【原文】
そのかみ邪見に堕ちたる人ありて、悪を造りたる者を助けんという願にてましませばとて、わざと好み悪を造りて、往生の業とすべきよしを言いて、ようように悪様なることの聞こえ候いしとき、御消息に「薬あればとて毒を好むべからず」とこそ遊ばされて候うは、かの邪執を止めんがためなり。全く、悪は往生の障りたるべしとにはあらず。持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、我らいかでか生死を離るべきやと。かかる浅ましき身も本願に値いたてまつりてこそ、げに誇られ候え。さればとて身にそなえざらん悪業は、よも造られ候わじものを。また「海河に網をひき釣をして世を渡る者も、野山に猪を狩り、鳥を捕りて命を繋ぐ輩も、商いをもし田畠を作りて過ぐる人も、ただ同じことなり」と。「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞いもすべし」とこそ、聖人は仰せ候いしに、当時、後世者ぶりして、善からん者ばかり念仏申すべきように、あるいは道場に張文をして、何々の事したらん者をば道場へ入るべからずなんどということ、ひとえに賢善精進の相を外に示して、内には虚仮を懐けるものか。願に誇りて造らん罪も、宿業の催す故なり。されば善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、ひとえに本願を頼み参らすればこそ他力にては候え。『唯信抄』にも、「弥陀いかばかりの力ましますと知りてか、罪業の身なれば救われ難しと思うべき」と候うぞかし。本願に誇る心のあらんにつけてこそ、他力を頼む信心も決定しぬべきことにて候え。おおよそ悪業煩悩を断じ尽して後、本願を信ぜんのみぞ、願に誇る思いなくてよかるべきに、煩悩を断じなば即ち仏に成るとならば、仏のためには五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。本願ぼこりと戒められる人々も、煩悩不浄具足せられてこそ候うげなれば、それは願にほこられるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりという、いかなる悪かほこらぬにて候うべきや。かえりて心おさなきことか。
【意訳】
かつて、阿弥陀仏の本願は悪人こそ救うのだから、どんな悪事を犯しても構わないという誤った考えに囚われた人がいました。その人の振る舞いは悪い噂となって、日に日に広がっていきました。
その時に、親鸞聖人が「いくら薬があるからと言って、わざわざ好き好んで毒を飲む者があるか」と戒めたのは、その人に愚かな行為を止めさせるためです。決して、それらの行為が、阿弥陀仏の本願という救いに影響を与えるからではありません。
私達が悪事を犯すことと、阿弥陀仏の本願によって往生することは、まったく別の話なのです。
もしも、清く正しく心を保ち、修行をすることでしか往生できないのであれば、煩悩具足の凡夫である私達は、一体どうやって救われればいいのでしょうか。
(仏方の思う)善と悪の区別もつかない私達を憐れに思い、救いの手を差し伸べてくれているのが、阿弥陀仏の本願です。だからと言って、自分で悪いことだと認識している行為を、わざわざ好き好んでするのは、あまりにも愚かではないでしょうか。
親鸞聖人は「漁や狩りで生き物の命を取って生計を立てる人も、商いや農業で生計を立てる人も、仏方から見れば何の違いもない。因と縁が揃ってしまえば、どんな行為でも平気でしてしまえるのが私達である」と教えています。
清く正しく生きているような顔をして、「私のような生き方をしなければ、南無阿弥陀仏の念仏に救われることはできない」と言ったり、「このような悪事を犯したものは、寺への出入りを禁止する」と貼り紙をしたりする人は、結局のところ、自分の努力で往生できると自惚れているだけで、阿弥陀仏の本願を信じてなどいないのです。
私達がする全ての行為は、延々と続く命の繋がりのどこかにあった原因に、縁が結びつくことで起こります。そのどれが善い行為で、どれが悪い行為なのか。区別もつかない愚かな身の上であったと思い知ってこそ、阿弥陀仏の本願を人生の頼みとする心は生まれるのであり、そのような状態に私達の心を定めるはたらきのことを、他力と言うのです。
唯信抄にも、「阿弥陀仏の本願に、どれほどのはたらきがあると知って、私のような罪深い者は救われないと思うのか」と書かれています。
信心とは、自分の愚かさと、そのような愚かな者を救おうとする阿弥陀仏の本願の有難さを知らされてこそ定まるものです。
全ての煩悩を断ち切って、清く正しく生きているのであれば、それはつまり、さとりをひらいて仏に成ったということです。既に、仏教の目的(さとりをひらいて仏に成る)を達成した人に、阿弥陀仏の本願は必要ないでしょう。
本願にホコリを被せるような行為はしてはいけないと主張する人々は、一体自分にどれほどの知恵があって、善い行為と悪い行為を正しく区別できていると考えているのでしょうか。
そのような人々は、自分の心がどのような状態にあるのか、分かっていないだけではないでしょうか。