目を覚まし、時計を見ると正午を回ったところだった。
胸をさすってみる。
痛みはない。


刑事になって30年。田中は家庭も顧みず犯人を追う日々を送った。
今、田中に家族はいない。
離婚してもう15年。
娘の洋子と最後に会ったのは田中が刑事部長に昇格した日。
中学生だった洋子は手作りのお守りをもってきてくれた。

そんな優しい娘だが…
きっと仕事ばかりをしていた自分のことを恨んでいるだろう。
田中はそう思う事がよくあった。



そんな田中が刺されたのは3日前、定年を明日に控えた日のことだった。
追い詰めた犯人ともみ合いになった末、犯人の持っていたナイフが胸に刺さったのだ。


大した事無い。
そう思った田中は病院へは行かなかった。



田中はもう一度胸をさすってみた。
痛みは無いのだが、何か胸の奥のほうがうずうずしているように感じる。
年なのだろう。
そう思うと田中はじっとしていられなくなった。
布団から出ると服を着替え、車に乗ってとある温泉に向った。
定年の日に警察署から貰った日帰りの温泉旅行だ。


運転中、田中は何か落ち着かない気持ちでいた。

何か物足りない…
なんだろう、この気分は…


1時間ほど車を走らせ温泉に着いても田中の心の中のもやもやは消えていなかった。

なんだろう…
仕事をしていないからだろうか…?
なにか、こう、生きた感じがしない…

田中は胸をさすった。
とにかく温泉につかってゆっくりしよう。


こじんまりとした建物には小さなカウンターだけあり、そこから男湯、女湯に別れていた。
田中はチケットをカンウンターに置くと、どちらか確認することなく女湯に入っていった。脱衣所には誰もいない。
服を脱ぎ、大浴場に行く。

そこには30人ほどの女性がいた。
が、誰も田中の事を気にしている人はいない。

誰も自分に気が付かない…
自分には誰もいない…

浴槽のほうを見ると親子が楽しそうに会話しているのが見える…

「痛い…」

田中は胸に痛みを感じた。
いても立ってもいられずに田中は浴場を離れ、服を着て外に出た。

そしてすぐに娘に電話をかけた。

「もしもし。洋子?
…いや、用事があるというわけでは無いんだけど…うん…
私も定年を向かえて…その…何か、心に穴が開いたような気分でね…
今まで仕事仕事で洋子にはちっとも親らしい事をしてこなかった…
本当に悪いと思ってる…ごめんね。」

そう言うと田中はいつも胸に下げている洋子から貰ったお守りを握った。
洋子は年老いた親に答える。

「ん~ん。確かに小さい頃からさびしい思いはたくさんしたけど私は自分の親が立派な仕事をしているって事が本当に誇らしかったんだよ?
いつでもうちに遊びに来てね?待ってるよ、お母さん。」


電話を切ると、胸の痛みは静かに消えていった。
田中のほほを涙が伝った。
その涙はぽた、ぽたと、握り締めた洋子のお守り、
田中の命を救った穴の開いたお守りに落ちていった。



男が死んで、女が死んだ。
残りは4人。






6人の男女はある山荘に来ていた。
あたりは猛吹雪。取り残された男女。
そんな中で事件が起こった。
男の1人が奇妙な死を遂げたのだ。
どう見ても他殺。
この猛吹雪の中外部からの進入は考えにくい…
この中に犯人が?!
そんな矢先、死んだ男の恋人だった女が同じように死んだ。


生き残った4人はお互いを疑いはじめた。
やがて1人の男が恐怖心にとらわれ、武器を持った。
他の男もそれにつられるように武器を持つ。
殺し合いが始まった。


男は全員死んだ。



3日後、
山荘には多くの捜査員がいた。
1人の捜査員がつぶやく。

「誰が犯人だったんだろう。ともかく、
この山荘に来た全員、男5人と女1人が死んだ事は間違いないな。」
1980年。
発明家の田中はあるものを開発した。

音を電気に変えるもの。
「音力発電機」である。

ソレはまさに画期的だった。
この世界には無駄な音があふれている。
車、工事現場、興味の無い選挙カー…
それらの無駄な騒音を資源として利用するのだ。

「これはすごいものができたぞ。早速テストしてみよう。」

田中は音力発電機を持って近くの工事現場に行った。
集音マイクをセットし、音の大きな場所に置く。
一時間もすれば一世帯の一日分ほどの電力が生まれるはずだ。

しかし、一時間後。
発電された電力のメーターを見てみるとほとんど電力が生まれていない。一世帯どころか豆電球一個分にもならない。

「これはどうしたことだ」



そのあと田中は自動車の音や人ごみ、色々な工場の出す騒音でも試してみたが結果は同じだった。

「どうしたものだろう」

途方にくれた田中は試しに音楽を聞かせてみた。
するとどうだろう。
一曲分で、鍋いっぱい分のお湯が沸かせるほどの電力が得られたではないか。

「そうか!音は音でも滑らかな音、つまり音楽ではないと駄目なのだな。」

その後の研究で、人間の声が入っていたほうが効率が良い事が分かった。田中はコンサートホールを回り音力発電機を売り込んだ。
しかし、景気のいいこの時代にちまちまと電力を作る機械は売れなかった。

「こんなにすばらしい発明品を、なぜ誰も受け入れてくれないのだ。
よし、こうなったらこの機械を使って自分で商売を始めよう。」

田中は小さな部屋を借りると防音の設備を整え、曲の入ったコンポとマイク、小さなソファを置いた。

「ここで誰かに歌を歌わせよう。自分が歌手になった気分で歌えるのだ。きっと流行るに違いない。目的は音力発電による収入だ。料金は格安にしておこう。」

そう決めると田中はその店をカラオケ屋と名づけた。



犯人は黒い服に身を包んで逃走中だと夜のテレビニュースは伝えた。

田中は電気屋のテレビでこのニュースを目にし立ち止まっていた。
レポーターは被害者の女性の名前をつげ、南町の周辺にいる人は犯人が逃走中だから気をつけるようにと報じた。

こんな報道をしたら犯人が逃げてしまうではないか!
田中はその場を離れると必至で犯人を探した。




刑事である田中は夜の公園で偶然殺人を目撃していた。
もみあった末にナイフで一刺し。
田中があげた大声で犯人の女は逃げ、刺された女は救急車が到着する前に死んだ。
田中はすぐに通報すると自分自身も捜査に加わった。




どこだ!?どこだ!?
田中は町を走り回った。
あの手つき…ヤツはプロだ!
あんなヤツを町に野放しにしておくわけにはいかない。

プロなら仕事をした後どこへ行くだろう?
田中は考えた。
やはり自宅だろう。
では自宅はどこに?
…本当のプロは隠れ家など持っていない。えてして普通の住宅街に住んで普通の人間を演じているものだ。
ならば、住宅街がある東町ではないか?

そう考えをめぐらせると、田中は東町へと向かい、
静かな住宅街の電信柱に身を隠した。
ここで少し待ってみよう。

10分ほど待っただろうか。
コツコツというハイヒールの音がする。
音のするほうを電信柱の影からのぞきこむと、その音の主は田中が目撃したあの殺人者だった。
田中は息を呑んだ。




そして、興奮した。




ふふふふ。
田中は心の中で笑った。

「人殺しが来た。」

服の上から胸のポケットを探る。
そこには犯人が被害者を刺したあと捨てていったナイフが入っていた。

「このナイフで殺してやる。悪いのはお前だぞ?
俺は犯人を追っていってもみ合いになり勢い余って刺してしまうだけ。
俺はこの町を凶悪犯罪者から守るのだ。」


田中は女が目の前に来ると飛び掛った。




人を刺す感覚。
これが人を刺す感覚なのか…

たくさん血が出ている。
手は震えたままだ。


田中はその場にぺたっと座り込むと、はぁっと息を吐いた。



自分を苦しめてきたヤツへの復讐だった。
これで全てが終わる。
新聞も大きく報道し、学校も責められるだろう。
俺を救わなかったせいだぞ。
ざまあみろ。






だが、
田中は人を刺す感覚と同時に刺される感覚も味わっていた。

痛い…

生きたい…生きたい…
時は2050年。
文明は順調な発展を遂げていた。

ある日のこと、生物研究所の研究員である田中は見たことも無い生物を発見した。
親指の先ほどの大きさの黒いビー玉のような風貌。
生物の研究をしていない者でもそれが新種である事はすぐに気付くだろう。
田中は早速それを研究所に持ち帰った。

最新の技術であらゆる角度からソレを分析する。
やはりこれは新種の生物だ。
田中はその生物をブラックボール、“BB”と名づけた。


その後の研究でBBの驚くべき特質が明らかになった。
なんとこの生物は自然が分解できない「無機物」を食物として体内に取り込むことで成長し、分裂を繰り返すのだ。
世界中の研究者がBBに注目した。
そしてこの生物の有効利用を考え付いた。


一年もするとこの生物は1万もの数に増えていた。
世界中のごみ処理センターでごみの処理の為に利用しだしたのだ。
BBは分解できないごみを与える事でどんどん増えていく。
管理さえしていれば大変扱いやすかった。

この生物のおかげで今までは埋め立てていたビニールやプラスチックなどのごみはなくなり、文化発展の代償とも言えるごみ問題が解決した。
地球はきれいな星になった。
人々は「BBは神からの授かりものだ」と喜んだ。



ある日の事、高速道路で車10台を巻き込んだ大きな事故があった。
道路の真ん中にぽっこり開いた穴に車輪が落ち、操縦不能になった車が暴走した事が原因だった。
なぜ道路にこんな穴が?
事故を調査していくとそれはBBの仕業だということが分かった。
どうやらBBは一年前に田中が見つけたもの以外にも存在していたらしい…

その後各地で同様の事故が多発した。
同様の…いや、事故の規模はどんどん大きくなっている。
日を増すごとにBBが増えているのだ。


ビルは倒壊し、橋は落ち、道路と言う道路が食い荒らされていった。
人間達はBBを止めようとした。しかし、もはや彼らの勢いは誰にも止める事ができなかった。

文明を発展させる為に自然を壊しアスファルトを敷き詰めたこの世界は彼らの餌であふれている、いや、彼らの餌そのものなのだ。


神からの授かりもの…
…誰かが言っていた。

きっとBBは神によって“地球に”授けられたものなのだろう。
田中は何も無くなった東京の地平線を眺めながら思った。
今日も朝早くから出勤だ。
時計を見ると五時を回ったところだった。


慣れた駅のホームから列車に乗りイスに腰掛けると、ふ~~っとため息をつく。
乗っているのは田中をいれて数人だけだ。
田中はこの寂しい風景が好きではなかった。

バッグから今日のスケジュールを取り出して一通り目を通す。
今日も退屈そうな仕事しかない。
スケジュール表をしまうと田中は静かに目をつぶった。

田中はこの仕事が好きではなかった。
給料は安いし、うるさい上司はいるし。
なによりも早朝出勤が苦手だった。






「おい!おい!起きろ!」

あれ?何分くらいたったのだろうか?
眠ってしまっていたようだ。
目を開けると横には車掌が立っていた。

「おい、田中!なに寝てんだ!
もう始発の出発時間だぞ!早く電車を出せ!」






★先着で音楽ダウンロード1曲プレゼント♪



新しい家に越してきたのは木曜の事だった。
35歳にして夢にまで見たマイホーム。
これから20年のローンが待っているのだが、立派な家を手に入れ田中は誇らしかった。

金曜日、仕事を終えると田中はまっすぐ我が家に向かった。
改めてゆっくりと我が家を見たくなったのだ。
週末にまっすぐ家に向かうのは新婚の時以来ではないか?
今では妻との間もスッカリ冷え切ってしまい、仕事のストレスを発散する為に直帰の選択肢はなかったのだ。

我が家の前まで来ると田中は少し後ずさり、我が家を見上げた。
小さな庭の付いた二階建ての家。夕日をバックに堂々として見える。
一流大学を卒業し、キャリアとして無我夢中で働いてきた田中はこうして空を見るのも久しぶりだった。
田中はふぅ~~~っと大きく息を吐いた。

「こんなに早く、どうしたの?」

見ると学校帰りの娘が滅多にこんな時間に帰ってこない父を見つけ不思議そうにこちらを見つめている。

「今日は早く帰ってきたんだ。
今な、家を見ていたんだよ。」

娘黙って田中視線を追うと、家を見上げた。

「よし、今日は久しぶりに3人で夕飯を食べよう!」
「うん。」

娘は少し驚いたようにそう答えた。
田中はそんな娘の姿に、今まで仕事を理由に家庭を顧みなかった自分のことを娘はどう感じているのだろうかとはじめて不安になった。

娘のあとを追い玄関に向かう途中、田中はふと二階の自分の書斎がある部屋の窓を見上げた。
誰かいる。
が夕日が邪魔でよく見えない。
きっと妻だろう。


夕食が済むと田中は妻に聞いてみた。

「夕方俺の書斎で何してたんだ?」
「あなたの書斎で?急になんですか?」
「いや、帰ってくる時俺の書斎に人影が見えたからさ。」
「夕方…私は料理してましたし、あなたの書斎には入っていませんよ?」
「…そうか、じゃあ見間違えかな。今朝は早くから書斎の整理をしてから仕事に行ったし、疲れてるのかな。」

次の日、
田中は仕事仲間とゴルフに出かけた。
帰りは遅くなる予定だったが突然の雨でプレーは中止に追い込まれ、早めの帰宅となった。
そういえば昨日も今くらいの時間だったなと思いながら家に入ろうとした時、
ふと昨日の事を思い出して書斎の窓のほうを見上げてみた。
すると、そこには昨日と同じように人影があった。
が、昨日と違うのは逆光となる夕日が無いということだ。
今日はよく顔が見えた。

それは自分だった。

“自分”が腕組みをして窓から遠くのほうを眺めている。
田中は驚きのあまり言葉が出なくなっていた。
すると“自分”はハッと何かに気がついたような顔をし、部屋の奥へと引っ込んでいった。
我に返った田中は玄関のドアを開け家に入ると一目散で二階の自分の書斎へと向かった。
恐る恐る部屋のドアを開ける。
しかし、そこには誰もいなかった。
大きな足音に驚いた妻が二階に上がってきた。

「どうしたんですか?」
「うん、今、人がいたんだよ、この部屋に。窓から外を見ていた。」
「でも、誰も来てませんよ。」

田中は自分が見た人影が、“自分”だったことは言わなかった。
二人で家の中を一通り回ってみたが、人影もなければ、誰かが侵入した形跡もない。

「きっと疲れてるのよ。」

妻は疲れたようにそう言った。

日曜日、田中は五時に起きるとすぐに書斎にむかった。
きっと何かあるはずだ。ここにいればもしかしたら“自分”が現れるかもしれない。
しかし、一時間たってもなにも起こらない。

「夕方じゃないとだめなのか?」

そう呟くと田中は腕組みをし、窓のほうに向かった。
そして窓に映る自分の姿を見て、ハッとした。
この姿、昨日目撃した“自分”の姿そのままではないか。
田中は部屋の奥に行くとデスクのイスを引き出すとそこに座って考えた。
昨日見た自分が今日の自分?
時計を見ると6時を回ったところだった。
そういえば、昨日も一昨日も自分の姿を目撃したのは午後の6時頃であった。
よし、試してみよう。

田中は午後6時になるのを待つと外に出て、書斎のほうを見た。
すると、やはりそこには“自分”がいた。
よく見ると手には画用紙を持っている。
その画用紙には「その通り。君が今見ている僕は12時間後の君だ」と書いてあった。
田中はなにか安心した気分になった。
不思議な事だが、午後6時に家の前にいれば12時間後の自分が見えるのだ。
田中は家の中に戻ると、すぐに目覚ましのアラームを6時少し前にセットした。
そして娘に画用紙を貰うとマジックで「その通り。君が今見ている僕は12時間後の君だ」と大きく書き、明日の朝、今日の自分にメッセージを送る為に早めに床に着いた。



それから田中の生活が変わった。
朝は5時半に起きて書斎に行き、カーテンを開けて窓の前に立つ。その後朝食の前に前日残した仕事を片付け、朝食を取った後会社に向かう。
会社ではできるだけその日のうちに仕事を終わらせるようにし、18時には家の前に立ち12時間後の自分を確認する。
未来を見ることは何か恐ろしく思え少し悩んだ事だったが、やはり明日の自分の様子が気になる。
病気などしていないか?
明日の自分は・・・生きているか。





50年後、
田中は家の向いの空き地においてある小さなイスに腰掛けて書斎の窓を見上げて人生を振り返っていた。
思えばあの日を境に全てがかわった。
毎日規則正しい生活をし、たった12時間後の自分の健康を心配してきたおかげで風邪一つ引くことはなかった。
また、仕事を残さぬようにし、朝早起きをして仕事の整理をすることで仕事の効率は格段に上がり、気がつけば田中が勤めていた会社は田中の会社になっていた。
そして何より、早く帰宅し家族と時間をすごす事が
娘にとって、妻にとって、そして田中にとってすばらしい家庭環境を作っていた。

「お父さん」

見ると娘夫婦と成人した孫達がニコニコして家の前に立っている。

「またココにいたのね。お母さんもあきれてたわよ。」
「ははは。そうかそうか。今日は遠いところわざわざ来てくれてありがとう。」

「おじいちゃん、誕生日おめでとう!」

そう言うと孫達は持っていた花束を田中に渡した。

「ありがとう。」

田中はにっこり笑うと立ち上がり花束を受け取った。

「さ、中に行ってお祖母ちゃんの手伝いをしてきなさい。」
孫と夫を先に家の中に行かせると、娘は改めて田中を見つめ微笑むと、
「お父さん、誕生日おめでとう。」と言った。
娘は優しく育っていた。そして、田中の事を心から尊敬し、感謝し、愛していた。

「さ、お父さんも中に入ろ。」
娘に促され、
あの日のように娘の後について玄関へ向う。

ふと、書斎を見上げたが、

そこには誰もいない。
懐中時計を見ると、ちょうど18時を回ったところだった。

「ふ~」

田中は大きく息を吐いた。
そしてもう一度我が家を見上げると、

「ありがとう。君は私に本当の“我が家”をくれたよ。」

そう呟いた。我が家に見てきた“未来”はすばらしいものだった。

「あなた、どうしたの?」

玄関から穏やかな表情の妻が顔を出す。

「みんなあなたを待ってますよ。」

妻は幸せそうににっこりと微笑んだ。

「ああ、今行くよ。」

田中は妻の呼びかけに優しい声でそう答えると、その場に静かに倒れた。








★先着で音楽ダウンロード1曲プレゼント♪


「はぁ、もう生きているのが嫌になった。」
タケルは呟いた。

世間は不況の真っ只中。仕事がなくなり追い詰められて自ら命を絶つ者も少なくない。
そんな中タケルは檻の中にいた。
生まれてすぐに親の顔も知らないままどことも知れぬ国につれて来られ、自由を知らぬまま閉じ込められたのだ。
なぜ自分は檻の中にいるのかさえも知らない。

「はぁ、もう生きているのが嫌になった。」
そう呟くその言葉もどこの国のものかわからない。
タケルを監視する者が話す言葉を自然に覚えたに過ぎなかった。

そんな絶望的な生活の中でも、食事はきちんと用意され、
特にこれといったことを要求されない事が数奇な運命を辿るタケルにとってせめてもの救いであった。
だが、そのことがタケルには余計に不気味に感じた。
自分はこれからどうなるのだろうか・・・



田中は家に着くと上着を脱ぎ捨てた。
この不況でもう1年もの間仕事にありついていない。
「はぁ、もう生きているのが嫌になった。
タケル、お前は餌だけ食べてればよくて羨ましいよ。」
田中はそう呟くと、雛の時からかわいがっているオウムに餌をやった。


田中が担任した四年生のクラスには毎日あくびばかりしている少年がいた。
クラスの仲間はおもしろがってその少年の事を「あくび」と読んでいたが、「あくび」は決して内向的な児童ではなく、むしろクラスの人気者だった。

「こら!またあくびばかりして!俺の授業がそんなにつまらないのか?」

田中がそう注意すると、決まってあくびは「ははは」とごまかすように笑いながら目にたまった涙を拭く。それを見たクラスメイトがドッと笑うのが日課だった。
みんなあくびが好きだった。

はじめのうちは夜更かしでもしているのだろうと思っていた田中だったが、こう毎日続くとさすがに心配になり、ある時「どうしてあくびばかりしているのか」と尋ねた。
しかし、あくびはただ「眠いだけだよ」と明るく答えた。
田中は少し気になったが、育ち盛りの少年はどんなに寝てもまだ眠いんだろうな、と考えた、と言うのは後付の言い訳で、田中はあくびとのこの日常が大好きだったのだ。

その年の冬、あくびは家庭の事情で転校する事になった。
田中はコッソリとクラスメイトから寄せ書きを集めると、それを持ってあくびの家に向かった。
住所を頼りにあくびの家を探しながら、
あくびの家には家庭訪問したこともなかったし、母親と話したのもつい最近転校の旨を電話で聞いた、ただ一度きりだったなと田中は思った。

あくびの家は驚くほどのボロだった。
今にも吹き飛んでいきそう。田中は瞬間的にそう思った。
ドアをノックするとすぐにあくびの母親らしき女が出てきた。
とても感じのいい、しかし苦労がにじみ出たような女性だった。
事情を話すと

「うちの子は今お使いにやってしまってるんです。なかでお待ちください」

と田中を中に勧めた。
腰をおろすとさっそく田中はあくびの母親に寄せ書きを見せた。
母親はうれしそうにクラスメイト達からのお別れの言葉を読んだ。
間もなくしてあくびが帰ってきた。

「あ、先生!」

あくびはそういうとにっこり笑ってお辞儀すると、買ってきた物が入ったスーパーのフクロを持って台所のほうに持って行った。
すると、玄関のドアが大きな音を立てて勢いよく開いた。

「おい、こら!今日も来てやったぞ!!金はできたか!?」

大きな怒鳴り声がしたと思うと、大柄の男が二人、土足のままで上がってきて台所にいるあくびと鉢合わせになった。
あくびは臆する事もなく男達をにらめつけると前にいた男に飛び掛り、ぽかぽかと足を叩いた。

「こら、坊主。この前痛めつけてやったのにまだ足りないのか?」

そう言うと男はあくびを壁に突き飛ばした。

「やめろ!!何をする!!」

田中が立ち上がって大声でそういうと田中の存在に気づいた男達は、

「おや、お客さんですか。じゃあ、出直すか。」

そう言うと、近くにあったイスを蹴飛ばし

「また来るからな。」

と言い残し帰っていった。
田中と母親があくびの元に駆け寄ると、捲れたあくびのシャツからはあざだらけの体が覗いていた。
母親はあくびを抱きしめた。



しばらくして、母親は「大事な話があるから外で遊んでて」とあくびに言い、あくびは素直にしたがった。
母親は「どうぞ」といって元の位置に田中を座らせると、

「今日みたいな取立ては珍しく無いんですよ。」

と話し出した。

「あの子は父親を早くに亡くして、借金のなかで育ってきました。
いままでがんばってきたんですけどね…もう疲れてしまって、あの子と一緒に今夜逃げる事にしたんです。」

そう言うと、母親は涙をぬぐってから笑ながら言った。

「あの子は父親に似て強くて、私に泣いてるところを見せたことは無いんですよ。」

それを聞いて田中はハッと思った。
あくび。
あくびは母親に涙を見せないためにあくびをするふりをして学校で泣いていたのではないか・・・?

母親は立ち上がるとあくびを呼びに行った。
田中は照れくさそうにもどってきたあくびにクラスメイトからの寄せ書きを渡した。あくびはうれしそうにクラスメイトからのメッセージを一つずつ読んでいった。そこには「さびしい」「行かないで」「また会いたい」の言葉が並んでいる。
あくびの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「先生ありがとう!みんなによろしくね!」

あくびはそういうと、涙が零れ落ちる前に大きなあくびをした。