【補記】
苦労は、いつか報われる。諦めなければ、夢は叶う。欲しいものを手に入れて、なりたい自分になって、そうして幸せな人生を過ごそう。そのためには、時間も労力も惜しんではいけない。生涯現役。生きている限り、努力し続けなければ、人は幸せになれない。

人の作り出した技術が、光のような早さで進歩しています。

今や世界は、スマホ一つであらゆる情報にアクセスでき、欲しい物を欲しい時に、クリック一つで買えるまでになりました。

テレビや雑誌が情報の最先端だった時代には考えられなかったことが、当たり前のこととして、私達の暮らしに溶け込んでいます。

スマホの無い生活なんて考えられない。そう感じている人も、少なくないでしょう。現代を生きる私達にとって、もはやスマホは、ライフラインの一つと言える存在になったのではないでしょうか。

十年前の当たり前が、当たり前のままではいられない。日々、目まぐるしく変化する社会の中で、情報という荒波に揉まれながら、誰も彼もが必死になってもがいている。

現代とは、そういう時代なのかもしれません。

しかし私達はなぜ、こんなにも必死になってもがいているのでしょうか。人生という限られた時間の中で、多くの労力を費やし、数え切れない苦労を乗り越えた先に、私達は、どんな未来を夢見ているのでしょうか。私達の求める幸せとは、一体どんな姿をしているのでしょうか。

たとえば、病気の母を助けたいとか、穏やかな家庭を築きたいとか、子供を立派に育てたいとか、それがどんなに純粋な心から起こるものであっても「目の前の現実を自分の思い通りにしたいという欲」であることに、何ら変わりはありません。

私達の求める幸せとは、結局のところ、自分の欲を満たして、快感や充実感という喜びを得たいという枠の中に、すっぽりと収まってしまうものばかりなのです。

そして私達は、喜びを得るために時間や労力を費やすことを努力と呼び、そのように努力することを良いことだと考えているのではないでしょうか。

しかし欲というものは、満たされれば喜びに、満たされなければ苦しみに変わるものです。この二つは、常に表裏一体であって、決して切り離すことはできません。

私達が、私達の求める幸せを追いかけて、必死の努力を続けている限り、苦しみまた、私達の後を追いかけてきます。

そこに、煩悩具足の凡夫である私達が、自分の力で手に入れられる幸せの限界があるのでしょう。

縁あって他力本願の教えを聞き、その時は感動の涙を流しても、時が経てば、いつの間にか、他力が自力にすり変わってしまい、教えを広めるための活動に時間や労力を費やして、必死の努力を続けている自分に、すっかり満足してしまう。

そのような危うさを常に持っているのが、煩悩具足の凡夫である私達の心です。

このことは、他力本願の教えを聞く全ての人が、本当に気をつけておかなければならないことなのでしょう。