あるサイトでの某野球コンディショニングトレーナーの指導論です。




以下引用


■子供はダイヤモンドの原石


(略)子供の場合は年齢が低ければ低いほど、自らが考えて行動するということは少なく、外的要因に左右されることが多くなりますので、チームをサポートする関係者やコーチングスタッフの与える影響がことさら大きくなるのです。

チームをサポートする関係者と言っても、少年野球の場合はそのほとんどがコーチングスタッフの運営するチームでしょうから、選手のメンタリティを左右する要因のほとんどが指導者にあると言っても過言ではありません。

だからこそ責任は重大ですし、その後の子供たちの野球人生にも少なからず影響力を持つということを忘れてはならないのです。

私のような立場の人間があまり偉そうなことは言えないのですが、子供はダイヤモンドの原石であり、それを磨いて輝かせるのも、ただの石ころで終わらせるのも、指導者次第だということは、異口同音誰もが思うことでしょう。


■勝利至上主義は罪か?


これはよく取り沙汰される問題ですが、勝負事ゆえ完全否定はできません。

しかし、勝つことの目的が指導者の私利私欲のためなら、決して正しいこととは言えないでしょう。

勝利は選手たちのためにあり、勝つための苦しみや勝ったときの喜び、負けたときの悔しさを選手全員で分かち合うことこそ、野球に限らずスポーツ共通の醍醐味だと考えます。

勝つことによって、選手がいろいろな面で成長しなければまったく意味がありません。

前回も書きましたが、"立派な人間になるため"の一手段として、スポーツは存在するのです。

強ければそれでよいのか?

勝つためには何をやってもよいのか?

指導者の体罰や選手の暴行事件が報道されるたびに、とても悲しい気持ちになります。

勝利至上主義は、その目的によって、良くもなり悪くもなるのです。


■100%平等は無理?


この問題も非常にデリケートです。

野球が勝負事である以上、勝って強くなることが共通の目標であることは前段でも触れた通りです。

当然、ベンチ登録できる選手の数に限りがある以上、試合に出られる選手と出られない選手に分けられ、部員数が多くなるほど後者が増えます。

指導者としては、できるだけ平等にすべての選手を試合に出してあげたいと思うのが人情ですが、現実問題としてそれは不可能です。

レギュラーメンバーとの実力差を思い知って、辞めたいと言い出す選手も出て来るでしょうし、当落線上すれすれにいる選手は繰り返し辛酸をなめることになるでしょうし、大事な試合になればなるほど、指導者は苦渋の選択を強いられることになります。

重要なのはそのあとのフォローです。

練習をまじめにやらない選手や、実力差がはっきりしている選手は致し方ありませんが、もうあと一歩の選手にはできる範囲内でメンバーから外れた理由を客観的に説明してあげましょう。

100%納得させることは難しくても、それをやるのとやらないのでは大きな違いです。

冷徹さと優しさがバランスよく同居していることが、良い指導者の条件でもあるのです。


■根性論、大いに結構


スポーツに医科学的なことがあれこれ導入されるようになり、いにしえの根性論はますます肩身の狭いところに追いやられつつあります。

よく、質より量とか、量より質とかいう比較をしますが、質の高い練習をたくさんおこなえるのなら、それに越したことはないはずです。

根性論をただやみくもに否定してしまったら、大半の選手は間違いなく練習をしなくなります(特に日本人は)。

そうなれば当然、競技力も落ちるに決まっています。

天才と呼ばれている超一流選手は、人一倍血のにじむような努力をしたからこそそう呼ばれるに至ったわけで、生まれ持ったセンスだけではたかが知れています。

要は、半ば体罰のような無茶苦茶な練習はいけないということです。

故障者を罪人扱いするのもどうかと思います。

指導者の方には、その辺を履き違えないで頂きたいのです。

目的が明確で、理に叶った方法論であれば、どんどんやらせるべきではないでしょうか。

そして、意識から無意識へ。

からだに覚え込ませるためには、まず頭で理解し、何回も何回も反復練習をしなければダメなのです。

もちろんそれは、選手の体力や技能に応じて加減しなければなりません。

「これだけ良い練習をたくさんしたのだから…」

という自信が、選手のメンタリティを向上させます。

"火事場の馬鹿力"は、根性がなければ出ないのですから。


■家庭でのしつけも大事


今、高校球児と接していて思うのですが、悲しいかな、昔に比べて自然体であいさつや会話のできる選手が少なくなってしまったように感じます。

表情にも起伏がなく、何を考えているのかが読み取れない、指導をしていてもわかっているんだか、わかっていないんだかがわからない、ということがとても多くなりました。

果たしてこれは何が原因なのでしょうか?

当然野球部内においては、礼儀作法などには厳しいので、"作られたあいさつ"はみんなするのですが、なんとなくそれに違和感を覚えるのは私だけでしょうか?

なぜもっと自然にあいさつや会話ができないのかが、不思議でなりません。

それに、我慢強い子や根気のある子も少なくなってきたように思います。

練習がきついとすぐに弱音を吐く、できないとすぐに諦めてしまう、そういう子供が増えてきていますよね。

時の流れと共に、野球の道具は高級化し、バットやグローブなどは(特に硬式の場合)お小遣いではとても買えない代物になってしまいました。

当然、ある程度裕福な家庭でなければ野球はできず、ずいぶんと贅沢なスポーツになってしまったなぁと思うのです。

お金を出せば何でも手に入る時代に、ただ買い与えているだけでは、スポーツに必要なハングリーさやストイックさは生まれて来ません。

そして、それが当たり前の状況になってしまえば、感謝の気持ちだって薄れるに決まっています。

こういうことを書いていると、私もすっかり古臭い人間になってしまったなぁとつくづく思うのですが、そういう時代だからこそ、家庭でのしつけも大事なのではないでしょうか。

何と言っても、"子供は親の鑑(かがみ)"ですからね(自戒の念も込めて)。

"おぼっちゃま野球"に明日はありません


■野球は何のためにやるのか?


子供のメンタリティを左右する要因…。

それは現場の指導者や選手の親御さんにあるのだということを強調してきましたが、最終的には子供たちが野球を通して何を学ぶかが最も重要だと思うのです。

これについては野球に限らず、他のスポーツでも同じことが言えます。

これは私が中学生の頃のエピソードなのですが、野球部の顧問の一人が教頭先生で、ある時こんな質問を私たち部員に投げかけました。

 「君たちは何のために野球をやっているのか?」

その時は、先生の質問の意図がよくわからず、私も含め部員は一様に、

「集中力をつけたいから」とか、

「野球がうまくなりたいから」とか、

目先のことばかりを答えました。

しかし、それを受けて先生はこう言ったのです。

 「みんなの言うことはわかるけれど、みんなが野球をやっているのは、立派な人間になるためなんだよ」

その話を聞いた時は、部員はみんなキョトンとしていましたが、私は年齢を重ねるごとに、その話がボディブローのようにジワジワと効いてきており、今はまさにその通りだなぁと痛感するのです。

野球でプロまで行けるのはほんの一握

であれば、練習や試合を通じてただ野球の技術だけを学んだのでは意味がなく、野球をやる以前に人としてどうすべきかを学ばなければなりません。

野球には9つのポジションがあり、代打や代走、守備要員、さらにはベンチワークという役割もあります。そこから、自己犠牲やバックアップ、人への思いやりなどを体得するのです。

ですから、指導者や親御さんには、ぜひともそういった話も子供たちにしてあげてほしいのです。

今はよくわからなくても、いつか必ずわかる日が来ます。

それが野球というチームスポーツの大きな付加価値だと思います。

「野球をやっていて本当によかった」

と、いくつになっても思えるような、そんな環境を作ることも、コンディショニングの一要素なのではないでしょうか。(略)


引用以上





別にこの論に100%同意というわけではありませんが、特に否定すべき箇所も見当たりません。子供にとって将来を含めた「野球をやる、あるひはやったその幸福」とは、指導者や親がスカタンのままでは不幸にもそれを得ることはできないということなのでしょう。






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