納豆の悲哀
ついに納豆がスーパーの売り場に戻ってきた。
しかし、手放しでは喜べない。わたしたちの愚かさが生み出した複雑な事情があるからだ。
週刊朝日の指摘で、フジテレビ(関西テレビが悪いと言っているが、わたしたちには、あの番組を流したのはフジテレビであると認識されている、だから、フジテレビが悪いのだ)が捏造した事実を堂々と番組で流していたことが発覚した。捏造というとちょっと堅苦しいが、要するにウソで固めた番組で、納豆がダイエットにいいと、それこそ大勢の視聴者に伝えたのだ。
テレビの力なんて番組があるが、テレビのパワーは恐ろしい。たった一回の番組で、納豆がてんてこ舞いをする事態を引き起こしてしまった。わたしは、カミさんが納豆の匂いが嫌いで、あまり積極的に食べていないが、それでも、数日前に納豆を食った。別にやせようと思って食ったわけでないし、あの番組も直接見たわけでもないので、ただ、納豆があまりにもすさまじい勢いで売れていたから、納豆を食べたくなっただけなのだが。
そのウソ番組の事件を他のテレビ局は、なんとなく、困惑した雰囲気で伝えていた。
おそらく、自分の局で制作放映した番組にも、それとなく、うしろめたいものがあるような、そんな雰囲気を感じるような伝え方だった。わたしの受けた感触では、不二家事件を伝えるときの、「悪者を切る」ような意気込みのようなものがあやふやのような感じである。番組制作の現場では、他の局も、フジテレビとオーバーラップするようなことがあるのだろう。
あるいは、「身内」の犯罪を切るような感じもあるだろう。たまたまわたしが見逃していたのかも知れないが、当のフジテレビでは、この問題を積極的に取り上げていない。
それはそれとして、わたしたちの「購買行動」というものが、いかに危ないものなのかをしっかりと認識すべきだと思う。
クリスマスの時に、新製品のゲーム機を買い求める長い列に出っくわしたことがあった。これも、わたしたちの購買の矛先が偏りすぎた結果ではないだろうか。いや、実に、わたしたちは、いやがおうでも、一種の「喜劇」を演じさせられているようだ。
日本沈没の記事訂正
先日投稿した日本沈没の記事でまちがいがありました。
映画の導入部で映し出される地震の被害場面は、未来に発生するであろう静岡県の地震でした。
主人公の女性が阪神大震災で、両親を失ったという設定が、あまりに印象に強く残ったため、つい勘違いしてしまったのだと思います。
それにしても、それほど、この導入部の地震被害の場面は、どこで起きて、それが大地震のものであるという印象が薄かった。
さりげなく、未来に発生するであろう静岡での大地震を導入部のもってきているが、もっと不気味な演出で、印象に残るものにして欲しかったと思います。
同じ映像の時間であっても、シーンとカットの内容、そして、その組み合わせで驚くほど強い表現になると思います。
いずれにしましても、冒頭のシーンの地震現場は、わたしのまちがいでした。
ECサイトのドメイン名
ECサイトのドメイン名の登録が完了したとのメールが届いた。
「gunmamon.jp」である。
いなかもん、へんなもん、とかいもん、うめえもん、のぐんまもんである。
このECサイトで何を販売するか、まだわからない。
売るものに合わせて、店を作るのが常套だが、わたしの場合はそうでない。売るものが何かを特定せず、ECサイトという店を作ろうとしている。
これで、Web2.0なの?
わからない。
しかし、Googleという今では化け物のような現金吸い取りマシーンみたいな会社の発展した足あとを見ると。彼らは、とにかくインターネットの情報を整理し、インデックス化し、検索する巨大なマシーンを、その当時は誰れも実用化しようとしなかった、多くの研究成果をつなぎあわせて、数十万台もの普通のパソコンを連係させることによって、ゼロから作り出してしまった。
さて、それはすごいマシーンだ、しかし、金は、どこから来るのかね?
という問いが立ちはだかった。
Googleには、金を稼ぎ出す有力で個性的なビジネスモデルが欠如していた。それで、そこそこの大金で会社を身売りしようとまで考えることになった。
だが、救世主が現われた。
検索と広告を組み合わせた、画期的だが、その当時あまり見向きもされなかった独創的なビジネスモデルを考えた人物がいた。Googleの外に。
オーバーチュアサービスがやりはじめた検索連動式広告である。
Googleは、この救世主(検索と広告を連動されるということ)をいちはやく取り入れ、あっというまに、巨大な企業に成長してしまう。
IT業界では、おそらく、現在、世界一に君臨するGoogleの収益は、ほとんどこの検索連動式広告を活用したものである。
Googleは、やっとこのビジネスモデルを手に入れたことで、巨額な金をほとんど自動的に吸い取るマシーンに変貌することができたのである。しかも、これまではインターネット広告とは縁のなかった部分から、収益を独り占めのようにどばっともっていった。
これは、Web2.0の重要な教訓である。
まずはじめよう。
必要なものはそろっているのだから。
しかも、限りなく「無料」にちかく、利用できるのだから。
独創性をぶちこもう。
独創的なものは、なにかをきっかけにして、独創的な市場を創造できると信じよう。
マイクロソフトとは、別のベクトルでものを考えよう。
彼らの餌となってしまわぬように。
さぁ、明日も朝が来る。
がんばろうね。
日本沈没
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たしか阪神大震災のとき、ヘリコプターからのテレビレポート(生中継)で、レポーターの男性が「みごとに壊れています」と言ってしまい、視聴者からの非難を浴び、担当からおろされたことがあった。しかし、よくよく考えてみると、このレポーターの本心がひょいと出てしまったのだと思う。特にヘリコプターに乗って、上空から下の被災地をながめていると、なんだか怪獣映画で町が破壊された様子のように見えたに違いない。現実ばなれするほどひどい有様に、興奮して、つい「みごと」と言ってしまった。
それほど、阪神大震災の爪あとはすさまじく、想像の範囲を超え、ヘリコプターから見ると、とくに現実のものと認識できなかったというわけだ。
プロのテレビレポーターとしては、失格だっただろうが、こころの真実もまたそこにあった。
というのも、わたしは、たまたまその日の朝、テレビをつけたのだが、朝のテレビにはまったくふさわしくない光景が映し出されていて、何がなんだかはじめのうちは、わからなかった。すぐに現実の地震が発生したのだと考えが及ばない状態が続いた。高速道路が破壊され、ずっと長く横たわっている光景など、これまでの現実の映像としては未曾有の体験だったのである。
あまりに現実ばなれしていたので、わたしの想像力は停止してしまった。
それから、徐々にわたしの知覚は、これが現実なのだと理解しはじめ、ずっとテレビにくぎづけになってしまった。
同じような経験は、アメリカの世界貿易センタービルに旅客機がつっこんだ時にも起こった。
何気なしにテレビをつけると、大きなビルから煙が出ている映像が映った。現実だとは、受け入れがたかった。このときもわたしの経験をはるかに超えた現象が映し出されていて、これが現実だとは認識できずにいた。なんだかわからず見ていると、旅客機が飛んできて、ビルにつっこんだ。2機目の衝突であった。そのとき、やっとこれが現実であり、これが生中継の映像であり、現実に人が入っているビルに、大きな旅客機がつっこんだんだと理解することができた。
しばらく、このニュース映像に見入っていると、今度は、ビルが崩れはじめた。なんという恐ろしい映像だろう。特撮でもCGでもなく、現実に大きな世界貿易センターのビルがあとかたもなく、崩壊してしまった。ニューヨークを黒い煙がおおっていた。
その光景を見て、わたしはすぐに「戦争」という文字を思い浮かべた。
そして、それは現実となっていく。
日本沈没の映像には、上記のようなインパクトが、あまりなくて、残念だった。
かつて、映画にもテレビシリーズにもなり、本も良く売れたので、内容はだいたいわかっている。だから、前代未聞の自然災害として、インパクトをもって描くのをちょうちょしているようにも見える。人間としての、そして、日本人としての主人公に焦点を当て、恋愛を絡め、英雄として描いている。ところが、観ている側にとっては、その人間ドラマが映像にただようことによって、カタストロフの緊迫感が途切れてしまう。こうなってくると、CGや特撮でいかにインパクトのある災害場面を映し出しても、添え物のようになってしまい、主題とはミスマッチ的な存在になってしまう。
といいながらも、ラストの場面では涙ぐんでしまった。
災害はいつ起こるがわからず、突然やってくる。現に阪神大震災は予想だにしなかった地域で、予想だにしなかったときに、突然発生した。その強いインパクトをファーストシーンにもってきて、日本も現実にいつ沈むかわからないという、心理的な現実味を喚起しようとしているようだ。その後、どこかの博士が、日本がこれから数十年の間に沈んでしまうだろう、という学説を発表し、大学教授がおおがかりな調査をおこなって、なんだかわからない独自な数式をいじりながら、計算させると、とんでもない結果が表示されるという流れなのだが、この部分をもっともっと緊迫感をもって描いて欲しかった。
日本が沈みはじめているという「兆候」から、ミステリアスに描いて欲しかった。しかもコンパクトに。
(最初の映画作品をわすれてしまったので、機会があれば観てみたい。この導入部分の組み立て方に表示興味がわいてきた)
日本が1年もたたない間に沈んでしまうというストーリーを、もっと丁寧に好奇心をくすぐるように描いて欲しかった。総理大臣や閣僚が居並ぶ、会議で、この衝撃的な科学的予測は、わめきちらされておしまいになってしまう。
我が家のテレビでこのDVDを観たのだが、横長のスクリーンサイズなので、テレビ画面では小さくなってしまい、映像に迫力がなかったのかもしれない。それで、いろいろな不満が沸き起こってしまうのかも知れない。
この手の映画は、やはり、本当の映画館の大画面で、大音響で観るに限るのだろう。
最近、SFXやCG、特撮にあまり感動しなくなったのは、どうも、これが原因かも。
それにしても、スタンリーキューブリックが描く「日本沈没」、フェデリコフェリーにが描く「日本沈没」が観られたら、天国だろう。
二人とも、「莫大」な制作費を要求するだろうけれど。
ジュピター君と道路拡幅工事(2日目)
避難所生活のジュピター君
道路拡幅工事2日目となり、本格的に古いアスファルトをひっぺがす工事がはじまった。ユンボとダンプのコンビでガタガタと作業が進む。その度に家が揺れる。
もともとジュピター君は、わたしの家のすぐ東側でずっと暮らしていたのだが、避難所はこの場所なのだが、なんだかいごごちが悪そうだ。ここで暮らしているとき、ジュピター君は、大きな穴をやたらと掘るので、となりの畑に移動し、しばらくそこで暮らしている。はじめは、なんだかいごごちが悪そうだったが、すっかり慣れていた。それが、また今回の工事で移動することになってしまった。工事をやっている昼間はこちらへ移動し、夕方工事が終わると元の場所へ移動する生活だ。
15才と、だいぶ年をとっているジュピター君なので、ストレスにならないか心配である。時々様子を見ている。
犬は、猫とちがって、犬小屋のような狭い空間が嫌いらしい。怖いというような感じだ。
かつて大きな格子でできた犬小屋を用意したが、なかなか入ってくれなかった。無理やりに入れると、怖がってすぐに出てきてしまった。それで、その格子でできた犬小屋は、使わずにほおってある。
今回の避難所にも新しい犬小屋があるのだが、まだ入っていない。こういう空間に入ると閉じ込められそうで、本能的に怖いのだろうか。
いつも生活している場所には、3つも犬小屋があり、それぞれを上手に使い分けて入っている。
それでも慣れるまでには相当な時間を要した。
3つとも使っているものだから、捨てるに捨てられず、そのまま設置してある。
ECサイトの準備
ECサイトを準備している。
本日は、初期設定代金3150円を送金した。
3ヶ月無料で使えるサービスだそうだ。世界的に有名な無料のECサイト構築ツールを使っているサービスである。そういえば、Web2.0のキーワードの一つに、無料のソフトというものがあった。その代表的なのが、「Linux」である。この構築ソフトも、その一種で、みんなで開発され、自由に使える。
今のわたしには、そのEC構築ソフトを使いこなす時間と体力に自身がなく、まして、これから一人でサーバーを立ち上げるのもおっくうだし、金もかかる。
というわけで、このEC構築サービスを使ってみることにした。使い勝手や、ROIが良ければ、「PCパートナー」のサービスでも使って行きたいと思う。
何事も、自分で、自分で、というやりかたではなく、外のものを利用できるなのら、積極的に利用しよう、というのが、これからのインターネットであり、パソコンの使い方であると思う。つまり、Web2.0の理念であり、その理念がほんとうに現実のものとして、使えるようになってきたのが現在である。
Windows Vistaの話題がもちきりではあるが、世間の人々は、XPが出てときに比べて、冷淡に感じられる。そうした時代ではないのだろう。(とはいってもパソコンメーカーなどの扇動によって、かなり話題性があり、盛り上がるだろうが)
とにかく、わたしは、VistaよりもWeb2.0だ。
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そう、パソコンとインターネットが一体となり、進化が進んでいる。
久々にちゃんとしたトラックバック
トラックバック、ありがとうございます。
ブログのいいところは、トラックバックという仕組みを作ったところです。しかし、このアメーバブログで最近トラックバックを拒否する設定がデフォルトになったように、トラックバックがやや迷惑な存在になりつつあるようです。
先ほど我が家の愛犬ジュピターを写したビデオを添付したブログを公開したところ、あったいう間に30件近いトラックバックがつきました。そのすべてがわたしが書いた記事とはあまり関係のない、というか、なにかのキーワードをベースに自動的につけられたトラックバックのようです。これでは、トラックバックを拒否する設定がデフォルトになるはずだと認識しました。
これまで、ビデオをブログにつけたことがなかったから、これほどすさまじい機械的なトラックバックにお目にかかることはなかったが、ビデオを添付したとたんに、ばばばばと付いた。
例によって、機械的なトラックバックは、エロものばっかりでした。
わたしは、決してそうしたエロもののトラックバックや、インターネットがエロものに利用されるのを否定するものではありません。なんというか、歓楽街のあちらこちらに貼り付けられ、電話ボックスに置かれた、その手のビラのようだ。これこそ、人間くさい街で、うさんくさいものが、どよどよと、あちらこちらにあふれている。そういった街の汚い居酒屋にふらっと入って、ひとり酒を飲むのもなかなかいい。
もうしばらく、このままほおっておこう。
さて、オーラの泉の話題でトラックバックを受けたのですから、これからが本題です。
「前世」
オーラの泉では、江原さんと三輪さんが必ず前世を引き合いに出して、ゲストの方の性格やら出会った人やら仕事やらなにやらのほんとうのすがたを解き明かしていきます。わたしには、他人の前世を見る力がないので、前世がほんとうにあるのかないのかわからないのが実情です。しかし、前世がどうだったかを告げられて、ほとんどのゲストの方が納得し、肯定しています。ああ、それなら合点がいくという具合です。そして、その前世との関連で、現在を説明し、これからのことも示唆するのです。
前世がほんとうにそうだったのか、いくら江原さんと三輪さんに告げられても、本人はほんとうだかでたらめなのか、わからないでしょう。
しかし、この前世というキーワードを「肯定」するところから、すべてがはじまるので、前世を否定してしまっては、江原さんと三輪さんの話は成り立たなくなってしまいます。
江原さんと三輪さんには他人の前世を見る力があって、それを告げられたゲストも、その前世を受け入れてしまう。本人がそうだというのだから、そうだというしかありません。ここらへんは、わたしたちテレビを観ている第3者には、どうにもすることができません。本人がそうだというのだから、そうなんだ、と思ってしまいます。
しかし、ほんとうは、この「前世」というキーワードが非常に重要なものではないでしょうか。
わたしは、「信じる」「信じない」という判断は好きではありませんので、そういうものだと思っています。例えば、この宇宙は、数十億年前、何もない「無」から、ビッグバンとよばれる爆発で誕生したという説が、物理学では定説になっていますが、わたしは、それを「信じる」「信じない」ではなく、そうなんだと思っています。物理学の最新の理論と、最新の観測がそういうふうに示している、ただそれだけです。
しかし、わたしの好奇心は、得たいの知れない物質「ダークマター」に向けられています。理論的、観測的に見て、現代の最新物理学でも説明のできない部分、これが「ダークマタ-」と呼ばれる存在です。この宇宙は、現代物理学の目から見ると、質量が少なすぎるという説明で、その足りない部分が「ダークマター」です。
宇宙の成り立ちと、宇宙の出来る前、そして、これからの永劫の未来のすがたは、わたしたち人間には、わからないものだと思います。それでいいのです。そのわからないということを肯定すること、それが大切です。
さて、前世ですが、ある子供が突然前世について語りはじめた、という実話があります。不思議に思って、確かめると、たしかにこの子供が言っている前世の痕跡が残っていたそうです。
しかし、オーラの泉を観ている視聴者のほとんどは、前世を肯定していないでしょう。自分にわからないし、見えないのです。しかし、オーラの泉の会話の中で、前世がいつのまにか成立してしまっていて、ゲストの方も納得し、感激しさえして涙を流します。それで、いいと思います。オーラの泉がいいところは、番組に出ているゲストの方はもちろんのこと、観ているわたしたちをも幸せなこころにしてくれるところだと思います。
こうした結果から見て、「前世」はあろうと、なかろうと、人々を幸せにしてくれるものなんだ、でいいのです。
ちなみに、わたしの前世は、大きなお城のようなところに住んでいた者かも知れません。ホテルや旅館が不思議に好きで、こころが落ち着くからです。一般的なホテル好きや旅館好きとは、別の、何かの感覚を自分の中で感じるからです。
さて、もう一つの重要なキーワードは、「オーラ」の色です。
番組名がそうであるように、「オーラ」の色は、この番組にとってなくてはならない存在です。
が、この話題は、次の機会にしましょう。(少々疲れました)
それはそうと、わたしは、最近、人の存在とは、人の中にあるのではなく、人の外にあるような気がしてします。
ちょうど、遠隔操作をしているようなかっこうで、人の外にある存在が、人という道具を使って、この世に存在しているのです。そして、外の存在と内の存在とは、なにかでつながっています。目に見えないなにかでつながっているのですから、交信しているとでも表現できます。
そして、自分以外の交信を受けることができる状態が、いろいろな超能力といえる力のカギになっているように思えてきました。
ですから、現世に今存在する人の、前世は、その交信を傍受し、外の存在との交信をすることで、見えてくるものかも知れません。
このあたりも、もっと考えると、現在、過去、未来などの正体も見えてきそうな気がします。
愛犬ジュピターと土地区画整理
私の家に面する道で区画整理による道路の拡幅工事がはじまった。
家から見える見慣れた風景もすぐに変わってしまうので、携帯のビデオで撮影した。画質が悪いのでちょっと人前に見せるのは気が引けるのだが、記録と思って投稿した。
画像は、小さくして見てください。
映っているのは、わたしの愛犬ジュピター君である。年齢は、15才くらいで、人間でいえばそうとうな年だ。ジュピター君は、わたしの人生のいろいろな部分を見てきた。
近くの大きな建物は、保育園である。この保育園は、わたしがここへ越してきたときは、すぐ東側にあった。今では、病院に併設されている看護学校の生徒用駐車場になっている。
知らず知らずのうちに、わたしの家のまわりの風景も変わっていってしまう。
しばらくこのドキュメントを続けようと思う。
ちなみにわたしが生まれた家があったところは、しばらくガソリンスタンドになっていた。今は、ラーメン屋「おおぎや」の駐車場である。
まだまだキーボード
これからはじめるサービス、PCパートナーのことを考えていると、どうしてもパソコンのキーボードとタッチタイプのことに考えがおよんでしまう。
わたしがパソコンと付き合うようになった当初、キーボードなんかまったく打てなかった。しかし、会社がプロのタイピストだらけで、機関銃のようにキーボードを恐ろしく速く、正確に叩くすがたを見て、独習で、なんとかタッチタイプをマスターした。その後、縁あってか、キーボードトレーニングソフトの開発と販売にたずさわることになり、ますますタッチタイプの必要性を認識した。
が、当時、かれこれ20年も前になろうか、そのうちに音声認識技術が進歩してキーボードなんか必要なくなるとか、手書き認識の発達で、これまたタッチタイプなんか必要なくなるとか、いろいろと市場の反発があったりした。
しかし、相変わらず現在でもパソコンに文字を入力する手段はキーボードで、タッチタイプは不可欠の状態である。
音声認識や手書き入力はどこかへ行ってしまった。
だから、わたしはいまだにパソコンとうまく付き合うためには、タッチタイプ(キーボードを見ないで文字を叩くこと)が重要だと思っている。
自己流でキーボードを見ながら、ゆっくりと文字を打つ姿を見ると、複雑な気分になってしまう。
40過ぎの人に今からタッチタイプの練習をすすめるべきだろうか。
時間がないし、現状でいいじゃないかと反論されるに違いない。
しかし、わたしのパソコンプロとしての経験では、1時間の練習を2週間つづければ、誰でも50過ぎでもタッチタイプは習得することができる。
わたしのブログが、ときとして、長くなってしまうのは、わたしのキーボード入力が速いからだろう。
(手書きがもどかしくてしかたないのも事実)
わたしの先生である羽鳥さんも、70歳を過ぎて、まだときどきタッチタイプの訓練をするそうである。オーストラリアのキーボードトレーニングソフトを日本語化して、日本でマーケティングする機会を与えてくれたのは、この羽鳥さんである。それで、5年間くらいは、来る日も来る日もキーボードとタッチタイプのことで頭がいっぱいだった。だから、いまだにわたしに染み付いているのだろう。
現在の10倍の速さで、正確にキーボードから文字を打ち込むことができれば、どれほどパソコンと仲良くなれるだろう。そして、ほんとうにパソコンを道具として、仕事に100%活用できるようになるだろう。これからの若い人たちは、学校でタッチタイプを習得するのが当然となるに違いないが、問題は、わたしたちと同年代の中高年さんたちだ。
タッチタイプを覚えるのは、車の免許を取ることよりずっとずっと短時間で安全で楽なのだ。
さて、どうやって、このタッチタイプというキーワードを当サービスに関連させるかが問題となってきた。
たとえば、のどにとげがひっかかっている。息がが苦しい。でも、とげを抜くのはめんどうだし、痛いにちがいない。ちょっと空気を吸い込むのに苦労するが、このままでいいだろう。
でも、ちょっと時間をとって、思い切ってのどのとげをひっこぬいたらどうだろう。
ほんのちょっとの時間と痛さで、のどのとげが抜けた後は、想像もできなかったほど爽快になるに違いない。
いずれにしても、20年も長い間、わたしを揺さぶりつづけている問題である。
霧の朝
今朝霧が出た。
太陽はぼわんとして、寒さはゆるんだが、重たい冷たさの朝だった。
視界は100メートルくらいだろうか。
近くの保育園の園児たちが「きりだ」「きらだ」とさわいでいた。
非日常的なるものは、人々のこころをくすぐる。
それをちっちゃな園児たちは、素直に表現していた。
こんな日はなにか特別なことが起こるのだろうか。
霧が出るとモノトーンになる。
それとは逆にこころの色は強調されるようだ。
きらきらとしたこころのゆらめきは、ほんのわずかの時間だった。
また、いつものように太陽がくっきりと顔を出し、いつもの日常が始まった。
今日は、楽天の株価が大暴騰して、ストップ高になった。
でも、これは霧のせいではないだろう。
