デスノート
- DEATH NOTE デスノート/藤原竜也
- ¥2,678
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最近の日本映画では、ダントツに人気が高いと評判のデスノートを観た。
前編と後編があるらしいが、現在レンタルで新リリースされているものは、前編で、たしかちょっと前にテレビで放映されていたものだと気付いた。テレビで放映されたときは、半分より後ろの部分しか観られなかった。
なんだ、テレビでやったものと同じものか、とちょっとがっかりしたが、前半部分を観ていなかったので、気を取り直した。
後でわかったことだが、レンタルDVDがリリースされる前にテレビ放映されるケースは、おそらくはじめてのことだそうで、しかも、映画で放映されてからそれほど期間が経っていないのに、テレビ放映してしまったことは、業界の暗黙の了解を破ることだった。業界からは、抗議の声もあがったそうだ。
だから、わたしは、てっきりテレビで放映された前編の続きがレンタルリリースされたものと誤解してしまった。
少年ジャンプに連載されると当時に大人気となったデスノートだが、わたしにはその方面へのアンテナがなくなっていて、全然それほどの人気があることを知らなかった。
それで、邦画のレンタルリリースだから、簡単に借りられるだろうと思っていたが、レンタル棚にたくさんならんでいても、全部貸し出し中で、なかなか借りられなかった。2日目にやっと借りられたのは、ラッキーだった。
さて、作品の内容であるが、デスノートに名前を書くと、書かれた人が死ぬ、という設定から物語が広がっていく。そして、そのデスノートという不思議なノートは、死神の持ち物である。死神は、原作の漫画から抜け出してきたような格好で、人形のようでもありCGのようでもあり、この作品にふさわしいような存在感で描かれている。
デスノートに名前を書くだけで殺人ができるというアイデアが核になり、作品全体が重みのない殺人と推理ゲームとのバランスで成り立つことになる。
ちょっと惜しかったのは、パソコンが登場し、「エル」と名乗る探偵が、推理をデモンストレーションするのだが、もっとパソコン画面のビジュアルに凝って欲しかった。(いや、あのあっさりとした画面の方が作品全体の映像とバランスがいいのかも知れないが)
われわれの法律では、罰することに限界がある犯罪者をデスノートで殺していく。というテーマからはじまり、主人公は、いつしか犯罪のない新しい世界の神になるという欲望を持つようになる。
このテーマは、ちょっと前に流行ったテレビドラマ「仕置き人」シリーズに通じるところがある。罰せられない悪い人を闇の世界で、次々と殺していく。このテーマとアイデアは、大変な人気となっていった。
潜在的にわたしたちの心の中に、このような闇の世界からの罰を望む欲求があるのだろう。だから、映画では「大量殺人」と呼んでいるが、殺人をどこかで肯定してしまう。
しかし、デスノートでは、犯罪者を罰するために殺すことから、犯罪者でない者も殺してしまう方向へ発展してしまう。このあたりから、単純に「善と悪」の単純な構造から逸脱していくことになる。結局、自分にとって敵である者や、邪魔な存在をも抹殺してしまうのである。こうなってくると、犯罪者を我が手で抹殺するという目的からはなれて、この世の支配者になるために、殺人という手段が罪悪感なくして実行されることになり、当初の目的が別のものになっていく。
ここらあたりの善でも悪でもなくなっていく展開が、人気の秘密である。悪人をこの手で抹殺するという単純さから、もっと深いところにあるわたしたちの欲求にうったえかけるような展開は、ちょっとあぶないうような気がする。が、このあぶなさが、人気の秘密なのだと思う。
映画の中で主人公が、ニーチェの本を読んでいる場面が、唐突にほんの短い間映し出されるが、これが強烈だ。
きっと原作の漫画では、もっと主人公にニーチェにつながるようなことを語らせているのだろう。ニーチェの哲学の根本のひとつに、「力への欲求」がある。それは、「権力への欲求」でもあり、デスノートで主人公がとりつかれていくのも、これである。自分で世界を動かす、いわば世界の神になる、という発想であり、欲求である。
ノートに名前を書くだけで人を殺すことができる。というアイデアが、どんどんふくらみ、ついにはニーチェまで登場する。
そういう意味で、「考えさせる」映画ではある。
ただし、ニーチェの思想がナチスによって悪用され、ほんとうにユダヤ人を地上から抹殺しようとしたことを忘れてはならない。
もうひとつ、この映画で思い出すのは、落語の「死神」であり、ゲーテの「ファウスト」である。
落語は、笑いの中で物語が展開され、そして、ぞっとするような結末で終わる。
「ファウスト」は、「救い」で終わる。
喜劇のない時代
- 喜劇 駅前旅館/森繁久弥
- ¥4,480
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寅さんは、とっくに死んでしまった。
社員旅行の帰りのバスでは、寅さんシリーズをビデオで流すのが定番だった。
みんなで映画の大画面に繰り広げられる「大まじめなバカ」を見て、大声をあげて笑う時代が懐かしい。エネルギッシュで大まじめな喜劇よ。
「笑えるバカ」の時代は去り、「あきれるバカ」の時代になった。
落語に人気が戻ってきた。
「笑えるバカ」が目に見えない想像のスクリーンで笑わせる。
音楽を聴いて、大笑いすることはないが、落語を聞いて、涙が出るほど笑ってしまう。
誰か、北朝鮮の将軍様をちゃかした、大まじめな喜劇を作らないだろうか。
チャップリンがヒトラーをちゃかして大まじめで作り上げた「独裁者」のような喜劇を。
舞台設定は、北朝鮮ではないが、はっきり北朝鮮とわかる国。
その国の独裁者が死ぬところから始まる。
わたしは、この国の繁栄と、おまえたち家族と息子のために全力を尽くしてきた。
お父さん、死なないで、と太った息子がすがりつきながら、泣く。
それを見守る家族や関係者も思わずもらい泣き。
息子よ、おまえは気が小さく、くいしんぼうで、わがままだが、この国のことを任せるぞ。泣いていないで、しっかりと父の最期の言葉を聞くのだぞ。
と、延々とこと細かく独裁者たるものが、どう振舞うべきかを述べている最中に父は死んでしまう。
一同、号泣。
息子は、床につっぷして、床をたたきながら、足をばたばたさせて、泣き叫ぶ。
やがて、新しい独裁者が父の後継者として、登場する。
このときの息子である。
彼は、気が小さいが、国民に決して気付かれないように演技して振舞う。だが、食いしん坊の性癖はやめられず、太っている。
映画は、この独裁者に降りかかる幾多の国家的危機と、決して国民や他人には見せない、隠された苦悩の日々を、喜劇タッチで描いていく。
と、わたしの夢想は他愛のない、ばかげたものだ。
しかし、テレビのニュースなどで、北朝鮮の独裁者がまるまると太って、大まじめで登場するシーンを見ると、どうしても喜劇を連想せずにはいられない。(拉致問題や、飢餓や、様々な悲しいことがあって、この国をちゃかすのは、不謹慎かもしれないが)
対比してしまうのは、サダム・フセインである。こちらは、いかにも独裁者づらで、威厳をもった怖いおじさんとして登場する。
笑い事ではないといわれれば、そうなのだが、今回の六カ国協議の内容なんかを見ると、どうしても、あんな国は一回でもいいから、笑い飛ばしてしまいたい気分になる。
さぁ、六カ国競技の開催でーす、なんてね。
チャーリー・ジェイド
- チャーリー・ジェイド VOL.1 (初回限定生産版)
- ¥700
- ビデオレンタル屋で、予告編を偶然見て、借りてしまった。
この雰囲気が好きな人は、それなりにハマッてしまうかも知れない。しかし、カミさんに「NO」と言われてしまった。アルファ界、すなわち「未来世界っぽい世界」が暗すぎて「気に入らない」そうである。Vol1は、このアルファ界が登場する割合が多いので、なおさら嫌われてしまったようだ。
懐かしい名作「ブレードランナー」の雰囲気で、確かに真似しているフシがある。水っぽくて、暗い世界である。ブレードランナーの場合は、その暗い雰囲気をハリソン・フォードの演技力で、打消し、かえって魅力的なSF世界にしていた。それに比べると、今回の作品では、暗い雰囲気だけがあって、どことなく中途半端である。暗い世界の中で「きらめく」SFの魂みたいな輝きに欠けているようだ。
それにしてもこの作品に、ほんとうに、30億円ものお金が投入されているのだろうか。ビデオレンタル屋で流している予告編では、そう解説され、映画作品に匹敵するほど映像がすばらしいとうたわれていた。
であるならば、もっと手の込んだ、SFらしい脚本に仕上げるべきだった。
アルファ、ベータ、ガンマの3つのパラレル世界をもっと映像的に、SF的わくわく感をもって、提示してくれたら、もっと作品の展開に引き込まれていくだろう。
大企業の「陰謀」というテーマが前面に出すぎていて、「なぞ」の部分が弱くなってしまっている。SFには、わたしの考えではあるが、もっと「なぞ」が欲しい。しかも、もっと映像でその「なぞ」を見せて欲しい。作品が終わると、「攻略解説」なるものが写しだされるが、興が冷めてしまう。
現代の映画技法では、CGのテクニックと特殊効果があたりまえで、この手の映像には驚かなくなっているが、SF的「なぞ」と「仕掛け」は、まだ健在のはずである。この世に3つのパラレルワールドが存在するという設定は、それなりにSF的だが、それがあまりにも当たり前に描かれ過ぎてはいないだろうか。パラレルワールドの不思議さと、触覚のようなものが、もっと欲しい。
SF的センスという点では、「猿の惑星」が気に入っている。リメークやシリーズ化された作品があるが、なんといっても第一作目がいい。
観ているうちに、すっかり「猿」たちの惑星にたどり着いてしまったものと思い込み、そのうちに、おや、まてよ、と「わくわく」させ、最後にあっと驚くどんでん返しが来る。その展開のスリルと「懸念」のダイナミックな流れがすばらしい。しかし、映画は、「ここは人類が滅びた後の地球だ」とはっきり言い切らないで終わっている。この「やわらかな謎」がいい。
だから、続々とシリーズ作品が生み出されることになった。そのエネルギーを凝縮させたのが、この「猿の惑星」第一作目である。
余談ではあるが、わたしは大学生のとき物理の論文に、この猿の惑星を引用した。それは、宇宙空間をどこまでも一直線に進むと、元の場所に戻るという理屈である。今考えると、この理屈は、「文学青年」が思いつく「屁理屈」のような気がする。それほど、猿の惑星というSF映画がわたしにあたえたインパクトが大きかった。
- 猿の惑星
- ¥4,230
「バレンタイン粉砕デモ」
「革命的非モテ同盟」http://buzz.ameba.jp/links/site/detail/5214669/ がバレンタイン粉砕デモを実施したそうだ。
「非モテ・喪男・童貞の「三大フラレタリ階級」の男性たちが抗議デモをするというものである」という内容には、100%は、賛同しかねるが、チョコレート業界をはじめとする菓子屋の陰謀を粉砕するというのは、痛快だ。
かねてより、バレンタインデーという、捏造された、行事は、平賀源内の「土用の丑の日にうなぎ」と同じ、企てで、人々からお金をまきあげるものだと思っている。
その大騒動をマスコミが全面的にバックアップするなんざ、狂気のさたである。
誰か、批判的なかしこいマスコミ関係者がいないものであろうか。
どうも、わたしは、「アウトサーダー」的人種らしい。
路地
ふらっと足が向いて、むかしなつかしい路地へ行ってみた。
伊勢崎市のここらあたりは、再開発が進んで、道路が拡幅され、大きなマンションまで建設されている。再開発とはいっても、道路を広くして、建物を壊しただけという、寂しさがある。活気がないのだ。再び開発がされていない。
ただし、この路地だけは、昔のまま残っている。取り残されてしまった路地ともいうべきか。それとも、保存された路地というべきか。
この路地を抜けてすぐ右に、プラモデルの専門店「ハヤブサ堂」があった。今は、シャッターがおりていて、商売をやめてしまったらしい。この店へは、子供のころずいぶん通った。通いつめたといってもいい。お金のないときは、どんなプラモデルを次に買おうかな、と目を皿のようにして、ひとつひとつ念入りにチェックした。
そして、お年玉が入ると、一目散に「ハヤブサ堂」へ駆け込み、日頃から何を買おうかとチェックしているのだが、それでも、延々と品定めをしたものである。レーシングカーのサーキットなんかもあった。あの頃は、大流行していた。
路地を抜けて、すぐ左は、そろばん塾の「あけぼの」がある。今でも生徒が出入りしていた。そろばん塾の手前には、肉屋があった。そこで、揚げたてのコロッケをよくそろばん塾通いの子供たちがほおばっていたものだ。わたしは、この「あけぼの」には通わなかった、知人が別の、もっと北にある遠いそろばん塾へ通っていたので、そこへ通わされた。
そのそろばん塾は、わたしの学校区域から遠すぎて、別の小学校の生徒ばかりが通っていた。わたしは、突然孤独を強いられてしまった。それでも、少ないながらも、別の小学校の友達もできた。できたことはできたが、学校が違うので、遊び仲間とはいえない存在だった。
わたしが通っていたそろばん塾のすぐ近くにも肉屋があった。そこで、よく揚げたてのコロッケを食べたものだ。
それにしても、孤独なそろばん塾だった。通うのに延々と自転車をこいだ。冬は空っ風がゴーゴーと吹きすさび、むかいっ風なので、なかなか前に進まなかった。帰りは、その逆で、追い風を受けて軽快だった。
そのそろばん塾は、ずいぶん前から閉鎖されている。
路地に戻ろう。
路地の中ほどに「みその」というお好み焼き屋がある。何回か焼きそばなんかを食べに来た思い出がある。まだ、店は健在だった。
実は、この路地を北に抜けた先に、むかしはもう一つアーケードの付いた路地というか、小さな商店街があった。今では跡形もない。その小さなアーケード街には、たこ焼き屋、本屋、食堂、ラジオ部品店などがひしめいて商売をしていた。奇妙なガラクタのようなものを並べているラジオ部品店は、わたしの好奇心のまとだった。本屋には、同級生がいた。食堂には、うまいポークソテーがあった。
狭い小さなこのアーケード街は、人のぬくもりがあって、こころなごむ場所だった。
しかし、今は、その跡形もなくなってしまい、区画整理で広くなった道路に空っ風が冷たく吹きすさぶ。
伊勢崎市の中心街は、まちのぬくもりがどんどん消えていくようで、こころが寒くなる。
「矢島食堂」は、移転新築したが、ここらあたりの唯一の「火」のような存在である。冷たくなった手を「火」にかざすように時々食べに行ったことがある。ここのカレーライスは、わたしの大好物だ。
しかし、現在、2階はキャバレーのようなあやしげな酒場になっている。
伊勢崎市の中心街は、この手の酒場に侵食、占領されつつある。
現在のわたしにとって、こうした酒場は、冷たい手をかざすような「火」ではない。
グエムル
- グエムル-漢江の怪物- スタンダード・エディション
- ¥2,850
グエムルを観た。
この怪獣映画では、CGの最新技術を駆使して、恐ろしい怪物を本物っぽく登場させている。しかし、冒頭の過去のシーンや怪物が川から登場して、川の近くでくつろぎ遊んでいた人々が必死になって逃げ惑うシーンなど、なぜか「懐かしい」思いが湧いてきた。
そうだ、これはあの「ゴジラ」を観たときに似た雰囲気だ。
ちょっと前に観た「日本沈没」では、感じられなかったものである。
こんなシーンがある。
主人公が売店をやっていて、イカを焼いて客に出す。主人公は、イカの足を一本しっけいして口にくわえている。すると、客が文句を言ってくる。イカの足が9本しかないぞ、と。日本の脚本家は、こんなシーンを考えられないだろう。韓国の国民性だろう。
焼きイカを食べるとき、足の数を数えるだろうか?数えない。それは、10本あると信じて疑わないからだ。
この映画にもデモ隊が出てくるが、日本には、もう、迫力あるデモがなくなった。(報道しないだけなのかもしれないが)
日本は年をとったのであろう。
そういう意味では、韓国はまだ若い。
韓国ドラマの人気が日本で爆発した、ひとつの理由かも知れない。
16ブロック
- 16ブロック/ブルース・ウィリス
- ¥3,120
- Amazon.co.jp
ブルース・ウイリスの「16ブロック」を観た。
莫大なお金を投入して制作された大作ではない。それよりも、ブルース・ウイリスが出演しているからDVDを借りた。ブルース・ウイリスは、現在のアメリカ映画界でも貴重な名優だと思っている。彼の目が演技する。彼は目で強烈に語りかけることができる。アクションは普通だが、そのアクションの最中でも彼の目は、演技し活きている。
よくまとめられているプロが作った作品である。
ただし、冒頭のシーンは、あまり意味がなかった。バスに立てこもったブルース・ウイリスがモノクロで短い時間、冒頭に挿入されているが、インパクトが足りない。これから、こんなすごいことになっていくんだ、と暗示するためらしいが、この挿入シーンは、むしろないほうがいい。
この作品でおどろいたのは、アル中で落ちぶれた、やる気の無い刑事を演じるブルース・ウイリスの演技である。これが、あのブルース・ウイリスか、と疑いたくなるほど、役に没頭している。トーンの落ちた、目の輝きのない、ただ生きているだけの刑事。酒をあおりながら、16ブロック先の大陪審まで、証言者を護送するのだが、日本では、最近取り締まりが厳しくなった、まさに酔っ払い運転を刑事が堂々とやっている。
ところが、そのダメな刑事が、ある瞬間をきっかけに変貌していく。
仲間の刑事の足を撃った瞬間だ。
やがて、ブルース・ウイリスの目は、あの彼独特の輝きのあるものになっていく。
それにしても、ダイハードのシリーズでも黒人とのコンビで、まるで漫才のようなバランス感覚の演技をしているが、この作品でも同様である。それだけに、相手役の選考には相当気を使って、ブルース・ウイリス自身が決め、電話をかけたそうである。
この作品では、ラストシーンがもうひとつ用意され、DVDで観ることができたが、わたしにはあまり意味がないように思えた。
どうせなら、3つも4つも考えたらどうだろう。10個でもいい。
やはり、ブルース・ウイリスは、目の演技がすごい。
だから、あの「シックスセンス」を思い出すとき、かならず彼の目が光っているのである。
スバルが誕生した工場跡がスーパーマーケット
スーパー「とりせん」の駐車場の一角にあるスバルのモニュメント
ここからあのスバル360が誕生した
ここのところ、伊勢崎市には大きなスーパーマーケットがいくつかオープンした。
最近は、むかーし、小学校があったところに「ベルク」というスーパーがオープンした。
ますます伊勢崎市がドーナツ化していく。街中で買い物をする人が激減した。
その中のひとつ、「とりせん」は、かつて富士重工の工場があったところにある。
その跡地に、現在は、「とりせん」、美容室、蔦屋、マツモトキヨシ、餃子の王将、和食レストランが建っている。
ここへ車でやって来るお客さんを、これらの店でシェアしているのだ。駐車場は、伊勢崎市のスーパーの常として、とても広くて、当然無料。
その駐車場の片すみに奇妙なレンガの壁がある。
これは、かつて富士重工だったとき、かの「スバル360」がこの工場から誕生したことを記念するモニュメントとして、ここにレンガの壁の一部を残したものである。富士重工がこの工場を所有する前は、撚糸工場だったそうである。戦前の、ずいぶん昔の話である。
最近富岡の製糸工場が世界遺産の候補になって話題を呼んでいるが、伊勢崎のここにも歴史の遺産がある。
ちょっと前、ここのマーケットプレースに、フィットネスクラブがオープンした。
2階でマシーンを使って、止まったまま、走っている人が、蒸気で曇った窓からたくさん見える。
こうして、時代は流れていく。
道路拡幅工事その後
道路拡幅工事は、日曜日だけが休みで、土曜も祝日も続けられている。
日曜日は、久しぶりに静けさが帰ってきた。我が家の近くはあらかた拡幅の基礎が終わっていて、現在は南の家近くを工事している。ここのお宅は、塀があって樹木もあったが、それも今は取り去ってしまった。
暖冬の日曜日、ぽかぽかとした日差しの中、静けさを満喫できた。
我が家のジュピター君も、今日はいつになくのんびりと昼寝をしている。
現在工事が行われている部分、わたしの家の南のお宅でも犬を飼っている。名前はコロちゃんという。10年ほど前にご主人が亡くなって、老婦人がコロちゃんと一人で住んでいる。それゆえか、コロちゃんはほんとうに可愛いがられている。
なんでも道路工事の音と振動をコロちゃんが怖がって、震えているそうである。コロちゃんのストレスが心配だ。
ここの老婦人には、我が家のジュピター君がひょんなことから脱走したとき、捕まえてもらったご恩がある。
我が家のジュピター君は、年老いたせいか、ゆったりとした性格になった。工事の騒音や振動にもあまり動じない。以前は、遠くでカミナリがちょっとでも鳴ると、大げさなくらい怖がったものである。
ゆったりとした性格はいいのだが、最近は知らない人が敷地に入って来ても、以前のように激しく吼えなくなった。
番犬としてはちょっと頼りない。
しかし、なんといっても、ジュピター君には、ゆったりと長生きをしてもらいたい、と切に願っている。
超簡単たまご丼
あまりにシンプルで料理といえるかどうかわからないたまご丼。
時間や金のないときばかりでなく、なんとなく定期的に食べたくなって作ります。
用意するもの
・たまご 2個
・レンジであたためるパック入りごはん
・しょうゆ
これだけ。
作り方
1.レンジでごはんをあたためる。
2.ごはんにスプーンで2箇所くぼみを作る。
3.そのくぼみへたまごを2個割っておとす。
*たまごはレンジで加熱すると破裂することがあるので、黄身に楊枝などで穴を数箇所空けた方がいい。
*わたしは、箸の先でぐさっと一箇所穴を空ける。
*慣れてくると、ちょうどいい加熱時間がわかってくるので、穴を空けなくても爆発しなくなるが。
4.全体へ適量のしょうゆをかける。
5.ごはんのパックのふたを再び閉じる。
(または、ふたを取ってしまい、ラップでふたをする)
6.再びレンジで加熱。(2分くらい)
7.適当に冷ます。(わたしはねこじたなので)
はい、できあがり。
たまごとごはんとしょうゆの、原始的な、なんともいえないハーモニーを楽しんでください。
余談
子供のころ、おばあさんが、たまにお釜(昔のかたち)の炊きたてのごはんの中にたまごを落として、食べさせてくれた。まだ、たまごが貴重品だっところだ。たまごはごはんの余熱でほどよく固まっていて、しょうゆもごはんになじんでいる。この味が忘れられない。だから、こんな料理をときたまする。しかし、たまごを食べられたのは、わたしだけで、他の人はしょうゆごはんだけを食べた。だから、他の家族には、あまり評判がいいとはいえなかった。
だけど、わたしは、しょうゆだけのご飯も好きだ。焼きおにぎりの中身のような味で、しょうゆとごはんがなじんでいて、第3の味を作りだしている。


