【原文】

弥陀(みだ)本願(ほんがん)不思議(ふしぎ)におわしませばとて(あく)をおそれざるは、また本願(ほんがん)ぼこりとて往生(おうじょう)かなうべからずということ。この(じょう)(ほん)(がん)(うたが)う、(ぜん)(あく)宿業(しゅくごう)心得(こころえ)ざるなり。

()(こころ)()こるも宿(しゅく)(ごう)(もよお)(ゆえ)なり、悪事(あくじ)(おも)われせられるも悪業(あくごう)計らう(ゆえ)なり。()聖人(しょうにん)(おお)せには、「(うの)()羊毛(ひつじのけ)(さき)にいる(ちり)ばかりも(つく)(つみ)宿業(しゅくごう)にあらずということなしと()るべし」と(そうら)いき。

またあるとき「(ゆい)円房(えんぼう)()()うことをば(しん)ずるか」と(おお)せの(そうら)いし(あいだ)、「さん(そうろ)う」と(もう)(そうら)いしかば、「さらば()()わんこと(たが)うまじきか」と(かさ)ねて(おお)せの(そうら)いし(あいだ)、つつしんで領状(りょうじょう)(もう)して(そうら)いしかば、「たとえば(ひと)千人(せんにん)(ころ)してんや、しからば往生(おうじょう)一定(いちじょう)すべし」と(おお)(そうら)いしとき、「(おお)せにては(そうら)えども、一人(いちにん)もこの()器量(きりょう)にては(ころ)しつべしともおぼえず(そうろ)う」と(もう)して(そうら)いしかば、「さては親鸞(しんらん)()うことを(たが)うまじきとは()うぞ」と。「これにて()るべし。何事(なにごと)(こころ)にまかせたることならば、往生(おうじょう)のために千人(せんにん)(ころ)せと()わんに(すなわ)(ころ)すべし。しかれども、一人(いちにん)にても(ころ)すべき(ごう)(えん)なきによりて(がい)せざるなり。()(こころ)()くて(ころ)さぬにはあらず、また(がい)せじと(おも)うとも百人(ひゃくにん)千人(せんにん)(ころ)すこともあるべ し」と(おお)せの(そうら)いしは、(われ)らが(こころ)()きをば「よし」と(おも)い、 ()しきことを「あし」と(おも)いて、(ほん)(がん)不思議(ふしぎ)にて(だす)けたまうということを()らざることを(おお)せの(そうら)いしなり……

 

【意訳】

念仏の救いには、善人か悪人か、心が清らかであるかどうかの区別はないからと言って、悪事を犯すことを恐れないのは、本願にホコリを被せるような行為であり、往生の妨げになるということについて。

このようなことを主張する人は、三世因果の道理の本質も知らず、阿弥陀仏の本願も信じていないのです。

善い心も悪い心も、全ての結果は、延々と続く命の繋がりのどこかにあった原因に、縁が結びつくことで起こります。

今は亡き親鸞聖人の言葉を借りれば「ウサギやヒツジの毛の先に積もる程の些細な罪であっても、因や縁を伴わない行為はない」と言うことです。

 

ある時。親鸞聖人と交わした、こんな言葉が思い出されます。

「唯円さん。あなたは、私(親鸞)の言うことを信じますか?」

「はい。信じます」

「それなら、私の言うことに逆らいませんか?」

「はい。決して、逆らいません」

「それでは、今から人を千人殺してきて下さい。そうすれば、あなたの往生は間違いないものになるでしょう」

「いくら親鸞聖人の仰せであっても、私のような者には、人を殺すことなど恐ろしくて、とてもできそうにありません」

「それなら、なぜ私の言うこと逆らわないと答えたのですか

その後で、親鸞聖人は、このように教えて下さいました。

「これで分かったでしょう。何でも自分の思い通りになるのであれば、往生のために千人殺せと言われれば、すぐにそうしたはずです。けれどあなたはそれができないと答えた。これは、あなたの心が善いから、人を殺すことができなかったのではありません。人を殺す因や縁が無いから、たまたま人を殺せなかっただけのことです。反対に、因や縁が揃ってしまえば、どんな恐ろしい罪も平気で犯してしまう私達なのです

親鸞聖人は、この言葉を通して、私達が思う善悪と仏方の思う善悪とは、まったくの別物であり、こういう行為が往生のためになり、こういう行為が往生の妨げになると考えるのは、自分の知恵と仏方の知恵とが同じであるように錯覚し、自惚れているだけのことだと教えてくれているのです。

そのように自惚れている間は、阿弥陀仏の本願に救われるということが、一体どういうことなのか。その本質を知ることは難しいでしょう。

 

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