おカネの歴史③ - 日本最初の貨幣 | 木下英範のブログ

おカネの歴史③ - 日本最初の貨幣

和同開珎の発行


今から1300年前の708年(和銅元年)、武蔵国秩父郡(現秩父市黒谷)で和銅が発見されたのを期に、日本で最初(注)のお金が政府から発行されました。それが和同開珎です。読み方は「わどうかいちん」と「わどうかいほう」の両説があり、どちらが正しいかまだ決着がついていないそうです。貨幣博物館でも必ず両方の振り仮名がふってありました。


木下英範のブログ-秩父銅山天然銅
  秩父銅山天然銅


続日本記(しょくにほんぎ)によると、5月にまず銀銭が発行され、8月に銅銭が発行されたとあります。かなり計画的です。また、政府は秩父銅の発見と同時に年号も「和銅」と改めています。また、『当時の律令制府は、中央集権体制の強化を狙いとして、先進国の唐から各種の文物や 社会制度を積極的に導入していた。(貨幣博物館)』とのことですから、政府はずいぶん前から貨幣の発行を熱望しており、タイミングばっちりで銅山が見つかったため、喜々として鋳造に踏み切ったのだと思います。


形は中国(唐)の開元通宝を参考にして作られており、丸い外形に四角い穴が開いています(円形方孔)。それにしてもすごく似ていますね。日本人は昔からコピーがうまかったようです。

木下英範のブログ-和同開珎     木下英範のブログ-開元通宝

  和同開珎       開元通宝


しかし和同開珎が発行されたのが708年、秦の始皇帝が銭貨の形を円形方孔(えんけいほうこう)に定めたのが221年ですから中国の歴史の深さには敵いません。そして和同開珎から江戸時代の寛永通宝まで数多くの改鋳がなされましたが、その形は1200年あまりもほとんど変わっていません。すごいデザイン力ですね。


和同開珎の価値と流通


その価値はどのくらいあったのでしょうか。『律令政府が定めた通貨単位である1文として通用した。当初は1文で米2kgが買えたと言われ、また新成人1日分の労働力に相当したとされる。(Wikipedia)』とありますから今の一万円くらいでしょうか。なかなか高価ですね。


しかしこの和同開珎、都周辺では貨幣として使われたのですが、地方においてはいまいち流通しなかったようです。米や布などの物品貨幣が常識の地域において、新しい銭貨を浸透させていくのは容易ではないということですね。政府は「蓄銭叙位の令」を発令し、田畑の売買などに銭貨の使用を強制する、一万枚集めた者には 位階を授与する、などといった流通促進策を講じたのですがそれでも駄目でした。


おそらく、農家にとっては銀や銅よりも米や布のほうが「使用価値」があったからだと思います。金属は溶かせば農具などに加工できますが、当時の農家ではそこまでの技術がなかったのでしょう。ここから考察できることは、新しいおカネを発行するときはその価値の担保となるものをよく考えないと流通しないということです。


現在、政府紙幣が議論されていますが、その価値の担保をよく考えておかないと流通が滞ってしまうかもしれませんね。


約50年にわたり継続的に製造・発行され続けた和同開珎は、760年、1枚で和同開珎10枚とする「萬年通寶」が発行されるとともにその鋳造に幕を閉じました。


四角い穴の秘密


余談ですが、和同開珎の形、円形方孔がその後の貨幣において1200年の長い間にわたり変更されなかった理由として、ひとつは製造過程に鍵がありそうです。溶かした金属を鋳型に流し込んで固めますが、鋳型から取り出した時に周囲にバリが残ります。これを削るために中央の穴に四角い木の棒を差し込んで、ヤスリにかけたのです。丸い穴だと回ってしまいヤスリにかけづらいですね。他には、形が人々の目に慣れ親しんだため、つまりブランド力がついたため不要に形を変えると嫌われてしまう(価値が下がってしまう)という理由もあったかもしれません。


ちなみに現在の5円、50円玉の穴の理由は「他のコインとの識別を容易にするため」だそうです。


(注)
和同開珎以前に「富本銭」が始めて流通した貨幣であるとする説もあります。
『和同開珎以前に存在した貨幣として、無文銀銭と富本銭が知られている。1999年1月19日には、奈良県明日香村から大量の富本銭が発見され、最古の貨幣は和同開珎という定説が覆る、教科書が書き換えられるなどと大きく報道された。しかし、これらは広い範囲には流通しなかったと考えられ、また、通貨として流通したかということ自体に疑問も投げかけられている。現在の所、和同開珎は、確実に広範囲に貨幣として流通した日本最古の貨幣であるとされている。(Wikipedia)』


【参考文献】
日本銀行貨幣博物館
コインの散歩道(しらかわ ただひこ)
Wikipedia - 和同開珎