ぼちぼちとリハビリを始めているが、右肩の調子が予想外に良い。


右手中指先端を骨折して凡そ8週間強。この間は投げれないので暇になるのも嫌だったから初めは左手にグラブをはめてキャッチして直ぐにグラブを外して左手で投げるを繰り返し、その後患部をガッチリテーピング固定して左用のグラブを使って左腕で投げていた。なので右腕で投げるのは8週間振り。


投げるとやはり指先には痛みが走る。がこれは弱った筋肉が原因と思われ、つまり痛みと付き合いながらリハビリ要な状態。


でも肩自体は凄く軽い。指が不完全なので制球力は悪いが、凄く軽く投げれる。もしかしたらこれまで使い過ぎていたのかも。


ただし、連続で投げられるのは30分くらいが限界。 背中が張ってくるし、帰宅後は腕全体が張る。


まあ投手ではないのでもしかしたらこれくらいの使い方が正解かもしれないね。


なので、これからは暫くの間は左右両方ともに練習するつもり。右を無理させずに、空いた時間で左の練習、という具合で。


左投げは試合で全く 不必要だが、左打ちの練習一環として凄く有効に思える。


生憎 、今の左膝の状態では左投げも左打ちも難があるが、逆転発想で左膝のリハビリとして左投げ左打ちが有効かも。


前にも触れただろうが、両利きは便利ではあるが ウォーミングアップに人の倍の時間と労力がかかる。練習量も人の倍くらいしないと上達しない。なかなか大変なの。


でも ぼちぼちとやっていきます。大変な分だけ面白さもあるし。

骨折した指と膝の怪我からのリハビリが重なってしまった私、雨がようやく上がり本格的なリハビリが始まった。


 指はやっぱり痛い。これまでテーピング固定して筋肉が弱ってるから仕方ない。膝も日に日に回復しているがやはり強い動きに対応できない。また凡そ3週間走れていないので太腿の筋肉が攣りそうになる。長い距離を歩くのには対応できているだけマシなんだろうけど。


まあ日頃から怪我しなくても筋肉を追い込むのが好きな私だけに筋肉痛や軽い打撲なんて茶飯事で痛いのを構わずにトレーニングを続ける。というか、痛いときの方が気づきが多く良いトレーニングになる。


そういう私を見ていてか、母が気になることを教えてくれた。それは母が子供の頃に教わったことらしいが、身体が痛いときは動かして治す方が良いと言うもの。


昨今では痛みがあると無理せず痛みが引くまで待った方が良いと言われる。この考え方に私は懐疑的で痛みに無理しない範囲で積極的に身体 を動かした方が良い場合がほとんどだと考えている。そういう私の考え方に非常に近いのが母が昔教わったことらしい。


その母の教えは、 その当時通説的なものだったのか、ある個人が授けたものかは不明だが、そういう考え方が戦後直ぐ生まれの母の価値観の中にあったことは意外だった。


痛いときは動いて治す、という考え方についての深掘りは機会を改めたいが、私自身は経験則よりも哲学的なものを礎としていて確信はある。また、精神自立の観点からも整合性はあると捉えている。


怪我が完治しない段階でトレーニングをすると必ずと言って良いほど周りから文句を言われる。私が納得してやっているのだから放っておいて欲しいといつも思うのだが。若しくは私が忠告に従うことによる責任をとる覚悟があるというのだろうか?


身体に痛みを感じるときほど身体は様々な情報を届けてくれ、その分良いトレーニングができる。母が教わったこともきっとよく似たものだと思う。


私の限界は私が感じて私がコントロールする。痛みと共に学ぶじゃまをしないで欲しいね。

最近は会社で会議するよりAI使うことが増えているらしいね。


つまり、いろいろなアイデアが欲しいときは最早人に聞くより人工知能に聞いた方が的を得ていたり時間や経費が削減できるということだろう。


私もチャットGPTを試してみようと思ったことがある。


しかし、現在は未だ試していない。


これまで何度も便利な物の危うさに触れて来たが、これは最大の便利かも知れず、ということは最大の人間の危機かもしれない。


計算機が登場し人は計算しなくなった。自動車が登場し人は歩かなくなった。そして人工知能が登場し、次に人が手放すものは?そう、人はとうとう思考まで持てなくなってしまうのだろう。


まあ残念だが、人工知能の到来以前に思考を手放した人は多く存在し、彼らは何の躊躇もなく人工知能を取り入れている最中なのだろう。


とは言え私も計算機も乗り物も利用する。現代文明社会の中でこれらに依存せずに生きてはいけない。そして、人工知能とも程よい距離を保たないといけないのだろう。


人は苦しみから学び幸せが何たるかを知る。これは教わるものでなく、自身の思考で行き着くもの。そして其れを最大限に阻害する可能性を人工知能は秘めている。


便利さは人を幸福にするものだろうか?人を不幸のドン底に陥れるものか?もう一度考える必要はないだろうか?