おカネの歴史⑤ - 私鋳銭の登場と撰銭 | 木下英範のブログ

おカネの歴史⑤ - 私鋳銭の登場と撰銭

渡来銭の劣化と私鋳銭


12世紀後半、経済的必要性から流通し始めた渡来銭ですが、おカネは使っているうちに痛んだり紛失したりします。輸入貨幣ですので日本での修復は思うようにできません。また、経済はますます発達し貨幣の需要は増大していきます。そこで民間の個人が貨幣を鋳造するようになりました。これを私鋳(しちゅう)銭といいます。


今ならば個人がおカネを作るのは大罪ですが、当時は政府(鎌倉・室町幕府)に力がなかったため、規制することができませんでした。また市中にはおカネが不足し、経済に支障をきたし始めていたので強く要望されてもいたのです。しかしおカネを刷れば濡れ手に泡で労せずお金持ちになってしまいますね。誰もがおカネを作ってしまって経済は破綻しなかったのでしょうか。また相手は自分で作ったおカネを受け取ってくれるのでしょうか?


私鋳銭の作り方というのは、たとえば永楽通宝(渡来銭)から粘土で型を取って鋳型を作り、そこに銅を流し込むという方法でした。ですから明らかに作りが悪く、見た目ではっきりと私鋳銭だということがわかったらしいのです。当時はおカネを鋳造するというのは大変な技術力が必要でした。また素材を掘り出すのも相当なコストがかかります。ですから一部の力のある豪商や豪族しか鋳造はできませんでした。


私鋳銭とはいえ、ちゃんとした銅ですから素材価値はそこそこあることになります。豪商の信用と素材価値を担保にして、本物ではないとわかりつつも、徐々に広まっていったものと考えられます。最後のほうでは技術も発達し、本物とそん色ないものが作られています。質のいいものはやはり高値で取引されたようです。その意味では私鋳銭の鋳造というのは、世の中の使用に耐える価値のある製品を作る、という一つの産業だったのかもしれません。


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撰銭が流行


15世紀後半になると、貨幣をより好みするという「撰銭(えりぜに)」という行為が流行します。これは貨幣を質で峻別し、質の悪い貨幣の受け取りを拒否したり、その価値を極めて低く見積もるという行為です。おもに私鋳銭や、劣化した渡来銭が悪貨とみなされました。人々は、良質の貨幣を好んで受け取る一方、支払いには使わずに貯めこみますから、市中には質の悪いおカネだけが流通することになります。グレシャムのいう「悪貨は良貨を駆逐する 」という現象です。でも良貨は温存されているわけですからなくなったわけではありません。逆に大事にされるために全体では量は増えたかもしれません。あくまでも市中から駆逐されるという意味です。


なぜ撰銭が流行したのでしょうか。
『撰銭はわが国に固有の現象ではなく、中国でも1460年代以降、同様の問題に直面していたということを踏まえて考えると、撰銭は中国から波及してきた貨幣現象であるといえよう。日本も中国と同じ金属通貨を貨幣として利用していたため、そうした問題発生の同時性あるいは追随性は、ある意味で当然のことである』(貨幣博物館)
とのことですので、中国の流行が移ったのだと思います。


蛇足ですが、「撰銭」行為の中で質の悪い貨幣を「鐚(びた)銭」と言いました。「びた一文・・・」の言葉の由来はここからきています。話によると鐚銭は重ね合わせたときにビタビタと音がすることからそう呼ばれるようになったということです。



【参考文献】
日本銀行貨幣博物館
コインの散歩道(しらかわ ただひこ)