしょう。


中には2塁から3盗する選手もいました。

普段は決まったコーチがベンチに入るので、試合のときは私はいつも部外者なのですが、この時は総監督のご好意でベンチ入りしていましたので、この日指揮を取っていた総監督に今のはサインなのか確認したところ、ノーサイン。

「あいつ・・・」と私がつぶやくと

総監督は「いい、いい」。

本当は、私が「あいつ・・・」と言った意味は「隙を突いてよく走った」ということでした(笑)。






この試合で私が今後の為ひとつ挙げておきたいことがあります。


こういう場面がありました。

確か3回でしたでしょうか、試合はシーソーゲームで緊迫しています。

ロジャースシニアBの攻撃で走者2塁。

相手投手は1点もやりたくないので執拗に牽制球を2塁へ投げます。

でも主導権は完全にランナー。

相手投手はあっぷあっぷです。


「牽制はされるものでなく、させるもの」


牽制されるんじゃないかと思うから思い切ったリードも取れないし、スタートも遅れてしまう。それなら逆に相手投手に牽制させろ。されるんじゃなくて自分からさせるんだからビクつく必要もないしアウトになんかなるわけがない。


前日にそう指導し練習したばかりでしたが見事に練習の成果を発揮していました。


しかし、

あまりに何回も牽制するので相手投手はチーフアンパイアから、アウトの取れる見込みのない牽制はこれ以上しないようにと注意を受けました。


ではこの後の投球で攻撃側はどう動くべきでしょうか。


バッターのカウントが2ストライクでない限り、無条件で3盗です。

投手は注意を受けたわけですからまず牽制はしてきませんから、大きめのリードがとれ、簡単にモーションが盗めるわけです。

審判からプレゼントされた盗塁ですね(笑)。

2アウトの場合でも無条件でGOです。







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今日、シニアBチーム、某大会の最終戦がありました。

悲しくも悔しくも最下位決定戦となったこの試合。

結果は惜敗、というか勝ちゲームを落してしまった試合でした。


6年生主体の大会での4年生主体の我がチームではありました。

が、あえてそのハンデは度外視します。


今日の勝敗の分かれ目はほんの少しの些細なこと。

実力差はありません。

学年の違いでの劣勢も感じませんでした。

とはいうものの、その「ほんの少しの些細なこと」が逆に実力差だということもできるでしょう。


個々には素晴らしいプレーや大きなレベルアップも垣間見られました。

にもかかわらずの敗戦です。

結論を言うと絶対に勝たないといけない試合だったんです。

こういう展開の試合を落とすということは新たな大きな課題が現れたことになります。

「ほんの少しで些細」な「大きな課題」です。


古い話ではありますが、40年ほど前に続いた巨人9連覇の大黄金時代・・・

毎年大差のゲーム差で優勝していたと思っている方も多いでしょうが、殆どがゲーム差2とか3の僅差での優勝だったと記憶しています。

年間百数十試合で、2位のチームよりたった2勝か3勝の勝ち数が多いだけだったわけです。

しかし、その「ほんの少しで些細」な差が大きな実力差でした。

今日の試合も、話しを一試合に集約すればある意味同じことが言えると思います。


些細な弱点を克服するにはより細かな技術の反復練習するしかありません。

まず頭で覚えて、身体で覚える。

レベルアップの条件です。





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あるサイトでの某野球コンディショニングトレーナーの指導論です。




以下引用


■子供はダイヤモンドの原石


(略)子供の場合は年齢が低ければ低いほど、自らが考えて行動するということは少なく、外的要因に左右されることが多くなりますので、チームをサポートする関係者やコーチングスタッフの与える影響がことさら大きくなるのです。

チームをサポートする関係者と言っても、少年野球の場合はそのほとんどがコーチングスタッフの運営するチームでしょうから、選手のメンタリティを左右する要因のほとんどが指導者にあると言っても過言ではありません。

だからこそ責任は重大ですし、その後の子供たちの野球人生にも少なからず影響力を持つということを忘れてはならないのです。

私のような立場の人間があまり偉そうなことは言えないのですが、子供はダイヤモンドの原石であり、それを磨いて輝かせるのも、ただの石ころで終わらせるのも、指導者次第だということは、異口同音誰もが思うことでしょう。


■勝利至上主義は罪か?


これはよく取り沙汰される問題ですが、勝負事ゆえ完全否定はできません。

しかし、勝つことの目的が指導者の私利私欲のためなら、決して正しいこととは言えないでしょう。

勝利は選手たちのためにあり、勝つための苦しみや勝ったときの喜び、負けたときの悔しさを選手全員で分かち合うことこそ、野球に限らずスポーツ共通の醍醐味だと考えます。

勝つことによって、選手がいろいろな面で成長しなければまったく意味がありません。

前回も書きましたが、"立派な人間になるため"の一手段として、スポーツは存在するのです。

強ければそれでよいのか?

勝つためには何をやってもよいのか?

指導者の体罰や選手の暴行事件が報道されるたびに、とても悲しい気持ちになります。

勝利至上主義は、その目的によって、良くもなり悪くもなるのです。


■100%平等は無理?


この問題も非常にデリケートです。

野球が勝負事である以上、勝って強くなることが共通の目標であることは前段でも触れた通りです。

当然、ベンチ登録できる選手の数に限りがある以上、試合に出られる選手と出られない選手に分けられ、部員数が多くなるほど後者が増えます。

指導者としては、できるだけ平等にすべての選手を試合に出してあげたいと思うのが人情ですが、現実問題としてそれは不可能です。

レギュラーメンバーとの実力差を思い知って、辞めたいと言い出す選手も出て来るでしょうし、当落線上すれすれにいる選手は繰り返し辛酸をなめることになるでしょうし、大事な試合になればなるほど、指導者は苦渋の選択を強いられることになります。

重要なのはそのあとのフォローです。

練習をまじめにやらない選手や、実力差がはっきりしている選手は致し方ありませんが、もうあと一歩の選手にはできる範囲内でメンバーから外れた理由を客観的に説明してあげましょう。

100%納得させることは難しくても、それをやるのとやらないのでは大きな違いです。

冷徹さと優しさがバランスよく同居していることが、良い指導者の条件でもあるのです。


■根性論、大いに結構


スポーツに医科学的なことがあれこれ導入されるようになり、いにしえの根性論はますます肩身の狭いところに追いやられつつあります。

よく、質より量とか、量より質とかいう比較をしますが、質の高い練習をたくさんおこなえるのなら、それに越したことはないはずです。

根性論をただやみくもに否定してしまったら、大半の選手は間違いなく練習をしなくなります(特に日本人は)。

そうなれば当然、競技力も落ちるに決まっています。

天才と呼ばれている超一流選手は、人一倍血のにじむような努力をしたからこそそう呼ばれるに至ったわけで、生まれ持ったセンスだけではたかが知れています。

要は、半ば体罰のような無茶苦茶な練習はいけないということです。

故障者を罪人扱いするのもどうかと思います。

指導者の方には、その辺を履き違えないで頂きたいのです。

目的が明確で、理に叶った方法論であれば、どんどんやらせるべきではないでしょうか。

そして、意識から無意識へ。

からだに覚え込ませるためには、まず頭で理解し、何回も何回も反復練習をしなければダメなのです。

もちろんそれは、選手の体力や技能に応じて加減しなければなりません。

「これだけ良い練習をたくさんしたのだから…」

という自信が、選手のメンタリティを向上させます。

"火事場の馬鹿力"は、根性がなければ出ないのですから。


■家庭でのしつけも大事


今、高校球児と接していて思うのですが、悲しいかな、昔に比べて自然体であいさつや会話のできる選手が少なくなってしまったように感じます。

表情にも起伏がなく、何を考えているのかが読み取れない、指導をしていてもわかっているんだか、わかっていないんだかがわからない、ということがとても多くなりました。

果たしてこれは何が原因なのでしょうか?

当然野球部内においては、礼儀作法などには厳しいので、"作られたあいさつ"はみんなするのですが、なんとなくそれに違和感を覚えるのは私だけでしょうか?

なぜもっと自然にあいさつや会話ができないのかが、不思議でなりません。

それに、我慢強い子や根気のある子も少なくなってきたように思います。

練習がきついとすぐに弱音を吐く、できないとすぐに諦めてしまう、そういう子供が増えてきていますよね。

時の流れと共に、野球の道具は高級化し、バットやグローブなどは(特に硬式の場合)お小遣いではとても買えない代物になってしまいました。

当然、ある程度裕福な家庭でなければ野球はできず、ずいぶんと贅沢なスポーツになってしまったなぁと思うのです。

お金を出せば何でも手に入る時代に、ただ買い与えているだけでは、スポーツに必要なハングリーさやストイックさは生まれて来ません。

そして、それが当たり前の状況になってしまえば、感謝の気持ちだって薄れるに決まっています。

こういうことを書いていると、私もすっかり古臭い人間になってしまったなぁとつくづく思うのですが、そういう時代だからこそ、家庭でのしつけも大事なのではないでしょうか。

何と言っても、"子供は親の鑑(かがみ)"ですからね(自戒の念も込めて)。

"おぼっちゃま野球"に明日はありません。


■野球は何のためにやるのか?


子供のメンタリティを左右する要因…。

それは現場の指導者や選手の親御さんにあるのだということを強調してきましたが、最終的には子供たちが野球を通して何を学ぶかが最も重要だと思うのです。

これについては野球に限らず、他のスポーツでも同じことが言えます。

これは私が中学生の頃のエピソードなのですが、野球部の顧問の一人が教頭先生で、ある時こんな質問を私たち部員に投げかけました。

 「君たちは何のために野球をやっているのか?」

その時は、先生の質問の意図がよくわからず、私も含め部員は一様に、

「集中力をつけたいから」とか、

「野球がうまくなりたいから」とか、

目先のことばかりを答えました。

しかし、それを受けて先生はこう言ったのです。

 「みんなの言うことはわかるけれど、みんなが野球をやっているのは、立派な人間になるためなんだよ」

その話を聞いた時は、部員はみんなキョトンとしていましたが、私は年齢を重ねるごとに、その話がボディブローのようにジワジワと効いてきており、今はまさにその通りだなぁと痛感するのです。

野球でプロまで行けるのはほんの一握り。

であれば、練習や試合を通じてただ野球の技術だけを学んだのでは意味がなく、野球をやる以前に人としてどうすべきかを学ばなければなりません。

野球には9つのポジションがあり、代打や代走、守備要員、さらにはベンチワークという役割もあります。そこから、自己犠牲やバックアップ、人への思いやりなどを体得するのです。

ですから、指導者や親御さんには、ぜひともそういった話も子供たちにしてあげてほしいのです。

今はよくわからなくても、いつか必ずわかる日が来ます。

それが野球というチームスポーツの大きな付加価値だと思います。

「野球をやっていて本当によかった」

と、いくつになっても思えるような、そんな環境を作ることも、コンディショニングの一要素なのではないでしょうか。(略)


引用以上





別にこの論に100%同意というわけではありませんが、特に否定すべき箇所も見当たりません。子供にとって将来を含めた「野球をやる、あるひはやったその幸福」とは、指導者や親がスカタンのままでは不幸にもそれを得ることはできないということなのでしょう。






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