補記】
阿弥陀仏の本願は、全ての人を等しく極楽浄土へ救うはたらきがあります。
 
そのはたらきのことを、他力と言います。
 

他力という広大な救いは、不可称(ふかしょう)(称え尽くすことができない)であり、不可説(ふかせつ)(説き尽くすことができない)であり、不可思議(ふかしぎ)(思い計ることができない)であると教えられています。

 
そう聞いた後で、「他力とは、どのようなことですか?」と問われたら、私達は一体どんな回答をするでしょうか。
 
当たり前のように義務教育を受け、読み書きを習い、知識を蓄え、学力を競い合いながら大人になった私達は、知識を増やすことを良いことだと思っています。そして、より多くの知識を得ることで、人生を豊かなものにできると信じています。
 
不可称不可説不可思議だと教えられれば、「他力とは、不可称不可説不可思議なものである」と、すっかり他力のことが分かったような顔をして、自分が得た知識を自慢したり、その知識を知らない人を見下したりしてしまうのが、煩悩具足の凡夫である私達ではないでしょうか。
 
他力とは、学問をして知識を得ることよって救われる教えではなく、私のような者には、とても理解できないものが他力であると思い知り、そのような愚かな者にも救いの手を差し伸べてくれる仏方の慈悲の有難さが身に染みて、素直に感謝する心が芽生えることによって救われる教えなのです。
 
他力の教えを学んでいけば、いつか(仏方の思う)善悪の区別すらつかない私であったということに気づく日が来るでしょう。
 
その時に、きっと信心は定まるはずです。
 
そういう意味において、他力とは、むしろ文字の読み書きも知らない人の方が救われやすい教えなのかもしれません。