地下鉄(メトロ)に乗って
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田舎者のわたしにとって、地下鉄は今でも苦手である。第一、景色がない。地下鉄を降りて、階段を上がって地上へ出ると、ときとして想像だにしなかったとんでもない場所に出る。
だからこの映画の原作者の、地下鉄を降りると過去へ行ってしまうという発想がよくわかる。
地下鉄は、どこか怪しい迷路のようなものを連想させる。
わたしのような多くの田舎者が、東京へ出て、地下鉄に乗ると、ある種不安のような、変なこころもちになるに違いない。なにしろ日本で地下鉄がある都市は、ほんとうに限られているのだから。
主人公のかつての先生が老人として登場し、地下鉄のホームで再会し、
「地下鉄は便利だ。どこへでも行けるのだから。」
と、つぶやくのはよーくわかる。どこへでも行ける。そうだ、過去へも行けるんじゃないか。
最初に登場する地下鉄の駅は、昭和39年の「新中野」である。群馬の田舎でまだ小学生だったわたしには、そのころ東京の都会でこんなものが走っていたなんて想像もつかなかった。世はまさに東京オリンピックの時代。さすがに群馬の田舎でもそのお祭気分が充満していた。わたしの小学校では、東京オリンピックを記念した競技などもあったりした。
さて、時は、今、やはり東京オリンピックの話題が騒がしくなっている。
どうするか。東京都民は、どう判断するか。
今週末が楽しみである。
おにぎり
いつだったか久しぶりに西新宿の「栄寿司」でランチの1.5人前にぎりを食べたとき、「にぎり」という料理法で作られたほんとうの寿司に感激したものだ。ごはんをにぎるということは、立派な調理法である。そのにぎられた酢飯と生さなかがこれまたにぎりによって一体となったものがほんとうの寿司である。
回転寿司で、ネタはそれなりに豪華で変化があるが、酢飯の「かたまり」にさかなが乗っかったものばかり食べていた身にとって、ありがたい寿司だった。
寿司は、にぎりで決まる。
この栄寿司では、ごく普通のどこにでもあるネタのランチではあるが、やっぱり正統的ににぎりによって調理された寿司である。それが、確か600円である。
それと同様、おにぎりもにぎりがポイントだ。
コンビニのおにぎりは、にぎりという調理法がない。型押し飯なのである。
いまどき、素手でにぎったほんとうのおにぎりを知っている子供が何人いるだろうか?
わかっちゃいるけどやめられない
植木等が亡くなった。
わたしは、父が映画ファンで映画会社の株券をもっていたおかげで、無料あるいは割引で子供のころからよく映画を観た。
植木等とクレージーキャッツの映画もたくさん観た。今から思えば、なんということもない映画だったが、そのメッセージは強烈だった。
わかっちゃいるけどやめられない
そのうちなんとかなるだろう
ハイそれまでよ
これらのメッセージが植木等の強烈な演技によって映画から爆発していた。
わたしが「へん」に楽天家なのは、このような映画を観て育つうちに、無意識のうちに、メッセージがこころの深いところに植え付けられたせいかも知れない。
ところが、当人の植木等自身は、映画のキャラクターとは正反対の人だったらしい。彼が公の場でわたしたちに見せていた姿は、すべて彼の演技だった。俳優としてすごいことだ。そして、渥美清を彷彿とさせる。
ところが、スーダラ節を作詞した当の青島幸男は、そのまんまの人だったらしい。家庭でも公の場でも、どこでも。
さて、どっちが人生として幸福だったのだろう。
そして思い出す。かの有名な落語家。
古今亭志ん生と桂文楽
志ん生は、晩年の高座で、はなしの途中で居眠りをしてしまう。客は、じっと志ん生が目を覚ますのを待っていたそうだ。そうして、志ん生は、やっと目を覚ますと、何事もなかったかのようにはなしを続けたという。
最晩年の高座では、3つくらいのはなしがいっしょになって、あっちいったり、こっちへきたりしたそうだ。それでも、客は大喜びだったそうだ。
ところが、文楽は、最晩年の高座で、登場人物の名前が思い出せなくなってしまい、「もういっぺん勉強しなおしてまいります」と高座を途中で打ち切り、それが最後の高座であったそうだ。
芸人にもいろいろあるものだ。
とにかく植木等は、わたしに大きなエネルギーをくれた名役者だった。
合掌
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トム・ハンクス制作によるCGアニメーションだ。
このアニメは、そうそうたるメンバーが声を担当しているのが大きな売りであるが、日本語の吹き替えで観た。だから、そうそうたるメンバーによる声がいいんだか、どうだか、わからない。
ジュリア・ロバーツ/ニコラス・ケイジ/メリル・ストリープ/ポール・ジアマッティ など有名なスターが声を担当している。
今やもうこのくらいのCGは、当たり前の時代になってしまった。だから、CGのすごさに驚かされることはない。
しかし、そもそもこのアニメの原型は、トム・ハンクスが子供に読んで聞かせていた絵本だという。単純なストーリーで、それをどう味付けし、膨らませるかが腕の見せ所だった、とメイキングビデオで監督が解説している。
このメイキングは、興味深いものだった。
この手のアニメは、声が先に録音されていて、その声に合わせてCGを制作することがはじめてわかった。わたしの理解に間違いがなければ、日本のアニメとは逆の作業である。CGアニメは、「アフレコ」ではないのだ。だから、声とCGがぴったりと同期していて自然に見える。
ただし、日本語の吹き替えは、「アフレコ」である。それでもぴったりと声が動画と合っている。日本の声優の技術のおかげであろう。だから、不自然さは全くなかった。
アニメーションの重要な部分は、「声」である。ちょっと雑なアニメーションでも、うまく「声」を入れれば、けっこうまともな仕上がりになってしまう。日本の多くのアニメは、おそらく「声」に頼る部分が大きいと思う。アニメの「声」は、多少の手抜きや不自然なアニメ画像を自然に見えるようにしてしまう力がある。
時々テレビで、動物の赤ちゃんが写しだされるが、わざわざそれなりの「声」をつけているケースが多い。これは、「ドリトル先生」のような作品で動物がしゃべるのと同じ効果を狙っている。
「声」の力はすごいものだ。
そういえば、チャップリンがはじめて自分の作品で「声」を出したのは、「チャップリンの独裁者」で、クライマックスの演説シーンだった。その迫力にはものすごく感動してしまった。
チャップリンも当然「声」の力を知っていた。
さて、アントブリーの重要なテーマは、「いじめ」である。
やはりアメリカでも「いじめ」は、重要なテーマであることがわかる。
アリをいじめていた少年が、アリの大きさになってしまっても、アリは少年に復讐をしない。それどころか、一人前のアリになるために手助けをし、特訓をしてくれたりする。ここらあたり、人間よりアリの方が高級な生物のように思える。そして、アリに鍛えられた少年は、いつもいじめられていた悪がきをやっつけることができたのである。
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恐ろしい動物病院
TVのニュースで、多摩センターにある動物病院で、恐ろしい治療が行われていたことを知った。
被害者の会が民事で訴えて、一応、勝訴したと伝えている。
しかし、死んでしまったペットや、被害を受けて今でも苦しむペットは、とりかえしのつかないことになってしまった。
動物はしゃべることができない。だから、一体、その病院で何が行われていたのか、買主に訴えることができない。
これは、ひどいと思う。
私もかつて日野市に住んでいて、多摩センターはよく行ったところなので、人事ではない思いだ。幸い、わたしの猫たちがかかりつけだった動物病院は、非常にいい獣医さんだったので、こちらは今でも感謝している。
ペットが病気になると、ほんとうに苦しい。
だから、今回の動物病院のような悲劇が起こらないように、何かしなくてはと思う。
なかなかいいブログ「サーカスな日々」
「トンマッコルへようこそ」という映画に関する記事へのトラックバックで、なかなかいいブログ「サーカスな日々 」を知った。スパムばかりが目立つトラックバックだが、本来の力がまだ健在であった。
プロフィールを見ると、短いのであまり正体はわからないが、52歳だそうだ。わたしは51歳なので、なんとなく、それだけでも共感できる。
記事には、こまめに写真が貼り付けられていて感心した。わたしもできるだけ写真入りの記事を書く方針なのだが、この記事のように写真なしの記事も増えつつある。初心に返られねばと自戒する。
最新の記事で、鈴木ヒロミツ氏が亡くなったことについて触れていたが、わたしたちの世代にはずいぶんとなじみの深いタレントで、そういう意味で、まことに寂しい限りである。わたしは普段自分の年齢のことをあまり気にしないたちだが、こういう訃報を目にすると、随分年をとったものだと感慨深い。
だが、同時に人生はこれからだ、という楽観主義的なこころも常にある。
「サーカスな日々」は、サーカスや舞台の「舞台裏」の真剣な喧騒が好きだそうである。実は、わたしもそうだ。
わたしは高校生のころは、演劇部で、その舞台裏の魅力を知っている。
大学生の頃は、赤坂の「キャバレーミカド」で、大道具のアルバイトを1年くらいやっていた。今は、もうあの「ミカド」は影も形もなくなってしまったけれど、あの当時は、楽しい日々だった。
毎晩2回のショーが、元旦の1日だけ休みで、年中無休で繰り広げられていた。
毎日が歌と踊りと芝居の日々であった。
大道具として、「大階段」をセットする舞台には感動した。
そういえば、今の国会はなんだろう。飲み水のことで大騒ぎ。
「感動した!」という小泉首相の言葉がなつかしくもある。
トンマッコルへようこそのトラックバック
久しぶりに意味のあるトラックバックがついた。
このあいだ観た「トンマッコルへようこそ」という韓国映画について書いた記事へのトラックバックだ。わたしは、韓国映画のことをほとんど知らないので、出演している俳優・女優人たちが、名のある有名な人たちだったことを知った。それにしても、そうした名声のようなものがほとんど映像から感じられないのは、いい映画で、いい役者である証拠だと思う。
それに比べると、わたしの感じ方だが、ほとんどの日本映画はひどい状況である。
監督の演技指導どおりに一生懸命演じる。そうすることで、本来の役者の名前や存在はなくなり、映画の役柄そのものになる。それが役者でも監督でもない、別の生命を誕生させ、映像の中で命ある存在となっていく。
脚本、カメラワーク、演出、演技、そして、音楽が一体となり、あたらしい輝きのある映像を生み出す。これが、いい映画だ。もちろんもっともっと他の要素も重要で、例えば衣装やセットなど、多くのものが一体となり、輝きのある素晴らしい映画が生まれる。問題は、それらの要素が真に情熱を込めて一生懸命真剣に勝負しているかである。
そうした意味で「トンマッコルへようこそ」という映画はいい作品だ。
映画の1シーンで、納屋の中で手榴弾が爆発してしまい、貯蔵されていたとうもろこしが吹っ飛ばされて、爆発の熱でポップコーンになって空から降ってくるところがある。現実には、そんなことはあるまいと思いながらも、映像でこのシーンをわりと長めにスローモーションで見せられると、心が不思議な変化を起こしてしまう。
これが映画の力である。
小説や舞台では、これほどの効果は出せないし、他のやり方になるだろう。映像を見せられると、現実ではありえないことでも、わたしの心の中で現実になって、心を動かす。
そうした、映像でしか出せない効果が、この映画ではふんだんに使われている。
イヤミに感じないのは、うまい使い方だからである。
道路拡幅工事 その後
やっと道路らしくなってきて、重機もない。いよいよ舗装工事が始まる準備が整ったと思われる。
最近わたしが読んでいるブログの書き込みペースが遅くなってきた。みんな忙しくなってしまったのだろうか。書き込みの材料がなくなってきたのだろうか。心配である。
それにしても、最近はやたらとへんなトラックバックがつくようになってしまった。ブログが流行りはじめた頃は、トラックバックが売りだったのだが、最近は、書き込まれた内容を自動的に検索・検出して自動的にトラックバックをつけているようである。これでは、せっかくのトラックバックの意味がなくなってしまう。
といっても、これがインターネットの世界なのだと思う。少数の強力なパワーが動いているのではなく、無数の小さなパワーが波のように動きながらインターネットの世界を形成している。
だからしばらくは我慢することにしよう。
アウトライブ(飛天舞)
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2000年の作品だから、もう7年も前の映画である。
わたしのカミさんが、「チュオクの剣」にハマッテしまって、この手の韓国映画が観たいというので、借りてきた。
なるほど娯楽映画の王道のような作品である。チャンバラやストーリーは、はちゃめちゃなのだが、主人公の男と女のビジュアルがそのはちゃめちゃさとうまくバランスをとっている。
こんなはちゃめやな中で、こんなにドアップシーンに絶えられる顔が日本映画界に存在するだろうか。映画は演劇と違って、演技以前にビジュアルがものをいう。ただ、そこに映っているだけで、圧倒的な表現力をもつ。
そのような力をもつ顔を見つけ出すのは映画業界の実力者たちであろう。
もっともっと日本の映画人にがんばってもらうよう切にお願いしたくなる。




