メルハバ!!  久しぶりにブログを再開します。


2月にトルコへ行って来ました。旅日記が完成していたのですが、その後もいろいろ忙しく、なかなかブログにアップすることができませんでした。

初めての国の旅行ですからどうしてもパック旅行になります。その結果その国の表面の一部しか見ることができませんが、自分の皮膚で直接感じて得たものはとても大きいと思いました。

今回の旅行では、今までトルコに抱いていたイメージがずいぶんと変わったような気がします。誰でもヨーロッパ中心の旅行が最初になるかと思いますが、ヨーロッパのキリスト教文化と比較する意味でもトルコをはずすことはできないでしょう。見たまま感じたままに勝手な感想をつけて日記にまとめましたので、最後は、ティシュキュレトゥルキエとなるでしょうか。

次から、旅の始まりです。


ズバッと!楽得トルコ8日間






イスタンブル → イズミル エフェソス

→ パムッカレコンヤ → カッパドキア

アンカラ → イスタンブル




姉妹岩    気球


  カッパドキアの姉妹岩         朝の気球





8日間

出発 2014年 2月13日(木)

帰着 2014年 2月20日(木)

滑走路で加速をすると体が座席にグッと押しつけられます。この感覚は成田では「これから行くんだ」、海外からだと「ああもう帰るんだ」といったものになります。この感覚はそれ以上に経験したものでなければ表現できませんし、理解もしてもらえないと思います。皆さんそうじゃないですか?



離陸

 それでも12時20分に搭乗開始となり、26分にはB777-300 43DE席に座っていた。今日は満席ではないようで、ハッチが閉められたときには48ABC席が空いているではないか。リスボンでは窓際の席はないといっていたのに・・・。

そこで窓側の席に移動して、ゆったりと過ごすことにした。機内放送では成田までは予定より早く着くようだ。

12時56分、機はスポットを離れ、13時10分に40秒滑走して離陸をした。

14時に飲み物が配られてきたので、ビールをお願いし、窓からデンマークのスカゲラック海峡を見ながら、美味しくいただいたのが19分。

帰りの機内食2

帰りの機内食2 BA航空ですが美味しい機内食

14時30分に昼食が配られ始め、パスタをお願いしたら品切れで、チキンライスにされてしまった。

メニューは、チキンの照り焼きとご飯、ゆでたニンジン・サトイモ・ブロッコリー・シイタケ、パン、チョコアイスクリーム、サラダ、水

久しぶりの白米を美味しくいただいて、14時52分完食。紅茶をいただく。

14時50分、夕闇迫るスカンジナビア半島の上空を、主翼から飛行機雲をたなびかせながら飛んでいる。昼がほとんどなくなっている北極圏を、西に沈む太陽から離れるように飛んでいるので、15時50分には外はすっかり暗闇になってしまった。

今は17時46分、飛び立って5時間近くが経過したが、あと7時間も飛ぶのだと思うと嫌になってしまう。おしりも痛くなってきている。

18時50分、カップヌードルの匂いに誘われて、トイレに行ったついでにシーフードとタイガービールを1本もらってきた。その時、機体後部のギャレに行ったのだが、ちょうどCAのイギリス人のお姉さんが、ハシを使って麺を口に入れるところだった。ヌードルはお好きですかと聞くと大好きだという。カップヌードルも国際食品になっている。

座席に戻ると、辺り一面カップヌードルの匂いが充満している。


11月20日(水)

時差調整

19時00分になったので、時計を日本時間に戻す。だから今は朝の4時。

ふと気が付くと照明を落としていた機内が明るくなっている。時計を見ると7時ではないか。どうもこの3時間は寝ていたようだ。思い出してみると、今回の旅行で移動中に寝たのはこのときは初めてだ。通路には食事を配るワゴンが動いている。ブラインドをあげてみると外は明るいが一面の雲海だ。

帰りの機内食3

帰りの機内食3 ヨーグルトがうれしい朝の機内食

そのうちCAが来て、ベーコンエッグソーセージとスパニッシュオムレツのどちらがよいかと聞いてきたが、こんな長い名前のものを、ネイティブの英語でいきなり言われても良く理解できない。しょうがないからオムレツをたのみ紅茶をもらった。

メニューは、オムレツ、マッシュルーム、焼きトマトと大豆のトマトソース煮、レーズンパン、オレンジジュース、マンゴー・パイナップル・パッションフルーツ入りヨーグルト。

オムレツは塩味でしつこくない。大豆は柔らかく煮えていて美味しい。ヨーグルトは朝という気持ちに切り替えてくれる。7時20分終了。あと2時間のフライトになっていた。

座席のモニターによると、機は既にユーラシア大陸を横断し終え、日本海を南下し始めている。窓の外は一面の雲だが、前方に厚く見える雲は日本海側にかかる雪雲なのかもしれない。窓の外には満月から3日目の居待月がずっと追いかけてきている。そのような気持ちになるのも日本が近づいているからだろうか。新潟県北部から日本列島を横断した機は日立から鹿島灘を南下し、霞ヶ浦付近で着陸待ちをしてから、8時58分成田空港に着陸した。9時05分にスポットに着いてから機を下り、集合してご挨拶。検疫、入国審査、スーツケース受領、税関通過と流れて、9時33分に横浜行きリムジンバスに乗り成田を出発。11時25分横浜駅を出発して、43分に自宅に着いた。

歩くとまだ体が揺れているし、時差ボケも続いている。直るのに何日かかるだろう。ひょっとして、本当のボケが始まっていたりして。


これで長いスペイン・ポルトガルの旅は終わりです。

このあと少しお休みになると思いますが、その間を利用して、他のものをアップしようと思っています。


超特急のような旅行でしたが、帰国になりました。これからユーラシア大陸の西の外れから、東の外れまで戻ることになるのです。

それにしてもユーラシア大陸は大きいです。


11月19日(火)

出発

リスボンの簡易朝食 4時台にもらった朝食

 4時のモーニングコールで目が覚め、準備をしてからスーツケースを持ってロビーへ下り、鍵を返し、カウンターで食事をもらい、ケースの重量を量りにいくと皆さんが困っている。見るとポンド表示になっていたので、kg表示に変更して計ってみると17kgで問題なし。ロビーのソファーで朝食を取ってから、5時00分に出発。外はまだ暗闇だ。

山上さんが「皆さんのおはようございます。今日空港まで運転していただくのは、イグナシオさんです。イグナシオさんよろしくお願いします。」拍手「空港に行きましたら、集まって行動いたします。ブリティッシュエアウェー(BA)のカウンターで搭乗券を発行してもらいますのでその場所へご案内します。その後も団体で移動していきますから、はぐれないようにしてください。分からないことがあったらその場で質問してください。」と話している間に、5時10分にリスボン空港に到着した。

リスボン空港

 5時30分にBAのカウンターで搭乗券を発行してもらいスーツケースを預けてから、搭乗券を見ると、リスボン・ロンドン間の座席は隣同士だったが、ロンドン・東京間は席が離れている。山上さんが来ないので、もう一度カウンターに戻って“席を隣同士にしてください”とお願いすると、“窓側はない”という。“それでも良い”といって隣同士にしてもらった。

全員がチケットをもらい、5時48分に手荷物チェックを受けてから集まると、山上さんが「この便は、搭乗開始が6時15分からで、41番ゲートです。まだ時間がありますが、免税店をごらんになる方は遅れないように来てください。ここからゲートまでは、20分くらいかかるようです。」と連絡をして解散となった。免税店に用はないので、41番ゲートのロビーへ移動して待つことにした。歩き始めてふと後ろを見ると、何人かの方がぞろぞろと付いてくる。

案内表示に従って5分ほどいくと、そこに出国ゲートがあった。そこで “41番ゲートはこちらですか”と聞いてから、パスポートに出国印をもらって、さらに案内に従って行くと、動く歩道がありその終点が41番ゲートだった。5時58分。

離陸

ところがゲートカウンターがなかなか開かない。7時になってようやく搭乗が開始になり、7時28分に機はスポットを離れた。A320 20BC席。

42分にようやく滑走を始め、38秒の滑走でポルトガルの地を飛び立った。

進路を北東へ取っているので朝日が右の窓から入ってきている。

すると、後ろの方の座席が空いている。もう乗客は来ないので、そちらへ移動して窓から外を見ることにした。8時頃、コインブラの東辺りを飛んでいる。外は雲海で地上は見えない。偏西風が強くなってきているのだろう。

帰りの機内食1

帰りの機内食1 帰りの機内食1は簡単なもの

 8時05分に軽食が配られてきた。

メニューは 楕円形のパンにバターとトマトペーストを塗り、チェダーチーズをはさんである。冷たく、チーズはパサパサでイギリス的といえばイギリス的だ。

オレンジジュースが付いていて、別に紅茶をもらった。8時18分終了。

軽食だからしょうがないが、もう少ししっとり感を持たせた方が美味しいと思う。スライストマトなど野菜が入っていればもっと良いのだが、これは贅沢になるのだろうか。

8時32分、スペインのバスク地方からビスケー湾に出て行く。その後、フランスの西海岸、ロアール川の河口付近、ブルターニュ半島の真上、ノルマンディー半島(付け根にモン・サン・ミッシェルが見えるはず)を通過し、イギリス海峡を横断してイギリスに入っていった。

ヒースロー空港 

飛行機から見たロンドン塔  飛行機から見たビッグベン  

飛行機から見えたロンドン塔とビッグベン

機は、ロンドン付近で何度か旋回して空港からの着陸許可を待っているが、ようやくテームズ川流域のロンドン中心部の上空を通って、10時00分にヒースロー空港に着陸した。その時、眼下にロンドン塔や、ビッグベンなどがはっきりと見えたのは何よりの収穫だった。10時00分、ヒースロー空港に着陸。12分にスポットに着いたがタラップでおろされバスでターミナルビルへ移動することになった。24分にやっと出発。しかしバスがなかなか前へ進まない。40分にようやくターミナルに到着。トランジット(イギリスではフライトコネクション)の表示に沿って移動をし、ようやく10時56分にトランジット専用の第5ターミナルに着いた。そこで搭乗券をチェックされ、手荷物をチェックされ、成田行きの搭乗ゲートが表示されるのを待つことになった。11時25分に表示される予定だが、35分になってようやくC61と表示された。そこから地下2階へ下り、シャトルバスに乗り、12時05分にCターミナルのC61ゲートにたどり着いた。

シャトルバスは外国人ばかりだが、その国籍は多種多様のようだ。

リスボン空港のトイレは小便器の位置がとても高くて苦労したが、ヒースロー空港では、小便器の数が少なく、個室がとても多いので、列を作る状態だった。


日本に着くまではまだまだ時間がかかります。これからがユーラシア大陸横断の本番です。

キリスト教の考えが分からなくなるときがあります。

その一つが、人骨で教会を造っているところです。マカオやイタリアにあることを知っているのですが、ポルトガルにもあるとは・・・・。


サン・フランチェスコ教会

5時00分、広場から別の坂を下りて、ファサードがマヌエル様式の
教会地下の人骨 サンフランチェスコ教会地下の人骨
サン・フランチェスコ教会へ移動した。この教会は昨日昼食を取ったレストランからみると、坂を少し下った目と鼻の先にあり、それほど大きなものではない。教会の地下にある瞑想の場には、壁一面に人骨が貼り付けられていることで有名であるというが、大量の人骨を見るのは、あまり気持ちの良いものではない。5時17分に教会を出て隣の王宮の敷地に入ったが、特に見るものもないとのことで、その敷地を抜けて共和国通りからバスに戻り、ガイドのマリアさんと別れて5時27分にエボラを出発した。共和国通りのお土産店に小さなボールの地球儀をたくさん売っていたが、これもポルトガルが世界に進出していた名残であろう。

疑問

 昨日エボラで昼食を取り、125km走ってリスボンのジェロニモス修道院などを観光した。そして、今日はシントラで昼食を取ってから、シントラ・エボラ・リスボンと、エボラ観光のために270kmも走った。どう考えても昨日エボラ観光をしておいた方が時間と燃料の節約になったはずだ。この移動のために4時間を費やしている。

なぜなのだろう????

夕食

 日の沈むのは早い。高速道路に乗るとまもなく西の空に真っ赤な太陽が沈んでいく。やがて辺りの闇は濃くなり、ヘッドライトの光がまぶしく感じられるようになってきた。ルイスさんが運転するバスは、淡々と距離を刻みリスボンを目指している。5号線から12号線に乗り換え、6時50分、河口付近でラグーンを形成しているテージョ川に架かる長さ10kmの“バスコ・ダ・ガマ橋”を渡っていく。

7時11分にホテルに到着。これでずっと一緒だった運転手のルイスさんとはお別れになってしまった。

山上さんから、本日の夕食は7時30分からという連絡を受けて、一度部屋に戻り、レストランに再集合になった。

連泊したリスボンの夕食1  連泊したリスボンの夕食2

冷えていない生ビール    山羊のチーズの春巻き?とパン

連泊したリスボンの夕食3 アーモンドタルトと生クリーム

20分にレストランへ移動し、飲み物を注文。昨日と同じ生ビール大ジョッキ4ユーロ。

①前菜 山羊のチーズの春巻き レタスとトマトの付け合わせ

 春巻きにはアーモンドと松の実入りのドレッシングがかかっている。山羊のチーズは少し癖があるが美味しい。ここのウエイターは女性に先には以前する心遣いがある。

②主菜 ローストポーク

 ジャガイモ、ナス、ズッキーニ、ピーマン、燻製肉をほぐしたペース

 ト 豚肉は油分が少なく、パサパサしている。ヨーロッパの豚は何で

 いつでもどこでもそうなのだろうか。これは安い旅行だから素材も節

 約していると思いたい。

③デザート アーモンドタルト 生クリームとジャム添え

 アーモンドが湿気を帯びてしまいパリッとしていないので、硬い感じ

 がする。

8時26分終了。山上さんからプリントを配られ、“明日は帰国するので出発が早く、モーニングコールは4時00分、荷物の回収を希望する人は4時45分までに廊下へ出しておく、朝食は4時からだが、コンシェルジュカウンターでフードパックをもらう、スーツケースの重量が心配な人は、はかりで量って調整をしておく、明日の出発は5時00分。”という連絡を受けてから、ビール代金を払って部屋に戻ってきた。このあと“ファド鑑賞”に行く人は、8時30分にホテルを出発していったようだ。

明日起床するまであと7時間しかない。シャワーを浴び、荷物をパッキングしてさっさと寝たのだが、それでもすでに11時になろうとしている。

印象に残ったところ

 夕食で乾杯した後、「ところで今回の旅行でどこが一番印象に残りましたか?」と聞いたら、そこにいた皆さんは無言。どうもあちこちの印象はあるようだが、観光したところが頭の中で重なり合っているようだ。ヨーロッパを観光すると、どこの都市へ行ってもキリスト教会ばかりで、最近はそれらが世界遺産に登録されている。旅行会社もどうしてもそれらを旅行ルートに組み込まざるを得ないのだろう。訪れてみると建築様式などに違いはあるのだろうが、見ていると建築の基本的なスタイルは変わらないからいくつか見てくるとどれがどこだかゴチャゴチャになってしまう。みんな大聖堂といい、サンタ・マリアと呼び、修道院と呼び、鐘楼があってステンドグラスがあって、正面にキリスト像が置かれている。

ところで、自分としては今回、コルドバの“メスキータ”が最も印象に残ったのだ。


旅行をしてもどこで何を見たかという記憶は皆さんあまりないようです。

今回も、スペイン・ポルトガルへ行ってきたという記憶だけで、あとは断片的なもののようです。

現実を一時的に忘れられたことで満足されているようです。

シントラで昼食をとったあと、昨日昼食をとったエボラに向かって150km戻ります。


昼食

 12時00分、バスに乗り出発。05分にシントラの町を出て、15分にレストラン(Tendinha)に到着。ここはシントラ市の東に広がる新市街地である。

シントラの昼食1  シントラの昼食2
冷えていない生ビール    前菜のカンジャ
シントラの昼食3  シントラの昼食4
アロースドポルボ      エッグタルト
メニュー
生ビールということだが、それほど冷えていなくて、そのような感じはしない。

飲み物は生ビールで銘柄は“Imperial”  中コップ 3ユーロ、

①前菜 カンジャ

 チキンスープで、トリ肉、お米のようなパスタ、ニンジンが入っている。味はほのかなチキン味で、マイルドで美味しい。

②主菜 アロースドポルボというタコのリゾット

 インディカ米、エビ、タコ、イカ、香草をパプリカで色付けしたスー

 プで煮てある。

 これも、味はマイルドで美味しい。

③デザート エッグタルト

1時15分終了。33分バスに乗って出発。ここでガイドの立原さんとディアゴさんとお別れをし、エボラまで150kmの移動だ。

車窓観光10

1時38分に高速IC19号線、58分には2号線にのり、2時05分に昨日渡った4月25日橋を通過して、エボラへ向かっている。

2時43分、Eurestというドライブインでトイレ休憩。店内には昔の農具などが展示されているのがおもしろい。壁には平底鋤が掛けられていたのが参考になった。58分出発。今日も、バスが走り始めると、車内には、連日の移動と観光による疲労感と、昼食後の満腹感でどんよりとした空気がすぐに満ち始めてくる。今の移動は、昨日の逆コースなので景色は同じだ。3時30分、高速の料金所を下りて6号線から一般道の114号を進み始めると15分後にエボラの市内に入り、3時47分、昨日の駐車場にバスが停車した。

エボラ
エボラのガイド マリアさん  エボラのガイド、マリアさん

持っているのはコルクガシの弁当保温ポット
そこにはエボラのガイド“マリアさん”が待っていた。

昨日と同じ、共和国通りを徒歩で登っていき、昨日のレストランの前を通過して、旧市街地の広場に出た。マリアさんから「現在、旧市街地に住んでいる人は、エボラの人口5万人のうちの1万人です。エボラはポルトガルの英雄“ジラルド”によりレコンキスタが完成した町でもあるのです。この町の水は16世紀に建設された水道橋などで引き込まれ、この広場が水の終点になっていました。」と説明を受けた。広場には1980年代の新聞などが拡大されて飾られている。広場に通じている“10月5日通り”の緩い坂をさらに登っていくと、左右には様々なお店が軒を並べ、コルクの天然木のランチボックスなども展示されている。坂を登りきるとそこは標高300mほどで、紀元前2世紀にローマ人が、ダイアナのために(実はローマ皇帝のアウグスティヌスのため)建てた神殿の一部が残っていた。神殿は長方形で短辺に6本、長辺に13本の柱が立てられていたようだが、現在はその一部しか残っていない。柱全体は基底部に大理石、柱に花崗岩、柱頭部に大理石を使用し、柱頭部にはアーカンサスの花を彫ってある。ただ、ポルトガルがキリスト教化されたときに破壊されなかったのは何よりの幸いだといっていた。

エボラ大聖堂

エボラ大聖堂 ここに遣欧少年使節団が来ていた
隣にあるエボラ大聖堂は、モスクを転用したものであるという。

エボラは、1584年にスペインへ向かう途中の天正遣欧少年使節団が通過した町で、この教会にも立ち寄っている。4人の日本少年のうち、千々石ミゲルと伊東マンショの二人がこの教会のパイプオルガンを弾いたという記録があるそうだ。

そのオルガンは今も残っている。

この教会はそれほど大きなものではないが、500年以上も前に日本人が訪れていると思うと歴史の重さを感じさせられる。なお、島原半島には千々石という場所がある。

礼拝堂に入ると、中には2列14本の中柱があり、天井を見るとバロック建築であることが分かる。建物には金をたくさん使ってあったが、これをポルトガルバロック様式というらしい。それだけこの国が豊かだった証拠だろう。主祭壇は18世紀の作だという。


ポルトガルやスペインと日本は1600年頃に人間交流があったのですが、その場所が今もしっかりと残っているのがうれしいです。

かつての王は、支配者・特権階級として贅沢の限りを尽くしています。その証拠品が王宮でしょうか。

しかし時代が過ぎると、その王宮が観光資源となって、庶民の生活に大きな貢献をしているというのも皮肉と言えば皮肉です。


シントラ

 再び立原さんの話「ポルトガルではニワトリが幸運の象徴になっています。大航海時代に海外に行った人たちは、上陸した町や村に人が住んでいるかどうかをニワトリで判断したのです。言葉は全く通じませんし、村の人がみんな逃げて無人の場合もあったのです。でもニワトリがいれば、人が住んでいる証拠でした。そのようなことから、ポルトガルでは雄鳥が幸運の象徴になっています。」

と話している間もバスは曲がった道をたどり、シントラへ向かっていく。

シントラの町中を通ってから、左側が崖の坂道を上り始め、10時56分にシントラの王宮に着いた。ここは市の西に位置する谷間で、南の山の上には7~8世紀にムーア人(北アフリカのイスラム教徒)の作った砦が小さく見えている。城壁も残っているそうだ。

王宮

王宮に入り多くの部屋を見ることになった。

シントラの王宮 シントラの王宮

白鳥の間   カササギの間
白鳥の間               カササギの間

白鳥の間、ここの天井には27羽の白鳥が描かれている。ジョアン1世(1400年頃)の娘カテリーナが27歳でイギリスのチャールズ2世に嫁いだときに、その幸せを願ってこの天井に27羽の白鳥を描かせたそうだ。カテリーナはイギリスにお茶を持ち込んだ人だが、残念ながら彼女の結婚は幸せではなかったそうだ。

カササギの間、ここの天井には、“POR BENNE(善意の接吻)”としゃべっている137羽のカササギが描かれている。それは、この部屋でジョアン1世が使用人にキスをしていたところをフィリパ王妃に見られたことを、ほかの使用人が口うるさく噂したことを表したものだという。カササギは、その鳴き声がとてもうるさいので、それを137名の使用人に例えて描いたらしい。パロディでおもしろい。

セバスチャン王(1560年頃)の寝室、ブドウの葉をモチーフにした装飾タイルのアズレージョがきれいにはめ込まれている。

王の食堂

ムーア人の間、細長い廊下のようなところにいくつかの長持が置いてあった。それは金庫の役目をしたものであるという。

次に螺旋階段を上がっていくと、いくつもの小部屋が続いていた。

最初の部屋には、象牙と金装飾をされた金庫があった。それは金庫であり、移動式の礼拝堂でもあった。中にはキリスト像が安置されている。

紋章の間、壁に青と白のアズレージョがはめ込まれ、天井にはガマやカブラルといった16世紀ごろ人たちの紋章がはめ込まれている。

アルフォンソ6世が隔離された部屋、この王はジョアン4世の子供だが、小児マヒで半身不随だった。政治には興味がなかったが、そのころポルトガルはスペインから独立している。しかし、アルフォンソ6世は17年間も弟に幽閉され、1675年から83年に死ぬまではこの王宮に隔離されていた。

中国の間、マリア王妃に送られた品々が置かれている。屏風は“ビョンボ”という。

ムーア人が作った最古の部屋

アラブの間、中央に噴水を作りそれを囲んでくつろいだそうだ。アズレージョは15世紀のもの。

客間、ソファーベッドを置いてあり、銀のひげそり用具が置いてあった。

厨房 現代も使えそうな厨房

厨房、王宮の2本の白い煙突の下に位置し、10以上ある薪コンロ、オーブン、動物を解体した調理台などがあり、煙突の真下には料理を温めておく保温棚があった。山から引いた水道も作られていて、現在も十分その機能を果たす作りになっている。

マヌエル様式の間、ベネチアングラスが使われている。

部屋々を見てから、螺旋階段を下りて正面に戻ってきたが、最後の階段で1人が2・3段を滑り落ちてしまった。11時30分。

正面左脇にある土産物店でトイレを借りたのだが、トイレへたどり着くには、階段を上がって下りて、を何回も繰り返さなければならなかった。

王宮前の通りは、お土産品や雑貨店レストランなどがある。このあたりは金細工店が有名だそうで、1つのお店に入ってみた。加工技術は高そうだが、お値段も高そう。

コルク製品を売っているお店には、バッグや帽子などが売られている。帽子はなかなか良いが、荷物になるので持って帰ることができない。

11時55分に王宮前広場に集合してバスへ移動。


このあと、シントラで昼食をとってから、エボラ観光に行くのです。

それが大きな疑問でした。

ユーラシア最先端の「ロカ岬」のに吹く風はとても強いものがありました。

でも目の前の大西洋の先には新大陸があるのです。


11月18日(月)

朝食

 今朝は4時間眠ってトイレで目覚め、2時間眠ってからウツラウツラして5時40分に起きてしまった。食事は6時30分からなので、それに合わせて部屋を出てレストランへ行くことにした。レストランでは昨夜と違い、最も奥の場所を指定されたが、まだ誰も来ていない。体調を考えて、昨日に引き続き軽めのものを食べることにした。後で聞いたのだが、旅行も7日以上たち、疲労などから体調不良の人が他にも数人いるようだった。昨夜も夕食を食べない人がいたくらいだ。
マリオットホテルの朝食 健康的な朝食メニュー
メニュー

チーズ(カッテージ、カマンベール、クリーム)、キウィ、スモモ、サニーレタス、キュウリ、トマト、ドレッシング、ゆで卵、牛乳、バナナ入りヨーグルト

パンなど炭水化物をとらなかったのだが、この方が体には良さそうな気がする。

7時頃には食べ終わっていたが、同席3人は美人の女性。料理も美味しく食べられ、アラブの王様の気分でブログなどの話が弾み、席を立ったのは7時25分になっていた。

出発

 今日は連泊だし、出発は9時なので、準備はゆったりすることができる。でも体は8時出発にセットされているので、実に暇になってしまった。

窓から外を見ると道路は朝のラッシュで混んでいる。隣にある学校(中学校か?)の生徒は、授業前のひとときを舗装された猫の額のような校庭でサッカーをしている。それも8時30分になると誰もいなくなった。始業なのだろう。

ようやく8時40分になったので、部屋を出てロビーに向かうと、ガイドの立原さんとディアゴさんが来ていた。外の空気は涼しい程度で爽やかである。

立原さんが「今日はシントラにも行くのですが、バスの中で話すことが足りません。何か話してほしいことはありませんか?」と聞かれたので「ポルトガルの教育事情はどうですか?小中高大と修学年数、学期、勉強科目、有名大学、進学状況、就職、一日の時間割などいろいろありますから、分かる範囲で話していただけると・・・・。」とお願いしておいた。

9時にバスに乗り込み、指定された右側4・5列目に着席して出発。立原さんから「皆さんおはようございます。今日の昼は20℃になるといっていましたが、シントラやロカ岬は風が吹いて冷たいですから、注意してください。これからロカ岬に向かっていきますが、それまでポルトガルの状況をお話ししたいと思います。現在ポルトガルの経済状況は良くありません。労使が協調しないためストライキもたくさん起こります。」と話している間に、9時9分に17世紀の水道橋が現れてきた。

この後立原さんがポルトガル事情を話してくれた。

「ポルトガルは外来植物がとても多いです。大航海時代に持ち込まれたのですが、ある意味これは世界最初の環境破壊になるかもしれません。ポルトガルでも日本のアニメはとても人気があります。ドラゴンボール現象を引き起こしたこともあります。その番組を見たくて、学校をさぼる生徒が続出したのです。」

「先ほどご質問がありましたこちらの教育ですが、小学校4年、中学校5年、高校3年、大学4年となっています。落第は頻繁にあり、自分の学力にあった学年に入ることは何も恥ずかしくはありません。ですからクラス内には様々な年齢の生徒がいることになります。有名大学としてはリスボン大学、コインブラ大学があります。コインブラ大学は世界で2番目に古い大学で、ここで経済学部の教授をしていたサラザールが大統領になり、その後独裁をしたのです。その独裁は1974年4月25日の無血革命で倒れました。」

「この国の消費税は25%です。平均月収は1000ユーロくらいですが、そのうち3分の1位を税金として払います。レストランの店員の月収は500ユーロくらいです。小さな家でも家賃は月に500ユーロはしますので、若者の多くは母親に頼るパラサイト状態です。毎週末になると、汚れ物を持って実家に戻り、週初めに食料をもらって帰ってきます。会社員は8時間勤務で昼休みは1時間半~2時間取ります。仕事より食事が重要なのです。そして食後はエスプレッソコーヒーを飲みます。コーヒーはデルタコーヒーが有名です。このコーヒーはフランコ時代にはスペインへ密輸をしていました。」

「ポルトガルというとポートワインが有名ですが、イギリス資本が80%を占め独占的に輸出しています。この国で生産されたものは品質と価格が一致しないものが多いので、有名でなくても良い品を安く手に入れることができます。ポルトガル人気質はまじめで、時間を守り、丁寧に仕事をするところです。」いわれてみると、運転手のルイスさんは、出発時刻は非常に正確だし、到着時刻もほとんど予定通りになっていた。

「有名なものにコルクがありますが、近年ワインの栓の需要が減りましたので、コルク製品の多様化を進めています。保温、断熱、防火、軽量などといった特色を生かし、帽子やカバン、エプロンなども作られています。」

ロカ岬

ロカ岬のモニュメント  ロカ岬のプレート

ロカ岬のモニュメント   「地はて海はじまる」のプレート 

バスは次第に山道に入り、連続したカーブを何度も曲がっていくと、やがて断崖の上に建つ灯台が見えてきた。この辺りは風光明媚で温暖なため、高級住宅街になっている。

やがて9時48分に西経9度30分に位置するユーラシア大陸最西端の「ロカ岬」に到着した。

岬の断崖の先端には、上部に十字架をつけた高さ7~8mの石碑が建てられている。その下には「地はて海はじまる」というポルトガルの詩人“カモンエス”の言葉と“ユーロッパ大陸最西端の地”と書いたプレートがはめ込まれていた。

見渡す限りの大西洋の彼方にはアメリカ大陸がある。「アメリカへ行きたいか!!」「オーーー!!」と女の雄叫びをあげている人もいてバスへ戻り、車内で、シントラ市の印章の入ったロカ岬到達証をもらって、10時20分出発。


東端、南端、西端、北端ともっとも端に行くと、誰もがその先には何があるのだろうと言う気持ちになるものです。スペインポルトガルの人が最初にそう考えて実行した気持ちが分かるような気がします。

ベレンという言葉が、キリスト教のベツレヘムから産まれた言葉だと言うことを聞いて目から鱗でした。


ベレンの塔
ベレンの塔  ベレンの塔
 ベレンはアマゾン川河口にある大都市と同じ名前だ。山上さんによれば、ベレンとはキリストが誕生したベツレヘムにちなんでいるという。

バスを降り、太いオリーブの古木が植わっている公園を歩いて、ベレンの塔に到着した。5時00分。この塔は1502年にバスコ・ダ・ガマを記念して作られ、全面に彫刻を施したマヌエル様式である。テージョ川を出入りする船舶を監視する要塞だったが、その後監獄としても使用されている。5時18分出発。

リスボン観光

 時間があったので、明日行うはずの市内観光を済ませてしまうことになった。テージョ川沿いには、芝生と桜の木が数本植えられた、それらしくない日本庭園が造られている。

19分、発見のモニュメントを見る。発見とはヨーロッパ人が、未開のアジア・アフリカ・中南米を見つけてやった、という見下し目線での言い方ではないか。到達というべきである。それらの地域では、ヨーロッパより遙かに高い文化を持っていた。例えば、ガマがインドに持っていったお土産は“みすぼらしい”とインド人に馬鹿にされているのだ。

このモニュメントには、エンリケ王子、アルフォンソ5世、ガマ、マゼラン、ザビエルなどのレリーフが彫られている。5時35分出発。

鉄道と平行する道路を走り、4月25日橋の下をくぐってからヨットハーバーの付近を通過し、市街地の細い道やスペイン大使館の前を通って、6時18分に“エドワルド7世公園”より夜景を見てから、6時36分にホテル“Marriott”に着いた。

ホテル マリオット
マリオットホテル  ホテルマリオット
 ホテルマリオットはレベルとしてはかなり良いホテルだ。

入るとロビーが混雑している。何でも、薬学の学会が行われるようで、ホテルのロビーには黄緑を基調としたパネルがたくさん貼り付けてあり、臨時の受付も作られていた。このホテルも宿泊や会場の1つになっているようだ。

ようやく、山上さんがチェックインを済ませてから「皆様、それでは鍵をお配りします。今日の夕食は7時30分からです。レストランは地下にあります。明日は一応7時にモーニングコールをお願いしてあります。朝食は6時30分からできますから、モーニングコールは出なくても大丈夫です。出発は9時ですから余裕があります。」と連絡を受けてから鍵をもらい部屋へ移動した。

6時57分に、401号室に入った。洗面所は良い。ベランダが付いているが、窓から自動車のエンジン音が入ってくるので、気密性は良くないのだろう。部屋や洗面所には装飾タイルの“アズレージョ”が貼り付けてあり、雰囲気が出ている。アズレージョの色は柔らかく気持ちを落ち着かせてくれる。時計が7時20分になったので、レストランへ移動することにした。

夕食

 地下へ下りると、どこがレストランか分からない。ウロウロしていると山上さんが案内をしてくれて着席。今日は2テーブルでの食事になった。
ホテルマリオットの夕食1   ホテルマリオットの夕食2

銘柄不明のビール          シーザーサラダ
ホテルマリオットの夕食3    ホテルマリオットの夕食4

鶏胸肉のグリル           プリンのカラメルソースがけ

メニュー

飲み物は銘柄不明の大ジョッキ400cc 4ユーロ

すっきりとして甘い感じがする。スペインとは違いこちらの方が日本人向きかもしれない。

①前菜 シーザーサラダ(レタス、クルトン、削ったチーズ、ドレッシング)

 レタスは少ししんねりしていてパリッとした感じがない。ドレッシングにはニンニク味が入っている。パンは無漂白で硬そうな感じがしたが美味しい。

②主菜 トリ胸肉のグリル ニンジン、ジャガイモ、ブロッコリー、レモン、インゲン、パプリカ、カリフラワーを付け合わせ

 油分が多く、塩分も多い、野菜は硬めだがやむを得ない。量は少し多すぎる。鶏肉はパサパサで不味いが、これもポルトガルだから旨いと思い、硬いのも味と思えばよいのではないだろうか。

③デザート 四角いプリンのカラメルソースがけ

テーブルには塩と胡椒を振りかける容器が置いてあるが、同じ容器なのでどちらが塩だろう。見ると塩や胡椒が出てくる穴が塩は“S”胡椒は“P”に開けられているではないか。これもしゃれている。

話が弾んで8時50分終了。ビールの代金を払うときのことだ。代金4ユーロに対して10ユーロ紙幣を出しても6ユーロのおつりをくれない。すると10ユーロ紙幣を2ユーロコイン5枚に両替して返してくれた。そして4ユーロを支払った。おつりを出すのが面倒なのか、計算が苦手なのか、会計の不正を防ぐためか、とにかくこのような計算は欧米では良くある話しなので、おもしろいと思ってみておこう。

401号室
401号室 明かりが少ない401号室
 部屋に戻ったときは9時20分になっていた。昨夜は、体調を壊し、疲労も大きかったのでシャワーも浴びずに寝てしまった。今日は荷物の整理をさっさと行って、たっぷりとシャワーを浴びて眠ることにしよう。どこのホテルもそうだがバスタブとシャワーの併用は足下が滑りやすくシャワーの使い勝手が良くないので、注意しないといけない。


昔、英語の授業で Columbus Discovered America.と習った。

今思うと、腹が立つ。実はコロンブスよりも遙か前に、北欧のバイキングがアメリカ大陸に到達していたのだ。
スペイン・ポルトガルはこのような目線でアジアや中南米を見ているようだ。

リスボンの日本語ガイド「立原あな」(そのように聞こえたのです)さんは、帰国したあとに、BS放送に出演していました。とても懐かしかったです。


リスボン
 2時40分に高速5号線に乗り、バスはポルトガルの農村地帯を走っていく。ポルトガルの農村地帯はスペインより小規模な印象を受ける。時々センターピボット式のスプリンクラーも見えるが、視界にはたいてい何軒かの農家が見えている。農家は必ず庭先にオレンジやブドウなどの木を植えてある。スペイン国境付近ではコルクガシがほとんどだったが、この辺りになるとブドウや小麦畑も増えてくる。3時30分になった。リスボンまであと30分ぐらいだろう。この辺りにくると林などの緑が圧倒的に濃くなり、日本の黒松によく似た高さ10mほどの松が生えている。松の単相林なのは植林したからだろう。なぜ松なのか分からない。ほかに目立つのは背が高く乾燥に強いユーカリだ。視界からそれら2種類の木が消えることはほとんどない。35分、料金所を通過し、2号線に入った。リスボンまで23km。45分、リスボンのテージョ川の畔にやってきた。右手に大きなキリストの像“クリストロ・レイ”を見て、もとサラザール橋といっていた4月25日橋を渡っている。この像は、リオデジャネイロにある像と同じ形をしている。ポルトガルは40年も続いたサラザール独裁政権が、1974年4月25日に無血革命(カーネーション革命)によって倒れ民主化が実現した。それを記念して、その日をこの橋の名前にしたのだ。橋の右手が上流で左手が大西洋。川幅がとても広く見えるのは、リスボンがテージョ川河口の湖に沿って発達したからで、これは川だが川ではない。


ガイドの立原さん ガイドの立原さんとディアゴさん

55分、橋を渡り終わり、テージョ川の川岸まで下りていった。川岸には川と平行に幅の広い公園が続き市民の憩いの場所になっている。ここでガイドの“立原あなさん”現地ガイドの“ディアゴさん”と4時に合流し、リスボン市内観光が始まった。

立原さんが「皆様こんにちは。私は“立原あな”と申します。おかしいなと思われるでしょうが、私は茨城県出身で、高校までは日本にいました。そして、ポルトガルの大学を出ました。父はポルトガル人で母は日本人です。母は日本にいます。それではこれから“ジェロニモス修道院”の観光に行きます。」と自己紹介をして出発。

ジェロニモス修道院
ジェロニモス修道院

ジェロニモス修道院前のサンタマリア教会

バスを降りてから道を渡るとその前が“ジェロニモス修道院”。修道院前には、市電も走っているが線路幅は90cm。ロマの女性が4人、男性が1人、子供が1人歩いていて、ちょっと緊張。この修道院は1502年から300年以上かけて作られた。ジェロニモスとはヘブライ語の旧約聖書とギリシャ語の新約聖書をラテン語に翻訳した人で、その功績で後世の人たちが聖書を読むことができたそうだ。

1分歩いて、修道院に併設されているサンタ・マリア教会の南門ファサードにたどり着いた。

その門には、キリスト教の聖人のほかに、貿易などに関連した品や船舶用品などをモチーフにした豪華な彫刻がしてある。

このバロック的なスタイルを当時の王様にちなんでマヌエル様式という。4時08分に教会の西門から礼拝堂の中に入った。

バスコ・ダ・ガマの墓   ルイス・デ・カモンエスの墓

左手にあるバスコダガマの墓  右手のカモンエスの墓

入ると右手の区画で洗礼式を行っていた。そのそばにはポルトガルを代表する詩人“ルイス・デ・カモンエス”の墓があり、左手にはバスコ・ダ・ガマの墓がある。バスコ・ダ・ガマはインド航路を開拓した航海者で、彼はその功績で多額の報酬と年金を支給され、運んできた香辛料で莫大な利益を上げている。その結果、有数の資産家になり、ジェロニモス修道院建設に多額の寄付をしている。

礼拝堂は太い柱4本とやや細い柱6本で構成され、柱の全面はマヌエル様式でたくさんの彫刻で装飾されている。その柱は椰子の木をモチーフとし、上部では何本も枝分かれさせて天井を支えている。だから天井はゴシックのリブボールト構造ではない。主祭壇脇には守護聖人の“サン・セバスチャン”が祀られていた。

また礼拝堂左手の壁には7つの懺悔室が作られていたが、牧師さんが入る場所が見あたらない。

修道院の回廊 ジェロニモス修道院の回廊

西門に戻ってきて隣の修道院側に入った。そこは1辺が55mの中庭に面した2階建ての回廊形式になっている。回廊の1階は1辺全てが、かつて修道士の食堂であったが、現在は空き部屋となっている。その部屋の壁には装飾タイルのアズレージョがはめ込まれている。次の2つの辺は修道院の部屋となっているが、庭に面して詩人・作家のフェルナンド・ペッソーアの像が置かれている。回廊の2階へ上がり、そこから狭い階段をさらに上がってサンタ・マリア教会の2階部分に上がった。4時26分。そこは会議堂と聖歌隊の場所で、正面を見ると礼拝堂が全面見渡せ、階段途中には1755年のリスボン大地震の時にできたひび割れを見ることができる。

回廊2階に戻ってきて自由行動になった。2階回廊を1周すると、クリスマスが近づいていることもあって、飾り付けをしている人たちがいた。

1階の回廊に下りるとそこには教会側とつながっている懺悔室があった。この教会では信者の懺悔は修道士が対応していたようだ。かつてはたくさんの修道士がいたが、現在は少ししかいないという。4時50分バスに戻り出発。


ポルトガルのこのような栄光の歴史は、どこに行ってしまったのでしょうか。

海外旅行をしたあと、その場所をグーグルマップで調べると移動したルートや場所がよく分かります。記憶はおぼろげでも、マップでそれをつなぎ合わせて行くと確定できるのです。ストリートビューもとても役立ちます。


ポルトガル

1時07分、ポルトガルに入ってきた。国境は全く見えず、フリーパス。

ポルトガルという国名は、ポルト市を領有したガレ伯爵にちなんでつけられた。面積9万平方キロメートル、人口1000万人の国であるが、そのうち300万人はリスボンに住んでいる。リスボンまであと215km。

ポルトガルに入ると道路は6号線と名前が変わっていた。そして時計は1時間戻すので、今は12時13分。

この国に入ると、明らかに景色が変わってくる。スペインに比べて緑が濃く厚くなっているのは、スペインより年間雨量が100mmほど多い600mm程度だからだろう。そのせいか、道路の左右に広がるコルクガシの林は、その地面が草で覆われ、たくさんの牛が放牧されている。裸の地面はほとんどみられない。放牧した牛が、下草や木々の下枝を食べるせいか、林は見通しが良くて爽やかな感じがする。広い牧草地もあり、そこは緑の絨毯になっている。そこを走りながら、山上さんが「ポルトガル人の姓には、農業由来のものがいくつもあります。オリベイラはオリーブ、ピネイラは洋ナシがよい例です。ポルトガルはコルクガシの生産で有名ですが、最近はワインの栓もプラスチックや金属に変っていますので、その需要が低下しています。そこで、コルクの新たな用途を開発し、コルクを薄い板にすることに成功しました。それがカバンや住宅材料などに加工して売られています。添乗員をしていると、“お土産には何がよいか”とよく質問されます。ポルトガルには安くて良質のものがたくさんありますのでご紹介しますと、それをブログなどで紹介されます。そうすると、その情報をもとに商社などがすぐに買い付けに走り、デパートで売り始めます。これが繰り返され、ご紹介できる品物がどんどんなくなってきているのです。」と話している。12時45分、遙か彼方までコルクガシの林が続いている。

エボラで昼食

エボラのレストラン エボラのレストラン、クラシックな雰囲気

 12時57分、6号線を下りて、エボラに向かい始めた。あと8km。1時12分にエボラ市内の広い駐車場でバスを降りた。道を渡るとそこは旧市街で、共和国通りという石畳の緩やかな登り坂があった。およそ200m登っただろうか。何も看板が見えないと思っていたら、突如“ここがレストランです”と言われ、見ると間口3軒ほどの小さな店が目立たない看板を掛けてあった。看板には“GUIAO”と書いてある。中に入ると奥行き12mくらいの広さで、30人がきつめにやっと座れるほどだ。店内の壁に装飾タイルのアズレージョがはってあるなど、どこかポルトガル的な雰囲気がしている。奥には別の部屋があるようで、ほかの団体が食事をしていた。トイレを借りに店の奥に入ると、階段を上がったところに、これぞポルトガルといった感じの洒落た小部屋もあった。

エボラの昼食1   エボラの昼食3

前菜の野菜サラダ       主菜は バカリャーロ

エボラの昼食4 デザートはメロン

メニュー

①前菜 野菜サラダ(レタス、タマネギ、トマト、キュウリ)

 塩味がしている。おかわりを追加しても良く、ウェーターが給仕して

 くれた。パンはスライスした無漂白のものが付いている。

②主菜 バカリャーロ  ほぐした干しダラと米の卵とじ

 これもおかわりを持ってきたが、最初の量が多かったので、それ以上

 は食べられない。

塩味が少し強い。

③デザート メロンの8つ割

 お皿からはみ出すほどの大きさで、面倒だから直接食いついて、

 2時10分終了。

石畳をブラブラ歩いてバスに戻り、2時16分バスに出発。


エボラというと、エボラ出血熱という病気を連想してしまいますが、関係ありません。エボラ市は【Evora】エボラ出血熱は【Ebola】とスペルが全く違うのです。