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おカネの歴史⑥ - 戦国時代

戦国時代のおカネ


応仁の乱を経て16世紀になると時は戦国時代に入っていきます。戦国時代のおカネはどうなっていたでしょうか。


各地には戦国大名が割拠、個別統治していますから、全国的な貨幣の統一・製造は不可能です。よって引き続き渡来銭を中心とした貨幣体制が続いていくのですが、おカネの番人がいないため、市中には私鋳銭や摩耗した渡来銭が入り乱れていました。良貨と悪貨が混淆した状態では撰銭(えりぜに)が起こりやすくなります。つまり質のいい貨幣は受け取る一方、質の悪い貨幣を相手に渡す行為で、悪貨が良貨を駆逐していきます。


撰銭の弊害はこれだけではありません。撰銭が起こると同じ貨幣でも質によって価値に差が出てきます。たとえば同じ永楽通宝でも、最高に状態のいい永楽銭を1として、摩耗したものは0.5、私鋳銭は0.1というように、価値がばらばらになります。すると受け取るおカネに相応の価値があるのかわからなくなってきます。疑心暗鬼になってしまうのですね。この時代には貨幣の鑑定屋(両替屋を兼ねる)がたくさんでき繁盛していたようです。


しかしこの鑑定作業というのは経済的にみると全くの無駄です。経済の効率を落とし、生産性を劣化させます。ですから各地の大名はたびたび撰銭禁止令を出すのですが、それでもなくならなかったようです。使いにくいおカネ、それに質が悪くぼろぼろのおカネ。これでは使うのが嫌になってしまいますね。ついには16世紀後半以降、再び米が物品貨幣として使用されるようになっていきました。つまり銭貨よりも米における通貨としての価値のほうが上回った結果だと言えます。


またもや貨幣流通の夢は破れてしまいました。ここでわかるのは、おカネを安定的に流通させ、経済を効率化させていくには、「中央政権による全国的なおカネの統一」、「中央政権による同一品質のおカネの製造・修復」という機能が必要だということです。


戦国大名の政策


武田信玄は積極的に金山の開拓を行い、我が国初の額面金貨を製造しました。甲州金と呼ばれるもので、表面には額面が表示されている計数貨幣です。
木下英範のブログ-甲州金 木下英範のブログ-甲州金裏

    甲州金


織田信長の旗印は永楽通宝です。軍を強化し領土を広めるには経済的バックアップが欠かせないと考えていたからでしょう。信長は「楽市楽座」を開き、規制緩和と減税を通して経済振興を測ったように、戦国大名の中でも特に経済通でした。また経済が好況だと民にも好かれます。これが信長の強さの秘訣の一つだったと思われます。


木下英範のブログ-信長旗


          信長旗 (Wikipedia)


信長の後を継いだ豊臣秀吉は、楽市楽座をさらに推し進め、規制緩和による経済の発展を図っています。一方、税体系も考えており、おカネ持ちには高い税率を課すという、累進課税の走りのようなこともやっています。また「太閤検地」を行い、初めて全国ルールで農地からの年貢を確定させたのは有名ですね。つまり農民からはおカネではなくお米で税金を取ったのです。なぜでしょうか?


『なぜ農民に年貢という税を課したのだろうか。撰銭の広範化に伴い銭貨価値が不安定化していた16世紀後半の社会においては、米が最も価値が安定すると同時に換金性に富む商品であったからだ。それを年貢として農民の手から取り上げ、武士の食用に必要な分(20%前後)を除き、残りの米はすべて商品として販売していた。ここに、石高制と米納年貢制の本質があり、秀吉は貨幣の代わりに商品としての米を掌中に納めたのであった。』(貨幣博物館)


とのことです。撰銭の弊害、つまりおカネの番人がいないことで貨幣の価値が棄損し、税金として取れなかったのですね。もし貨幣がしっかりしていれば、太閤検地ではなくほかの方法を使っていたかもしれませんね。


【参考文献】
日本銀行貨幣博物館

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おカネの歴史⑤ - 私鋳銭の登場と撰銭

渡来銭の劣化と私鋳銭


12世紀後半、経済的必要性から流通し始めた渡来銭ですが、おカネは使っているうちに痛んだり紛失したりします。輸入貨幣ですので日本での修復は思うようにできません。また、経済はますます発達し貨幣の需要は増大していきます。そこで民間の個人が貨幣を鋳造するようになりました。これを私鋳(しちゅう)銭といいます。


今ならば個人がおカネを作るのは大罪ですが、当時は政府(鎌倉・室町幕府)に力がなかったため、規制することができませんでした。また市中にはおカネが不足し、経済に支障をきたし始めていたので強く要望されてもいたのです。しかしおカネを刷れば濡れ手に泡で労せずお金持ちになってしまいますね。誰もがおカネを作ってしまって経済は破綻しなかったのでしょうか。また相手は自分で作ったおカネを受け取ってくれるのでしょうか?


私鋳銭の作り方というのは、たとえば永楽通宝(渡来銭)から粘土で型を取って鋳型を作り、そこに銅を流し込むという方法でした。ですから明らかに作りが悪く、見た目ではっきりと私鋳銭だということがわかったらしいのです。当時はおカネを鋳造するというのは大変な技術力が必要でした。また素材を掘り出すのも相当なコストがかかります。ですから一部の力のある豪商や豪族しか鋳造はできませんでした。


私鋳銭とはいえ、ちゃんとした銅ですから素材価値はそこそこあることになります。豪商の信用と素材価値を担保にして、本物ではないとわかりつつも、徐々に広まっていったものと考えられます。最後のほうでは技術も発達し、本物とそん色ないものが作られています。質のいいものはやはり高値で取引されたようです。その意味では私鋳銭の鋳造というのは、世の中の使用に耐える価値のある製品を作る、という一つの産業だったのかもしれません。


木下英範のブログ-鐚元豊通宝    木下英範のブログ-鐚永楽通宝
 鐚元豊通宝     鐚永楽通宝



撰銭が流行


15世紀後半になると、貨幣をより好みするという「撰銭(えりぜに)」という行為が流行します。これは貨幣を質で峻別し、質の悪い貨幣の受け取りを拒否したり、その価値を極めて低く見積もるという行為です。おもに私鋳銭や、劣化した渡来銭が悪貨とみなされました。人々は、良質の貨幣を好んで受け取る一方、支払いには使わずに貯めこみますから、市中には質の悪いおカネだけが流通することになります。グレシャムのいう「悪貨は良貨を駆逐する 」という現象です。でも良貨は温存されているわけですからなくなったわけではありません。逆に大事にされるために全体では量は増えたかもしれません。あくまでも市中から駆逐されるという意味です。


なぜ撰銭が流行したのでしょうか。
『撰銭はわが国に固有の現象ではなく、中国でも1460年代以降、同様の問題に直面していたということを踏まえて考えると、撰銭は中国から波及してきた貨幣現象であるといえよう。日本も中国と同じ金属通貨を貨幣として利用していたため、そうした問題発生の同時性あるいは追随性は、ある意味で当然のことである』(貨幣博物館)
とのことですので、中国の流行が移ったのだと思います。


蛇足ですが、「撰銭」行為の中で質の悪い貨幣を「鐚(びた)銭」と言いました。「びた一文・・・」の言葉の由来はここからきています。話によると鐚銭は重ね合わせたときにビタビタと音がすることからそう呼ばれるようになったということです。



【参考文献】
日本銀行貨幣博物館
コインの散歩道(しらかわ ただひこ)

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おカネの歴史④ - 皇朝銭の衰退と渡来銭

和同開珎その後


708年、和同開珎が登場し、日本で初めて流通レベルにまで達する貨幣となったわけですが、その後どういう変遷をたどったのでしょうか。


『和銅元年(708)における和同開珎の鋳造以降、律令政府では平安時代中期までの約280年の間に合計12種類の銅貨、2種類の銀貨および1種類の金貨を発行した。これらは朝廷が発行した銭貨という意味で「皇朝銭」と呼ばれる。そして、このうち銅銭12種類をとくに「皇朝十二銭」という。皇朝十二銭はいずれも素材価値ではなく、律令政府が定めた1文という額面価値で流通する計数貨幣として発行された。(貨幣博物館)』


素材そのものの重さ・価値で取引される貨幣を「秤量貨幣」(重さを量って使う)、素材価値とは関係なく名目の額面で取引される貨幣を「計数貨幣」(数を数えて使う)と言います。政府発行の皇朝銭は、貨幣そのものが持つ素材価値とは関係なく1枚1文として発行する計数貨幣へと移行していきました。


計数貨幣の場合、貨幣の質を落とす(あるいは額面を上げる)と政府は儲かります。なぜなら少ない製造コストで作れるにもかかわらずその価値は変わらないのですから。「和同開珎」から次の貨幣「万年通宝」への移行において、朝廷は和同開珎10枚=万年通宝1枚としました。つまり今まで政府が市中から物資を買い入れたり、労働の支払いにあてるおカネが10分の1で済むようになったのです。


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 和同開珎   →   万年通宝


政府の衰退とおカネの消滅


しかし市中では、いきなり見たこともないおカネが、ほぼ材質も大きさも変わらない(申し訳程度にちょっと大きいですけれど)のに今までのお金の10倍の価値を持つなんてことはなかなか受け入れられません。市中では結局、和同開珎1枚=万年通宝1枚の相場で通っていたらしいです。しかし政府は相変わらず「1枚で10倍の価値を持つんだ!」と言って支払いにあててくるわけですから、政府のために働こうという気が失せてしまいますね。


そして税金の支払いには町民は万年通宝を使ったでしょう。なぜなら価値のないものでも、政府は10倍の価値のあるものとして受け取らざるを得ないからです。なにせ自身が発行したものなのですから。悪政は結局は自分に返ってくるのです。


計数貨幣の場合は発行体の信用でなっています。政府に権威と信用があるうちは「これで1文だ」で通ります。政府はおカネを発行し、そして税金などで回収して、破損を修理し、また市中に流通させればおカネは回り続けていきます。しかし政府に力がないことがバレてしまうとおしまいです。政府はおカネをいくらでも発行できるので、町人としては粗末な貨幣と商品を交換させられたのではたまったものではないからです。貨幣に上乗せされていた信用分がはがれおち、一気に素材価値に堕してしまいます。


お金の質を見ると当時の政府の強さの加減がわかります。後期になると、朝廷の力が弱まるとともに銅の産出も底をつき、だんだんと貨幣の質が劣化していきました。律令朝廷最後の通貨「乾元大宝」に至っては大きさも小さく、素材もたいへん粗末なもになっています。書体もぐにゃぐにゃですね。


木下英範のブログ-和同開珎   木下英範のブログ-乾元大宝

 和同開珎   →   乾元大宝


ここでわかるのは、発行体の「信用」、そしてある程度の「素材価値」がないと貨幣は普及は始まらない、ということです。


そして永延元年(987)、朝廷はついに貨幣発行を断念し、花開くかに思われた日本の貨幣文化は、また以前の米や絹(物品貨幣)を使った取引に後戻りしていきます。おカネの歴史は一進一退の連続なのです。


渡来銭の使用


その後約200年の間、銭貨は市場から姿を消してしまいます。次に貨幣が登場するのは、中国から輸入された銅銭(渡来銭)です。これは経済や流通が発展してくるなかで、おカネというものの利便性が再度見直されたためでした。大事なのは日本最初の貨幣は政府が半ば無理やり流通させたものであったのに対し、今度は市中の必要性の観点から自然発生的に流通していったことです。朝廷は最初渡来銭の流通を忌避し、禁止令を出したほどでしたが、市中の要望を抑えきれず、通貨として認めることになります。


当時、日本からみれば中国は超大国でした。中国の通貨は国際通貨と言えるほどのパワーを持っていたので信用の面でも申し分なく(つまり世界でおカネとして通用する)、質も良く貨幣に最も適していました。そこから江戸時代の初期まで、500年以上にわたって渡来銭は使われ続けたのです。


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  永楽通宝


ここで考察できることは、おカネの需要が喚起されるまでに経済が成熟し、そこに十分な「信用」を持った発行体が「素材価値」のある貨幣を発行したときに、初めて広範に貨幣の流通が始まる、ということです。


蛇足ですが、渡来銭においても「文」という単位が用いられていたことは興味深いです。「文」は和同開珎発行時に律令政府が定めた通貨単位です。途中、おカネのない時代が200年もあったにもかかわらず、巷ではモノの価値を表す単位として使われ続けていたのですね。いったんその実体を失い、消えたように見えたものでも、その概念は脈々と生き続け、やがてどこかで元の実体を取り戻す。歴史の重みを感じずにはいられません。


【参考文献】
日本銀行貨幣博物館
コインの散歩道(しらかわ ただひこ)

笑顔の0.1パーセント


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アメリカ大統領にだって6人でつながるんだって
君の作ったものや、君が誰かにしてあげたことは
どんどん世の中に広がっていく
君が誰かに微笑めば、笑顔は伝わっていく
たとえ君が僕のことを知らなくても
僕の笑顔の0.1パーセントくらいはきっと君の笑顔でできているんだ
それがちょっとうれしい

ゲーム - Sagrario's room

おカネの歴史③ - 日本最初の貨幣

和同開珎の発行


今から1300年前の708年(和銅元年)、武蔵国秩父郡(現秩父市黒谷)で和銅が発見されたのを期に、日本で最初(注)のお金が政府から発行されました。それが和同開珎です。読み方は「わどうかいちん」と「わどうかいほう」の両説があり、どちらが正しいかまだ決着がついていないそうです。貨幣博物館でも必ず両方の振り仮名がふってありました。


木下英範のブログ-秩父銅山天然銅
  秩父銅山天然銅


続日本記(しょくにほんぎ)によると、5月にまず銀銭が発行され、8月に銅銭が発行されたとあります。かなり計画的です。また、政府は秩父銅の発見と同時に年号も「和銅」と改めています。また、『当時の律令制府は、中央集権体制の強化を狙いとして、先進国の唐から各種の文物や 社会制度を積極的に導入していた。(貨幣博物館)』とのことですから、政府はずいぶん前から貨幣の発行を熱望しており、タイミングばっちりで銅山が見つかったため、喜々として鋳造に踏み切ったのだと思います。


形は中国(唐)の開元通宝を参考にして作られており、丸い外形に四角い穴が開いています(円形方孔)。それにしてもすごく似ていますね。日本人は昔からコピーがうまかったようです。

木下英範のブログ-和同開珎     木下英範のブログ-開元通宝

  和同開珎       開元通宝


しかし和同開珎が発行されたのが708年、秦の始皇帝が銭貨の形を円形方孔(えんけいほうこう)に定めたのが221年ですから中国の歴史の深さには敵いません。そして和同開珎から江戸時代の寛永通宝まで数多くの改鋳がなされましたが、その形は1200年あまりもほとんど変わっていません。すごいデザイン力ですね。


和同開珎の価値と流通


その価値はどのくらいあったのでしょうか。『律令政府が定めた通貨単位である1文として通用した。当初は1文で米2kgが買えたと言われ、また新成人1日分の労働力に相当したとされる。(Wikipedia)』とありますから今の一万円くらいでしょうか。なかなか高価ですね。


しかしこの和同開珎、都周辺では貨幣として使われたのですが、地方においてはいまいち流通しなかったようです。米や布などの物品貨幣が常識の地域において、新しい銭貨を浸透させていくのは容易ではないということですね。政府は「蓄銭叙位の令」を発令し、田畑の売買などに銭貨の使用を強制する、一万枚集めた者には 位階を授与する、などといった流通促進策を講じたのですがそれでも駄目でした。


おそらく、農家にとっては銀や銅よりも米や布のほうが「使用価値」があったからだと思います。金属は溶かせば農具などに加工できますが、当時の農家ではそこまでの技術がなかったのでしょう。ここから考察できることは、新しいおカネを発行するときはその価値の担保となるものをよく考えないと流通しないということです。


現在、政府紙幣が議論されていますが、その価値の担保をよく考えておかないと流通が滞ってしまうかもしれませんね。


約50年にわたり継続的に製造・発行され続けた和同開珎は、760年、1枚で和同開珎10枚とする「萬年通寶」が発行されるとともにその鋳造に幕を閉じました。


四角い穴の秘密


余談ですが、和同開珎の形、円形方孔がその後の貨幣において1200年の長い間にわたり変更されなかった理由として、ひとつは製造過程に鍵がありそうです。溶かした金属を鋳型に流し込んで固めますが、鋳型から取り出した時に周囲にバリが残ります。これを削るために中央の穴に四角い木の棒を差し込んで、ヤスリにかけたのです。丸い穴だと回ってしまいヤスリにかけづらいですね。他には、形が人々の目に慣れ親しんだため、つまりブランド力がついたため不要に形を変えると嫌われてしまう(価値が下がってしまう)という理由もあったかもしれません。


ちなみに現在の5円、50円玉の穴の理由は「他のコインとの識別を容易にするため」だそうです。


(注)
和同開珎以前に「富本銭」が始めて流通した貨幣であるとする説もあります。
『和同開珎以前に存在した貨幣として、無文銀銭と富本銭が知られている。1999年1月19日には、奈良県明日香村から大量の富本銭が発見され、最古の貨幣は和同開珎という定説が覆る、教科書が書き換えられるなどと大きく報道された。しかし、これらは広い範囲には流通しなかったと考えられ、また、通貨として流通したかということ自体に疑問も投げかけられている。現在の所、和同開珎は、確実に広範囲に貨幣として流通した日本最古の貨幣であるとされている。(Wikipedia)』


【参考文献】
日本銀行貨幣博物館
コインの散歩道(しらかわ ただひこ)
Wikipedia - 和同開珎