コモドールのコンピュータ、あるいは夢のはじまり
夢のはじまり。
どこからともなく、偶然のマントを装い、あらわれてくる。
偶然の空には、星星のまたたき。
未来にはそれらが正座となることなど思いもよらず、
見たこともない空間と時間に飛び込んで行く。
わたしが池袋の大学へ通っていたころ、近くの丸井百貨店でいつも見ていたのがコモドールのコンピュータ 。こういう不思議なものを見ながら、近くのショーウインドウに飾られていたオリベッティのタイプライターをながめていたものである。そのタイプライターで曲名などを美しく打ち込んで、こまめにダビングしたテープをどっさりと送ってくれたのは、わたしの先生、植木 康司さんであった。
彼は、わたしの大学時代にぷっつりと音信普通になってしまった。ネットで検索すると、数年前の記事に、彼が作成した古楽器で演奏会をやったというのがあった。彼は、すくなくともそのときまでは健在で、楽器を作っていた。
今は、わからない。インドあたりにいるのかも知れない。
不思議な国インドに。数字を発明し、偉大なる音楽を想像し続けた国。
夢は続いていく。
梅田 望夫さんの著書「ウェブ進化論」では、グーグルがもくろむ世界では、人間の手が介入することのない、システムが自動的に新しい世界を作っていくという。
わたしは、かつて最初に入社した会社の社内報「クリエイト」に、すべてのPCはネットで接続されるだろうと書いた。そして、人工生命がPCという機械に生まれると書いた。それは、ドミノという小さなアイデアであった。
生命とは、つまるところ、ドミノのように次々に連鎖的に反応し、動き続けるなにものかである、という直感であった。
それも夢のゆめ。
すべての事象は、夢の中でのゆめ。そして、その夢もまた夢見る夢のゆめ。
ただし、こうした烈火のような振動を感ずるとき。それは、確実に実在すると確信させてくれる。
そうしたつながりが、未来へ向かって走り始めるとき、わたしは無常のよろこびと狂人のようなエネルギーに満たされ、振り回わされてしまう。
なんと、この世のすばらしさよ!
ドストエフスキーの小説で、こんなような振るえが歴史を替えていくのを想像しながら、夜明けの鳥のさえずりにダンスをしたこころがまた戻ってきた。
ハルが動きはじめる。
ウエブ進化論
ほんとうに久しぶりに「本」を買った。これまでかみさんのためには、いろいろと買ったが、自分のために買ったのは、「ネット株取引」関連の本以外で、6ヶ月ぶりくらいである。
著者の「梅田 望夫さん」のブログ は、ずっと読ませていただいていたこともあったが、今回彼の書いた「ウェブ進化論」を読み始めて、久しぶりにわたしの内部のなにかが激しく震えている。こんなすごい振るえは、彼のブログでは味わえないものだった。あらためて、本というメディアのすばらしさを実感した。
わたしがすべて「なんか爆発物」になったような興奮である。
わたしのエンジンに火がついてしまったようだ。
今は何もない未地へ向かって進んで行く。
未来は、そこにある。
山林の競売(たもかくのこと)
最初にまともに山林というものに出合ったのは、東京の日野市百草の貸家に住んでいるときだった。かれこれ20年前以上になる。新聞に「山林の土地一坪あげます」という記事が載っていた。なにしろただで山林の土地がもらえるのだから非常に興味をもった。たった一坪でもである。それまで、わたしは土地というものを所有したことがまったくなかった。
それで、なにがなんでも土地をもらうのだと意気込んで、現地(福島県、只見)に朝早く到着するように、たしか、夜中に車で東京を出発した。現地に到着したのは、土地をもらえる時間のだいぶ前だったが、すでに同じような気持ちの人々が集まっていた。たぶん都会からやって来た車が十数台も並んでいたと思う。
車がやたらと集まっているだけなので、わたしのかみさんが気をきかせて、来たもの順に車を並べるように提案して、列をつくって土地をもらえる時間を待っていた。
さて、時間が来て土地の配布がはじまりそうになると、某テレビ局の女性リポーターなんかも来て、会場は騒然となっていた。その頃ちょくちょくテレビで見かける現場リポーターの若い女性があちこちインタビューなんかをしている。「ほんとうに土地をただでもらえるんだろうか」などと、集まっている人々は気が気でないような雰囲気で、なんだか怖いような気もした。
時間になると、一応整然とならんだ車の順に土地一坪が分け与えられることになり、その旨が記された紙が配られていった。思ったより混乱はなかった。
土地は山林で、十二分用意されていたようで、集まった人々全員に行き渡っても、まだ余っているようだった。
その後、配られた土地の現地へ案内され、実際に土地を見てきた。見てきたといっても、ほんとうに自分がもらった土地ではなく、その区画の代表的な土地、一坪を見ただけだった。しかし、みんな満足していた。山林のいっかく、土地一坪がひもで区切られていただけだったが、なんかみんな集まった人たちは、夢見がちな目になっていた。これほど「土地」を所有するということは、重みのあることんんだと思いしった。とくに都会育ちの人や、都会で暮らす人にとっては、土地は、なんか神秘的なものだったに違いない。ちょうど、日本のバブル経済真っ只中の出来事だった。
それにしても、この騒動を主催した「たもかく」というところ(会社)は、ユニークだと思う。
現在、あれから20数年たったが、まだこのときの思い出ははっきりと焼きついて消えない。わたしがそうなのだから、集まった人々もたいていがそうだろう。有り余った山林を利用したカシコイ「たもかく」のアピールの始まりだった。
あのときもらった土地一坪の所有権はいまだに登記していない。だから、はたしてもらったのかどうかも定かではない。しかし、山の土地にじかに触れたような強烈な体験は、ほんもので、このことがきっかけでそれほど遠くない山林を巡っては、楽しむようになっていった。そして、とうとう山林の競売に参加することになるのである。
「たもかく」は、まだまだ健在だ。
森と本を交換したり、一坪とらすというユニークな事業を展開している。
(一度本気で、彼らの事業を研究してみる必要があるなとつくづく思っている)
今日は、このへんで、、、、
猫たち
営業エリアを変えてみることにした。
前回は、市の中心街だったので、今回は、ケーブルテレビエリア内のはずれにして、そのギャップから何か新鮮なものが得られると期待した。
相生3丁目。相川橋からつづくエリアである。
桐生の土地かんがまったくないので、行ってみて、ちょっとびっくりする。渡良瀬川に面して広い団地があり、少しはなれると崖があって、地図ではわからなかったが、起伏のある地域だ。
街の中心から見れば、いわゆる郊外なのだが、予想外に車を安心して停めておく場所がない。周辺を何回か車でまわってみて、なんとか車を駐車できる場所をみつけ、あたりをつけて何軒か訪問を試みた。
あらかじめ既に加入している住宅はチェックしておいたが、加入率は中心街に比較すると低いようだ。どういう理由にせよ、既に加入している住宅があるのだから、これからでも加入していただける住宅が必ず存在するはずである。しかも、このエリアには、光ネットの接続口が二つも用意されている。当方が考えるに、もったいない話ではあるが、エリアの人々は、そのようなことは知らないに違いない。
とにかくケーブルテレビがここへ来ていることと、光ネットがすぐに接続できることを知ってもらおう。
団地の駐車場で猫たちに出合った。猫が数匹集まっている。全員がわたしの方を見た。
ラジコン飛行機おじさん
昨日(9月4日)は、G-net光のポイントがある仲町2丁目周辺をまわった。
G-net光は、いわゆるFTTH(Fiber to the Home)のインターネット光ネットで、100Mbpsを実現する当社の目玉商品のひとつである。
この地域は、いわゆる飲み屋街で、昼は閉まっているスナックなどの店が多く、営業をするチャンスが少なかった。やはり、営業には、商品を買っていただく本人に直接アクセスしないと埒があかない。
「時間(日時)」「地域(場所)」が大切であることを痛感する。
ケーブルテレビのケーブルは、確かにこの地域をカバーしていて、ぽつりぽつりとお客様に接続されている。上を向いて、ケーブルとTAP(接続するポイント)を確認しながら、つくづくとわが新米さを痛感せざるを得ない。
自分は、何を売ってまわっているのだと、もう一度考えさせられてしまう。お客様にお金を払ってもらうだけの魅力ある商品なのだと確認しなければならないと思った。
そんな営業の中、「ラジコン飛行機おじさん」と出合った。
彼は、もう70歳に近いだろうか。通りに面した、一昔前までは、お店のようなところに、どっかと腰掛けて、一面に並べられたラジコンの部品の前で黙々と作業をしている。部屋の中には、ヘリコプターが3台、セスナ風の小型飛行機が数台、胴体やら主翼やらがぶら下がっている。
動力は小型エンジンで、キットを購入して組み立てたのだそうだ。大きいものでは、主翼の幅が2メートルくらいある。
若いときは、自動車整備の仕事をやっていたそうで、機械いじりが得意そうである。年をとって仕事を引退し、せっせとラジコン飛行機をいじる毎日。
渡良瀬川に河川敷にラジコン飛行機用の飛行場があり、休日などに飛ばしに行くそうである。
操縦はけっこう難しいそうだ。
わたしもひと時、子供の頃の夢に戻って、しばらくこの「ラジコン飛行機おじさんの空間」に浸っていた。
今日も暑い。さて、もうひとまわりだ。
「あ」という名前の定食屋さん(その2)
さて、注文が決まると、おかみさんの指示で、つけものと煮物が入った器を自分で席に運ぶ。先に入った3人のお客さんも、おかみさんの知り合いらしく、家族か親戚のような雰囲気でそそくさと自分たちの食卓を整えている。
本日の日替わり定食:
・おしんこ:浅漬け、または、古漬け(だいこん、きゅうり、にんじん、うめぼし)
・煮物:煮卵と煮しめこんにゃく
・あえもの:くらげときゅうり
・つけめん:細めんうどん、(上に、トマト2切れ、みつば、にんじん千切り、わかめ)
・つけ汁
・やくみ:ねぎ、みょうが
・ごはん
以上で500円なり。
すべて手作りでうまかった。特に「ごはん」がうまい。
定食の食べものたちをいとおしみながら食べていると、4人ほどのお客さんが入って来た。おかみさんの知り合いらしい。わきあいあいで、がやがやと楽しそうだ。それから、また2人入って来た。父と娘である。玄関わきの座敷にも3人ほど客が入った。
ずいぶんとにぎやかになった。
まったくの他人はわたしだけのようで、店の中の雰囲気は、親戚同士の集まりのようになごやかで明るい。
はじめてのお客ということでらしいが、わたしは「梅ジュース」をサービスしてもらった。(自家製の梅シロップが使われているようで、おいしかった。夏の暑さにはうれしいさわやかさだ。)
勘定のときに、名刺を渡して、わたしの正体を明かして外へ出た。
「あ」という名前の定食屋さん(その1)
昨日、営業の途中で、「あ」という変わった名前の定食屋へ行った。
昔、(わたしの父がまだ生きていたころ)7、8年前からもっと前?、伊勢崎市の実家によくたずねて来たHさんという人が定年後開店して食堂である。桐生の相生町5丁目にある。
Hさんは、桐生の人で、ビデオで有名なV社のお客様サポート業務をやっていた。ひょんなことから、実家のビデオやテレビが具合悪くなったとき、サポートに来て、それから、懇意になり、伊勢崎に来るとちょくちょく立ち寄ったそうである。
わたしの父は、家庭菜園(100坪くらい)をやっていて、収穫したじゃがいもだのねぎだのをよくHさんに持っていってもらったそうである。
そういえば、父が家庭菜園で育てて、収穫した野菜や花は、ほとんど誰かにあげてしまったようだ。そういう父であった。
さて、「あ」という定食屋(夜はカラオケが歌えるスナックになるようで、ナイトサパーという看板がある)は、この手のお店があるようなメインストリートに面していなくて、細いわき道を住宅地に入ったところにある。わたしの営業戦略には大切な位置付けの店なので、あらかじめ偵察して場所は確認していた。
場所さえわかれば、わたしが勤務する三吉町の会社から車で10分くらいだ。
昼前の11時30分くらいに車で到着すると、ちょうど3人連れのお客が車を降りて、店に入るところだった。おじいさん、おばあさん、そして、おばさんの3人である。わたしは、その後から店に入った。
店の中央にどっかと長いテーブルがあり、赤いソファーが両側に置かれていて、およそ定食屋とは思われぬ店内だ。正面には椅子が4つほど並ぶカウンターがあり、どうみても、いわゆるスナックの店内である。
しかし、入り口から少し入ってわきを見ると、4畳半ほどの畳の座敷があり、こちらは、食堂の雰囲気で、長テーブルの向かいには、ちょっとくぼんだスペースに4人用のテーブルと椅子が置かれ、こちらは、ちょっとした喫茶店の雰囲気である。このスペースは、カーテンがあり、ちょっとした目隠しができるようになっている。
つまり、この店内は、スナックと定食屋と喫茶店が混在したような不思議な空間であった。
先に店内へ入ったおじいさんとおばあさんとおばさんの3人と相席でソファーに腰掛けた。おじいさんは、足元がおぼつかないかんじで、ゆっくりと、そして、やっと席についた。出迎えたのは、この店の<おかみ?>で、それなりの年齢のHさんの奥さんと思われる女性である。日替わり定食を注文することに決めていたが、先の3人の注文が済むまで、ひととおりメニューを眺めていた。結局注文は、全員日替わり定食になった。
今日は、「つけ麺」だという。わたしは、ご飯が食べてみたかったので、確認すると、ご飯もついてくるという。
<その2>へつづく
携帯電話
わたしは、現在携帯電話をもっていない。いまどきめずらしい。といっても、わたしの母ももっていない。70歳を過ぎているので、この年代では、もっていない人が多いかも知れない。
現在、わたしが携帯電話をもっていないのは、ここのところさほど必要がなかったからである。必要もないのに基本料金を毎月4000円以上支払うのはもったいなかった。
それにデジタルカメラももっていない。
前職では、必要があれば、会社の携帯電話とデジタルカメラを使って用が足りた。
という、わたしも、10年くらい前は、携帯電話やデジタルカメラをおおいに活用してビジネスをやっていた。まだ、どちらの機器も市場に出始めたばかりだった。デジカメなどは、EPSONから仕事の関係で、製品化前のプロトタイプを使っていたくらいだ。
その頃、わたしは、理想に燃える小さな会社の社長だった。
その理想は、いろいろなことが原因でしばらく休止せざるを得なくなって、現在にいたっている。
しかし、本格的な営業を、これからやっていくには、やっぱり、携帯電話もデジカメも必要だと実感してきた。
そろそろ、購入を考えている、今日この頃。
そんなわけで、当面は、わたしの記事には、写真が登場するのは、稀で、下手な絵で我慢していただかなくてはなりません。
絵を描く。これは、これで、必要に迫られると、何やかんやと勉強になります。イメージを記憶から引っ張り出すことは、なんと難しく、そして、ちょっと楽しい。
東京オリンピック
営業の途上、車の中でJOCによるオリンピックの日本代表候補地選定のニュースをやっていた。選定委員による投票の模様と結果がライブで放送されていた。結局、2016年の夏季オリンピック、日本の代表候補地は東京に決まった。
東京オリンピックが開催されたのは、1964年、わたしが小学3年生のときだ。高速道路や競技場が急ピッチで建設され、日本の首都東京の現在につながる姿のベースがかたちになった年である。
みんな東京オリンピックにわいた。わたしは、運動会で東京オリンピックをテーマにした競技をやったことをおぼえている。
そして、みんなテレビに釘付けになって応援した。小学校の授業中、マラソンの中継を用務員室のような部屋で同級生と観た。アベベ選手が黙々と走り続けていた。
そして、市川崑
監督が監督した記録映画の記憶が今でもなまなましく残っている。
http://www.joc.or.jp/past_games/tokyo1964/interview/index.html
こちらに、市川崑 監督のインタビューがあり、そのときのエピソードなどが語られている。
最初は、黒澤明監督が撮る予定だったそうだ。ところが黒澤監督が、どうしたわけか降りてしまったので、ピンチヒッターで市川監督が撮ることになったそうである。黒澤監督が撮っていたら、どういう作品になっていただろう、などと想像したいが、それは無理だろうと思う。オリンピック選手は、役者じゃないからだ。
そこで、思い出すのは、フランスのグルノーブル冬季オリンピックを記録した「白い恋人たち」である。この記録映画で使われたフランシス・レイの「白い恋人たち」という曲も忘れられない。なんといっても、その曲を映像にのせ、融合させてゆくセンスは、わたしが非常に強いショックを受け、わたしの体の中に住み着いている何者かである。
さあ、もし北京の次のオリンピックが東京に決まったら、とんな記録映画を誰が撮るのだろう。
しかし、すでに時代はかわった。あんまり期待しないでおこう。
デジタルハイビジョンの生中継で存分に世界中をわかせ、そして、東京オリンピックは閉会式を向かえ、消えて行くだろう。
そういう映像の未来の時代になっている。そして、その時代は、ぎくしゃくしながらも、もうすでに始まっている。






