日本史で習った、遣欧使節団や支倉常長らはセビリヤに来ています。その足跡を自分の足がたどっていると思うと、歴史の重さを感じてしまうのです。


スペインに来た日本人

 最初にスペインに来た日本人は天正遣欧少年使節団ではないだろうか。彼らは長崎のキリシタン大名から選ばれた伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4人だ。彼らは、1582年に長崎を出港し、インド洋・大西洋経由で84年にリスボン、エボラ、マドリードを経由して85年にイタリアの土を踏んでいる。ローマでローマ法王と謁見して86年にリスボンから帰国をしている。しかし、87年に秀吉がバテレン追放令を出したあとの1590年に長崎に戻ってきている。そのため、彼らが日本で布教をすることは実質的にはできず、千々石はキリスト教を捨て、中浦は長崎で殉教、原はマカオで死亡している。

次に訪れたのは慶長遣欧使節団の支倉常長である。彼は、伊達正宗の命令で1613年に石巻港を出港し、太平洋を横断して、メキシコ経由でセビリヤ近くのコリア・デル・リオというグアダルキビール川の港へ上陸している。1615年にスペイン国王、ローマ法王に謁見し、再びスペインに戻って本来の交渉をしている。その内容は仙台藩とスペインの通商を始めることだったが、結果は不調に終わってしまった。彼らはコリア・デル・リオに9ヶ月間滞在して帰国の途に付いたらしいが、そのままその地に残った者もいたようだ。その結果であろうか、今でもその地区には「ハポン」を姓に持つ人たちが約800人いるという。赤ちゃんに蒙古斑があるという話しもある。

支倉常長は、1920年に帰国しているが、その2年後に死んでいる。その時には既にキリシタン禁止令がでていたのも不運であった。

マゼランとコロンブス

 マゼランは世界一周をしたポルトガル人。しかしポルトガル王と仲が悪かったので、資金援助などはスペイン国王が行っている。だから西回りで、今のインドネシアにあるモルッカ諸島を目指したのだ。しかし彼はそこに到達していない。フィリピンのセブ島でキリスト教の布教を行い、それが強制的だったことから反感をかい殺されてしまった。マゼラン隊は、その後も航海を続けたが、アジア・アフリカはポルトガルの支配地だったので、補給を受けられず270人で出発した船隊は1隻となり18人が帰ってきただけだった。なお航海日誌の日付が1日ずれていたので、地球が丸いことが証明された。

セビリヤのモニュメント ジブラルタル海峡を示すモニュメント

$の縦線が二本あるのと同じ意味

コロンブスのことは11月16日の「ミハスへ170km」のところで、聞いた話を書いてあるのでそこを参照してほしい。ただ、コロンブスがアメリカ大陸を発見したことはない。新大陸に到達していたと表現すべきだ。

車窓観光9

9時58分に迎えに来ていたバスに乗り、出発。バスはスペイン広場の脇を運河にぶつかるまで走って、右折し10時10分にグアダルキビール川を渡って、66号線を北上し始めた。66号線は別名“銀の道”(Auto via de la Plata)ともいい、紀元前からセビリヤとスペイン北岸のヒホンとを結ぶ800kmの重要な交通路として、幾多の民族がこの道をたどっていたようだ。「グアダルキビール川の河原にロマ(ジプシー)の人たちのバラックがありました。以前セビリヤ市も彼らに対して住宅を準備し、そこに住むようにしたのです。しかし、いつの間にか無料でもらった家を売り払ってどこかに行ってしまったのです。その一部の人がここにも住んでいるようです。彼らの考えはどうにも分かりません。」と山上さんが話していた。

コルクガシ林 コルクガシ畑、最近は価格低迷

外はセビリヤ郊外の畑作地帯になってきた。道が山間の傾斜地に入ってくるとコルクガシの木が見える。山を見ると、雑木林というものがなく、木は1種類しか植わっていない。10時30分メディア・ファンシアトンネルを通過。この辺りにくると深い谷と山があり、バスはその中腹を走っている。

スペインの畑はこの辺りもそうだが、全面石ころだらけだ。切り通しの崖を見ても土壌の層が薄いので石を取り除いて耕すことは難しいだろう。やはり樹木栽培が適していると思われる。樹林地に下草はほとんどない。その中に石ころがたくさんあるのだが、黒土は一切見ることはない。傾斜地の畑には所々に土が流れ出たあとが見られるが、乾燥している土地でも時々雨が降って洪水を起こすのかもしれない。

切り通しの土が新しいので、この辺りの高速道路は、比較的最近に作られたか補修されたもののようだ。それにしても舗装が雑なようで良く揺れる。切り通しに土留めがなされていないのは少し怖い。しかし、広大な樹園地の中に道路を造っているので、橋やトンネルなどは滅多になく、道路の建設費は日本とは比較にならないことだろう。料金所などもほとんど出くわすことがない。
10時54分、アンダルシアを抜け、エクストレ・マドゥーラ州という最も貧しい地域に入ってきた。左右には、樹皮をはがされて赤い防腐剤を塗られたコルクガシの林が見え始めた。ここの州は、貧しかったので外へ稼ぎに行く人が多く、コルテスやピサロといった歴史上の有名人もここの出身であるという。

11時04分、依然として66号線の銀の道を100kmで走り続けている。単調な景色、単調なエンジン音、単調なタイヤの音、その音は子守歌となって車内に響いている。

11時34分、景色は全く変わらない。

ドライブインABADES スペイン最後のドライブイン

12時00分、メリダという町で5号線に乗り換え進路を東に取って、グアディアナ川を渡り、12時03分、スペイン最後のドライブインABADESに入った。日が当たっていると暑いくらいだが、曇ると寒い風を感じるのは11月と乾燥のためだろう。25分出発。12時は、スペインではお昼ではなくおやつタイムだそうで、ルイスさんは売店でスナックを買って食べていた。お昼は2時頃に食べるのが普通だという。

今度は、5号線を西に向かい、グアディアナ川を渡ってリスボンに向かい始めた。

12時40分頃、道路に並行して走る電柱上に“コウノトリ”が巣を作っているのが見える。電柱上に針金をつけて巣を作らせないようにしているものもある。



道路沿いに立つ電柱の上には、たくさんのコウノトリの巣がありました。いくつかには親鳥がいましたが、写真を撮ることができません。残念です。

セビリヤは日本との関係もあり、スペイン大繁栄の歴史のようです。


セビリヤとオペラ、黄金の塔
 セビリヤは、タルテソス、フェニキア、カルタゴ、ローマ、イスラム、カスティーリャ(今のスペイン)と多くの民族などが支配をしてきた。それだけこの辺りの重要な地域だったのだろう。そして、地中海からグアダルキビール川を80kmさかのぼった港湾都市としてとても栄えた町であった。

その繁栄を今に残すものに、オペラがある。セビリヤを舞台にした有名なオペラは、100を超えているという。セビリアの理髪師、フィガロの結婚、カルメンなど中身を知らなくても名前を聞いたことがあるはずだ。

黄金の塔 黄金の塔

運河沿いには1220年に建てられた黄金の塔があり、対岸の銀の塔とともに行き来する船の監視を行っていた。スペインはここに、中南米から運ばれてきた金銀財宝を保管していたこともあるそうだ。8時33分にバスを降り、歩いて観光をすることになった。

建物の壁にもアートがあり、昔の造船所入り口のゲートをくぐってセビリヤ大聖堂へ向かった。

セビリヤ大聖堂

セビリヤ大聖堂   セビリヤ大聖堂2

セビリヤ大聖堂        鐘楼

 8時46分にセビリヤ大聖堂についた。教会の前で入場を待っていると、地元のおじいさんがやってきて、何か話しかけてきた。どうもフランシスコ・ザビエルのファンらしい。この教会は、かつての繁栄を表すように、外観の装飾にはたくさんの彫刻などをあしらってあることからバロック建築だろうが、これもセビリヤの財力を示している。

礼拝堂の面積はバチカンに次に巨大なもので、礼拝堂の広さは、幅が約60m、長さが約100mもあった。内部には約10m間隔に、直径5mほどの柱が左右に3列ずつ合計54本も立っている。しかし、教会内には懺悔室が見えなかった。

教会内では朝のミサが行われていたが、日曜日なのに礼拝に来ている信者の数が少ないのはどうしたことだろう。9時に教会の外に出ると日曜のミサを告げる鐘の音が頭上から降ってきた。その鐘の音を響かせている鐘楼は、70mあったイスラムのミナレットの上に建物を継ぎ足して97.5mにしたものだった。ということは、この教会の前身はイスラム教のモスクということになる。ミナレットの内部は螺旋階段なので、4方の壁にある窓は壁ごとにその高さが異なっていた。

大聖堂のファサード前には市電が走っているが、大聖堂の前だけ架線がないのは景観に配慮をしているのだろう。こんなことは初めて見た。線路幅は約130cmある。

セビリヤ旧市街を歩く

民家のパティオ とある民家のパティオ

 大聖堂を正面から出ると、その前にインディアス古文書館が、その左手に旧王宮のアルカサルの城壁が見える。その城壁を右にして狭い道を入っていくと、エルビラ婦人の噴水広場に出た。この広場は白、黄土色、焦げ茶色の家に囲まれ、幅2mの路地が5本入ってきている。路地のひとつを歩いていくとまた広場。ピメンタ(胡椒)通り、アクア(水)通りを歩いて王宮の裏手のムリリョ公園に出た。隣がアルガビージ侯爵の貴族の館。その路地を抜けるとまた広場があり、途中の家々は自宅のパティオを自由に観光客に見せていた。このようなパティオをパティーレ(閉ざされた空間)という。路地を歩いて、サンタ・テレサ尼僧付属教会の脇を通り、シメネス・デ・エンシソ通りを歩いて、9時25分にアプテサニア・サンタ・テレサというお土産店にトイレ休憩を兼ねて入った。この辺りは狭い路地なのに1階はみんなお店になっている。しかし、ほとんどがシャッターを下ろしている。山上さんから「ヨーロッパの古い町は建物の有効利用のために、1階は商店、2階以上を住居にするように市が規制をしているのです。今は観光シーズンではありませんからシャッターも締まり人もいませんが、シーズンになるとこの路地は人でいっぱいになってしまいます。」と聞いてから出発。

途中のさらに幅の狭いキス通りを横に見てロペ・デ・ルエタ通りを進むと、20m以上の巨大なタイサンボクとゴムの木がある大きな公園に出てきた。そこを出ると、コロンブスの新大陸到達を記念したモニュメントが建てられている。モニュメントにある2本の柱は、ジブラルタル海峡でヘラクレスの門を示している。それがアメリカドル($)にある縦線にもなっている。

 

セビリヤには500年前に2組の日本人がやってきているのです。

スペインは大きな国ですが、旅行で移動してみると、それを実感できます。

汽車という歌の歌詞は、日本の地形を良く表しているのですが、スペインはそれとは真逆の感じがしてしまいます。


11月17日(日)

朝食

 依然として胃の調子が良くない。夜中に一度トイレに起きてから、6時のモーニングコールで起き出した。今日も観光をしてから400kmの長距離移動なので、楽な服装に着替え、荷物もさっさと整理し鍵を閉めて6時40分にレストランへ行った。まだ薄暗いホテルの外に出ると、少し寒い感じでやや風があるようだ。

朝食もビュッフェスタイルで、レストランが6時45分に開くと同時に料理を取り始め、食べ始めた。
セビリアの朝食 昨日のつらさがにじみ出ている朝食
メニュー

バナナ、キウィ、ヨーグルト、温かい牛乳

昨日の夕食後におかしくなったので、朝は極力少なくし、特にパンなどのでんぷん質は取らないようにした。バナナはまだ青い感じで少し硬く、皮をむいてないキウィは取るべきではない。その中で、温かい牛乳がもらえたのはとても助かった。この牛乳を少しずつ飲んだとき、おなかが元気になってくる感じがしたのだ。7時に終了。

もちろん食後に部屋へ戻って消化薬を飲んだことはいうまでもない。

出発

 歯磨きなどをしているうちに、7時20分になったのでロビーへ下りた。山上さんに挨拶をしてから、バスの指定席に座ったのは、ちょうど7時30分だった。今日の席は運転手側の5・6列目で1日ごとに前に進んでいく。

このころようやく東の空が白み始めてきたが、まだ街灯の明かりが輝いてみえている。ホテルの前の道路を走る車もまばらだ。今日は最初にセビリア大聖堂を観光するのだが、この暗さの中で大丈夫なのだろうか。

バスは7時36分に出発した。山上さんが「皆さんおはようございます。今日はルイスさんに長く働いてもらいますので、大きな拍手をお願いします。」大拍手。するとルイスさんが「ボンディーヤ」とポルトガル語でおはようとご挨拶。いつものように「忘れ物はありませんか」と注意をして、セビリヤの観光がスタートした。

バスは、ジャカランタの並木道を走っていく。ほかにもニセアカシヤ、センダン、シュロ、バショウの枝が道に被さるように生い茂っている。それを剪定しないところに雰囲気があって良い。日本ならすぐに丸坊主にされてしまう。

スペイン広場

 7時50分にセビリヤの旧市街地に入ってきた。外気温は7℃。ヒラルダの塔、スペイン広場、アルカサルの城壁、カルメンのタバコ工場などを車窓から見て、スペイン広場に戻ってきた。そこで今日の現地ガイド“エドワルドさん”と待ち合わせて合流し、8時00分からスペイン広場の観光になった。

スペイン広場     ガイドのエドワルドさん   

左側に広場が広がるスペイン広場  ガイドのエドワルドさん

このスペイン広場は、1929年のイベロ・アメリカ博覧会のメイン会場として作られた建物と広場である。1898年までに、植民地だった中南米の国のほとんどは独立をしてしまい、スペインの栄光は失われてしまっていた。そこで、それらの国々との関係を維持していくために、この博覧会が開かれたものである。しかしこの博覧会はその年に始まった世界恐慌による経済の大混乱のため、本来の目的を果たすことなく終わってしまったようだ。このころの日本は治安維持法の下で多くの人が弾圧される暗黒の時代を迎えていたように、1929年の世界史を見ると良い記述がある国はほとんどない。

メイン会場となったスペイン広場は真ん中に噴水のある横幅150mほどの楕円形の庭を持ち、その外側を取り巻くように浅い池、その外側に大きな建物を配置してある。建物と楕円形の庭は4つの橋でつながれている。建物の壁には上段に中南米で活動した探検家のレリーフが、下段に参加国を示すカラーのモザイクタイルがはめ込まれている。そこは各国のパンフレット配布所でもあった。上段の探検家の名前を見ると、ピサロやコロンブス、マゼランなどでいずれも中南米などで原住民を大量に虐殺した人たちだ。このような位置関係は、“スペインが未開のお前たちを征服したのだぞ”というような見下し目線を感じてしまうのは思い過ごしであろうか。博覧会のために、参加国のパビリオンが市内の各所に作られ、その建物は現在でも使われているという。なおこの広場では、アラビアのロレンスとスターウォーズエピソード2のロケが行われたそうだ。8時25分出発。


つぎは、セビリヤ大聖堂へ行きます。それにしても添乗員の山上さんはセビリヤを「セーリャ」と言うのです。アクセントもビを強くリズムを付けて発音していたので、未だに耳から離れません。

ミハスからセビリヤののホテル・ベルティスにチェックインしました。


ミハス出発

 バスは4時10分にミハスを出発した。急坂を下りるときに前方の地中海の彼方に再びアフリカが見えている。地中海道路を引き返していくが、右手はずっと地中海沿岸のリゾート地帯になっている。途中、日本のある宗教団体が建てたというパゴタも見えるがこの土地には似つかわしくない。山上さんが「お金持ちはコスタ・デル・ソルへリゾートに来たとき、必ずホテルに泊まれるように、気に入ったホテルの部屋を1年中予約しているのです。ですから、ホテルがガラガラでも宿泊状況は満室になっているのです。ホテルは、いつそのようなお客さんが来ても良いように、食材などは常に準備をしているそうです。」という、とんでもない話を聞いているうちに、バスは4時34分に、A46号線で内陸に向かい始め、10分ほど走ってA45号線に乗り換えて山間の道に入っていった。

車窓観光8

5時ごろ山間地を越え北側の平野に入ってきたが、やがてアンテケラという町の付近で92号線に乗り換えて西の方向に進み始めた。

スペインの道路を走っていると、時々道沿いや丘の上に黒い雄牛の看板を目にすることがある。この看板はスペインのブランデーメーカー「オズボーン社」の屋外看板だったが、屋外広告が禁止されたため、撤去しようとした。しかし、その完璧な雄牛の姿を気に入っていた人たちから保存要求が出され、それならばと、黒く塗りつぶして、その姿だけを残して現在に至っているという。

5時22分、トイレ休憩のためにドライブインのABADESに入り、45分に出発。

夕焼け アンダルシアの赤い夕陽

6時00分、アンダルシアの赤い夕日に向かって、オリーブ畑の中をバスは時速100kmで走っていく。6時20分、暮れなずむ中で標識を見ると、セビリヤまであと62kmと出ていた。あと1時間くらいだ。7時、すっかり暗くなってしまったが、ようやくセビリヤの町に入ってきた。今日一日で400kmも移動してくるとさすがに体に応えてくる。

ホテル VERTICE

ホテルベルティスの朝 ロビーは50m先にあるホテルベルティス

 7時05分に高速92号線のすぐそばのホテル・ベルティスに着き、バスを降りてから50m近くを歩いてロビーに入ったが、その時、外の空気は冷えてきていた。

チェックインを済ませた山上さんが「今日の夕食は8時からで、受付脇のレストランでビュッフェスタイルです。明日は6時にモーニングコールをお願いしてあります。朝食は6時45分からで場所は同じです。出発は7時30分と少し早くなります。」と連絡をして113号室の鍵を渡された。荷物を持って部屋に入ったのが25分。荷物を開け整理をしているうちに50分になったのでロビーの階へ下りていくと、レストランは8時ちょうどに明かりがついて入れてくれた。

夕食

ビュッフェスタイルなので、こちらの時間で料理を食べることができるのはよいのだが、夕食でこのスタイルを経験したことはほとんどないので、何か変な感じがする。

ホテルベルティスの夕食 珍しく野菜が多い夕食

取ってきたメニューは

キノコのスープ、パエリヤ、ラザニア、トリ肉のロースト、サラダ(モヤシ、白アスパラガス、生タマネギ、レタス、オリーブ)、ヨーグルト、アンズ、リンゴ

野菜が豊富に出てきたのは、このホテルのグレードが高いからであろうか。料理の味付けは悪くないが、ヨーグルトを食べるとうまくない。プレーンだと思って持ってきたのだが、果汁や砂糖が入っていたからかもしれない。疲れからだろうか気持ちが悪くなってきた。

気持ちが悪い

9時前に部屋に戻ってきたが、どうにも気持ちが良くないので、トイレに入って少し吐いてしまった。それでも気持ちが悪いので、そのままベッドに寝ようとしたが、掛けるものが何もない。シャワーも浴びず、クローゼットから毛布を取り出してそのまま寝てしまった。目を覚ましたときは11時を過ぎていた。カメラの充電や歯磨きをし、服を着替えてから再びベッドに潜り込んだ時は11時30分を過ぎていたが、気持ちは悪い。でもその後眠ったようで、トイレに1度起きただけで朝まで眠っていた。

113号室

ホテルベルティスの113号室 明かりが薄暗い113号室

 113号室が今日の部屋だが、毛布をセットしていないベッドメーキングを除けば清潔でよい。音も静かである。暖房を入れれば良いのかもしれないが、眠るときのエアコンは苦手なので、少し寒い中を眠ることにした。洗面浴室についても、お湯はたっぷり出るし清潔だし問題はない。ただ、どこでもそうだがトイレがウォシュレットでないことが最大のネックだ。トイレットペーパーの質は良く幅は10cmとヨーロッパサイズ。

水道の水は、硬水なのでセッケンの泡立ちが良くないし、手や顔に着いたセッケンなどは落ちにくく、ペタペタしている感じがする。


旅の疲れがあったのでしょうか。体調を壊してしまったのです。海外旅行では初めてのことです。長距離移動はしていても、運動量は少ないですし、料理はその土地の食べ物をたくさん食べてみたいし・・・。というのが原因のようです。

それ以来、朝食ではパンなど炭水化物を食べないようにしています。

ミハスは、きれいな町です。地中海沿岸はやはりヨーロッパのリゾート地帯ですね。


車窓観光7 ドライブイン Mansanil
ドライブイン マンサニル ドライブインMansanil
 車窓から見える畑は依然として変わらないが、太陽光発電パネルを大規模に設置したところが何カ所も見えている。

走り始めて2時間近く経った1時28分、“Mansanil”というドライブインでトイレ休憩を取ることになった。かなり大きなドライブインだったが、先を急ぐので、12分後の40分に出発。やがて、A46号線に乗り換え山間地に入り、2時23分、単調な風景の中をA7号線の地中海道路に乗り換えミハスに向かって走り始めた。山間地から地中海沿岸に至る長い下り坂をバスはエンジンブレーキをきかせながら走っていくと、前方に町らしきものが見えて生きた。26分に川を渡り、谷を越え、登り坂を走り、トンネルをくぐると、目の前に地中海のブルーと太陽海岸(コスタ・デル・ソル)が広がってきた。左手にはマラガの町があり、海岸にはリゾートマンションがずらりと建っている。

やがて急坂を上りはじめ2時48分にミハスの町に到着した。

ミハス

ミハス   アクセサリーのamapola

ミハスの町          アクセサリーのamapola

 この町の斜面には白い漆喰を塗った家々が、ところ狭しと建っている。たしかに、11月でも半袖でいられるくらいの暖かさだから、夏の暑さ対策は十分にしておかないと乗り切れないのだろう。

ミハスの観光街の地図を配られてから、ロバのタクシー乗り場のそばでバスを降りるとカミナリが鳴っている。山上さんに坂を上がったところの広場まで案内され、3時から自由行動になった。広場からは坂の上に闘牛場が見えている。広場を取り囲むお店の間を入るとそこに“amapola”という日本人経営のアクセサリー店があり、そこでトイレを拝借。最近は別の通りにエニエというお店も開店しているという。その後、日本のテレビが、この店とご主人がデンマーク人女性経営者を紹介していた。隣には“NOVO”という雑貨店もある。その間をさらに入ったところが展望台で、遙か北アフリカがうっすらと見えていた。

広場に戻り、坂を上がると闘牛場。闘牛を行っていないのに入場料を取るというので、15分にもう一つの展望台から地中海・北アフリカを見て、隣にあるモスクを改装した教会に入った。教会の内部は薄暗く、天井はモスクの名残の木組みになっていた。

3時21分、雨に濡れた石畳の坂を下りて広場を通り過ぎ、左の道をたどって少し進んでサン・セバスチャン通りの緩い坂を上っていった。この通りの左右は小さなお土産物店やレストラン、喫茶店がびっしりと建ち並んでいるが、店の裏側はパティオのように作られ、海を見ながら食事ができるようになっている。横道を歩いて目印にされた黄色いポストにたどり着き、その左にある30段の階段を下りるとすぐ右手に無料の公衆トイレがあった。目の前の広場を歩くと、そこには巨大なゴムの木、ナツメヤシ、ニセアカシアなどが木陰を作り、広場脇には馬車が客待ちをしている。次に、道を横切ってロバのタクシーの前を通り過ぎ、海側にある“ほこらの礼拝堂”を見に行くことにした。

ほこらの礼拝堂 ほこらの礼拝堂

韓国からの観光客がいたので“アンニョンハセヨ”とご挨拶、カメラを落とした人がいたので“ケンチャナヨ”と国際交流。この辺りはロバや馬が合計で20頭近くいるので大変良い匂いがしている。

3時57分にバスに戻り、4時05分乗車。これからセビリヤまで225kmの長距離移動だ。

ミハス外聞

 ミハスは小さくかわいい町だ。今から何年前のことだったのだろうか。1980年代だったような記憶がある。ある時、この町にアラブのお金持ちが、観光に来た。一族を客船に乗せこの町に来て、ホテルを全部借り切ってしまったそうだ。

ここで滞在中に、使用人を高給で募集したら、多くの人が応募した。その時、不採用になった人たちに、お金持ちは1万円程度の慰労金を渡したという。また、この町の時計店に入った一族の男性は、店内にある高価な時計を全て買い占めていった。何に使うのかと聞くと、国に帰って友人などのお土産にすると答えたそうだ。もちろん貴金属店には女性たちが出かけ、大量に買っていったという。金に糸目をつけず良いものを求めていったことはいうまでもない。

町の商店は、すぐに他の町へから高級品を大量に仕入れてきたことはいうまでもない。

この話は、山上さんが概略を話してくれたのだが、以前、新聞の記事として、スペインのあるリゾ-ト地が時ならぬ好景気になり、ほかの町もアラブのお金持ちが来ることを願っている、と日本でも紹介されたことを思い出した。それがミハスであることはこのときまで知らなかった。アラブのお金持ちは、いったいどのくらいお金を持っているのだろうか。


ミハスの話をいろいろ聞いていると、世界にはとんでもないお金持ちがいるのだと言うことを思い知らされます。

アルハンブラ宮殿の余韻を残して、宮殿の丘を降り、昼食をとってミハスへ向かいます。


寄木細工店ARCO

寄木細工 寄木細工の飾り

 アルハンブラ宮殿からグラナダの町に下りてくると、川に沿った傾斜地に寄木細工店のARCOという店があった。10時40分。ここでお買い物を兼ねてトイレ休憩になった。この店には、箱根の寄木細工と同じ方法で作品を作っているが、削られる木片の厚さは箱根の2倍くらいで、それを使用した作品にはプラスチックや金属なども使われていた。それらは主に装飾品で、ほかにも青と白を基調とした装飾タイルなども売っている。

1つひとつは記念になりそうなものだが、買っても家のどこに置くか考えると手が出なくなってしまう。11時11分にバスに戻り14分に出発。
昼食

 この辺りの傾斜地には、洞窟を掘ってそれを住居にしている人たちもいる。洞窟は夏の暑さを防ぎ、冬は暖かいから生活はしやすいことだろう。ジプシーの人たちも良く住んでいるそうだ。市街地に入ってきて11時24分にバスを降りて歩き、28分にレストランの“POCO MARTIN”についた。

グラナダの昼食1   グラナダの昼食2

鶏肉のスープ         子牛のステーキ

グラナダの昼食3 デザートは黄桃

メニュー

飲み物は国産ビールのCruzcampoを注文。33cl、4.9%、2.9ユーロ

33clと表示してあるのがヨーロッパ的でよい。味はスペインだからやや苦みが強いが平均的である。

①前菜 トリ肉のスープ  クルトン、ゆで卵が入っている。

うす味でだしが出ているが、少しぬるい。

②主菜 子牛のステーキガーリックオリーブオイルソースがけ ポテト

 フライ添え

 子牛といわれて“柔らかい”というイメージを持って待っていたが、

 薄くて硬い。

あごの筋肉の訓練のようだ。

③デザート 黄桃  お皿にのせられた半分の黄桃で缶詰。

 味は甘いだけ。

デザートは12時20分に来たが、それはレストランに着席してから50分後のことだったのだ。料理と料理の間のなんと長いことか。これがスペイン流と言ってしまえばそれまでだが、我々はこの後400km走らなければいけないから、気持ちのどこかに焦りがある。また相変わらず料理には緑のものがない。

そばで食事をしている人を見ると、ワインか水、丸パン、スープ、野菜サラダ、ブルーベリーがテーブルの上に載っているだけだ。昼食だからこの程度なのだろうか。

ミハスへ170kmの移動

シエラネバダの雪 シエラネバダの雪山

 12時38分、路上駐車のバスに急いで乗り込み出発。バスが右後ろにシェラネバダの雪山を見て高速道路を走り始めると、すぐに郊外の農村地帯になってしまった。1時にはユーカリの平地林があちこちに見えてきた。道路の標示を見るとA92号線となっている。山上さんが歴史を交えて30分以上も話を続けている。全部を記憶にとどめることはできないが、その一部を書き留めておいた。「サンタフェとは“聖なる約束”という意味です。これはコロンブスがイザベル1世とフェルナンド2世と交わした新大陸発見の契約書を指しています。その中には、コロンブスは、新大陸から得られた利益の10%を手に入れられると書いてあったのです。」という話しだった。

ちなみにコロンブスはイタリア人で、彼は大西洋を横断してインドに行こうとしたのだ。だから新大陸に到達したあと、そこにいた人たちをインド人(インディアン・インディオ)と呼んでしまった。コロンブスは死ぬまでそこがインドだと思っていたという。彼は最初自分の計画をポルトガルの王に持ちかけたが拒否され、その後イザベラ1世、イギリス王、フランス王にも宣伝したが全て拒否されている。

あきらめかけたときにスペインがようやく認めたので航海が実現したが、出港しても船員達は不安から反乱を起こし、あと3日で見つからなければ帰港すると約束せざるを得なかった。運の良いことに2日目に陸地を見つけたそうだ。その後、4回新大陸に行っているが、その間コロンブス隊はその地で数万人の人を虐殺し、新大陸の人に不潔な病気を伝染させて多くの犠牲者を出したことはあまり知られていない。ほめられた話しではない。


とにかく、観光地間の移動は100km200kmは当たり前でしたから、移動するときの車内の暇なこと。腰が痛くなってしまいます。

アルハンブラ宮殿の中に入ります。イベリア半島を版図としたイスラムの王様がこの宮殿を建てたのですが、そこには王様が、理想として描いた建物があったのです。


アルハンブラ宮殿

アルベルトさん ガイドのアルベルトさん

 現地ガイドのアルベルトさんが5分遅刻してきたのを待ち、8時35分から観光に出発。宮殿の塀に沿って、木立が作る木陰を10分ほど歩いていくときに、アルベルトさんが「アラビア語から生まれた言葉がたくさんあります。日本語には何がありますか?アルコールやアルカリがそうです。栗の木をカスターニョといいますが、これからカスタネットという言葉が生まれています。アルハンブラの水はシェラネバダから20kmの水道で引かれ、それはこの辺りの畑にも使われていますので、それはラスベガスとなっています。アメリカのラスベガスもアラビア語が起源になります。ベガがオアシスという意味なのです。」と話してくれた。

やがて、サンタ・マリア教会の大きな建物の隣にある、16世紀に建てられた“カルロス5世宮殿”にたどり着きそこに入った。この建物、外観はシンプルだが、内部は豪華な2階建てになっていた。円形の中庭は、1本4.5トンもある集塊岩の柱30本で囲まれている。もちろん中庭の中心には水は出ていないが、噴水が作られている。

次にカルロス5世の宮殿を出て前庭を通り、右に曲がって坂を50mほど下っていくとチケット売り場があった。8時54分にチケットをもらって進んでいくと、オレンジの木を植えてある“入口のパティオ”に入った。そこで、時間差入場のためしばらく待たされたのは、観光をスムーズに進めるためらしい。待つ間に「アルハンブラ宮殿の城壁は長さ1kmの船型になっています。ここには最初ローマ時代に砦がありました。8世紀にイスラム教徒がスペインを占領しましたが、このアルハンブラ宮殿は14~15世紀に建設され22人の王様がここで生活をしました。キリスト教徒によるレコンキスタはここグラナダが陥落した1492年を持って完成したのです。」とアルベルトさんが説明をしている。

順番がきて中に入ると、そこはマテューカのパティオ。一度荒れ果ててしまったが、ペドロ・マチューカがアルハンブラ宮殿の図面を作成するときに、この部屋を作業場所にしたそうだ。本来は重臣や王に訴えてくる人たちがここで待たされ、隣のメスアールという部屋に通されたそうだ。ここで、実質的な政治が行われ、また王はその隣の黄金の間で政治をしていたそうだ。

この辺りの天井はレバノン杉の組木で装飾されている。その模様はアラビア風の幾何学模様で、基本は正方形を2つ組み合わせたものになっていた。ちなみにユダヤ人は正三角形を2つ組み合わせたダビデの星を使っている。正方形を2つ使うと、それは東西南北の8方位を表すことにもなるので、アラビア人商人や砂漠を移動したアラブ人の生活とも一致しているとも思えた。各部屋には、たいてい中央に噴水が作られ、壁一面に青を中心とした幾何学模
様のモザイクタイルや、アラビア文字のコーランの文章をあしらった装飾壁がはめ込まれている。

コーランのタイル壁 コーランのタイルの壁

コマーレスのパティオ  ライオンの中庭

コマーレスのパティオ    ライオンの中庭

次に、コマーレスのパティオに入った。ここはそれまでとは全く違った雰囲気で、広い庭の中央に細長い池があり、その周囲には回廊が造られていた。池の水面に映る宮殿の建物には独特の美しさがある。ここがアルハンブラ宮殿の中心となっている。

コマーレスのパティオの後ろ側に“大使の間”があり、王はこの部屋で外国の大使を謁見しレセプションなどを開いていた。この部屋も壁いっぱいに細かい装飾がなされている。

大使の間を出て、浴場などを見ながら長い廊下を歩き、王の日常の居室がある“ライオンの中庭”というパティオに入った。この中庭の中央には12頭のライオンの像をあしらった噴水がある。王は中庭に面した部屋に住み、その左手の部屋に愛妾が住んでいた。王の右手には、4人の妻が生活していた“二姉妹の間”があった。“二姉妹の間”はロの字型の2階建てで、各妻はそれぞれ1辺を占めて生活していた。妻たちはお互いの部屋の中を見ることはできず、小さなすかし窓からお互いを見るだけであった。ロの字の中央には噴水が作られ、その水はライオンの噴水へ流れるようになっている。

ライオンの中庭から外に出るとそこにはたくさんの樹木が植えられた庭園があった。アラビア、ヨーロッパ、アフリカ、アジアの珍しい木々が植えられ、中には日本の柿もあり赤い実をつけていた。スペインのオレンジもその起源は中国であるという。9時44分。

9時56分、城壁に沿って進むと“インファンタスの塔”があり、その下には騎馬兵が直接城内へ駆け込める通路も造ってあった。

ヘネラリーフェ庭園

ヘネラリーフェ庭園 噴水のある庭園

9時57分、ヒエロ門から宮殿を抜けて、“ヘネラリーフェ庭園”に入った。庭園には様々な樹木や草花が植えられ、よく手入れがされている。

何段かの階段を上がって“アセキアの中庭”に入ると、そこには何本もの噴水のある池の周囲に回廊を巡らせた庭園があった。噴水から噴き出す水が陽光にきらめく庭園は、アラブ人が理想とした天国を表すようである。

ここにふんだんにある水は、どこから来ているのかが疑問になった。するとアルベルトさんが「ここの水は全てネバダの山から引いてきたものです。引いてきた水は宮殿の裏山の貯水池にためられ、そこから自然に落下させています。水は宮殿で上水、中水、下水に分けられ、上水と中水は下の市街地にも流されて利用され、最終的には畑の灌漑用に使われたのです。宮殿の下水は町を迂回してその外に流されていました。噴水から噴き出している水も全て自然の水圧を利用しています。」とアラブの人たちの水利用の考えと技術をいろいろ話してくれた。

その後、太い糸杉が両側にそびえる並木道を歩いて、10時31分に駐車場に戻ってきて出発。もと来た坂道を下りていくと、右手にグラナダの市街地が見えている。


アルハンブラ宮殿はやはり一見の価値がある場所です。

イスラムの王は、民衆を配慮した政策をとっていることを知ることができます。それも王の人柄によりますが。

今日はアルハンブラ宮殿に行きます。その前に朝食でスタミナを付けましょう。

車内では、相変わらず、山上さんの快調なトークが行われます。


11月16日(土)

朝食

 3時半頃には目が覚めてしまった。そのままウツラウツラしているうちに4時50分になり、5時30分になったので起きてしまった。出発の準備をしているうちにモーニングコールが鳴り、6時50分にスーツケースを廊下に出してレストランへ行くことにした。

7時数分前に着いたのでレストランはまだ開いていない。

今日の気温は0℃だと言っていたが、そこまで下がっている感じがしない。

グラナダは福島原発とほぼ同じ緯度にあるから、冬至に近い今は日の出が6時20分頃だろう。しかし、それは時計を1時間早めているスペインだと、7時20分になってしまう。日の出まではあと20分もあるので、まだ外は暗闇だ。

7時にレストランが開いたが、まだほとんど人がいないので、ゆったりと食べ物を集め、14分に席についてゆったりと食べ始めた。

グラナダの朝食 ちょっと多めの朝食

メニューは

クロワッサン、チョコパン、ベーコン2、ソーセージ2、サラミ2、チーズ2,ゆで卵2,スクランブルエッグ、パイナップル2切れ、デーツ3,オレンジ、牛乳、ヨーグルト

たくさん食べているように見えるが、パンは小さめ、ベーコンなどはスライスなので、全体の量は少ない。相変わらず野菜が少ないが、果物で補っている。スクランブルエッグが初めて出たが、塩味が強くお焦げも入っている。

それでも今日の朝食が、今回の旅行でやっとまともな物になってきた感じがする

7時35分に終了し部屋に戻った。

出発

 部屋で少しの休憩をしてから、8時02分になったのでロビーへ下りていった。バスの座席を見ると右側の7・8列目になっていたのでそこに着席。ホテルの外に出るとやはり冷え込んだのだろう。駐車してある車の屋根には真っ白に霜が降りている。南を見ると昨夜の雪でシェラネバダが白く輝いている。皆さんようやく旅になれてきたのだろうか、バスの中には朝から笑い声がおきている。

バスは8時13分に、アルハンブラ宮殿を目指して出発した。山上さんが「皆さんおはようございます。今日も運転はルイスさんにお願いします。ルイスさんよろしくお願いします。」拍手「皆さんお忘れ物はありませんか。今だったらまだ引き返せますが、5分過ぎるとホテルに戻りませんから、心当たりの方は早く言ってください。今日はこの後、アルハンブラ宮殿を観光し、ミハスに行きます。そこで自由時間を取ってから、セビーリャまで行くことになっています。今日も昨日に引き続き、長距離移動ですので、途中トイレ休憩などを取りながら進んでいきたいと思っています。」と日程を説明した後「グラナダの旧市街地にはマイクロバスも入れなくなりましたので、遠回りをしなければなりません。昨日は冷えたようで、3482mのシエラネバダにも雪が積もりとてもきれいな姿になっています。」バスの前方には真っ白になった山々がとてもきれいに見えている。バスは、市街地に入れない関係から、グラナダの外側に作られたバイパスのような高速道路を走っている。

「アルハンブラ宮殿はイスラムの王が造った物です。イスラムの人たちが最もおそれたことは、他の人からの嫉妬の目でした。他人から嫉妬の目を向けられると、世の中でスムーズに生活できませんし、支配者はその支持を失うかもしれなかったのです。そこで、彼らは自分の家を建てると、その外面はきわめて質素にして目立たなくしました。その代わり、内部には自分の理想空間を作りだしたのです。」と説明を受けている間に、バスは、アルハンブラの南側から坂道を上りはじめ8時30分に駐車場に着いた。この辺りの山の色は赤い。


いよいよ、アルハンブラ宮殿に到着しました。この後宮殿の中に入ります。

メスキータからホテルに移動しました。その途中のルケという小さな町の売店のお兄さんは商売上手でした。


ローマ橋

ローマ橋から見たメスキータ 写真右上の建物がメスキータ

 メスキータを下りきると、正面にローマ橋があった。そこからは、旧コルドバに入る門(16世紀)、ローマ橋(BC1世紀)、カラオーラの塔(14世紀)、橋の中程のサン・ラファエルの塔(18世紀)が見える。橋はローマ時代に造られたものだが、ローマ人の建築技術の高さには驚いてしまう。橋は彼らが得意としたアーチ構造で、橋桁は上流側を尖らせ、下流側を丸くして洪水でも壊れないようにしてあった。そのまま橋を渡りきってから、もう一度メスキータを遠望しバスに乗車して5時10分に出発。コルドバの町はオレンジとナツメヤシの並木が多く、たくさんの実をみのらせている。

ルケ

 町を一歩出るとまた畑の連続。少しずつ夕闇を感じる中をバスはグラナダを目指して進んでいった。やがて、6時04分、ルケというかつて鉄道の駅があった町に入り、元駅舎を改造した売店に、トイレ休憩を兼ねて入った。この売店のお兄さんは、片言の日本語でオリーブの実、オリーブオイル、オリーブオイルのハンドクリーム、アーモンド、乾燥イチジクなどを売っている。「1つで2ユーロ、3つで5ユーロ、これはこれ、それはそれ、あれはあれ」などと覚えている日本語を並べ、響きの良い呼び声を出している。それにつられ、皆さんご購入。確かに安いものだ。6時25分、暗くなったルケの売店を出発。

グラナダ

ホテルCAMINO ホテルCAMINO

 周りがほとんど見えない中をバスは走り続けるうちに、7時10分に30km先にグラナダの灯が見えはじめ、7時47分にホテル“CAMINO”に到着した。

山上さんが「今日、洞窟のフラメンコショーに行かれる方は、この後、バスが8時30分に迎えに来ます。夕食は8時からですので部屋に荷物を置いてすぐに夕食になります。明日は、6時15分モーニングコールをします。ポーターさんに荷物を回収してもらいますので、スーツケースを7時30分までに廊下に出しておいて下さい。朝食は7時からで、出発は8時15分です。」という注意を受け、102号室の鍵をもらって移動。小さくて混雑したエレベーターで2階の部屋に荷物を運び、すぐに1階のレストランへ移動した。

夕食

8時05分、レストランに着席。

ホテルCAMINOの夕食1   ホテルCAMINOの夕食2

ビールと菜のスープ     メルルーサのソースがけ

ホテルCAMINOの夕食3 デザートの米のプリン

飲み物は、地ビールのアルハンブラビール 330cc 2.2ユーロ

このビールは、今まで以上に苦みが強い。スペインの人は苦みの強いビールが好きなのだろうか。パンは精白してないやや硬いもの。噛んでいると旨味が出てくる。

①前菜 トマト味の野菜スープ  パン、溶きタマゴ、インゲン入り

 味は微妙だが、手が込んだ作りをしているので美味しいとしておこ

 う。

②主菜 蒸したメルルーサのソースがけ、ミックスベジタブルとフライ

 ドポテト添え

 ミックスベジタブルは缶詰だろう。メルルーサは身が柔らかく味が淡

 泊な魚なので、魚肉の味はあまりしない。

③デザート 米のプリン

 ただ甘いだけで美味しくないのに加えて、器にたくさん入れられてある。食べ物は残さない主義なのだが、さすがにこれは残さざるを得なかった。

フラメンコショーに行く方は早めに席を立ち、そうでない人はそのまま食事を続けて、9時05分終了。

102号室

ホテルCAMINO102号室 防音効果がない102号室

 部屋に戻ると、荷物を開ける元気もない。連日の長距離移動と坂道歩行は体のスタミナをどんどん奪っているようだ。とりあえず、ベッドに横たわって少し眠ってしまったようだ。目をさましたのは10時30分頃だっただろうか。外がうるさい。外国の若者たちがこのホテルに泊まるようだ。部屋の窓から下を見ると、そこは狭いパティオになっていて、ロビーと筒抜けになっている。おまけにこの部屋の窓の防音はほとんど効果がないときている。廊下の足音もはっきりと聞こえてくるが、それらの物音も夜中には収まるだろう。

フロに入ると、シャワーの位置が固定式で2mほどの高さにつけられているので、うまく使用できない。やむを得ずバスタブにお湯を張って入ることにした。水が乏しいといわれているスペインでは少し贅沢な感じだ。明日の準備などを確認してベッドに入ったときは11時を過ぎていたが、そのうち廊下に足音が聞こえてきた。フラメンコの人たちが帰ってきたのだろう。今日は眠ることができるだろうか。


フラメンコを見てきた人は、それなりの文化を感じてきたようだが、ホコリが立って、飲み物にまで入ってきたと言っていたのです。


今日はメスキータです。良いです。とても良いです。



メスキータ

 塀に沿って歩き、3時13分に「メスキータ」の中庭(パティオ)に入った。

メスキータの中庭  メスキータの内部

メスキータの中庭とミナレット  メスキータの内部

ガイドのホアンさん   石柱

ガイドのホアンさん      石柱とサイン

ミヒラーブ ミヒラーブとそれが示すキブラ

中庭の周囲には回廊が巡らされて日陰を作り、中庭には、噴水が作られ、たくさんのナツメヤシが茂り、20本近くのオレンジが黄色い実をたくさんつけている。南西の角には、モスクのミナレットの外側を覆うようにして、キリスト教会の鐘楼が増築されていた。それは17世紀のことだったそうだ。

19分にガイドのホアンさんと合流し、メスキータの礼拝堂の中に入っていった。

内部に入っての第一印象は感動だろう。ここにはキリスト教会とは違い、平穏と安定した空間が広がっていたのだ。最低限の装飾しかないこの礼拝堂を表す言葉がない。

内部には、たくさんの低い柱が立ち、天井は柱と柱の間をアーチ構造にして連続している。柱の上部とアーチに、白とピンクの石を幾何学的に組み合わせているのもまた良い。

柱の数は、千本近くあり、椰子の林を連想してしまう。この礼拝堂は、イスラム教徒が8世紀にモスクとして建て始めたもので、この辺りにあったキリスト教会をイスラム教徒が買い取って何度も増築され、最終的には2万5千人が礼拝できる巨大なものになったという。その時使われた石の柱は、コルドバ産のものやローマ時代の遺跡などから持ち込まれたようで、柱の長さが異なっており高さをそろえるため楔などで継ぎ足しが行われていた。また各柱には、その柱を作った職人のサインが刻みつけられている。

そのサインは何か、という質問に「職人のサイン」と正解を答えた人がいた。450kgの柱を一本贈呈すると言われたが、未だに届いていないそうだ。

13世紀以降はレコンキスタを行ったキリスト教徒がバロック様式で拡張し、現在に至っているという。その時、モスクの中央の柱を160本も取り払い、その空間にキリスト教会の中央礼拝堂にしてしまった。

モスクだった時代、イスラム教徒は中庭で沐浴してそのまま礼拝堂に入り、反対側の壁に開けた穴(ミヒラーブ)が示すメッカの方角(キブラ)に向かって礼拝をしていた。しかし、キリスト教徒は、中庭と礼拝堂の間に壁を作って、礼拝堂を閉鎖的な空間にしてしまったので、今は中が薄暗くなっていた。

このメスキータは28000平方メートルの広さがあるが、現代のイスラム教徒は新しいモスクを建設し、そこで礼拝をしているそうだ。

また、メスキータの中には、金銀120キログラムで作ったキリスト教の“聖体顕示台”があり、毎年6月のお祭りになると、これを担ぎ出して町を練り歩くという。

花の小径

花の小径 花の小径のたたずまい

 メスキータを出るとすぐのところに、かつてユダヤ人が住んでいたという“花の小径”と名付けられた30mほどの狭い道があった。その道に面した家は、ベランダに花を飾っているのでそういう名前が付けられたのだろうが、人が3人並んでやっとという幅しかない。イスラム教徒が支配していた時代は、ユダヤ人を普通に受け入れていたのでたくさん住んでいたようだが、キリスト教の時代になると、彼らは迫害を受け、この地区だけでなくスペインから追放され、北アフリカや中東に散っていった。この証拠はクエンカでも見ることができたのだ。

この辺りに残っている“花の小径”のような狭い道は、コルドバが敵から攻められたときに防衛しやすくするためであるという。

再びメスキータ
 “花の小径”のあと、その付近を歩いてメスキータのそばに戻り、黄色いポストで解散して30分ほどの自由行動になった。すぐ隣のお店でトイレを済ませ、もう一度メスキータの中庭に入って、その雰囲気を堪能することにした。中庭を一周すると、そこには、スペインの乾燥した土地や、アラブ・アフリカの乾燥した大地とは全く違った、水と緑にあふれる理想の空間を作り出している感じがしてきた。ここで沐浴すれば、信者は、死後はこのような場所に行きたいと願うだろう。そのような気持ちでメッカに向かって、ひたすら礼拝をする信徒が、目の前に浮かんできたようだった。

4時45分に、黄色いポストに集まって、坂道を下り始めた。

メスキータはとっても気に入りました。必見の場所です。