攻撃第254飛行隊の碑を見たあと、
同じく鹿屋航空基地史料館の敷地内にある、二式大艇を見学しました音譜
これが見たくて今回の旅に出たといっても過言ではないのだ。







二式大艇…

旧日本海軍が第二次世界大戦中に実用化した4発大型飛行艇で、初飛行は1941年(昭和16年)。
レシプロエンジン装備の飛行艇としては、当時世界最高の性能を誇った傑作機です。
大型高速で充分な防御火器を装備した本機は、連合国パイロットから「フォーミダブル(恐るべき)」
機体と呼ばれました。




$海とひこうき雲





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この鹿屋の二式大艇T-31は、大戦中の昭和18年3月完成。
ヤルートショートランドマキンサイパン→横浜→詫間(香川県)指宿→台湾→詫間で終戦。

ほぼ2年半前線で任務につき、終戦まで戦い抜いた機体です。
この二式大艇もまた、前頁の記事の攻撃機天山と同じく、終戦後にアメリカ軍に接収されました。
その後、34年の時を経て日本へ帰ってきた飛行艇です。


その頃のお話を少し…










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↑日辻常雄(ひつじ つねお) 海軍少佐 
詫間航空隊、飛行隊長。
海軍兵学校64期卒。「最後の飛行艇」の著者。






終戦の年の9月。

帰郷が許されず待機命令が出ていた詫間航空隊の飛行隊長、日辻常雄海軍少佐に進駐軍から特別任務が下ります。その任務とは、

「10月末までに詫間基地所在の二式大艇一機を飛行可能状態に整備し、
日辻少佐を長とする空輸チームを編成せよ」


というものでした。二式大艇一機を米軍に引き渡すことになったのです。
解散した詫間基地には二式大艇の整備員は既におらず、
搭乗員は日辻少佐一人が残っているだけでした。
 



戦火をくぐりぬけてきた二式大艇は、痛みまくっていました。
そして乗員10人の大型飛行艇なので、とにかく人手が必要です。

いったん復員した隊員を呼び戻すことは容易でなことではありませんでしたが、急きょ搭乗員を選抜し召集することになりました。さらに検討の結果、呉の十一空廠の残留隊に二式大艇の整備員が数名いることがわかり、7名に来てもらうこととなります。この7名は、

「二式大艇を米国に引き渡すのならば、日本技術陣の名誉のためにも立派に整備してみせる」

と意気込んで、さっそく呉から詫間基地に来隊したそうです。日辻さんいわく、涙がでるほど嬉しかった、と。搭乗員のほうは、隊長と一緒ならばと、6名のクルーが帰隊することを約束してくれました。





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こうして早速整備作業が開始され、3機残っていた二式大艇のうちT-31号機に白羽の矢がたてられ、他の2機から部品を集めて、連日懸命の復旧作業が続けられました。


「終戦という未曽有の痛恨事に際し、国民全般が呆然自失の状態下にあって、すでに軍隊も解散したあと、家庭も顧みずに真剣に作業に取り組んでくれた七名の工員に対しては真に頭の下がる思いがした。同時に私はこの工員の姿に、真の日本人の姿を見つけたと信じている」




10月末に計画通りT-31号機は立派に完成し試飛行待ちの状態となり、搭乗員も全員そろって、米軍の指令を待つばかりとなりました。

そして11月に入るといよいよ進駐軍からの指令がきて、機体の日の丸を消して米海軍マークに塗り替え、米海軍戦闘機6機の護衛誘導の上、二式大艇を詫間から横浜へ空輸することとなりました。






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コンソリデーテッド PBY カタリナ






11月10日、米軍からのお迎えが。
本日中に試飛行を実施し、結果が良好ならば翌11日に横浜へ出発、ということに決定します。




午後、終戦後3ヶ月ぶりに、二式大艇の爆音が詫間の空に響き渡りました。

日辻さんはあの激戦時の気持ちに立ちもどって、整備の人々に感謝しながら、敗戦に沈んだ日本人の心を励ますような気持ちで一時間の試飛行を行ったといいます。後日、少佐が詫間の市民からもらった一通の手紙には、こう書いてありました。


「数か月振りに仰ぎ見る二式大艇の姿に、市民、県民、否、日本人のすべてが感涙に咽(むせ)びながら、合掌した。終戦で打ちひしがれ呆然としていた日本人は、この爆音に気を取りもどし、郷土再建の意欲に燃えて立ち上がることができた」

…と。





試験飛行を終了すると、日辻少佐は米調査団から握手攻めに合い、ひっきりなしに写真のポーズを求められました。そして米軍代表のシルバー中尉(のちのノースウェスト日本支店長)から

「日辻少佐、もう機会がないと思うのであなたの好敵手だったコンソリデーテッド PBY カタリナを操縦してみませんか」

とすすめられ、約30分間飛んでみます。

PBYの舵は重く速力は遅く、二式大艇とは雲泥の差がありましたが、オンボロ機なのに艇内には油のシミひとつなく、搭乗のたびに油シミがつく日本機よりも米軍機は艤装面の技術は一段上であることに、感銘をうけたそうです。





そして翌日13:00日辻少佐は、あの戦いを、なき友を偲びながら詫間の波を蹴り、最後の離水を開始。
翼をふりながら詫間に別れを告げます。

二式大艇はスピードが遅いPBYを追尾するのに大いに苦労し、ジグザグ運動をつづけながら後方に従います。これは、終戦時に日本人のパイロットが日本機で日本の空を飛んだ最後だったそうです。

二式大艇は大型飛行艇として前例のない長大な航続距離と高速性能を誇り、同乗したシルバー中尉は、その高性能に驚嘆して、


「日本は戦争には負けたが、飛行艇では世界に勝った――」

こう賞賛したのは有名な逸話となっております。





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マーチンPBM




単機なら1.5時間で飛べるものの、2.5時間かけてやっと横浜上空に到着します。

横浜基地には米軍のマーチンPBM隊の48機が進駐しており、横浜沖には連合軍の大艦隊が停泊していました。調印式が行われたミズーリ号の姿も見えます。

日辻さんは一生の思い出にと、低空飛行の許可をとります。
この日の横浜は強風で荒れており、米軍PBMは盛んに大きなジャンプをしながら苦労して訓練をやっていました。ここに時ならぬ日本の大型飛行艇が出現したのです。万人の目が集中しました。


「日本海軍の二式大艇ただ今見参」

日辻さんは、こう心の中で叫びながら低空高速で艦隊の間を飛び回りました。
PBMたちはこの空の巨人に敬意を表したか、いずれも道を譲ってくれたそうです。
思う存分飛び回った後、米海軍全員の注目を意識しながら、全身全霊をもって、荒れる元の母基地に天下一品の着水をやってのけます。
シルバー中尉が「ナンバーワン!」と指をたてて叫びます。



その後日辻少佐は、横浜基地においてきびしい取り扱いを受けると思っていましたが、反対に凱旋将軍を迎えるような歓迎をうけて、面食らったそうです。
待ちかまえていた米海軍首脳陣や技術陣に質問責めにあい、クルー一同は食事に招待されましたが、一行は早く米軍から解放されたかったので辞退し、シルバー中尉の同乗のもと、MPの先導で横浜駅まで送られたのでした。







その後、T-31号機はアメリカに引き取られて性能確認試験が実施され、圧倒的な高性能を発揮してアメリカ側を驚かせて、日本の飛行艇開発の技術レベルが高く評価されることになります。1947年(昭和22年)の試験終了後、詫間31号機は長らくノーフォーク海軍基地で厳重に保管されていました。機体はコクーンという特殊な塗料が吹き付けられて外気と遮断され、内部には乾燥空気が送られて保存されていたそうです。その後返還運動などを経て1979年(昭和54年)についに里帰りが実現、整備を経て翌年から東京の「船の科学館」に長らく野外展示されていました。2004年(平成16年)4月末からは、ここ鹿児島県鹿屋市にある海上自衛隊鹿屋航空基地史料館に保管(野外展示)されています。









こんな話を思い出しながら二式大艇の前に立ち、感無量でした…。
前線を戦い抜き、日本の名誉のために技術者が駆けつけ、日本人を勇気づけて、人々が手を合わせた飛行艇です。



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つづく