第66代 一条天皇 円融寺北陵。第73代 堀河天皇 後円教寺陵 | 尚吾の「人生七転び八起き」

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バレーボールと体の鍛錬、休日は、秘仏拝観、社寺仏閣巡りを楽しみ、美味しいお店に出没しています。(*^_^*)

 

11月30日、休日は京都の天皇陵巡り。


朝から京都大原に

右矢印82代、後鳥羽天皇陵

右矢印84代、順徳天皇陵


30㎞の山越えで着 

右矢印102代、後花園天皇陵

 


30㎞の山越えで嵐山に

右矢印52代、嵯峨天皇陵

右矢印91代、後宇多天皇陵

右矢印55代、文徳天皇陵


ランチナイフとフォーク右矢印嵐山 ルガラ  


ランチの後は朱山七陵に

右矢印第69第 御朱雀天皇陵・第70代 後冷泉天皇陵・第71代 後三条天皇陵



次は朱山7陵の山登りです

第66代、一条天皇 円融寺北陵。第73代、堀河天皇 後円教寺陵を目指します。


案内板が無いのでここが参道入り口か判りませんでした!(ちょっと不安)



木が生い茂っていてうす暗い参道





山の上にある天皇陵は大体こんな感じで登りますが道は整備されています。


嫁さんは嵯峨天皇陵の山登りでギブアップ、駐車場に戻り車の中で休憩中です。(正解ですね)




300m位登ったでしょうか?


ここで左に分かれ道が有ります


第59代、宇多天皇陵に行く道です。散策コースになっているようですがどれくらい時間が掛かるか判らないので止めておきます。


あと少しかな??




第66代、一条天皇 円融寺北陵。第73代、堀河天皇 後円教寺陵に着あせる


宮内庁の制札板



一条天皇 円融寺北陵

(いちじょうてんのう えんゆうじのきたのみささぎ)


堀河天皇 後円教寺陵

(ほりかわてんのう のちのえんきょうじのみささぎ)


陵形は右矢印円丘


向かって左に堀河天皇陵、右に一条天皇陵の石標建っています。


第66代天皇、一条天皇右矢印参考

在位:986年8月1日〈寛和2年6月23日〉- 1011年7月16日〈寛弘8年6月13日〉)



円融天皇の第一皇子。65代花山天皇の突然の退位により、寛和二年(986)7歳で即位。


母・詮子の父・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が摂政となる。兼家の死後、子の道隆(みちたか)・道兼(みちかね)が摂関の地位を継いだが、正暦六年・長徳元年(995)兼家の子・道長(みちなが)が右大臣ついで左大臣となって政治の実権をにぎった。在位中、清少納言、紫式部、和泉式部らが活躍。寛弘八年(1011)6月22日崩御。32歳。

第73代天皇、堀河天皇右矢印参考

(在位:1087年1月3日〈応徳3年11月26日〉- 1107年8月9日〈嘉承2年7月19日〉)


白河天皇(しらかわてんのう)の第二皇子


父の譲位により、応徳三年(1086)8歳で即位。初期は師実が摂政として政治を行い摂関政治に戻りますが、天皇が成人後は、父・上皇の院政下でありながらも、康和(こうわ)の荘園停止令をだしたり、僧徒の蜂起(ほうき)を制止するなど、親政を行い、末代の聖王と称された。


叔母で19歳年長である中宮・篤子内親王は妻というよりむしろ母代わりに近い后ながら、ともに聡明(そうめい)で文雅(ぶんが)を愛した天皇との仲は睦(むつ)まじかったといわれる。

2人の間には皇子女が誕生せず、父・白河院の差配のもとに白河院の従妹に当たる藤原苡子を女御とし、その間に皇子・宗仁親王(鳥羽天皇)が生まれた。


どこの天皇陵も陵内は奇麗に砂紋がされています。週一位で手入れされるのかな?







一条天皇 円融寺北陵


堀河天皇 後円教寺陵




ここからの眺めは奇麗で気持ち良いです音譜






御陵印は、4月6日に「月輪陵墓管区事務所」にて頂きました。





せっかくここまで来たので、山頂にある「圓融天皇火葬塚」まで行きますビックリマーク


さらに150m位登ります。




火葬塚に着



門だけで特に何もありません!



宮内庁の制札板


圓融天皇火葬塚

(えんゆうてんのう かそうつか)


第64代天皇、圓融天皇


火葬塚とは火葬場所を記念して設けた施設のこと。古代・中世においては、火葬場所を火葬塚とし、遺骨を別の墳墓に納める方式は最も格式の高い葬法とされていたそうです。

圓融天皇は円融寺の北原で火葬されたと伝えられているので、ここに塚を設けられましたが、明治時代に入ってから決定されたので、真相は不明。


では来た道を下り帰路に!



一条天皇 円融寺北陵、堀河天皇 後円教寺陵を過ぎます。




赤い丸が陵墓、オレンジの線が道筋。


この日最後の天皇陵に・・・。