最後の特攻隊
つづきです。
第5航空艦隊の司令部では外国放送の傍受を続けていたので、日本政府がポツダム宣言を受諾し、8月15日が運命の日になることもすでに承知していた。しかし数々の主要作戦を指揮してきた宇垣長官にとって、敗戦という屈辱を呑むことはできなかった。
運命の15日を迎えて、宇垣は田中正臣作戦参謀に彗星艦爆5機に至急沖縄攻撃準備を整えるよう命じた。午前4時近くであったという。宇垣自らが出撃するつもりではないかと直感した田中参謀は、直ちに宮崎隆先任参謀に報告する。すでに海軍総隊から5航艦に対し、対ソ及び対沖縄積極攻撃を中止せよとの命令が届いていた。真意を確かめに来た宮崎に、宇垣は落ち着いた口調で答えた。
「そうだ。私が乗る。すぐに攻撃準備をととのえよ」
驚いた宮崎が長官の翻意を促そうとして懇願を続けたが、宇垣の意思を変えることはできなかった。横井俊之参謀長や宇垣と海軍兵学校での同期の城島高次12航空戦隊司令官も駆けつけてきて、皆涙を流しながら考え直すよう迫ったが宇垣の出撃の意思は動じなかった。
「武人として、私に死場所をあたえてくれ。皇国護持のために必勝を信じて、よろこんで死んでいった多数の部下のもとへ私もやらせてくれ。後の事は、後任の長官ももうすでにきまっていることだから心配はいらない。」
そう言うとき、宇垣もまた幕僚たちに彼なりの懇願をしているようであった。沖縄特攻に無数の若者たちを送り出してきた最高司令官として、彼等のあとを追う以外に宇垣の身の処し方はないようであった。それだけでなく、宇垣が死場所を求めてきたのは、山本五十六聯合艦隊司令長官の戦死以来であることを幕僚達は知っていた。ブイン上空で山本長官の搭乗する一式陸攻が米軍機に襲われたとき、宇垣の乗る二番機も撃墜されたが大怪我を負いながら彼は奇跡的に命を拾った。重症を負って収容された後、山本長官機の撃墜を自分の過失のように激しい悲嘆をしめし、周りの者はいつか宇垣中将が自決するだろうと思ったという。
いまようやく死場所を得たという宇垣の本心は、幕僚達にも痛い程に通じていたが、しかし賛成することはできなかった。蒸し暑い壕内で延々と生死を賭けた男達の説得と懇願、拒否と沈黙が繰り返されて時間が過ぎていく。
遂に正午を迎え、彼らはいったん壕をでて整列し号令台の上に設けられたスピーカーから流れる天皇の声を直立して聞いた。長官室に戻った宇垣の眼から涙が溢れていた。玉音放送によって一縷の望みを絶たれた彼は、直ちに『戦藻録』に記した。
<股肱の軍人として本日この悲運に会す。慚愧これにしくものなし。ああ!後任者は本夕到着すること明にして、爾後の収容になんら支障なし。いまだ停戦命令にも接せず、多数殉忠の将士の後を追い特攻の精神に生きんとするにおいて考慮の余地なし>
↑中津留達雄 大尉
もはやこれ以上説得しきれぬと諦めた宮崎先任参謀が、第701航空隊艦爆隊長・中津留大尉を司令部に招いて沖縄突入命令を伝えたのは、午後4時近くであった。
<一六〇〇幕僚集合、別盃を待ちあり。これにて本戦藻録の頁を閉ず>
四年近く書き続けてきた日録を閉じて、宇垣が壕の外に立つバラック建ての司令部食堂での幕僚達との別れの場に臨んだのが一六〇〇、すなわち午後4時。白布がかけられたテーブルで別れの盃を乾し、「飛行中は煙草がすえぬから…」と、宇垣は煙草をくゆらせたという。第三種軍装を着用して山本五十六元帥から贈られた短刀を手に、長官旗を掲げた車に宇垣は乗り込んだ。参謀長以下の幕僚も二台の車であとに従い飛行場へと向かった。
宮崎先任参謀は、前の車でゆれている宇垣の後頭部を見つめていた。宇垣は、特攻機に乗って突入していく理由を口にしなかった。しかし宮崎には、宇垣の胸中がわかるような気がした。無条件降伏は武人として最大の屈辱であり、生きていく気力を失ったにちがいないが、宇垣は単純な自殺をしようというのでもない。自殺なら単機で突入すべきだが5機の出撃を命じた。一機では無意味であり、最小限の機数をそろえてアメリカ艦船に最後の打撃をあたえようというのだ。
長官が飛行場東端の指揮所前に着いたのは、4時15分頃と思われる。
出発の挨拶
階級章を取る
列線に並ぶ彗星は既にごうごうとエンジンを始動させ、搭乗員は整列して長官を待っていた。特攻機は6機多い11機が用意された。これに対し宇垣は「命令は5機」と発言したが、指揮所前には22名の搭乗員たちが整列しており、そのことについて宇垣が問いかけると、中津留大尉は「出動可能機全機で同行する。命令が変更されないなら命令違反を承知で同行する」と言ったという。
5航艦編成以来、作戦命令を作成し多くの特攻隊員を送り出してきた宮崎は宇垣に追いすがるようにして、自分もお伴をしたいと涙ながらに懇願したが、「ならぬ。残って後のことを頼む」と固く拒まれた。参謀の川原利寿少佐が宇垣長官の襟の階級章を切り取った。海軍中将の戦死を敵国に知られない為である。折りたたみの椅子の上に立ちあがった長官は、全員に最後の訓示をする。
「第5航空艦隊は全員特攻の精神をもっていままで作戦を実施してきたが、陛下の御発意により終戦のやむなきに至った。しかし今日ただいまより、本職先頭に立って沖縄に突入する」
↓↑「私兵特攻」によると、最後の特攻隊が整列し、宇垣長官の訓示を聞いた場所は戦後40年ほどハッキリとはわかっていなかった様なのですが、かつての写真の裏川の後ろに見える黒い森(萩原の天満社の森)と、さらにその背後の高城に存在した十二空廠の煙突を結んで直線を引いた延長上に特攻へ赴く隊員二十二名が整列していることから割り出され、現在地は、大分市街から東へ走る臨海産業道路が裏川を越える橋の袂から見下ろした直ぐ北の辺りだそうです。奇しくもここは昭和39年に富士航空機が着陸失敗して炎上した地点と重なり、富士航空機遭難の碑が建てられています。
かつての裏川は広々とした河口であったそうですが、現在は川幅は八分の一になり、真っすぐに海へと通じていた流れが西側へ曲げられています。別府湾岸を埋め立てて進出した新日鉄によってこの辺の地理はすっかり変わりました。戦後も大分空港として利用されていた飛行場は国東半島の東岸に移されて、飛行場跡は運動公園、大型団地、思い出の森などになっています。
↑ここで隊員が整列し、宇垣長官の訓示がおこなわれたっすか…。
↓かつては茅(かや)などが茂って海まで続いていた土手ですが、奇跡的にこの辺十メートル足らずが残されているそうです。二十二名は、このあたりの川べりに座ってパイン缶や赤飯の昼食をとり、出撃を待っていたそうです。
指揮所を出た宇垣は、隊員とともに飛行機に向かって歩き出した。その後から参謀をはじめ200名ほどの者が移動した。
中津留中尉の操縦する一番機に宇垣が近寄ったとき、すでに後部席には遠藤飛曹長が座っていた。彗星四三型は2人乗りで、後部席の偵察員が進路を計算して前の操縦員に伝えるのだが、乙飛九期の遠藤秋章は偵察のベテランであった。交代せよという宇垣の命令を聞かずに、遠藤は自席から降りようとしない。やむなく狭い後部座席に2人で乗り組むことにして、宇垣が座ったその股の間に遠藤が窮屈そうに座り、そこから宇垣は出発合図の手を振った。
↑大木正夫上飛曹 一人おいて 山川代夫上飛曹 北見武雄中尉 磯村堅少尉。
一番機が大分飛行場を別府湾上空に向けて離陸したのは、多分午後5時に近かったと思われます。一機また一機と砂塵を捲いて二度と還らぬ飛行へと、日本海軍最後の特攻機11機の艦爆彗星は飛び立って行きました。「帽ふれ!」の声に、見送る者達はちぎれるように帽子を振り続け、多くの者が頬を濡らしていました。
最後の特攻出撃者
操縦員/偵察員/備考
中津留達雄大尉(海兵70期)/遠藤秋章飛曹長(乙飛9期) /宇垣長官同乗
伊東幸彦中尉(海兵73期)/ 大木正夫上飛曹(乙飛17期)
山川代夫上飛曹(丙飛)/ 北見武雄中尉(海兵73期)
池田武徳中尉(学生13期)/ 山田勇夫上飛曹(甲飛11期)
渡辺操上飛曹(甲飛11期)/内海進中尉(学生13期)
後藤高男上飛曹(丙飛)/ 磯村堅少尉(生徒1期)
松永茂男二飛曹(特乙1期)/ 中島英雄一飛曹(乙飛18期)
藤崎孝良一飛曹(丙飛)/ 吉田利一飛曹(乙飛18期)
前田又男一飛曹(丙飛)/ 川野良介中尉(学生13期) / 不時着・生還
川野和一一飛曹(乙飛18期)/日高保一飛曹(乙飛18期)/不時着・日高一飛曹のみ死亡
二村治和一飛曹(甲飛12期)/栗原浩一二飛曹(甲飛13期)/不時着・生還
特攻隊として公式に認められなかった中津留隊の隊員は、死後二階級特進が許されず一般戦死者並みに一階級しか上がりませんでした。宇垣中将に至っては一階級も上がりませんでした。連合軍への配慮があった、といわれています。
特攻隊創設者といわれる大西瀧治郎中将や陸軍大将阿南惟幾の自刃と比べて、17名もの兵隊を死の道連れにした宇垣の自裁行為は、後世に批判を残すこととなりました。
↓大洲総合運動公園の芝生広場の片隅にひっそり建つ、「神風特別攻撃隊発進之地」の碑。
↓裏面は出撃し亡くなった方々の名前が刻まれています。
↓芝生広場の後ろは運動公園と新日本製鐵を隔てる裏川とグリーンベルトになっています。裏川は現在は宇垣長官訓示地点から北西に曲げられ大分川近くで別府湾に注いでいます。(当時は曲がらずまっすぐ別府湾にそそいでたらしい。)当時6、7万人しかなかった大分市の人口は現在40数万人に膨張しており、大分海軍飛行場があったあたりは、工業都市としてかなり“整形手術”されてしまっているようです。
私兵特攻―宇垣纒長官と最後の隊員たち 松下 竜一 新潮社
8月15日の特攻隊員/新潮社
¥1,470
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↑著者の吉田紗知さんは上の写真の大木正夫上飛曹の身内の方です。
空白の戦記 (新潮文庫 よ 5-9)/新潮社
¥452
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飛行場跡や宇垣長官が訓示した場所を後にして、つぎに大分縣護国神社へ参拝へ。
つづく
つづきです。
第5航空艦隊の司令部では外国放送の傍受を続けていたので、日本政府がポツダム宣言を受諾し、8月15日が運命の日になることもすでに承知していた。しかし数々の主要作戦を指揮してきた宇垣長官にとって、敗戦という屈辱を呑むことはできなかった。
運命の15日を迎えて、宇垣は田中正臣作戦参謀に彗星艦爆5機に至急沖縄攻撃準備を整えるよう命じた。午前4時近くであったという。宇垣自らが出撃するつもりではないかと直感した田中参謀は、直ちに宮崎隆先任参謀に報告する。すでに海軍総隊から5航艦に対し、対ソ及び対沖縄積極攻撃を中止せよとの命令が届いていた。真意を確かめに来た宮崎に、宇垣は落ち着いた口調で答えた。
「そうだ。私が乗る。すぐに攻撃準備をととのえよ」
驚いた宮崎が長官の翻意を促そうとして懇願を続けたが、宇垣の意思を変えることはできなかった。横井俊之参謀長や宇垣と海軍兵学校での同期の城島高次12航空戦隊司令官も駆けつけてきて、皆涙を流しながら考え直すよう迫ったが宇垣の出撃の意思は動じなかった。
「武人として、私に死場所をあたえてくれ。皇国護持のために必勝を信じて、よろこんで死んでいった多数の部下のもとへ私もやらせてくれ。後の事は、後任の長官ももうすでにきまっていることだから心配はいらない。」
そう言うとき、宇垣もまた幕僚たちに彼なりの懇願をしているようであった。沖縄特攻に無数の若者たちを送り出してきた最高司令官として、彼等のあとを追う以外に宇垣の身の処し方はないようであった。それだけでなく、宇垣が死場所を求めてきたのは、山本五十六聯合艦隊司令長官の戦死以来であることを幕僚達は知っていた。ブイン上空で山本長官の搭乗する一式陸攻が米軍機に襲われたとき、宇垣の乗る二番機も撃墜されたが大怪我を負いながら彼は奇跡的に命を拾った。重症を負って収容された後、山本長官機の撃墜を自分の過失のように激しい悲嘆をしめし、周りの者はいつか宇垣中将が自決するだろうと思ったという。
いまようやく死場所を得たという宇垣の本心は、幕僚達にも痛い程に通じていたが、しかし賛成することはできなかった。蒸し暑い壕内で延々と生死を賭けた男達の説得と懇願、拒否と沈黙が繰り返されて時間が過ぎていく。
遂に正午を迎え、彼らはいったん壕をでて整列し号令台の上に設けられたスピーカーから流れる天皇の声を直立して聞いた。長官室に戻った宇垣の眼から涙が溢れていた。玉音放送によって一縷の望みを絶たれた彼は、直ちに『戦藻録』に記した。
<股肱の軍人として本日この悲運に会す。慚愧これにしくものなし。ああ!後任者は本夕到着すること明にして、爾後の収容になんら支障なし。いまだ停戦命令にも接せず、多数殉忠の将士の後を追い特攻の精神に生きんとするにおいて考慮の余地なし>
↑中津留達雄 大尉
もはやこれ以上説得しきれぬと諦めた宮崎先任参謀が、第701航空隊艦爆隊長・中津留大尉を司令部に招いて沖縄突入命令を伝えたのは、午後4時近くであった。
<一六〇〇幕僚集合、別盃を待ちあり。これにて本戦藻録の頁を閉ず>
四年近く書き続けてきた日録を閉じて、宇垣が壕の外に立つバラック建ての司令部食堂での幕僚達との別れの場に臨んだのが一六〇〇、すなわち午後4時。白布がかけられたテーブルで別れの盃を乾し、「飛行中は煙草がすえぬから…」と、宇垣は煙草をくゆらせたという。第三種軍装を着用して山本五十六元帥から贈られた短刀を手に、長官旗を掲げた車に宇垣は乗り込んだ。参謀長以下の幕僚も二台の車であとに従い飛行場へと向かった。
宮崎先任参謀は、前の車でゆれている宇垣の後頭部を見つめていた。宇垣は、特攻機に乗って突入していく理由を口にしなかった。しかし宮崎には、宇垣の胸中がわかるような気がした。無条件降伏は武人として最大の屈辱であり、生きていく気力を失ったにちがいないが、宇垣は単純な自殺をしようというのでもない。自殺なら単機で突入すべきだが5機の出撃を命じた。一機では無意味であり、最小限の機数をそろえてアメリカ艦船に最後の打撃をあたえようというのだ。
長官が飛行場東端の指揮所前に着いたのは、4時15分頃と思われる。
出発の挨拶
階級章を取る
列線に並ぶ彗星は既にごうごうとエンジンを始動させ、搭乗員は整列して長官を待っていた。特攻機は6機多い11機が用意された。これに対し宇垣は「命令は5機」と発言したが、指揮所前には22名の搭乗員たちが整列しており、そのことについて宇垣が問いかけると、中津留大尉は「出動可能機全機で同行する。命令が変更されないなら命令違反を承知で同行する」と言ったという。
5航艦編成以来、作戦命令を作成し多くの特攻隊員を送り出してきた宮崎は宇垣に追いすがるようにして、自分もお伴をしたいと涙ながらに懇願したが、「ならぬ。残って後のことを頼む」と固く拒まれた。参謀の川原利寿少佐が宇垣長官の襟の階級章を切り取った。海軍中将の戦死を敵国に知られない為である。折りたたみの椅子の上に立ちあがった長官は、全員に最後の訓示をする。
「第5航空艦隊は全員特攻の精神をもっていままで作戦を実施してきたが、陛下の御発意により終戦のやむなきに至った。しかし今日ただいまより、本職先頭に立って沖縄に突入する」
↓↑「私兵特攻」によると、最後の特攻隊が整列し、宇垣長官の訓示を聞いた場所は戦後40年ほどハッキリとはわかっていなかった様なのですが、かつての写真の裏川の後ろに見える黒い森(萩原の天満社の森)と、さらにその背後の高城に存在した十二空廠の煙突を結んで直線を引いた延長上に特攻へ赴く隊員二十二名が整列していることから割り出され、現在地は、大分市街から東へ走る臨海産業道路が裏川を越える橋の袂から見下ろした直ぐ北の辺りだそうです。奇しくもここは昭和39年に富士航空機が着陸失敗して炎上した地点と重なり、富士航空機遭難の碑が建てられています。
かつての裏川は広々とした河口であったそうですが、現在は川幅は八分の一になり、真っすぐに海へと通じていた流れが西側へ曲げられています。別府湾岸を埋め立てて進出した新日鉄によってこの辺の地理はすっかり変わりました。戦後も大分空港として利用されていた飛行場は国東半島の東岸に移されて、飛行場跡は運動公園、大型団地、思い出の森などになっています。
↑ここで隊員が整列し、宇垣長官の訓示がおこなわれたっすか…。
↓かつては茅(かや)などが茂って海まで続いていた土手ですが、奇跡的にこの辺十メートル足らずが残されているそうです。二十二名は、このあたりの川べりに座ってパイン缶や赤飯の昼食をとり、出撃を待っていたそうです。
指揮所を出た宇垣は、隊員とともに飛行機に向かって歩き出した。その後から参謀をはじめ200名ほどの者が移動した。
中津留中尉の操縦する一番機に宇垣が近寄ったとき、すでに後部席には遠藤飛曹長が座っていた。彗星四三型は2人乗りで、後部席の偵察員が進路を計算して前の操縦員に伝えるのだが、乙飛九期の遠藤秋章は偵察のベテランであった。交代せよという宇垣の命令を聞かずに、遠藤は自席から降りようとしない。やむなく狭い後部座席に2人で乗り組むことにして、宇垣が座ったその股の間に遠藤が窮屈そうに座り、そこから宇垣は出発合図の手を振った。
↑大木正夫上飛曹 一人おいて 山川代夫上飛曹 北見武雄中尉 磯村堅少尉。
一番機が大分飛行場を別府湾上空に向けて離陸したのは、多分午後5時に近かったと思われます。一機また一機と砂塵を捲いて二度と還らぬ飛行へと、日本海軍最後の特攻機11機の艦爆彗星は飛び立って行きました。「帽ふれ!」の声に、見送る者達はちぎれるように帽子を振り続け、多くの者が頬を濡らしていました。
最後の特攻出撃者
操縦員/偵察員/備考
中津留達雄大尉(海兵70期)/遠藤秋章飛曹長(乙飛9期) /宇垣長官同乗
伊東幸彦中尉(海兵73期)/ 大木正夫上飛曹(乙飛17期)
山川代夫上飛曹(丙飛)/ 北見武雄中尉(海兵73期)
池田武徳中尉(学生13期)/ 山田勇夫上飛曹(甲飛11期)
渡辺操上飛曹(甲飛11期)/内海進中尉(学生13期)
後藤高男上飛曹(丙飛)/ 磯村堅少尉(生徒1期)
松永茂男二飛曹(特乙1期)/ 中島英雄一飛曹(乙飛18期)
藤崎孝良一飛曹(丙飛)/ 吉田利一飛曹(乙飛18期)
前田又男一飛曹(丙飛)/ 川野良介中尉(学生13期) / 不時着・生還
川野和一一飛曹(乙飛18期)/日高保一飛曹(乙飛18期)/不時着・日高一飛曹のみ死亡
二村治和一飛曹(甲飛12期)/栗原浩一二飛曹(甲飛13期)/不時着・生還
特攻隊として公式に認められなかった中津留隊の隊員は、死後二階級特進が許されず一般戦死者並みに一階級しか上がりませんでした。宇垣中将に至っては一階級も上がりませんでした。連合軍への配慮があった、といわれています。
特攻隊創設者といわれる大西瀧治郎中将や陸軍大将阿南惟幾の自刃と比べて、17名もの兵隊を死の道連れにした宇垣の自裁行為は、後世に批判を残すこととなりました。
↓大洲総合運動公園の芝生広場の片隅にひっそり建つ、「神風特別攻撃隊発進之地」の碑。
↓裏面は出撃し亡くなった方々の名前が刻まれています。
↓芝生広場の後ろは運動公園と新日本製鐵を隔てる裏川とグリーンベルトになっています。裏川は現在は宇垣長官訓示地点から北西に曲げられ大分川近くで別府湾に注いでいます。(当時は曲がらずまっすぐ別府湾にそそいでたらしい。)当時6、7万人しかなかった大分市の人口は現在40数万人に膨張しており、大分海軍飛行場があったあたりは、工業都市としてかなり“整形手術”されてしまっているようです。
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つづく