たいへんな一日

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今日もやはりすごい雨の一日になりましたね。

私は大雨の中、撮影の仕事でした。色々リクエストがあり朝8時に現場入り、9時少し過ぎから撮影開始で2時半には撮りは終わる予定だったのが1時間押しで、現場を出れたのが4時前。こんな長丁場の撮影はこの10年は無かった。

おまけに大雨で行き帰りの移動で体力限界並みに消耗。勿論昼飯なんて時間はもとより予定されておらず、朝6時に自宅で玉子かけご飯を食べただけ。ホンマにヘトヘトでした。

しかし、しかし、実は今日は決意していたことがありました。それは泳ぎにいくことと選挙に行くこと。

撮影の大幅押しで、プールに入れたのは30分ちょっと。思い出しただけでも腹立たしい。もっと泳ぎたかったのに。どんなにヘトヘトになっても浮かぶと元気になるのですが…。結構ストレスはとれたけどやっぱりまだ浮かび足りないもどかしい。

因みに帰りのバイクの運転中にカッパが役立たずにびちょびちょ状態。どうせ泳ぐんなら同じだからエエか?的なもうヤケクソ状態。まあこれはこれで楽しい一日ですね。

帰りはハイドロプレーンしました。二輪でこれやると生きてる心地しませんね。あと、信太山で尾根道なのに冠水状態で水上バイクみたいな、これまたもう死ぬわ!みたいなホンマ死ぬほどのスリルでした。

まあこんなずぶ濡れ状態で選挙に行ったんでみんな暖かく迎えてくれました。今回は生活リズムが変わった上に長雨で期日前に行けなかったんですよ。でも今日行けて良かった。ホンマに良かった。

まあまあ、国政に関してのコメントは気が向いたらします。

取り敢えずは今日は無事に終えられて良かった!飲むぞ‼
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台風の影響でめっきり外出しづらい日が続きますね。二輪移動が主の私にとってはとても辛いものがあります。冬になる前に少しでも足掻きたいのに。

そんな訳で今朝は朝から英語とピアノ浸けです。休日にこうやって屋内に留まると何か損した気分になります。実はこれ自己否定ですよね。スポーツをしないと満足が得られないというのはスポーツへの依存。自分自身を肯定できていればピアノを弾くことも楽しめるはずなのに。

この自己否定は人相やオーラのように現れるのでしょうね。私は体型にも現れると信じています。つまり自己否定な人は言動だけでなく印象としてネガティブな雰囲気が現れていると言うこと。

モテないから自分はダメな奴だ、という人がいます。いや、そうではなく自分をダメな奴だと思い込んでいるから、つまり自己を否定してしまっているからモテないんだよ、私はそう言葉を贈りたい。

仕事ができないから…、自立できないから…、空気が読めないから…、太っているから…、容姿が悪いから…、ってこれ全部同じですよね。

発達障害だからダメなんです、って言うと余計にダメになるのは当たり前。自己を肯定していないから。つまり自分を信じていないから。自己を肯定できると発達障害であっても環境は全く変わる、この事を心の底から信じられたときに生きる世界が変わっていることに気づけるはず。私にとっては10年の時間が必要でしたが。

さてさて、実は一昨日に仕事の移動中に聞いていたラジオから流れる曲を聞いていてあるアイデアが浮かびました。それは呼吸。リズムと呼吸をシンクロさせると曲が生きるんじゃないかと。そして昨日からピアノの演奏で試しているのですが、これがすごい。自分でもビックリ‼

前々から呼吸には興味があったのですが、色々情報を集めても眉唾ものの様に感じるものばかりでした。でも水泳で息が上がることとか、サックスの音色のこととか、色々と呼吸には考えさせられてきました。このヒントをつかめかけているような気がします。まさに身体から気が溢れるような…、

もしかすると、この長雨は私にこの事に向き合わせる良い薬なのかも知れませんね。気候が良いとついつい身体を動かすことに逃げてしまう私がいるから。

自己否定な自分を気づかせてくれた長雨に感謝しよう。
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福祉事業所の利用者から職員に変わって疑問に思うことがあります。それは合理的配慮。元々私は人と人が互いに配慮しあえば良いという考えなので、配慮できるときはするし、配慮されたときはお礼を言うようにしています。

しかし、社会一般では障害者や高齢者や、時には女性や子供など、弱者が配慮される側で、それ以外が配慮する側だという認識が強いことは言うまでもありません。

障害者福祉サービスでは利用者がされる側で事業者がする側、こんな構図になっていますよね。しかし福祉事業所で働く人の中には手帳を持っている人も多くいます。

私もこの秋から職員となり、強引に配慮を求めてくる人間に手を焼いています。法の上で弱者である彼が合理的配慮を求めるのは権利かもしれませんが、法の上で同じ弱者である私が職員という立場だけで全く配慮されず、ひたすら利用者の要求に応えていくべきなのでしょうか?

では同じ障害者同士では配慮を求められないのか?それとも互いに嫌でも求められた配慮を全て応えるべきなのか?いったいどちらが正しいのでしょうか?

私のまわりで他にも合理的配慮は当然の権利であると強く求める人がいます。配慮されて当然だと考える彼らはその配慮に決して感謝しようとしません。こんなことをしているから社会との軋轢がどんどん深まるのだと私は感じるのですが…。

互いに理解し合える共生社会に向けてこの合理的配慮は足枷になってしまわないでしょうか、心配です。配慮は一方的なものではなく、余裕のあるものがないものに施すものであり、強者であっても配慮されるべきものです。障害者が健常者に配慮できるようになってはじめて合理的な配慮になるのではないでしょうか?

呆れ返っている私がここにいます。
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