おカネの歴史④ - 皇朝銭の衰退と渡来銭 | 木下英範のブログ

おカネの歴史④ - 皇朝銭の衰退と渡来銭

和同開珎その後


708年、和同開珎が登場し、日本で初めて流通レベルにまで達する貨幣となったわけですが、その後どういう変遷をたどったのでしょうか。


『和銅元年(708)における和同開珎の鋳造以降、律令政府では平安時代中期までの約280年の間に合計12種類の銅貨、2種類の銀貨および1種類の金貨を発行した。これらは朝廷が発行した銭貨という意味で「皇朝銭」と呼ばれる。そして、このうち銅銭12種類をとくに「皇朝十二銭」という。皇朝十二銭はいずれも素材価値ではなく、律令政府が定めた1文という額面価値で流通する計数貨幣として発行された。(貨幣博物館)』


素材そのものの重さ・価値で取引される貨幣を「秤量貨幣」(重さを量って使う)、素材価値とは関係なく名目の額面で取引される貨幣を「計数貨幣」(数を数えて使う)と言います。政府発行の皇朝銭は、貨幣そのものが持つ素材価値とは関係なく1枚1文として発行する計数貨幣へと移行していきました。


計数貨幣の場合、貨幣の質を落とす(あるいは額面を上げる)と政府は儲かります。なぜなら少ない製造コストで作れるにもかかわらずその価値は変わらないのですから。「和同開珎」から次の貨幣「万年通宝」への移行において、朝廷は和同開珎10枚=万年通宝1枚としました。つまり今まで政府が市中から物資を買い入れたり、労働の支払いにあてるおカネが10分の1で済むようになったのです。


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 和同開珎   →   万年通宝


政府の衰退とおカネの消滅


しかし市中では、いきなり見たこともないおカネが、ほぼ材質も大きさも変わらない(申し訳程度にちょっと大きいですけれど)のに今までのお金の10倍の価値を持つなんてことはなかなか受け入れられません。市中では結局、和同開珎1枚=万年通宝1枚の相場で通っていたらしいです。しかし政府は相変わらず「1枚で10倍の価値を持つんだ!」と言って支払いにあててくるわけですから、政府のために働こうという気が失せてしまいますね。


そして税金の支払いには町民は万年通宝を使ったでしょう。なぜなら価値のないものでも、政府は10倍の価値のあるものとして受け取らざるを得ないからです。なにせ自身が発行したものなのですから。悪政は結局は自分に返ってくるのです。


計数貨幣の場合は発行体の信用でなっています。政府に権威と信用があるうちは「これで1文だ」で通ります。政府はおカネを発行し、そして税金などで回収して、破損を修理し、また市中に流通させればおカネは回り続けていきます。しかし政府に力がないことがバレてしまうとおしまいです。政府はおカネをいくらでも発行できるので、町人としては粗末な貨幣と商品を交換させられたのではたまったものではないからです。貨幣に上乗せされていた信用分がはがれおち、一気に素材価値に堕してしまいます。


お金の質を見ると当時の政府の強さの加減がわかります。後期になると、朝廷の力が弱まるとともに銅の産出も底をつき、だんだんと貨幣の質が劣化していきました。律令朝廷最後の通貨「乾元大宝」に至っては大きさも小さく、素材もたいへん粗末なもになっています。書体もぐにゃぐにゃですね。


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 和同開珎   →   乾元大宝


ここでわかるのは、発行体の「信用」、そしてある程度の「素材価値」がないと貨幣は普及は始まらない、ということです。


そして永延元年(987)、朝廷はついに貨幣発行を断念し、花開くかに思われた日本の貨幣文化は、また以前の米や絹(物品貨幣)を使った取引に後戻りしていきます。おカネの歴史は一進一退の連続なのです。


渡来銭の使用


その後約200年の間、銭貨は市場から姿を消してしまいます。次に貨幣が登場するのは、中国から輸入された銅銭(渡来銭)です。これは経済や流通が発展してくるなかで、おカネというものの利便性が再度見直されたためでした。大事なのは日本最初の貨幣は政府が半ば無理やり流通させたものであったのに対し、今度は市中の必要性の観点から自然発生的に流通していったことです。朝廷は最初渡来銭の流通を忌避し、禁止令を出したほどでしたが、市中の要望を抑えきれず、通貨として認めることになります。


当時、日本からみれば中国は超大国でした。中国の通貨は国際通貨と言えるほどのパワーを持っていたので信用の面でも申し分なく(つまり世界でおカネとして通用する)、質も良く貨幣に最も適していました。そこから江戸時代の初期まで、500年以上にわたって渡来銭は使われ続けたのです。


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  永楽通宝


ここで考察できることは、おカネの需要が喚起されるまでに経済が成熟し、そこに十分な「信用」を持った発行体が「素材価値」のある貨幣を発行したときに、初めて広範に貨幣の流通が始まる、ということです。


蛇足ですが、渡来銭においても「文」という単位が用いられていたことは興味深いです。「文」は和同開珎発行時に律令政府が定めた通貨単位です。途中、おカネのない時代が200年もあったにもかかわらず、巷ではモノの価値を表す単位として使われ続けていたのですね。いったんその実体を失い、消えたように見えたものでも、その概念は脈々と生き続け、やがてどこかで元の実体を取り戻す。歴史の重みを感じずにはいられません。


【参考文献】
日本銀行貨幣博物館
コインの散歩道(しらかわ ただひこ)