【原文】

信心(しんじん)(ぎょう)(じゃ)自然(じねん)(はら)をも()て、()しざまなる(こと)をも(おか)し、同朋(どうぼう)同侶(どうりょ)にもあいて口論(こうろん)をもしては、(かなら)回心(えしん)すべしということ。この(じょう)(だん)(あく)(しゅ)(ぜん)心地(ここち)か。

一向(いっこう)専修(せんじゅ)(ひと)においては、回心(えしん)ということ、ただ一度(ひとたび)あるべし。その回心(えしん)は、()ごろ本願(ほんがん)他力(たりき)真宗(しんしゅう)()らざる(ひと)弥陀(みだ)知恵(ちえ)(たまわ)りて、()ごろの(こころ)にては往生(おうじょう)なうべからずと(おも)いて、もとの(こころ)をひきかえて、本願(ほんがん)(たの)(まい)らするをこそ「回心(えしん)」とは(もう)(そうろ)え。一切(いっさい)ことに朝夕(あさゆうべ)回心(えしん)して往生(おうじょう)()(そうろ)うべくは、(ひと)(いのち)()づる(いき)()(いき)()たずして()わることなれば、回心(えしん)もせず柔和(にゅうわ)忍辱(にんにく)(おも)いにも(じゅう)せざらん(さき)(いのち)()きば、摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)(せい)(がん)(むな)しくならせおわしますべきにや。(くち)には「(がん)(りき)(たの)みたてまつる」と()いて、(こころ)には「さこそ悪人(あくにん)(だす)けんという(がん)不思議(ふしぎ)にましますと()うとも、さすが()からん(もの)をこそ(だす)けたまわんずれ」と(おも)うほどに、(がん)(りき)(うたが)他力(たりき)(たの)(まい)らする(こころ)()けて、辺地(へんじ)(しょう)()けんこと、もっとも(なげ)(おも)いたまうべきことなり。信心(しんじん)(さだ)まりなば往生(おうじょう)弥陀(みだ)(はか)られ(まい)らせてすることなれば、()(はか)らいなるべからず。(わろ)からんにつけても、いよいよ(がん)(りき)(おお)(まい)らせば、自然(じねん)(ことわり)にて柔和(にゅうわ)忍辱(にんにく)(こころ)()でくべし。(すべ)てよろずの(こと)につけて往生(おうじょう)(かしこ)(おも)いを()せずして、ただほれぼれと弥陀(みだ)()(おん)(じん)(じゅう)なること、(つね)(おも)()(まい)らすべし。しかれば、念仏(ねんぶつ)(もう)され(そうろ)う。これ自然(じねん)なり。()(はか)らわざるを自然(じねん)(もう)すなり。これ(すなわ)他力(たりき)にてまします。しかるを自然(じねん)ということの(べつ)にあるように、(われ)(もの)しり(がお)()(ひと)(そうろ)うよし(うけたまわ)る、(あさ)ましく(そうろ)うなり。

 

【意訳】

信心を得た人は、腹を立てたり、悪いことをしたり、口論をした後には必ず我が身を反省し、その度に心を改めなければならないと教えられることについて。

このような主張をする人は、自分の力で悪を断ち、善を積むことで、往生できると考えているのでしょうか。

他力本願の教えによって「心が改まる」のは、人生に一度きりであって、二度はありません。

ここで言う「心が改まる」とは、「他力本願の教えを聞いたことがない人が、たまたま阿弥陀仏の本願に出会い、それまで自分の力で何でもできると自惚れていた心がポキリと折れて、とても自分の力では往生することなどできないと思い知り、仏方の広大な知恵に全てをお任せする状態に心が定まった」ことを指します。

もしも、常に我が身を反省し、心を改め続けなければ往生できないのだとすれば、いつ、どこで、どんな風に終わってしまうかも分からない儚い命を生きている私達は、どのようにして救われればいいのでしょうか。

命が終わる瞬間まで、我が身を反省し、心を改め続けられる人など、本当にいるのでしょうか。それを実行できなければ救われない教えが他力本願なのであれば、阿弥陀仏の本願とは、救われる人もいない虚しい教えということになりはしないでしょうか。

口では「阿弥陀仏の本願に、全てをお任せします」と言いながら、心の中では「悪人こそ救うという阿弥陀仏の本願ではあるけれど、さすがに、これだけ仏方のために活動をしている私の方が救われやすいだろう」と思い、自分が尊い者になったかのような勘違いをしている人は、結局のところ、自分の力を過信しているだけで、阿弥陀仏の本願を信じてなどいないのです。そのような人は、どれだけ念仏をしても、極楽浄土には往生できず、仮の浄土にしか生まれることができません。それは他力本願の教えを聞く者にとって、最も悲しむべきことです。

信心を得ることも、極楽浄土に往生することも、全ては阿弥陀仏の本願のはたらき(他力)によるのであって、決して私達の力ではありません。

本当に信心を得た人であれば、自分の愚かさに気づく度に、いよいよ仏方の知恵の深さを思い知って、ただほれぼれと阿弥陀仏の本願を仰ぎ見ることでしょう。そこに、浅はかな自分の考えなど入る余地はないのです。

穏やかな心とは、そういうところに起こるものであり、それを有難く思えば、自然と口から南無阿弥陀仏の念仏が溢れてくることでしょう。

これが「心が改まる」ということであり、「心が改まる」こと自体、他力によって自然と起こるものなのです。

このようなはたらきの他に、私達を反省させ、心を改めさせるはたらきが他力にはあると教える人は、他力本願の教えを知識として知っているだけで、実のところ、阿弥陀仏の本願がどのようなものであるか、何も分かっていないのです。このような現状は、本当に嘆かわしいと言わなければなりません。


【後編を読みたい方は、ここをクリック】