桐生の魚屋さん「魚峰」
たまたま営業で訪ねたお魚屋さん。
わたしが子供の頃、よく遊んだ友達にヨシちゃんという子がいて、近くの魚屋さんの子供だった。そのせいもあり、みょうに「町の魚屋さん」がなつかしく、子供の頃の思い出がいっぱいつまった箱を開けるような感覚を感じながら、「魚峰」さんのお店へ入って「こんちわ」と声をかけた。
すると、店内で忙しそうに働いていたご主人が気持ちよくこたえてくれた。
ケーブルテレビはいかがですか?
と切り出すと、
そういったもんはいらないよ、とはっきりと言われてしまった。
それじゃ、インターネットは?
と問いかけると、
わたしゃ、そういったもんは縁がないんじゃよ、ほら見てご覧、うちにはファックスもないだろ。
と続ける。
それから、「魚峰」のご主人の話がしばらく続いていった。
今の子供たちはダメだね。ゲームをやったり、テレビを観たりすることしかしない。新聞だって、テレビ番しかみないってんだ。これじゃ、ダメだよ。
はぁ、そうですね。
(ケーブルテレビの営業で来ている自分は、なんとなく、気まずいけれど、やっぱりこのおじさんの言うとおりだと思ってしまう)
わたしゃ、5種類も新聞をとっていたことがあってね。新聞をよく読みますよ。それから、わたしの一番下の弟は、今の上毛新聞の社長をしてるんだ。
そうですか。
(実は、3年ほど前、ひょんなご縁で、わたしは、その高橋社長とお会いしたことがあった。今お話をうかがっている「魚峰」のおじさんの弟さんだったとは、縁は不思議なものであるとつくづく思う)
それから、しばらく、おじさんの話はつづていった。仕事の手を休めることなく、流れるように仕事をこなしていく。
ちょっとわたしが店の外へ目をやると、すぐさまご主人が話しだす。
あそこにあるのは、根本山 (ねもとさん)までの距離を示す「塚」だよ。
昔は、あの「塚」がある細い道が、ずっと、ほらあの細い旧道とつながっていて、(と店の前の車道の向かいにある細い道路を指で示す)、この広い車道ができるとき、区画整理でここらの土地が取られたんだ。
ほら店の入り口の枠を見てごらん。角度があるだろう。ここから。これがそのときの、なごりだね。
おじさんと、この塚に近寄ってよく見てみたが、表面に刻まれた文字はすでに風化していてよく読めなかった。この「塚」は、根本山までの距離を「里」で示しているそうである。いわば根本山へ登りに行く人の道しるべだったわけだ。ということは、桐生では昔は、根本山が重要な山だったと想像できる。
わたしは、生まれも育ちも桐生よりずっと西に位置する山のない伊勢崎市で、山はなにか遠いものとして存在し、この「塚」が示しているような地域の重要で身近な存在ではなかった。それが逆にわたしの好奇心をくすぐった。これからは、営業でこの町を歩くときは、古い史跡なんかにも気を配ってみようと思っている。そうえいば、わたしがこの営業を始めた当初、みょうに桐生市役所のそばにある「織姫神社」が気になったもので、今でも毎朝出勤の途中にその神社に挨拶することにしている。小さな神社だが、その境内にある大きな樹木が、不思議と気に入って、毎朝話し掛けてくるような気分を味わっている。
桐生の魚屋さん「魚峰」4代目ご主人:高橋さん
ご主人はぽつりと言う。
この店での商売もあと1,2年だよ。
そんなこと言わないでよご主人
と言いたくなってしまう。
大きなスーパーマーケットでパック詰めされた魚を無言で買って行くというスタイルが定着してしまった今日、やっぱり魚は魚屋さんで買うという、毎日、毎日の生活の繰り返しが、人と人とのつながりをいきいきとさせ、町全体の活性化につながる、と言っては大げさだろうか。テレビやインターネットで受け取る情報が大いに幅を利かせている今日、人と人が接して、生まれる情報のやりとりには、失ってはならない、大切なものがあると思う。
一方で、商売は商売で、時代とともに姿を変えていかなくちゃならないのも必然であることだろう。しかし、スーパーでパック詰めされた切り身の魚が、海で泳いでいるときは、どんなかっこうをしているかまったく、とんと、想像もできない子供たちが増えているそうで、そんな現実を聞くと、寂しい思いがする。
がんばってください。「魚峰」のご主人。
パソコン記念日
本日9月28日は、日本では、パソコン記念日 となっている。
「1979(昭和54)年のこの日、日本電気(NEC)がパーソナルコンピューターPC-8000シリーズを発売し、パソコンブームの火付け役となりました。その後に発売された9800シリーズ、いわゆる「キューハチ」は、その快進撃により市場の6割を確保していました。」
と説明があります。
その年は、わたしがちょうど大学を卒業して、東京のアグレックス(当時は日本能率コンサルタント)へ勤務しはじめたときだった。
火付け役となったと記述されてはいるが、まだまだNECのパソコンでまともにビジネスをやろうという企業は少なかった。しかし、NECは、着実にPC-8000シリーズと後の9800シリーズの市場を拡大していき、NECパソコンの一大帝国を作ってしまう。
あの頃、パソコンといえば、「NEC-9801」と思われていた。
その秘密は、現在のWindowsとは違い、メーカーのパソコン機種間に互換性がなく、NECは自分のところのパソコン、すなわちPC-8000シリーズとPC-9800シリーズのソフトウエアをたくさん集めることに全力を尽くしたことだ。ほんの小さな会社(今でいうベンチャー企業)なんかも差別することなく、パソコンの仕様を公開し、開発用のツールキットなども惜しげもなく提供し続けた。その結果、ソフトというソフト、特に有望で人気のあるソフトは、ほとんどすべてNEC製パソコンで動き、他のパソコンでは動かないという事体になってしまった。
そうした循環がパソコンというハードウエアとそのパソコンで稼動するソフトウエアと一体となり、確固たるNECパソコン帝国が築かれていった。
こんな状況の真っ只中にいたわたしは、その成熟したNECパソコン帝国に取り囲まれながらも、メーカーを問わずに動くソフトの商品化に追われる毎日だった。
という思いにふけってしまったのは、今朝会社へ出勤する途中、自分の運転する車の中で、「今日は、パソコン記念日です」というニュースを聞いたからだ。そして、日本電気(NEC)がPC-8000シリーズを発売した日で、その後のパソコンブームの火付け役となりました...」などとニュースは続いた。
1979年9月28日といえば、今からなんと27年前のことである。
だから、違うメーカーどおしの互換性に苦しんだなんて思いは、現在の若い世代には、まったく想像もできないことだろう。それに、そんな苦しみは、今日のパソコンの発展にあんまり貢献していないと思う。無駄だったように思える。
しかし、「信長の野望」などのヒットゲームを発売したゲームメーカーのコーエーなど、その当時はほんとうに小さな企業がおそろしい勢いで成長していった秘密は、NECのパソコン帝国なしには語れないだろう。
しかし、NECパソコン帝国にも終焉が待っていた。それは、PC-IBM/ATと、その互換機の出現という、アメリカでの出来事だった。IBMは、もともとIBM-PCというパソコンで一躍ビジネスで成功を収めたが、このときにかのビル・ゲイツの「マイクロソフト」が誕生していて、これもIBM-PCのおかげて、恐ろしい勢いで成長を繰り返し、今にいたっている。そのマイクロソフトのビル・ゲイツがNECのパソコン帝国を終焉に導いたともいえる。
なぜなら、世界中のパソコンがすべて互換性をもつようなOSを開発し発売したからだ。
台湾で作られた英語圏(アメリカ向けが主)IBMのパソコンで日本語のソフトウエアがそのまま動くのだ。
こんなことは、NEC9801がパソコンの代名詞のように大手をふるっていた時代には、想像だにできなかったことである。
さてさて、「パソコン記念日」というキーワードでグーグル検索で、出てきたサイトの10番目が上記にかかげた「気ままに」 というブログである。このブログを書いている人とは、むろん、はじめて出合ったわけだ。そうして、彼女も今では2台目のパソコンを使いこなしながらブログを書いているが、最初にパソコンを買ったときのことやら、その後の苦労などがつずられていて、とてもほほえましくかわいらしい文章だと思う。ひょっとして、ご本人もそういう人かなと思いつつ、彼女が作っているホームページなんかものぞいてみたりした。
こうした出会いが実現するのも、パソコンのおかげであるが、インターネットの力も不可欠である。
彼女が書いているように人間の能力はパソコンと、どういう関係で、位置付けられ、そうして、進歩(または退歩)していくのだろう。わたしも大いに楽しみである。
昨夜、NHK教育テレビを何の気なしに見ていて、「ミケランジェロとルター」で、ルネッサンスを語っていた高校講座に出合った。ミケランジェロの若い頃の作品である「ダビデ像」をちらっと見て、わたしのこころが揺らぎ、魂の中に風が吹くのを感じた。この番組では、ダビデ像の顔を正面からクローズアップで映していた。こうした角度での写真は、インターネットではお目にかかれなかったので、ぞくっとするほど、何か感銘してしまった。
その目とまなざし。
こんなようなテレビでの出会いがわたしのこれまでの人生に多大な影響を及ぼし続けていたことは間違いないのだが、パソコンとインターネットとの出会いはどうなんだろうと思う。そして、それらの出会いの相乗効果や合体したものが、これからは、わたしや他の人々へ大きな影響をあたえつつ、この世界は進んでいくのだろう。
さて、これから、営業に出かけましょう。
それでは、また
他力本願
わたしの生まれ育った群馬県の伊勢崎市は、現在仕事で駆けずり回っている桐生市と前々違うことに気付きはじめた。伊勢崎は、群馬県の南部の中央付近に位置し、南に隣接するのは、埼玉県の本庄市である。県境(市境でもある)は、大きな雄大な利根川だ。
伊勢崎市のカラーというか気質みたいなものは、西部に隣接する前橋市や高崎市などに近いかもしれない。わたしの行動範囲は、これまで、前橋市や高崎市が主だったので、桐生に来て感ずるような驚きにも似た、異質感はなかった。
こういう異質な中で自在で闊達な営業をするには、わたしにはしんどいし、時間がそれなりにかかるものと覚悟した。そして、少しずつでもいいから、わたしに繋がる人間関係をつくっていき、いわば、他力本願を上手に使おうと思うようになった。これまでのわたしは、どちらかというと、研究室に閉じこもってものを考えるようなタイプで、自力本願的な傾向があった。
桐生では、それが想像以上にうまくいくような気がして、いつしか、そのようにうまくいくのだと思うようになった。
それは、営業の途中で、三和教材(株)という会社の黒澤さんと、その家族の皆さんに出会ったからです。(このお話は、別の機会にもっと楽しく語りましょう)
三和教材の黒澤さんのところへおじゃますると、まず、2匹の犬が出迎える。初回訪問の1度だけ吠えられたが、お話を終えて帰るときには、ぜんぜん吠えられなかった。なかなか、かしこい犬君たちである。そして、鶏が庭先の小屋にいる。時々卵が事務所で目に付くことがある。
そんな、風景の中、電話がひっきりなしに鳴り響き、ファックスが次々に送られてくる...
何かでっかいビジネスの息吹とともに。
そういえば、わたしが最初に入社した東京の会社で社長だった、わたしの恩師(わたしがかってに思っています)の新しいウエブサイトにやっと再会することができた。http://homepage2.nifty.com/hatory/
70過ぎの彼も、鶏と本格的に付き合って生きていて、へびと闘ったりしている。文章からにじみ出る真剣さと本気さが非常に面白い。この面白さは、本人は絶対にわからないものである。そうして、そういうたぐいの面白の輝きに満ちた文章が大好きだ。
彼の人生や生き方もしかりなのである。
そうした、ものにわたしもなりたい。なりたいと思いながら、今日も桐生の街をいったりきたりです。
普段は見えないものたち
わたしの自宅風景である。
ケーブルテレビの営業をはじめて、家々のアンテナが目に付くようになった。以前は、自宅のアンテナでさえ視界になかあった。そして、町中にはりめぐらされた電線も目に付くようになった。見え出すとやたらといろいろな種類が空中を走っているものだなぁと感心してしまう。
右に見えるのは、わたしの家族、犬の「ジュピター」である。
こちらは、他のものが見えなくても、いちばんに目に入ってくる。
街もそうであるし、街に住む人もそうである。
普段は目に見えないものが、自分の行動や経験や態度によって、異常に目に飛び込んだり、普段は聞き流してしまう声とその感情のようなものも、突然はっきりと認識できるようになる。
こうした情報の吸収と理解は、機械では普通は発生しないものだろう。
梅田さんの「ウェブ進化論」によると、グーグルの検索は、機会に任せっぱなしのようで、むしろ、人間の主観が関与しないところがすごいのだそうである。
なんだか、的を得たようで、むしろ、中途半端なもののような気もする。
とにかく、この写真の風景も、あと10年もすると、また違ったものになるだろう。
徒然に...
月日の流れ
社内でパソコンに向かって何か一生懸命やっているY氏がいる。見るとタッチタイプの練習だ。
これまで、多くの人に出会ったが、タッチタイプをこんなに真剣に練習している人は、普通の状況ではごくごく少なかった。練習している画面を見ると、インターネット経由で実行される無料の練習ソフトである。ここで、「梅田 望夫さん」の「ウェブ進化論」で出てきたコンピュータの「こちら側」と「あちら側」という表現を思い出す。いいあてて妙という言葉である。
そこで、すぐさまわたしが最初に本格的に日本で売り出したパッケージソフト「タイプクイック 」のことを思い出し、昔を懐かしみながらY氏に話しかけてみた。ちょうど、わたしの車に「タイプクイック」のパッケージがあったので、さっそくインストールをしてみようとフロッピードライブに入れたが、エラーになってしまった。
20数年前は、NECのパソコンが隆盛を極めていて、物理的には同じ企画で作られたフロッピーでも、1.28Mと1.44Mがあり、IBM PCでは、1.44が標準で、1.28は読めないことに気がついた。しかし、問題のフロッピーは、1.44Mであり、問題はないはずである。
わたしがいつも使っているパソコンでインストールしようとしたが、失敗だ。
そこで、書き込み禁止になっていることに気付き、書き込めるようにして再度インストールを試みると、うまくできた。
ということは、最初にY氏が使っていたパソコンにインストールしようとして使ったフロッピードライブがおかしいのだと思わざるを得なくなった。
ちょっと他のUSBフロッピーなども試したが、うまくドライブがつながらずに、結局あきらめることとなった。わたしの「タイプクイック」は、日の目を見ずじまいになってしまった。
たしかに、パソコンの「あちら側」からインターネット(ブロードバンド)経由でやってくるソフトウエアには、フロッピーがどうだのこうだの、CDがどうだのこうだのというごたごたは発生しない。しかし、何かが見えない。この見えないことへのつまらない不安は、パソコンの「こちら側」で育ったわたしのようなものの特有の杞憂なのかもしれない。マイクロソフトや多くのエスタブリッシュメント企業が「そうなのだ」と梅田さんは主張している。
しかし、である。商品が良くなっていく過程では、競合商品との競争が非常に重要である。
わたしにとって、グーグルという怪物企業の成功には、何か時代の変わり目が排出する、一種特有の運命的な、突然変異のような進化の過程が露呈しているようにも思えてならない。
グーグルはたしかにすばらしい。しかし、そのすばらしさは、株式を公開して、企業価値がわれわれの前に明らかになtって初めてわかったというものだろう。3兆円から10兆円、そして30兆円へと怪物は成長している。
わたしがもし、このような怪物企業の創業者でCEOだったら、わたし自信がそもそも怖くなってしまうような状況を呈している。
さて、ここでわたしのかつての企業創業の理念が脳裏によぎる。
「会社をもたない会社をつくろう。みんなでひとところに集まって仕事をしないですむ会社にしよう。時間と場所を越えた商品とサービスを、物理的な会社をもたない会社で販売しよう。」
この理念は、わたしの場合は、半ばで挫折してしまった。
しかし、今日、インターネットのおかげで、それを実現しつつある企業がぼつぼつと出現しはじめている。ただし、その理念は最初にありきではなく、後からくっついてきた理念だということが大きな違いではある。
梅田さんの主張するように、不特定多数無限大のロングテールたちが淘汰され、「ベストイズブライト」たちが、本当に輝く世界が到来するのだろうか?
いずれにしても、現在は、ある種の進化が何かの突然変異で急速に進んでいる時代であることには間違いない。
らせんの繰り返し。そして、上へのぼって行く。
言葉が絡み合って、衝突して、かもし出し、創造する、言葉ではない、エネルギーを機会が知らぬ間に。
ニュートン物理学、相対性理論、ビッグバン、素粒子物理学...
パソコンの入力システムの自動変換に「知」は、まどわされるのか。
書き順のない言葉たちが歌をうたえるのか。
そして、ミクロのミクロを扱う素粒子物理学とは、反対のマクロのマクロを見つめることができる物理学があったら、どのように宇宙をながめるのだろう。
わたしたちは、そのような目で、宇宙を実際にながめたことがないのだから。
ミクロはわたしたちの中にある。しかし、マクロのマクロは、わたしたちがその中に存在し、決して外へ出ることの出来ないものだからだ。
しかし、それは違うのかも知れない。わたしたちの意識や存在や智慧は、違うのかもしれない。
...だとしたら、マクロのマクロから宇宙を見ることも可能になるだろう。
きっと仏陀は見てしまったのだ。
ウェブ進化論:読み終わりました
梅田 望夫さんの著書:「ウェブ進化論」、読み終わりました。
梅田さんの最近のブログでも、「Google」の特殊性と徹底した人材活用術が語られています。「グーグルの特異性と強さ」では、梅田さんがかかわった第三者の逸話を引き合いにだしておられるので、一層、その特異性と強さが実感できます。
さて、梅田さんの著書「ウェブ進化論」の一説に、
若い頃、「モノが見えなくて良かった」というものがあります。
一歩新しい大地(シリコンバレー)へ踏み出す前に、小ざかしい詮索などしないで、「楽天的」に考え、先へ先へと進んで行ったのです。そこには、「老人」ならば最初から見えていたような失敗もあったそうですが、失敗だけじゃなく、予期せぬ出会いや、新しい発見があり、物事がうまい方向へ進んで行ったそうです。
それは、ある種の、エネルギーがあったからだと思います。
才能、幸運、エトセトラがうまく絡み合って、今までにない鮮烈なビジネスが誕生すると思いますが、「Google」のこれまでの成功は、そのエネルギーなくして到達できなかったと思います。
そこで、あえて、梅田さんは、このエネルギーを必要とする冒険に足を踏み込んで行くのですが、ここの一説で、この本を締めくくっているあたり、ほんとうに、「エネルギーが生み出す、オプティミズム」を感じます。
なにはともあれ、梅田さんは、この著書の中で、「この本を執筆したときのことはよくおぼえていない」というようなことを言っていますが、それこそ、熱を伝えてあまりある表現ではないでしょうか。
そして、このような書物に出合ったことを、深く幸福に思っております。
わたしが、このつたない文章をブログに記してしまうのも、そのエネルギーの感化を受けてのことです。
まことに、いい書物は、食べて力になることをしみじみと実感しています。
ウェブ進化論、読書中です
梅田 望夫さんの著書、「ウェブ進化論」、食べるように読んでおります。
わたしは、どちらかというと、この著作で言うところの、「古い時代」「こちら側の世界」でのシステムづくり、ものづくり、に長年携わってきた者です。
「こちら側」と「あたら側」という概念の対比は、とても興味深いと思っています。
わたしは、「此岸」と「彼岸」という言葉を連想します。群馬の誇る「萩原 朔太郎」の詩にも出てくる、わたしにとっては、なじみ深い言葉です。
人間の頭脳の特性と「詩」「歌」「まさにミュージック」などは、とても親密な関係があるものと思われます。歌でおぼえた言葉は、不思議と、ずっと記憶に残り、小さいときに見た「テレビ番組」の主題歌など、今でもはっきりと思い浮かんできます。
ところがわたしには、いわゆる左の頭脳的なもの、「数学的」「論理的」なものが苦手ときております。高等学校レベルの「数学」などは、まったく、すっかりと忘れてしまいました。が、その当時の「歌」や「文学」などは、そっくりと記憶にあるようです。
梅田さんの著書での「グーグル的」なものと、「ヤフー的」なものとの対決、対峙、などは非常に面白く、今後マルチメディアの世界でのかかわりが、ほんとうに注目されますね。
ところで、わたしは、何本か、若いときに映画を作っています。映画といっても「いわゆる前衛映画」で、ごくごく限られた仲間内でなければ、見てもらう機会などありませんでした。
ところが、インターネットによって、そうした状況が恐ろしいほど変化・変革され、いよいよわたしにもチャンスが巡ってくるのかなと思っております。
問題は、8mm映画をいかにして、ゼロコストに近いかたちで、インターネットへのっかるデジタル映像に変換するかです。
レコードからCDへの変革のときでも、少なからず、(ある一部の人にとってはほんとうに貴重で重要な)音源がカットされ、もう永久に世間に出回らないものもあると思います。
そんな、悩みとつながるのが、テレビ放送の「デジタル化」です。
それは、それで、また違う考えの世界ですね。
とにかく、「わんちゃん」と接しているとき、輝いているもの、それが大好きです。
グランドゴルフ
相生町の営業で、とあるお宅へ伺ったところ、80歳近いおじいさんと、奥さんがゆったりとお部屋にいて、こちらが切り出した「地上デジタル放送」の話題が、いつのまにか、「グランドゴルフ」の話題になっていった。
ご趣味は、グランドゴルフだそうで、群馬県大会をひかえ、話に熱が入ってきた。
このおじいさんは、地元大会で優勝したこともあるそうで、部屋にはいろいろな賞状が飾られていた。そして、別の大会でもらったトロフィーを大切にしまっておられ、わたしに見せてくれた。
グランドゴルフの会員は、桐生だけでも1000人に近い人数がいるそうで、ほんとうに盛んなスポーツであることが実感できた。実は、わたしの母もグランドゴルフをやっていたが、今はどうかわからないので、いつか話題に出してみようと思っている。
今やグランドゴルフは、かつてのゲートボール以上の人気スポーツでになっているようだ。
わたしも、「駆け出し」を脱することができたら、いつか当「ケーブルテレビ」のコミュニティーチャンネルで、その熱狂ぶりに貢献したいものだと思う。「テレビ少年」でも触れたが、「テレビ」の力(あるいは何ものか)は、家庭用のビデオや写真などとは違うものだと思っている。その力(何ものか)をあらためて、再認識しながら、これからもせっせと営業にいそしみたい。
テレビ少年
わたしは、昭和30年(1955年)生まれ。典型的なテレビ少年。テレビっ子である。
アメリカからやってきた「ポパイ」をよく見た。
それから、小学校から「ひょっこりひょうたん島」を見るのが楽しみで、放映の時間に間に合うように家に帰って、必ず見たものである。今でもおぼえている劇中歌がある。
「勉強、勉強、勉強せよと、大人は子供に命令するよ。
強くなるために。偉くなるために。
あーあーあーあー、そんなの聞き飽きた。
いいえ、大人になるためよ。
男らしい男、女らしい女。
そうよ人間になるためーに。
さぁ、勉強なさい。
そうだとも、泣けちゃうよ。
今のことば。
みんな忘れるな。
テケさんもね。」
とかなんなかいう歌だった。
このたぐいの歌が山のようにちりばめられた、一種児童冒険ミュージカルのような「ひょっこりひょうたん島」だった。
なぜか、わたしは、この番組に釘付けになった。
今でも、上のような歌をそっくり覚えているのだから、テレビの力は恐ろしい。録音テープもなく、ましてやビデオなんかまだ想像だにできない時代である。
わたしは、明示的に分析したことはまったくないが、わたしの成長に(わたしがわたしであるために)テレビが与えてくれた影響(栄養?)は、見えないところで、計り知れないものがあるに違いない。
「月光仮面」「狼少年ケン」「マリンコング」などなど...わたしがどっぷりと浸かってしまった番組は、数多い。
「狼少年ケン」の歌を歌いながら、「ナショナルキッド」のマントを身にまとい、そこらじゅうをかけまわった、うるさいガキだった。
とりわけ、わたしの興味を引いたのは、科学実験番組だった。たしかNHKだ。
その中で、とびっきりわたしが影響を受けてしまったのは、電子回路を使っての工作だった。その影響のもと、わたしは、中学の科学自由研究で、「電子オルガン」なるものをこつこつと組み立てて、学校で発表し、県大会まで行ったものだった。
入鹿山さん に共感するのは、こうした、わたしの来歴があるからだ。
NTTドコモで「腕時計型電話」や有名な「シグマリオン」を開発された入鹿山さんの大きさと輝きにとうてい及ばないが、同じようなDNAを感じてしまう。(ちなみに入鹿山さんの来歴もそうとう変わっていて興味深い)
彼とは、溜池にあるぴかぴかのドコモ本社で2回ほど直接お目にかかて、お話をする機会があった。そのとき、わたしのDNAが震えていたのをおぼえている。
さて、テレビだが、わたしは、床屋で髪を切ってもらいながら、「マリンコング」という番組をテレビで見ていた記憶がある。
いまから思うと、見たいテレビ番組を頭にインプットしておいて、何が何でも見るという、わがままなガキであった。
テレビは、わたしの友達であり、先生でもあった。映画もなくてはならない存在だったが、おやじほどは映画にどっぷりの感はしない。おやじ(もう他界した)は、テレビの前の時代の人だった。
そうしたテレビ少年として育ったわたしであるが、近年インターネットでの動画配信などが始まり、日本テレビがインタネットで「第二日本テレビ」などを立ち上げたりして、テレビとインターネット、旧来メディアと未来のインターネットの融合などが、なにかと話題となった今日この頃ではあるが、わたしの正直な感覚では、「何かテレビの本質を誤解しているな」という考えが浮かんできて仕方がない。はっきり言えば、「テレビ」と「インターネット」は、その本質的な部分において、まったく別のものではないかと思わざるを得ないような、なにかがわたしの中に浮かんできて仕方ない。
この詳細な分析は、わたしとしても、人生において大きな問題であろうと思うので、もっとつきつめて考えるつもりである。
今、このときでは、なにか漠然としたもっと違ったなにものかが雲のように湧いて漂っているだけではあるが。
アポロ11号の着陸船が月面に着陸する瞬間をライブ放送でテレビで見た。
その、同じ「興奮」のようなものが、2001年の9.11、アメリカを襲ったテロが、世界貿易センタービルへ民間ジェット機でつっこんだ瞬間をライブで見てしまったときに、たしかに、あった。
そして、それより前の出来事ではあるが、「阪神淡路大震災」のとき、何の気なしにテレビのスイッチを入れると、画面には、信じられないような光景が映し出されていた。
それは、映画でも、インターネットでも、ましてや新聞・雑誌でもない。
「テレビ」の存在だった。







