百済国聖明王の第3王子
琳聖太子
今から凡そ1400年前、 百済国26代聖明王(聖明、
聖王、斎明とも言う)には正室/麗華皇后との間に
男子2人(威徳と恵)がおり、側室/靖翔妃の間に
男子が1人いました。この側室の子が第3皇子と呼
ばれた義照(琳聖太子)です。彼は優秀であったが
ゆえに跡目争いに巻き込まれてしまいます。
・・・第3皇子の身の危険を感じた父、聖明王は
琳聖太子に護衛をつけ、家宝の兜や、財宝を与えて
日本に密航させます。時は611年(推古19年)
でした。そうして漂着したのが、周防国佐波郡
多々良浜(現、山口県防府市)です。
さてこの、琳聖太子の子孫は、のちに周防、長門、豊前、筑前、安芸、
備後、石見の七カ国の守護を勤める大内家の殿様になります。
しかし百済国では、相続の証となる兜がなく
なった為に、二人の兄はお互いを跡継ぎとは認めず、
統制がとれなくなりました。そんな中、百済国の
弱体化が表面化していき、やがて唐国は新羅国に
援軍を求めて百済国を滅ぼしてしまったのです。
百済、唐、新羅の位置図
・・・さて多々良浜に上陸した琳聖太子は、
やがて地元の豪族/大内首連速男の娘、矢田の
郎女を妻に迎えてこの地を治めることになります。
さらに数年して、琳聖太子の母/靖翔(聖明王の
側室)も我が子、琳聖太子を慕って海を渡ってき
ましたが、途中で船が故障、なんと、今、私が住ん
いる山陽小野田市で船の舵が折れてしまい、白江の浦
(梶浦)で上陸し厚狭川を伝って上り水際の大岩で
休まれたとあります。
この岩を皇后岩(或いは靖翔岩)と呼び、以前は
水害で川底に沈んでいたものの、掘り起こされて鴨橋
の東側(厚狭川の左岸)に設置されいます。
この母/靖翔は百済八代姓氏筆頭の、木氏禹歩を
父とし、同じく沙氏母倉を母とする名家に育ち熱心
な観音信者であり、現在の山陽小野田市に居住して
生涯を終えたということです。没後しばらくして、
この母/靖翔を祀るため京都の加茂大明神を勧請し
現在の鴨神社が建てられました。
(山口県山陽小野田市厚狭857)
大内氏の分家・西郡大内氏の起こり
さて琳聖太子の末裔が大内祖と言われていますが、
・・・この大内家では27代持世に子どもがいなかっ
たので、持世の弟/盛見の子教弘が28代を継ぎま
したが、その直後に持世の子、義世が生まれました。
しかし時すでに遅く、どうすることもできず、義世は
直系でありながら跡目を継げず、家宝の兜などを授かり
東北地方に逃れて、のち自らを大内家分家29代を名乗
って、伊達家との関りをもちます。これは文献にも
乗っていない埋もれた歴史です。
大河ドラマに登場した大内定綱
・・その後、大内の分家となる30代義生、31代義綱と
継承していき、32代定綱は天正16年に伊達政宗に仕え
て数々の戦功により、伊達家より岩手県の24郷を賜り
ました。大内定綱は昭和62年(1987)のNHK大河ド
ラマ「独眼竜政宗」にも伊達政宗の家臣として登場し
ていました。よほどの重臣であったことが伺えます。
さらに定綱の子/重綱は宮城県登米郡西郡(現・
東和町)の西郡城主にまで出世し、ここで西郡
大内家初代城主ともいわれます。・・なお山口
の大内家が31代義隆で滅亡したのに対して、
この西郡大内家は今なお現代を生き抜き、第45
代を継承している大内公夫さん(千葉県在住)
がいます。これも少し古い資料ですから
すでに46代の方がいるかも知れません。
宮城県登米市の片田舎にある小さな神社
西郡大内家1族が密かに守り続けている神社です、
このお堂の中に、琳聖太子に関わる貴重な資料が眠
っていますが、その中身は地元の人でも知る人は
少ないといわれるくらい秘密にされています。
1)馬にまたがる琳聖太子像
2)三面文珠の像やお守り
3)百済国王の兜(刻印入り)
なお明治15年ごろ、西郡大内1族の一人で西郡小学校の
初代校長を務めていた大内義方という人物が仏像など、
貴重品をもちだして売り払ったという事件がありました。
その家宝など数点が行方不明のままです。なお明治22年
(1889)に西郡村と嵯峨立村が合併して錦織村が誕生
したので、西郡小学校とは、現在の錦織小学校であろう
と思われます。
1)馬にまたがる琳聖太子像です。
桐の箱に入って大切に保管されています。
2)先祖伝来の証となる書き物など1式、
三面文珠の像、お守り等、書類は50点
くらいあるそうです。
この記事は3回くらいのシリーズとし、次回は文化財にも
値しながら日の目を見ない貴重な兜をご紹介します。
」