戸次から大洲総合運動公園へやって来ました。このあたりはかつて、大分海軍航空基地でした。
現在の運動公園は、戦後の昭和32年から昭和46年までここに存在した旧大分空港があった場所がほぼそのまま公園になっていますが、かつての大分海軍航空基地は下の方の図のように広範囲に広がっていました。
↓平成24年
↓昭和20年
↑大分川の対岸から見た大分海軍飛行場跡・遠景。
大分海軍航空隊
大分海軍航空隊は、昭和12年から発足した航空軍備拡充により、艦上戦闘機、艦上攻撃機の操縦、偵察実用機教程の練習航空隊として、昭和13年12月15日に開隊した。
昭和19年3月15日、大分海軍航空隊は筑波海軍航空隊(筑波空)に移転したため解隊。
以後、大分航空基地となり、第5航空艦隊司令部が置かれ、山陰・四国・九州の海軍航空隊を統轄指揮をする重要な基地となった。
第5航空艦隊
敗色濃い日本海軍が、その残存戦力を総結集して第5航空艦隊を編成したのは、終戦の年•昭和20年2月10日。宇垣纏中将が司令長官に任命され、鹿児島・鹿屋基地に赴任する。
2月10日の5航艦編成に先立ち、海軍省にて宇垣と横井俊之参謀長、宮崎専任参謀らに5航艦の任務についての説明がなされた。それによると、5航艦の任務は、練習機を含む2000機の兵力で全機特別攻撃を展開することであった。
もはや熟練搭乗員や保有機数が少なく補給も順調でない5航艦としては、危急存亡の状況下にあることは事実であり、他に特攻作戦に変わる方策がなかった。
こういう情勢で、今までは特攻は現地部隊で自発的意思に基づいて編成されてきたものが、軍令部・連合艦隊の指示意向というかたちで、特攻作戦が主用されていくことになった。
太平洋戦争の発生以来常に海軍の要職にあって作戦指揮にあたってきた宇垣纏は、山本五十六亡きあとの日本海軍の主柱として、戦況悪化の中で持ち前の闘志で全軍の士気を支えていた。相次ぐ敗報に次第に戦意を喪いつつある海軍中枢にあって、徹底抗戦を主張するのが宇垣纏と、第1航空艦隊司令長官である大西瀧治郎であった。
5航艦は迫る沖縄決戦に備えての日本海軍の総力を挙げての布陣で、まさに背水の陣であり、これに敗れればあとは本土決戦しかない状態であった。
その編成は以下の通り。
(宇垣天航空部隊=3月末の天号作戦以来の、宇垣指揮下の航空部隊の呼称)
第203航空隊(零式戦闘機 6隊)
第343航空隊(紫電戦闘機 6隊)
第171航空隊(彩雲偵察機 3隊)
第801航空隊(一式陸上攻撃機 2隊、二式飛行艇夜間偵察機 2隊)
第701航空隊(彗星艦上爆撃機 6隊)
第762航空隊(一式陸上攻撃機 4隊、銀河陸上爆撃機 4隊、及び陸軍重爆撃機 2戦隊)
第901航空隊(天山艦上攻撃機 4隊)
第721航空隊(爆撃戦闘機 6隊、一式陸上攻撃機 3隊)
この八個の航空隊を宇垣は直卒の指揮下に置いた。のちに第3航空艦隊、各練習航空隊を解隊して編成された第10航空艦隊も編入される。
宇垣長官の着任以降、鹿屋基地からは、続々と特攻機が空の彼方に消えていくようになった。
昭和20年春、沖縄決戦が迫る。
菊水作戦は、太平洋戦争末期、連合国軍の沖縄諸島方面への進攻(沖縄戦)を阻止する目的で実施された日本軍の特攻作戦である。米軍が沖縄本島に上陸を開始したのは4月1日、宇垣が沖縄の米艦艇に特攻をかける菊水一号作戦を発令したのは4月6日正午。楠木正成公の旗印に因んで名づけられたこの作戦は、宇垣の指揮下に5航艦、3航艦、10航艦と陸軍航空部隊が結集した共同作戦で、鹿屋、第一国分、第二国分、串良、知覧、新田原など九州各基地から一斉に特攻機が沖縄に殺到した。この日出撃したのは海軍特攻機164機、陸軍特攻機90機、さらに台湾からも1航艦の特攻機が出撃した。その戦果は大きく、<敵にとりては大打撃なり>と宇垣は彼の日録である『戦藻録』に記している。
以後、二号、三号とやつぎばやに菊水作戦に多くの特攻隊が投じられていく。鹿屋基地から出撃する特攻機の数は他の基地よりも多く、約千機の飛行機が、爆弾をいだいて主として沖縄方面へ飛び立っていった。
すでに老練な搭乗員は数少なく短期間の特攻訓練を経た若い飛行兵がおぼつかない操縦で出撃していった。宇垣は、その都度、飛行場にでて帽子をふりながら機影の没するまで立ち尽くしていたという。
宇垣は、「若い者が突っ込んでゆくのだから、それだけの戦果をあげるようにしてやりたい。作戦は効果のあるような立てなければならぬ」と、宮崎専任参謀たち作戦関係参謀に繰り返し言っていたという。
だが最初のうちは大きな被害と混乱を与えたとはいえ、米軍のレーダーや沖縄の陸上施設が急速に整備されるにつれて特攻の効果も薄れてゆき、いたずらに機数と兵力の消耗のみ甚だしくなっていった。
沖縄本島摩文仁(まぶに)洞窟で陸軍の牛島満第三十二軍司令官と長勇参謀長が自決して果て、壮絶だった沖縄陸上戦が終わりを告げたのが6月23日。その前日に発した菊水十号作戦で、沖縄への特攻出撃もまた幕を閉じる。
沖縄を攻略されたため、米軍の本土上陸は目前となった。日本軍は、その上陸の瞬間に一切の残存兵力を結集して水際で叩くという「本土決号作戦」に運命をゆだねるしかなく、その最後の日に備えて、5航艦の戦力が温存されることとなる。宇垣長官が横井俊之参謀長、宮崎隆先任参謀らの幕僚とともに執拗な攻撃の目標となった鹿屋から汽車で大分基地に後退して来たのは8月3日。別府湾に向かってひらけた大分飛行場は連日のように米軍機の爆撃にさらされ、基地司令部は飛行場の東南にある丘陵に掘られた横穴壕に移されていた。5航艦の司令部も壕の中に置かれた。そして待機のうちに、8月15日を迎える。
つづく
現在の運動公園は、戦後の昭和32年から昭和46年までここに存在した旧大分空港があった場所がほぼそのまま公園になっていますが、かつての大分海軍航空基地は下の方の図のように広範囲に広がっていました。
↓平成24年
↓昭和20年
↑大分川の対岸から見た大分海軍飛行場跡・遠景。
大分海軍航空隊
大分海軍航空隊は、昭和12年から発足した航空軍備拡充により、艦上戦闘機、艦上攻撃機の操縦、偵察実用機教程の練習航空隊として、昭和13年12月15日に開隊した。
昭和19年3月15日、大分海軍航空隊は筑波海軍航空隊(筑波空)に移転したため解隊。
以後、大分航空基地となり、第5航空艦隊司令部が置かれ、山陰・四国・九州の海軍航空隊を統轄指揮をする重要な基地となった。
第5航空艦隊
敗色濃い日本海軍が、その残存戦力を総結集して第5航空艦隊を編成したのは、終戦の年•昭和20年2月10日。宇垣纏中将が司令長官に任命され、鹿児島・鹿屋基地に赴任する。
2月10日の5航艦編成に先立ち、海軍省にて宇垣と横井俊之参謀長、宮崎専任参謀らに5航艦の任務についての説明がなされた。それによると、5航艦の任務は、練習機を含む2000機の兵力で全機特別攻撃を展開することであった。
もはや熟練搭乗員や保有機数が少なく補給も順調でない5航艦としては、危急存亡の状況下にあることは事実であり、他に特攻作戦に変わる方策がなかった。
こういう情勢で、今までは特攻は現地部隊で自発的意思に基づいて編成されてきたものが、軍令部・連合艦隊の指示意向というかたちで、特攻作戦が主用されていくことになった。
太平洋戦争の発生以来常に海軍の要職にあって作戦指揮にあたってきた宇垣纏は、山本五十六亡きあとの日本海軍の主柱として、戦況悪化の中で持ち前の闘志で全軍の士気を支えていた。相次ぐ敗報に次第に戦意を喪いつつある海軍中枢にあって、徹底抗戦を主張するのが宇垣纏と、第1航空艦隊司令長官である大西瀧治郎であった。
5航艦は迫る沖縄決戦に備えての日本海軍の総力を挙げての布陣で、まさに背水の陣であり、これに敗れればあとは本土決戦しかない状態であった。
その編成は以下の通り。
(宇垣天航空部隊=3月末の天号作戦以来の、宇垣指揮下の航空部隊の呼称)
第203航空隊(零式戦闘機 6隊)
第343航空隊(紫電戦闘機 6隊)
第171航空隊(彩雲偵察機 3隊)
第801航空隊(一式陸上攻撃機 2隊、二式飛行艇夜間偵察機 2隊)
第701航空隊(彗星艦上爆撃機 6隊)
第762航空隊(一式陸上攻撃機 4隊、銀河陸上爆撃機 4隊、及び陸軍重爆撃機 2戦隊)
第901航空隊(天山艦上攻撃機 4隊)
第721航空隊(爆撃戦闘機 6隊、一式陸上攻撃機 3隊)
この八個の航空隊を宇垣は直卒の指揮下に置いた。のちに第3航空艦隊、各練習航空隊を解隊して編成された第10航空艦隊も編入される。
宇垣長官の着任以降、鹿屋基地からは、続々と特攻機が空の彼方に消えていくようになった。
昭和20年春、沖縄決戦が迫る。
菊水作戦は、太平洋戦争末期、連合国軍の沖縄諸島方面への進攻(沖縄戦)を阻止する目的で実施された日本軍の特攻作戦である。米軍が沖縄本島に上陸を開始したのは4月1日、宇垣が沖縄の米艦艇に特攻をかける菊水一号作戦を発令したのは4月6日正午。楠木正成公の旗印に因んで名づけられたこの作戦は、宇垣の指揮下に5航艦、3航艦、10航艦と陸軍航空部隊が結集した共同作戦で、鹿屋、第一国分、第二国分、串良、知覧、新田原など九州各基地から一斉に特攻機が沖縄に殺到した。この日出撃したのは海軍特攻機164機、陸軍特攻機90機、さらに台湾からも1航艦の特攻機が出撃した。その戦果は大きく、<敵にとりては大打撃なり>と宇垣は彼の日録である『戦藻録』に記している。
以後、二号、三号とやつぎばやに菊水作戦に多くの特攻隊が投じられていく。鹿屋基地から出撃する特攻機の数は他の基地よりも多く、約千機の飛行機が、爆弾をいだいて主として沖縄方面へ飛び立っていった。
すでに老練な搭乗員は数少なく短期間の特攻訓練を経た若い飛行兵がおぼつかない操縦で出撃していった。宇垣は、その都度、飛行場にでて帽子をふりながら機影の没するまで立ち尽くしていたという。
宇垣は、「若い者が突っ込んでゆくのだから、それだけの戦果をあげるようにしてやりたい。作戦は効果のあるような立てなければならぬ」と、宮崎専任参謀たち作戦関係参謀に繰り返し言っていたという。
だが最初のうちは大きな被害と混乱を与えたとはいえ、米軍のレーダーや沖縄の陸上施設が急速に整備されるにつれて特攻の効果も薄れてゆき、いたずらに機数と兵力の消耗のみ甚だしくなっていった。
沖縄本島摩文仁(まぶに)洞窟で陸軍の牛島満第三十二軍司令官と長勇参謀長が自決して果て、壮絶だった沖縄陸上戦が終わりを告げたのが6月23日。その前日に発した菊水十号作戦で、沖縄への特攻出撃もまた幕を閉じる。
沖縄を攻略されたため、米軍の本土上陸は目前となった。日本軍は、その上陸の瞬間に一切の残存兵力を結集して水際で叩くという「本土決号作戦」に運命をゆだねるしかなく、その最後の日に備えて、5航艦の戦力が温存されることとなる。宇垣長官が横井俊之参謀長、宮崎隆先任参謀らの幕僚とともに執拗な攻撃の目標となった鹿屋から汽車で大分基地に後退して来たのは8月3日。別府湾に向かってひらけた大分飛行場は連日のように米軍機の爆撃にさらされ、基地司令部は飛行場の東南にある丘陵に掘られた横穴壕に移されていた。5航艦の司令部も壕の中に置かれた。そして待機のうちに、8月15日を迎える。
つづく