帰ってきた社長がんばるin群馬 -3ページ目

ウォレスとグルミット

ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ! スペシャル・エディション
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第78回アカデミー賞で、長編アニメ作品賞を取った「ウォレスとグルミット」を観た。このときのアカデミー賞で競ったのは、宮崎駿の「ハウルの動く城」であった。同じく競ったアニメは、ティム・バートンの「コープスブライド」。


今回、DVDを借りてきてこの作品を観て、アニメの王道のような作品だと思った。「ハウルの動く城」は、型破りのところがあり、「コープスブライド」は趣味が偏りすぎている。「ウォレスとグルミット」は、アニメのクラッシクである。他の映画の有名なシーンのパロディーがちりばめられているが、この点、ちょっと無邪気すぎる感はある。

しかし、アニメ、漫画として、王道の笑いをちりばめているので、驚きはないものの、安心して笑える作品ではあった。


「ハウルの動く城」は、この点、善と悪、白と黒がはっきり区別されていないところがあり、それが日本人のこころを動かすのだが、欧米人には、素直に受け止められない、はがゆさのようなものがあるのではないかと思う。


日本語の声は、萩本欽一と飯島直子が担当している。

当初、萩本欽一とは知らずにウォレスの声を聞いていたが、きっと萩本欽一ではないかと思い、最後のエンドロールで知った。

若かりし日の欽ちゃんをテレビで観ながら育ったわたしにとって、今回の作品での声は、抑揚を抑え、平板なしゃべり方で、ちょっととまどってしまった。しかし、クレイアニメの映像を引き立てるためには、これでいいのだと思う。欽ちゃんというキャラクターから離れ、ウォレスを表現しているのだ。

しかし、なんとなく、インパクトがないようでもあり、寂しい気もしてしまう。


このアニメは、粘土で作った人形を少しづつ動かして、一コマ一コマ撮影する手法で、5年の歳月を費やして作られたそうである。日本で身近なところでは、NHKのキャラクター「どーも君」のアニメが同じクレイアニメで作られている。NHKエンタープライズでこの「どーも君」の担当者に会ったことがあるが、われわれが想像する以上の時間と金がかかっているそうだ。いかにもNHKらしい。しかし、そうした投資によって、日本の数少ないクレイアニメが生き残れるのは確かである。


ちなみにこのNHKエンタープライズの担当者は、最初にお会いしたときは、「ひょっこりひょうたん島」のキャラクター担当だった。その後、あの「冬のソナタ」の担当になってしまい、韓国との契約上、ビデオとDVDを発売することになっていたが、日本国内でそれを引き受け、販売するところがどこにもなくて、最初はほんとうに困ってしまい、仕方なく自分たちで制作・販売することになったそうである。

しかし、しかし、である。その後、「冬のソナタ」は、ぐんぐん人気が上昇し、結果、予想もしなかった莫大な収入が入ってくるようになったそうである。

これは、直接担当者からわたしが聞いた話なので、事実であり、「冬のソナタ」がこんなにヒットするなんて、はじめのうちは、日本国内では、ほんとうに誰も思っていなかった。


その後ビデオレンタル屋さんの棚に膨大な量の韓国DVDが並ぶようになった。


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浪曲(浪花節語り)のすごさ

日本の伝統芸能〈浪曲〉国定忠治~忠治・山形屋乗込み(上)(下)/広沢虎造(二代目)
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わたしの母方の祖父は、浪花節語りで、映画の弁士をやっていたそうだ。彼の人生は、ドラマチックだったらしく、そのせいか、彼と話をしたことはなかった。亡くなるときは、元の妻、(わたしの母方の祖母)のところに戻り、ひっそりと他界した。わたしが子供のころだった。葬式というものをはじめて経験し、そのときの線香だのなんやかやの匂いをまだ憶えている。このときの匂いが、わたしにとって葬式というものの匂いになった。


わたしには、なんとなく、浪花節語りだったこの祖父のDNAが流れているような気がしてならない。

わたしの時代には、もう浪花節語りや映画の弁士は、とっくに過去のものになっていた。娯楽といえば映画が全盛期で、テレビが隆盛してきた時代である。わたしは映画とテレビで育ったといっても過言ではない。


この間、なんとなく100円ショップのダイソーで広沢寅造という人の浪曲が入っているCDを買った。

国定忠治の物語であったが、聞いてみて、びっくりした。

切り合いの場面が、誇張されていて、ドギツイ。まるでタランティーノの映画を観るような気分になる。ちょうど「キルビル」の場面のようで、それが、三味線と語りだけで描写されているので、余計迫力がある。

きっと今のように映画やテレビがなかった時代だったので、このように迫力のある言葉と節による描写が必要だったのだろう。しかも、国定忠治の物語は、続きもので、いやがおうでも次を聞きたくなってしまうようにできている。


このような節と間をもった映画がほんとうに観るものを引き込みとりこにしてしまうのだろうけど、現在の映画には、残念ながらそれが少ない。そういった意味で、わたしには、タランティーノの「キルビル」が最高だった。


タランティーノにこの浪曲を聞かせてあげたら、きっとなにか「ひらめき」があるだろう。映像がなくたって、これだけの迫力と楽しさが表現できるのだ。(ただし、日本語の問題がある)


ああ、どこまで行っても、「バベルの塔」の問題が残ってしまう。言語の問題を解決しない限り、世界はほんとうの意味でひとつになれないだろう。

それを「Google」がやろうとして、狙っているが、ダメだろう。日本でGoogleがあまり人気を博さないのは、この言語の問題が大きいと思う。


キル ビル Vol.1
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新しい株の売買方法

毎日5万円を株で稼ぎ続ける方法/徳山 秀樹
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インターネットが定額低料金で常時接続可能になったことで、大きく変わったものの代表は株取引だ。

一昔前までは、株をはじめるには、それなりの元金と証券会社との付き合いが必要だった。それに、ともなってリスクがどうしても大きかった。

しかし、現在では一日の株価の動きがリアルタイムで見ることができ、パソコンの画面または携帯電話から個人が直接、証券会社を通さずに売買できるようになった。これは、株取引の革命である。


だから、このような本も出版される。

この本では、従来の株式投資への決別が語られている。

おどろきなのは、銘柄の会社について一切調査検討する必要なし、と言い切っていることである。かえってそういう分析はマイナスであり、どうせ必ず的中する分析結果など存在しないのだから、もっと機械的に売買すべし、と訴えるのだ。


しかし、昨日、今日の世界的な株価下落の混乱は、どうだろう。

この本によれば、別におかまいなし、である。


それが、新しい株式売買の方法、デイトレードである、と。


なるほど、こんなに株価が急落しても、この本のとおり実践していれば、関係なし、である。

それに、株式というと、値上がりばかりに焦点が当てられるが、デイトレードでは、値下がりも儲けるチャンスなのである。上がり、下がり、どちらでもいい、日中の株価が大きく変動さえすれば、儲かるのである。

こういった視点から株式を見ると、まだまだ古い考え方一辺倒という感がある。


いずれにしても、デイトレードという株式売買の方法は、実に、インターネットがこのように広く活用されなければ実現できないものである。従って,インターネットをよく知らない人に、デイトレードを理解してもらうのも困難である。


新城宏文芸工房

本日は、3月1日。新しい月のはじまりだ。

新城宏文芸工房が更新されていた。http://homepage2.nifty.com/hatory/

先月の文章で、癌肝臓の摘出手術をしたのを知って心配していたが、さすが羽鳥さんらしくきっちりと3月1日に更新されていた。

ウォーキングを再開されたそうで、回復も順調である。

このウォーキングも羽鳥さんらしく、きっちりと継続されている。

わたしの父もきっちりとしていた。ずっと鉄道会社に勤務していたせいか、それとも元来の性分なのか、いいかげんなことが大嫌いだった。この点、わたしの性分は違っているらしい。羽鳥さんや、父にくらべたら、まるでいいかげんである。


父は、毎日欠かさず日記をつけていた。わたしには真似のできないことである。だから本来わたしには、ブログなぞ向いていないのだが、文章を書きたいという願望だけは、同じように強い。


わたしの父とその父、つまりわたしの祖父との関係は、ドラマのように複雑である。しかし、なぜかわたしに、その事情を本気で説明してくれたことがなかった。父の戦争体験も詳しくは知らない。きっとどこかに父は書き残しているはずで、そのうちに本気で読んでみようと思っている。思ってはいるが、いつもそのうちで、いつになるかわからないのが現実では、ある。


父には、母の違う妹がいる。子供のころのわたしには、その事情があまりよく飲み込めなかった。しかし、現実に写真があったりして、あまりにも身近な現実で、それほど不思議なことではなかった。


わたしの母方の事情も、実は複雑だった。しかし、そういう事情を本気で聞いたこともなく、説明されたこともないまま、身近な現実として、あまりに身近なものとして受け入れてしまっていて、わたしには、ほんとうのところが未だにわからない。


きっと、こうしたわたしには身近な現実でも、他の人から見たら、ドラマチックな現実は、小説にしたら、いっぱしの作品になるかも知れない。


それにしても、わたしの家族や、親戚には、まだまだわからないことが多すぎる。


イルマーレ

イルマーレ/キアヌ・リーブス
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2年間の時間経過を隔てた二人が同時に文通をする、という突拍子もない設定だが、いつしかそれが当たり前になっていき、物語に引き込まれてしまった。

その2年間の隔たりがあるせいで、いろいろと物語に味付けがされている。


キアヌ・リーブスが演じる男性は、2年前の世界にいて、サンドラ・ブロック演じる女性は、2年後にいる。

男性は、2年の未来から届く手紙で、2年過去の女性と会うことができる。女性にとっては、その事実はすでに過ぎ去ってしまった過去の出来事。このズレをうまく物語りの味付けに使っている。


こんなシーンがある。

男性がいる時代、つまり2年前に、男性は2年未来の文通相手だと知りながら、彼女の誕生日パーティーで女性に会う。女性にとっては、その事実は既に過去のことなので、自分が2年後に文通をする相手と知らない。

そんな二人が人気のない庭の片隅で、二人並んでベンチに腰掛けて会話をする。ひとつのベンチに並んで腰掛けている。過去と未来が並んでいるようで面白い構図だった。


普通は、時間が一方通行に流れていくが、過去と未来が同時に会話を進め、物語が進むと、一方通行ではなくなる。恋愛というものの不思議さを、時間のマジックで表現しているのが、この映画である。


ところで、「イルマーレ」という日本語題名はしっくりこない。この映画に出てくるレストランの名前なのだが、題名に使うにはちょっと見当違いなような気がする。センスの問題なので、間違いではないのだが。洋画の日本語題名に関して、著作権の問題はどうなっているのだろう。まさか日本サイドだけで勝手につけていいはずはあるまい。

最近森信一の「おふくろさん」騒動があるだけに気になるところである。

題名によって映画作品自体が変質してしまう恐れもある。

この映画の原題は「The Lake House」で、「湖畔の家」である。映画全体の流れと内容から考えると、「湖畔の家」または「レーク・ハウス」のほうがしっくりくると思う。

恋愛だけでなく、父と子の葛藤のようなものも副主題になっており、そのカギ的な存在が「レーク・ハウス」だから。


きっと韓国の原作映画が日本で上映されたときの題名が「イルマーレ」だったので、故意に同じ名前をつけたのだろう。しかし、韓国の原作映画の原題は「時越愛」だそうで、(わたしは観ていないが)、湖の家ではなく、海辺の家が舞台だったそうだ。それで、海が関係ありということで、わざわざイタリア語で「海」を意味する「イルマーレ」にしたのだろう。なぜ「時を越えた愛」ではだめなんだろう。たしか同じ「イルマーレ」で別の映画があったと思う。

それで思い出したが、「インファナル・アフェア」という題名はまったくわからない。日本語にすると「内務調査課」だそうだ。こっちのほうがずっと作品を理解しやすい。

それでまた、この映画のハリウッド版リメイクが「ディパーテッド」で、ほとんどの日本人にはこの題名の意味がわからないだろう。「死者」という意味だそうだ。

しかし、(まだ作品は観ていないが)、なんで、この映画が本年度のアカデミー賞作品賞をとったのだろう。

監督は、マーティン・スコセッシで、「ワールドトレードセンター」の監督、オリバーストーンの先生にあたる人である。


それにしても洋画の邦題は、なんとか改善の方向へベクトルをとって欲しい。

ワールドトレードセンター

ワールド・トレード・センター スペシャル・コレクターズ・エディション/ニコラス・ケイジ
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オリバーストーン監督の「ワールドトレードセンター」を観た。


感動的なヒューマンドラマとして上出来だった。

しかしあの「JFK」を作った監督とは思えぬ変貌ぶりにちょっと驚きもある。あまりにも「オキマリ」な感動ドラマでありすぎる。


そこで、ふと考えた。

わたしは、9.11のとき、2機目の旅客機がビルに突っ込むテレビ映像をリアルタイムで見ていた。

9.11には、いろいろと不思議な出来事がある。


ここで、素直な気持ちになってみよう。

ビルが突然倒壊しはじめたとき、テレビのライブ映像で見ていたが、とても信じられない光景であった。一体だれが、これほど大きなビルがまたたくまに崩壊し、消えてしまうと予想しただろう。

そうだ。旅客機2機が突っ込んだくらいで、倒壊しないのである。

これが、素直な気持ちだし、ジェット燃料が高熱で燃えたことが引き金のなった、なんて説明では納得できない。


このライブ映像を中継していたのは、アメリカのCNNだったと思うが、まるで2機目が突っ込んでくる姿を全世界の人に見せつけるかのようにグットタイミングで映像を捉えている。これも、不思議だ。


ところで、映画に戻ると、謎の元海兵隊員が登場する。元海兵隊員というだけで、あとはなぞの人物で、なぜか教会で、「ヨハネの黙示緑」が大写しになり、この人物は神が求めているから、ワールドトレードセンターにいくのだという。この人物がなぜかとってつけたように登場し、活躍する。


映画がほんとうに語りたかったことは、実は、このワールドトレードセンターの崩壊は、なんだったのか、ということではないだろうか。


おそらく、わたしのように、もう一度素直に見つめ直すことを期待している。

そして、わたしも9.11のライブ映像で、すさまじい黒煙に包まれるニューヨークを見せ付けられて、あの元海兵隊員のように、「これは戦争だ」と、あのとき思った。


それにしても、すべてが出来すぎていないだろうか。

元海兵隊員は、もう一度入隊し、イラク戦争へ行ったそうである。

ここに、オリバーストーン監督の暗示がある。


http://www.vividcar.com/cgi-bin/WebObjects/f1b8d82887.woa/wa/read/f1bb2a51a6/


http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/muck_raker.html


もんじゃ焼き

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カミさんは、東京は葛飾堀切生まれで、堀切育ち、わたしは上州伊勢崎生まれの伊勢崎育ち。それで、二人とももんじゃ焼きが好きで、たまに家で作って食べる。


どういうわけか、ここ伊勢崎市は、もんじゃ焼きの街なのだそうだ。

ずっと前、もんじゃ焼き専門の店が開店したとき、よく食べにいった。出て来たのは、カレーもんじゃだった。カレーもんじゃは、この店ではじめて食べた。スパイスが効いていてうまかった。

でも、わたしは、子供のころ食べたシンプルなやつがいい。それで、最近はずっと家でもんじゃを作って食べている。


わたしの記憶にある、もんじゃは、キャベツと小麦粉とソースの実にシンプルなもの。切りイカなんか、ごくごくたまにしか入れなかった。さくらエビも青海苔もなかった。

ところが、カミさんが子供のころ食べていたもんじゃは、普通に切りイカとさくらエビと青海苔が入っていたそうで、カミさんに合わせて我が家でも入れている。てんかすもたまに入れる。


もんじゃの魅力は、ひとりで食べたのでは味わえない。

鉄板(家ではフライパン)を囲みながら、焼きながら、ふーふー言って、おしゃべりしながら食べるのがいい。


焼いていると、味が変化していくのも楽しい。おせんべいなんていって、鉄板にくっついた焦げかかったところがまたうまい。


ここには、人が食事をするスタイルのひとつの原型があるのだろう。

火を囲んで、その火で調理しながら、おしゃべりしながら、食べる。

この原始的な舞台設定のコンパクト版がもんじゃ焼きで、なぜだか打ち解けてコミュニケーションがうまくいく。


材料はシンプルで安上がりだが、もんじゃ焼きには、贅沢な時間を生み出す力がある。


武満徹

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NHKテレビの「あの人に会いたい」で、武満徹を見た。http://www.nhk.or.jp/archives/anohito/past/2005/042.html

これまで、彼が作曲した曲はまともに聴いたことがなかった。ちょっとテレビなんかで聴く機会があっても、自分の音楽感とはとおくかけ離れたもののような気がして、わざと聴かないようにしていたのかも知れない。


この番組の中で、武満は作曲家になろうとした出来事を語っている。

戦時中、まだ子供だったころに労働にかり出され、兵隊さんといっしょに働いていたとき、作業が終わって、ひとりの兵隊が、

いいかおまえたちにいいものを聞かせてやろう、

と言って、蓄音機で「パルレ・モア・アムール」というシャンソンを聴かせてくれたそうだ。

武満少年は、その音楽を聴いて、なんてすばらしいのだろう、と感激し、感動し、将来音楽家になる決意をしたそうである。

その感動はあまりにも大きかったと本人が語っている。


終戦になると、武満はピアノをもっていないので、アメリカ軍のクラブで働きながら、ピアノを弾かせてもらっていた。ピアノが弾きたいためだけに働いた、と語っている。


音楽大学への入試には失敗し、ほとんど独学で作曲の勉強をした。


しかし、ここからが武満らしい。

その当時、ほとんどの人に理解されない方法で作曲をしていく。「音楽以下だ」などと酷評されながらも、自分の信じる最先端の音楽表現方式を追求していく。そうだ、「新しさ」と「革新」そして、「美しさ」が芸術を創っていく。


「弦楽のためのレクイエム」という武満の曲を、たまたま来日していたストラビンスキーが偶然NHKで見て、絶賛する。


このストラビンスキーの一言で、武満に向けられていた目が180度ひっくりかえり、ようやく日本で彼の曲が認められるようになる。


彼の代表作である「ノベンバーステップス」という邦楽とオーケストラを融合させた曲の生み出されるまでの話がおもしろい。

この曲は、バーンスタインが彼に依頼した曲なのだが、はじめのうちは相当四苦八苦の苦しみだった、と語っている。ところが、森の中から聞こえてくる様々な音と、農家のための有線放送を聞いているうちに、この曲のイメージが出来上がっていったのだという。

風が吹き、森の木が揺れ、葉がざわめき、あちこちから、音がしてくる。

その森の音の空間の中で、突然有線放送がのんきに鳴り響く。

だれだれさーん。荷物がとどいているそうです。

なんて。

この不思議な音の組み合わせの中に身をおいて、構想するうちに、「ノベンバーステップス」の基本イメージが固まっていったそうだ。つまり、「聴く」ことから、この曲が成り立っていったのだという。


あの衝撃的な「パルレ・モア・アムール」との出会い。この曲を聴くことで、彼は、作曲家になってしまった。

NHKの番組では、武満徹にとって、「聴く」ことがいかに重要なのかを伝えていた。


武満は、番組の中で、娘に向かって、「パルレ・モア・アムール」との出会いが今のわたしを作ったと語り、娘は、

そんなすばらしい曲と出会って作曲家になったパパの曲、どうしてああいうふうになっちょうのかな、

と質問すると、

僕は僕なりに美しい曲を書いているんだけどな、

と、答える。


わたしは、今度、ちゃんと「ノベンバーステップス」を聴いてみようと思う。

森の音と有線放送を思い浮かべながら。


こちらにちょっとだけその音楽を試聴できるページがあります。

http://www.jbook.co.jp/p/p.aspx/1482170/s


トランスポーター2

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あの「レオン」で映画ファンに衝撃をあたえたリュック・ベッソンの新作である。といっても、監督をやってはいないのだが。彼は、制作と脚本を担当している。

といっても、やっぱり、リュック・ベッソンのDNAが色濃く出ている。


「レオン」や「ニキータ」でもすばらしい迫力のあるアクションシーンがあったが、リュック・ベッソンのいいところは、そうした過激でスリリングなアクションと繊細で美しい描写の二面性があるところだ。この特色は、「レオン」で存分に発揮されている。不良っぽい少女と殺し屋との不思議な感情の、繊細な描写は、映画でしか表現できないものだ。


このアクションもの作品でもアメリカ映画にはない味がある。映像そのものが、アメリカ流の映画とは一味違う。映像に対する美意識の違いのようなものだ。


その象徴的なものは、主人公の車が、最後まで傷ひとつなく、鏡のように輝いていて、あのものすごいアクションシーンを乗り切ることだ。コンクリートの壁をぶち破って、隣のビルに車が飛び移っても、傷ひとつないのである。


また、アメリカのことを皮肉っているところも、おもしろい。

アメリカのサンドイッチは、とにかくまずくて、食えたもんじゃない。そこで、料理を教えることになる展開は実に痛快ではなかろうか。


アメリカ人を接待などで食事に招待すると、ものすごくワサビをつかって魚の刺身を食べるが、たいがいの人は、辛いものが好きなんだな、と笑っているけれど、あれは、彼らが生の魚が嫌いということを意味していると思うようになった。魚の生臭さを消すために、大量のワサビが必要なのだ。われわれ日本人だって、魚の生臭さを消しておいしくするためワサビを使うのだが、彼らには、あれほど大量のワサビがないとダメというわけだ。


映画に戻ろう。

リュック・ベッソンは、脚本・制作も含めると、驚くほど作品が多い。

どうか、マンネリズムに陥らないで、もっともっと新鮮な映画を生み出して欲しい。「フィフス・エレメント」は、実に面白かったが、もっと奇想天外の夢を見させてほしい。




道路拡幅工事その後


道路
現在の状況


ジュピター
工事が南の方へ移動したので、ジュピター君はいつもの小屋でひるね


道路拡幅工事は、今日も続く。

だいぶ道の風景が変わってきた。

本日は、別の業者が来て、水道関係の工事をしている。一旦作った道をまた掘り返している。道路工事とは不思議なものだ。今回の工事の道は、看護学校の生徒用と保育園の先生用駐車場にはさまれているので、朝夕、車が出入りできるよう配慮しながら進められている。駐車場にはさまれていなかったら、もっと単純な工程で済むのかも知れない。

だが、素人のわたしには、どうしてまたほっくりかえすのか、見当がつかないのが現実である。


ジュピター君は、昼間避難場所で過ごすことにすっかりなれた。ずっとおとなしく眠っている。夕方、工事が終了すると、元の場所へ戻すのだが、元の場所へ戻ると、長いクサリを思いっきり伸ばして、リラックスしながら早足で歩く。


ジュピター君は、変わった犬で、散歩が嫌いだ。若かったころ、はじめのうちは、よく散歩に連れて行った。同じコースを歩くのだが、親戚の家で落ちているカリンの実を口にくわえて帰るのが日課だった。あるときから、散歩をいやがるようになり、それ以来、散歩をしていない。

そのかわり、長いクサリにつないで、いつでも運動ができるようにしている。


こうして、道路が工事され、広くなっていって、このあたりの風景がどんどん変わっていくのだろう。

めっきり田んぼと畑が少なくなってしまい、カエルの合唱もなくなった。


わたしが子供のころは、このあたり一面田畑で、かけめぐって遊んだものだ。とくにその頃は、桑畑があって、みどりのエメラルド色の葉っぱに覆われていたものだ。子供の背の高さよりも高いので、道は迷路のようになっていた。そして、夏の暑い季節には、「ドドメ」と呼ばれる、桑の実を食べたものだった。


そんな上州の田舎の風景はもう消えてしまった。

アスファルトとコンクリートと見栄えの良い外壁の家が並んでいる。ますます、合理的な町並みになっていく。

しかし、子供たちのこころは、非合理的なエネルギーに満ちている。

つまり、子供達が済みにくい街である。