帰ってきた社長がんばるin群馬 -9ページ目

経木というすぐれもの


経木
http://www.fukuji.net/jishabinn/k-paper/kyougi.htm

ネットでも販売されている「経木」


納豆で思い出すのは、「経木」というすぐれものである。

こちらにそのいわれがある。http://kaihatsu.shizuoka-c.ed.jp/2005/chuugaku/gijutsu/newgijutu1/kyougi.pdf


本来、紙がまだなかった頃、お経を書いたから、経木というらしい。

わたしと経木との関係は、主に食べ物である。子供のころは、現在のような発砲スチロールやプラスチック、ビニールといった食品包装用の素材がなかったので、食べ物を包むのはもっぱらこの経木を使っていた。

経木の材料は、「木」そのものでり、その木を薄く紙のように削って作ったのがこの経木である。したがってゴミとして捨ててもそのまま分解され土にかえる。これだけでも素晴らしいエコ素材であるが、その香り、吸湿性、殺菌力などが、自然の恵みとして利用できる。

ただし、現在では生産も少なく、業務用として広く使うにはちょっと難しいだろう。値段もそれなりに高いし。


この間、群馬県で有名な郷土菓子である「旅がらす」の清月堂で、「酒まんじゅう」を買って食ったら、なんと、包装としての用途では必要がないのに、この経木の小さく切った四角形のものが、酒まんじゅうにくっついていた。ビニールの包装をやぶると、ほんのり広がる木の香り。これだ、これだ、酒まんじゅうがうまいのは、この経木の香りといっしょだからだ。と感激してしまった。

それに余分な水分をまんじゅうから吸い取ってくれる効果もあるに違いない。

それにしても、経木をわざわざまんじゅうにくっつけて、しかも、それをビニールで1個1個パックしている、その心意気にも感心した。


まんじゅう、団子はもちろん、焼きそばもたこ焼きも、コロッケもおむすびも、わたしにとっては、この経木と切り離せない味となっている。

それほどにわたしたちの世代は、木の香りを食べてきたのである。


幸いわたしは、森がある群馬に住んでいる。

いつか、群馬の経木をもっともっとアピールして、ネット販売ができたらいいな、と思う。


つけたし

もう随分出前の注文をしていないが、ちょっと昔、毎日のように出前をとっていた店がある。伊勢崎市の「福のや」というそばやである。ここでカレーライスを注文すると、カレーライスが盛り付けられた皿に、木で作られたわっかがそのカレーライスを囲むように乗せられ、その上からラップで包んで持ってくる。(たまにプラスチック製のわっかが使われることもある)が、木のわっかがいい。それがカレーライスの水分をちょうど良く吸い取って、理屈ではわからないが、なんだか美味しい気分になった。


朝は納豆、夕餉は豆腐

伝統の経木包みこだわり納豆(18食)
¥2,100
夢みつけ隊
最近スーパーマーケットへ買い物に行くと、納豆の売り場に納豆がひとつもないことが毎日つづいている。
わたしの経験では、「寒天」と「ココア」以外、このような現象はなかった。
納豆キナーゼとかなんとかいう作用で、血液がサラサラになる効果がテレビで放映されたときも、たしか、売り場から納豆が毎日のようになくなってしまうほど売れたという記憶はない。

ためしに午前中お昼少し前、スーパーマーケットで納豆売り場を見ていた。

わたしは主に7時過ぎにスーパーマーケットへ買い物に行くので、そのときは、いつも納豆が売り切れていたが、さすがにお昼前にはちゃんと納豆(様)が並んでいた。見ていると、30歳から40歳くらいの主婦の方々が、ほいほいと納豆を買い物篭へ入れて行く。今回、納豆が話題になった発端は、テレビでそのダイエット効果が放映されたかららしいが、なるほどホイホイと買い物篭へ入れて行く姿を見て、その広告効果の絶大なるを実感した。

いわば、普段の納豆とは違う納豆として、買い物客の目にとまっているのだ。

納豆が別の価値をもった具合である。それも、圧倒的に主婦の皆様方からの熱いラブコールが毎日つづいている。

これほど毎日売り切れてしまうもうひとつの要因としては、納豆の値段の安さがあるだろう。一人分用のパックが3つセットになって、60円から70円で売られている。なんと安いのだろう。といっても、小さなパックが200円以上もする高級品もある。

それらが、夕方には完売してしまうのだからすさまじい。

あきらかに、主婦の方々が買って行ってしまうことがわかった。なぜなら、男性の買い物客は、わたしの観察によれば、主に夕方からスーパーマーケットに出現するからだ。

血液さらさら効果よりも、ダイエット効果のほうが強烈にアピールすることもわかった。

それほど、「ダイエット」という言葉は、価値のあるものである。肝に命ずるべし。

3パック60円の納豆が、「ダイエット」というおまじないで、ぐっとぐっと価値を上げ、その分ぐっとぐっと割安の商品となったのである。

それにしても、これぐらいの価格の商品が毎日完売してもスーパーマーケットへの利益にはあまり影響がないに違いない。テレビの一時的な効果なので、値上げするのもおっかない。通常は、売れ残って、安売りする分も救われるので、作業的にも売上的にも恩恵はあるだろうが。


そこで、思い出すのは、わたしの子供のころは、家庭に冷蔵庫がない時代で、毎朝納豆屋がすぐ近くの道に売りにきたものである。「なっと、なっとー」という声で、わたしの一日がはじまった。
そうして、夕方になると、ラッパを吹きながら毎日豆腐屋が自転車で売りに来る。そのラッパの合図で、わたしたち子供は遊びを止めてそろそろおうちへ帰ろう、ということになる。
考えてみれば、非常に合理的でうまい仕組みだ。夜のうちに納豆を仕込んで発酵させ、出来たてのまだあたたかい納豆を朝売り歩く。冷蔵庫はいらない。
「なっとやさん」と声をかけると、自転車を止めて、あったかい経木納豆とからしと青ノリをオプションでつけてくれた。
夕食には、売りにきた豆腐屋さんから、持っていった鍋にいれてもらって買った豆腐を食べる。
冷蔵庫はいらない。
豆腐は早朝から仕込んで、昼間に売っている。そして、夕方に売り歩く。

納豆も豆腐も毎日出来たてのものばかり食っていた。


わたしは最近思うのだが、現代人は冷蔵庫に依存し過ぎているのではないだろうか。常温でたべるのが最も美味しいものがある。

代表的なのは、納豆、豆腐、生卵。(わたしにとってだが)

冷蔵庫にしまっておいて、冷たくなって、硬くなった納豆をえんやこらとかき回して、あたたかいご飯にかけて食ってもあまりうまくない。


納豆はほんわかあたたかいのが一番である。



あたらしいサービスの名前「PC パートナー」


PCパートナー

わたしの会社の新しいサービス名を「PCパートナー」にした。

この名前でホームページを作成中である。


パソコン(インターネットも含んで)まわりの、なんでもサービスである。パソコン修理とか、インターネット広告とか、そういう特定の具体的なサービスに限定しないサービスである。しかも、「あたたかみ」のあるサービスを追及しようと思う。

何ができるかわからない。

今は、まだ漠然としているが、とにかく歩き始めなければならない。


ベーシックなホームページを作っているうちに、なにかアイデアが浮かぶだろうと思っている。


わたしが(勝手に)先生と思っている人に羽鳥さんがいる。なぜか不思議に羽鳥さんとは因縁があるようにも思える。テレビで流行っている「オーラの泉」なんかでは、前世に関係がある人と今生でもなにかしら不思議な出会いがあるらしい。そんなような感覚である。

羽鳥さんは、わたしが大学を出て最初に東京で就職した会社の創業者で社長だった人である。

彼の考え方に共感をおぼえていた。入社当初は、羽鳥さんの存在すら知らなかったが、パソコンソフトのプロジェクトを担当するようになり、食事をしたり、お話しをする機会が多くなり、ますます彼の存在の魅力を感じた。


羽鳥さんは、「第二の人生」をはじめるため、社長を引退し、湯河原で農作業と執筆活動をしている。彼の理想的な第二の人生を送っている。新城宏というペンネームで何冊か本も出版し、自分のホームページ「新城宏文芸工房 」を開設し、月に一度、必ず更新している。


羽鳥さんが創業した会社は、「アグレックス」という社名だが、当初は、「日本能率コンサルタント」という社名だった。名前だけ聞いたのでは何をやっている会社かわからなかった。実は、それが「みそ」なのである。

貸し机の小さな共同事務所で会社を設立した彼は、創業当初仕事がなくて、朝会社から出て行っては、なにもなく帰ってくる毎日が続いたそうである。詳しいことは、残念ながらわからないが、そんな毎日の中からビジネスチャンスを見つけていき、とんでもないスピードで会社が大きくなっていった。

わたしが入社した頃は、すでに中堅企業に成長していた。

社名はまだ「日本能率コンサルタント」だった。よく日本能率協会と間違われたそうである。

日本能率コンサルタントは、次第次第にIT総合サービス会社へと変貌していき、「アグレックス」に社名変更し、東証2部上場を果たしている。


遅ればせながら(?)、わたしも具体的なサービスを決めないで、「PCパートナー」という漠然としたサービスで出発しようと思う。

今、ひとつのキーワードが浮かんでいる。それは、「あたたかみのあるサービス」である。

パソコンやインターネットの素人さんにとって、もっとパソコンやインターネットが身近で、あたたかみのある道具となるように、という願いを込めている。

「クール」の時代は去ったと思う。これからは、「ウォーム」の時代である。


渋谷のバラバラ殺人事件

ここのところ血なまぐさい殺人事件のニュースが流れている。わたしの現状では、自宅にいることが多いこのごろで、テレビを見る機会が多く、朝からこの話題でもちきりである。

なぜ彼女は、夫を殺害し、バラバラに切断したか?

という話題にたっぷりと時間をかけている。

この種の殺人事件などが発生すると、決まって登場する「先生がた」がもっともな解釈をしている。


しかし、これらの先生がたも、司会者も、コメンテーターも、わたしも、実は、外から事件にまつわる事実を観察するしかなく、しかも、その事実がほんとうなのかも検証することもできず、結局、ほんとうのほんとうの殺人の理由などは、決してわからないのが現実だ。


それでも、容疑者(犯人)と被害者の生い立ちや、近所の人の話、学校友達などの話、などが延々と取材され放映され、なんとか殺人の原因を探ろうとしている。それでも、ぜんぜんパズルの数が足りない。

集められたパズルをなんとかつなぎ合わせて、この犯人と被害者と同じようなパターンで、現実に今、生活している人々は、驚くほど多いに違いない。もっと悪いケースで、いつ事件が起きても不思議ではないパターンのカップルも少なくないはずである。


結局、ほんとうのことはわからずに、この事件は時とともに風化していき、忘れ去られてしまうだろう。


しかし、どうだろう、世間がこの殺人バラバラ事件に好奇心の目を向けているうちに、この殺人を防ぐことは、ほんとうに、できなかったのか、と真剣にメディアから投げかけたら。暴力、嫉妬、復習、打算、わがままなどだけを分析するだけではなく、ここに欠けているもの、殺人を未然に防ぐもの、もっと幸せになる方法を、みんなで、この機会に、真剣に考えたらどうだろう。

それは、現在同じような危険な境遇にいる人、そして、これから人生を歩いていく子供達にとって、少しでも世の中をあたたかいものに変えるのではないだろうか。


とんでもなく抽象的にしか言えないが、この事件にまつわることがらについて、非常に冷たいものしか感じられない。だから、夫婦ともども、別のところへ、なにかの「あたたかみ」を求めていたのかも知れない。


都会の生活では、(田舎でも都会的になってきているが)、その「あたたかみ」を理性で理解するのではなく、こころで感じられる「装置」のようなものが必要なのかもしれない。


凍てつく寒い冬、あたりいちめん面雪ばかり、冷たい光の月が出て、風も凍って音もない、

小さな焚き火が燃え出した。

ぱちぱち火の粉が音になる。

顔を照らす赤い炎、

じんわり、じんわり、みつめあう。

はなしことばはいりません。

おはなのあたりがはなしてる。

よかったね。よかったね。

明日は雪がふるでしょう。



4400 未知からの生還者

THE 4400 -フォーティ・フォー・ハンドレッド- シーズン1 コンプリートエピソード/ジョエル・グレッチ
¥3,701
Amazon.co.jp
なんだかこれまでのSFのいいところを詰め込んだようなドラマである。
ドラマ展開もテーマも映像も「そつのない」優等生なドラマである。シーンやカットの構成や見せ方は、ドラマの展開を決してじゃましない。
超能力の見せ方も、日常と非日常とのバランスがとれている。
というわけで、シーズン1を一気に観てしまった。

それにしてもわたしのようなSFファンにとっては、このようなドラマがテレビで放映されるアメリカがうらやましい。

その昔、「ウルトラQ」という特撮番組がテレビで放映されていた。その頃が懐かしい。


わたしは、高校を卒業してすぐ映画の専門学校に通ったが、そのときの先生が「ウルトラQ」のタイトル映像撮影秘話を聞かせてくれた。

あれは、洗濯機を使ったんだよ。「ウルトラQ」というタイトルを洗濯機の中の液体で描いておいて、洗濯機を回したんだ。その映像を逆回転で写すとああいうタイトル映像になるのさ。

なるほど、と思った。


その当時は、今でこそ安易に安価で使えるCGなんてものはなく、撮影隊は知恵を絞って特撮をやっていた。たしかNHKのプロジェクトXでも放映された初代ゴジラの撮影も大変だった。しかし、なんと楽しかっただろう。

大人たちが本気になって遊んだというべきだろう。その映像をテレビで観ていたわたしたち子供は、その光あふれる不思議な世界に夢中になっていた。


CGでフライトシミュレータをやるよりも、紙飛行機を飛ばすほうがずっとずっと楽しい世代。それがわたしたちだった。

テレビゲームのロールプレイングゲームに夢中になるよりも、風呂敷のマンとを来て、駆けずり回っている子供、それがわたしたちだった。


ウルトラQ~dark fantasy~case 11
¥3,420




ナイロビの蜂

ナイロビの蜂
¥2,850

あまりわたしの心にしみない映画だった。

この映画も日常と非日常のバランスが悪いのだと思う。

主役の男女が強く愛しあっていることが前提となる物語だが、その前提の部分が弱い。例えば、映像美の古典的な名作「男と女」では、物語としてはたわいのないものだが、一見物語りとは無関係な映像を美しく連ねることで、観るものの感情が映画の中へ知らず知らず引き込まれて行く。こうした映画がもつ独特の力をもっと使って欲しい。

二人の男女の出会いと結ばれて行く過程が、あんまり急展開で、めんくらってしまい、その印象のまま映画がどんどん進行するので、二人の間に通わなくてはならない暖かいものが感じられない。女性があまりにも身勝手に見えてしまう。

このあたりの二人の関係は、妻が死んでから、いろいろと調べる内に「実はこうだったのか」と分からせる仕組みになっているのだが、ここらへんのサスペンスと妻が殺された理由に関するサスペンスがはっきり棲み分けられていないようだ。


それはそれとして、庭いじりに没頭する夫は、いかにもイギリス人らしい。

原題は、「いつも庭いじりする人」というようなニュアンスの英語だが、このあたりを邦題にも活かした方がサスペンス性というか、映像のプロットとの融合ができて、もっとインパクトのある映画になったと思う。「ナイロビの蜂」というのは、わたしには、しっくりこない。


それから、映像として気がかりなのは、難民キャンプを手持ちカメラのような映像で写すことだ。戦争映画では、この手法が有名で、まるで観るものがそこにいるかのような緊迫感を表現できる。しかし、そのような緊迫感を表現する必要がさほどない場面で、この手法が使われているようである。難民キャンプの雑然とした様子をドキュメンタリータッチの映像で表現したかったと思うが、むしろ丁寧なカットの積み重ねや、スタンリーキューブリック風なぶれない映像の移動撮影などが、(わたしは)好きだ。


この映画に対しては、わたしはわがままな観客である。


バード

バード/フォレスト・ウィテカー
¥1,455
Amazon.co.jp

前々から気になっていた映画で、とうとう借りて観た。

酒と麻薬、そして女性なしには、この稀有の天才音楽家は語れないそうで、この映画もどっぶりとそのあたりの事情を痛ましいほど赤裸々に映像化していた。彼が生み出したといわれる「ビバップ」と彼の音楽性については、それほど深くは描かれていないのが残念だ。多分、これほどのジャズの天才だから、多くのメディアや書物で語り尽くされていたのだろう。しかし、わたしはそういった類のものには無頓着だった。チャーリー・パーカーというジャズミュージシャンをはじめて、まともにこの映画で見ることになったわたしにすれば、もっともっと音楽について描いて欲しかった。

物語のバランスとしては、わたしには、ちょっと、酒とドラッグと女の方に重心がありすぎるように思える。

もっとも、この映画の監督がかのクリント・イーストウッドだから、わたしの心では、それはいたし方あるまいと思いもする。

最近話題になった(というより映画配給会社の企みで話題にさせられた)「硫黄島からの手紙」も彼の監督作品だ。


映画の後半で、自分がかつて演奏した舞台で、ロックンロールを黒人が踊りながら得意げに演奏する姿を見て、チャーリー・パーカーはつぶやく。

なんで、Fフラットばかりなんだ...

舞台が終わり、チャーリーはあの黒人が吹いていたアルトサックスを勝手に持ち出して、劇場の裏口近くでいきなり吹き始める。

もっとたくさんの音をどうして鳴らしてあげないんだ。

もっとたくさんの音を。


ここにチャーリー・パーカーの音楽の源泉を見た。


1955年、34歳で、パトロンの女性宅を訪れ、チャーリー・パーカーは、息をひきとった。

この年は、わたしが生まれた年でもある。


それから間もなく、わたしは、100円ショップでチャーリー・パーカーのCDを買った。1枚200円だった。

いつどこで誰と演奏したかわからないCDだ。

だいぶ録音の音源が悪い。

大きな音で聴くと耳がいたくなるCDだ。


しかし、この演奏はまぎれもなくバードのものである。



ウルトラヴァイオレット

ウルトラヴァイオレット (UMD Video)
¥2,850

ウルトラヴァイオレットを観た。

ミラ・ジョボビッチ(つづりが違っていたらごめんなさい)の独擅場である。

フィフス・エレメントで、彼女を観たときから気になっている女優さんである。

彼女の顔や、雰囲気は、欧米人ではなく、かといって東洋系でもなく、なにか不思議な人種である。そこがこのようなドハデなアクションSFにはぴったりなのだろう。ミステリアスな超人とでも言おうか。


それにしても、いたるところにフィフス・エレメントの雰囲気がかもし出されていたと感じるのはわたしだけだろうか。

ファージというウイルス感染者のミラ・ジョボビッチが人間に化け、敵の本境地に潜入するとき、入念にチェックを受けるのだが、この場面は、フィフス・エレメントの最初のシーンで彼女が未来の集中治療室に設置された水槽に寝かされている場面を思い出させる。このウルトラヴァイオレットでは、マシーンが彼女が人間であることを調べるため、血液や口の中やらを自動的に検査するのだが、これをミラ以外の女優が演じたら、ちょっと滑稽になってしまうだろう。ミラだから、そうはならないのだ。


ともかく、ひょいと新作で出て、ひょいと観て、楽しませてくれた映画である。



ホームページのつくりかた


テンプレート

ホームページ用無料テンプレート


さて、限りなく無料で、勝手に表示される広告も目障りでなく、そこそこ自由で、大きな容量がもてるホームページスペースを見つけることができた。ただし、このホームページストレージでは、CGIのサポートがない。掲示板などを使いたいときは、別の無料サービスへリンクさせてくれとQ&Aで書かれている。これは、これでいい。


次にデザインであるが、かつて会社のホームページを作ったときは、デザイナーの社員と協力して独自のページをこしらえたものだが、今回はテンプレートを使うことにした。しかも、無料のやつ。

今では、だいぶまともなデザインでテンプレートが提供されている。わたしのビジネスは、デザインではなく、いかに限りなくコストが少なくネットワークを活用することなので、理にかなっていると思う。むしろ、そのテンプレートにどんなビジネスのデザインを詰め込むか、表現するかが問題である。


このように、世の中に広く、現存するものを最大限に活用しようと思う。これぞ、Web2.0的な考え方ではなかろうか。一番大切なのは、中心に据えられるビジネスモデルであり、そのビジネスモデルが魅力的で斬新なものでなければならない。といっても、そんなに気張ることはあるまい。ごくごく単純に考えて、「必要とされるもの」、これがビジネスだ。それを目を大きく開いて、心を自由にして見つけるまでである。


Web2.0では、自前ではなく、必要なピースを見つけて、うまくつなぎ合わせて、ばらばらなピースでは得られないような、強力なインパクトのある「なにものか」を誕生させることだ。


さてさて、それでは、どんなビジネスモデルがいいだろう。ここが考えどころである。


それにしても、SPAMトラックバックなどの流行で、せっかくのブログの利点が失われて行くのは寂しい限りである。


みかんは鳥たちのもの


みかん
鳥たちがつっついて食べたみかん


わたしがみかんの小さな木を庭に植えたのは、もう何年も前のことだ。これといった世話をしないのに、毎年実をつけてくれる。すずなりのようにたくさん実をつけた年もあった。すると、そのたわわな実を通行人の人が見て、ずいぶんたくさん実をつけたものでうね、と誉めてくれたりもした。

そのみかんの実をわたし自身が食べたのは、木を植えて、実をつけだした当初の頃だけである。

近くを通る人は、

いいみかんですね。はやく取って食べた方がいいよ。

などと言う。

あんまり長い間ほおっておくと、通行人もいじいじするようだ。


実は、ある年から、このみかんの実は「鳥たち」のもの、と決めていた。

わたしたちは、店でいくらでもすきなだけみかんを買って食べることができるからだ。

冬がもっと寒く、雪がときどき降る年などは、わざわざみかんを半分に切って、鳥たち用に置いたものである。


今年のみかんの実り具合は数が少ない。おそらく、すぐ隣に植えてある「シキミ」がとてつもなく大きく成長してしまい、太陽の光があまり当たらなかったのが原因だろう。今年は、その「シキミ」を思いきり剪定して、みかんの木にも太陽が十分降り注ぐようにした。そのときは、すでに晩秋だったので、みかんの木がもっと元気良くなるのは来年だろう。


ずんぐり大きなヒヨドリが今日もみかんの実をついばんでいる。

なかなか器用な食べ方で、ちょっと見ると食べられていないようで、底の方からくちばしをつっこんで、上手に中身をすっかり食べてしまう。


今年は、もっと大胆な食べ方である。どうどうと実の横からついばんでいる。

鳥たちは知っているに違いない。これは、俺達のみかんだと。