センダンとヒヨドリ
センダンの実をついばむ晩秋の朝のヒヨドリ
サラ・ブライトマン
久しぶりにサラ・ブライトマンのラスベガス公演のビデオを観た。
わたしがサラ・ブライトマンの音楽を知ったのは、3年前くらい、カミさんの誕生日プレゼントに何を買おうかと迷っていて、たしか「サラ・なんとか」が最近気に入ってるみたいだと、うろ覚えでイトー・ヨーカドーにある新星堂へぶらりと行き、行き着いたのがサラのCDだった。
そのころは、すでにサラの歌声は、テレビのコマーシャルで知っていたが、それほど気にとめていなかった。
そもそも、こういうものにはすっかりのめりこむたちだが、カミさんといっしょになってからは、多くのものを諦めた。
だから、音楽もほどほど、映画もほどほど、という生き方になっていた。
実際のところサラ・ブライトマンのことは、ほとんど、まったく、知らなかったので、とりあえず、視聴してみた。
なぜだかわからないが、その歌声を新星堂の店内に設置された視聴用のヘッドホーンで聴いていて、涙ぐんでしまった。
それで、このCDをプレゼント用に購入した。
今でもカミさんは、なにかというとこのCDを聴いている。猫のトイレ用の新聞紙カットのとき。わたしの髪の毛をカットするとき。昨夜もわたしの髪の毛をカット(散髪)しながら、このCDが流れていた。
CDを購入した後、ラスベガス公演のDVDを観た。
ビデオクリップはすでに観ていたが、公演の映像は、わたしにとって衝撃的なものだった。
サラ・ブライトマンから「エネルギー」あるいは「オーラ」、あるいは、「時間を変形してかたちづくる、とくべつな存在物」を、どでかいコンサート会場にあふれさせる舞台だ。すばらしい表現には、そうしたものが、必ずあるのだが、コンサートでこれほどのすさまじさはめったにないだろう。しかもDVDですら、それが、映像を通してこちらへ伝わってくる。
ラストの曲「クエスチョン・オブ・オナー」(日本語に訳したほうがいいと思うが、それがない)は圧巻である。
これまでのきらびやかな衣装を脱ぎ捨てて、黒いレオタードのようなものをまとい、空中を舞い、魔法使いのように歌を空間にあふれさせる。
これまでの音楽と歌はおしばい。これで、おしまいよ。
わたしの歌と音楽と声に酔ってくれて、ありがとう。
さあ、夜の闇がわたしたちを包み込み。明日の太陽を準備している。
出演者が舞台に一列に並び、そろってお辞儀をする。
サラが加わり、拍手が一段と高まり、そろってお辞儀をする。
すべては、これでよい。
夢の球体が、むすばれて、球体となり、虚空へ飛んで行った。
ついでにフェリーニのサテリコン
- サテリコン (期間限定)
- ¥948
- 現代映画界で、こういった映画を作れる人はいないだろう。この作品に比べたら「パイレーツ・オブ・カリビアン」は、おもちゃみたいに見えてくる。
- この映画を観たのは、ずっとずっと前のことだが、わたしの中に一生残るすさまじく強烈な「映画のいのち」をもつ作品である。
- この映画に関するコメントを見ていると、物語がないとか、見終わっても何だかわからない、とかというものが多い。それこそがこの作品の狙いだと思う。すさまじいエネルギーの塊を映像としてたたきつけてくれたのだ。
- 映像の語り口。わたしは、それを今でも強烈に覚えている。具体的にではなく、映像スタイルとしての語り口。
- 闘技場の場面で「ケチャ」という民族音楽が流れるが、映像と音との組み合わせとして、これほど新鮮で、強烈なものはなかった。
- 映像に意味を必要以上に求めてはいけない。
- 意味ではなく、映像でしか語れないものを語っているのだから。
- 最後の場面で海が映し出される。
- その海の存在感は、今でもわたしの中にしっかりと生きている。
- だからといって、わたしはこのDVDを購入または借りてきて家のテレビで観ようとは思わない。
- この映画は、映画観の閉ざされた闇の中で、大画面で、大音響で、映像に包まれるべきものである。
- そういう映画がけっこう沢山あることにやっと気がついた次第である。
パイレーツオブカリビアン
- パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト スペシャル・エディション
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昨日は、水曜日だったが代休で休みだった。ちょうどカミさんが観たがっていた「パイレーツオブカリビアン」の続編「デッドマンズチェスと」が発売される日だったので、DVDを借りに行った。これが土曜日だったらすぐにレンタル屋さんの棚に並んでいる分は、すべて借りられてしまっていただろうが、水曜日だったので、余裕で借りられた。
不思議なもので、出たばっかりの新作というものは、その作品の良し悪しには関係なく、なにか「新作」ゆえの光のようなものがある。その光は、その作品を観てしまうまでは、輝いているもので、いくら観ていない作品でも、時が過ぎると消えてしまうもののようだ。
その光をともす要素には、いろいろなものが考えられるが、前宣伝がTVで流されていることは相当な力であるに違いない。また、発売日の朝刊に一面で派手な広告を打ってあるのも効いている。
さて、作品そのものは、わたしにはあまり面白くない出来だった。正直がっかりしてしまった。
例によって、自宅のテレビ画面で観るので、映像とサウンドの迫力には欠けるのだが、逆にそういう効果でごまかされずにすむことも事実である。
お金と時間をたっぷりと注ぎ込んで、作られた贅沢な映画であることには間違いないが、わたしには、どうも、これを作った人が「映画音痴」とでもいうべき部類ではないかと思ってしまう。あるいは、個性のない、どこかで見たことのある、どたばた喜劇の仕掛けをなんの恥じらいもなくつなぎ合わせているようだ。
わたしは、観ている途中で居眠りをしだし、眠ってしまったのだが、カミさんは、大喜びで観ている。
そもそもカミさんは、出演しているジョニーデップの大ファンなのだが、そのことを差し引いてもわたしとは対照的にこの映画が気に入っている。
その日の夜、カミさんは、夜中中、合計3回は、この映画を観てしまったのではないかと思われるくらい熱中して観ていた。
これは、わたしにとって「なぞ」である。
わたしが思いっきり夢中になった映画は、最近では、「キルビル」であった。
雪景色の中で、女ふたりが対決する場面などは、感きわまって目がしらが熱くなった。
ところがカミさんは、そうではなかったらしいが、映画冒頭の教会のシーンと流れる歌が非常に気に入っていた。
これも、不思議なことである。
映画とは、げに、不思議なものだ。
だから、ほろびることはないにちがいない。
- キル ビル Vol.1
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雨の日の秋
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街の宝石たち
まだ休みの日に働くのになれていない。
朝の光に包まれて大好きな人形が目覚める。
ミスズヤ書店の主人とドストエフスキーの話をする。
こじんまりした書店なのに彼の本や彼についての本がそろっている。
世界の頂点の本だ。
新しく出た文庫本は売り切れていた。
そのほんでからまーぞふのきょうだいをよみなおしてみようとおもっている。
新聞に宮沢賢治の原画の版画の販売のことが載っていた。
買いたいとは思わない。
書くことに中毒してる。
そういう人がたくさんいるとブログが教えてくれる。
キリストやブッダやソクラテスではない。
彼らは一つも書いたものを残さなかった。
なのにたくさんの書き物を生み出した。
本当に偉大だと思う。
それはそれとしてわたしは書き続けるだろう。
常に読む人がそこにいる。
これは不思議だ。
そろそろ親父が書き残したものに向き合う必要があるだろう。
どんな読者を想定していたのだろう。
わたしと同じかもしれない。
不思議な存在がちかづいて来る。







