5) 家庭教師
{1}
家庭教師先のマンションが見える。
美登里ちゃんの部屋の窓には明かりがついていない。
(いつもならついているのに・・)
マンションの入り口は自由に出入りできないよう施錠されている。
いつもどおり入り口で部屋番号を押し、インターホンで自分の名前を告げると、
「はい、どうぞ」と奥様の声がして入り口のロックが外れた。
エレベーターで6階に上り、「奥山」の表札の出ている部屋のインターフォンを押すと、すぐにドアが開き
「さあ、どうぞ」と 奥様が笑顔で迎えてくれる。
「失礼します」 と言って応接室にはいると、すでに夕食が準備されていた。
奥様は私が食事をしている間、斜め向かいのソファーに座り話しかけてくる。
「今日はお口に合うかしら?」
クリームシチュー、イサキのムニエル、フルーツサラダ、なんだか分からないが野菜やその他いろいろなものが入っているドリンクが並べてある。
奥様は料理上手で、いつごちそうになってもお世辞抜きで美味しい。
「今日のお食事もとっても美味しいです。本当に奥様はお料理がお上手ですね。奥様みたいな女性と結婚できたら幸せだと思います。ご主人は本当にうらやましい方ですね。」
と、自然に言葉が出てしまう。奥様は私の食べる姿を嬉しそうに眺めている。
「宅の主人たらね、早く帰ってきて一緒に食事したのは結婚当初と美登里が生まれて暫くの間だけなの。いつも仕事で出張ばかり。帰りも遅くなると言うので会社の近くに自分用のマンションを借り、帰ってくるのも週3回が2回と減り、最近は土曜日か日曜日にしか帰ってこないんですのよ。ひどいと思いません事?」
「それはひどいですね、美しい奥様と可愛いお嬢様がいらっしゃるのに、私だったら毎日帰らないと心配で仕方がないですね」
食事が済んでお茶を頂いている時に
「そう言えば美登里ちゃんはどうしたのですか?いつもなら顔を出しておしゃべりするのに」
「お友達と買い物をしていて、少し遅れるという連絡がありましたのよ、でも先生が食事を済まれる頃には帰ってくると思いますわ。最近あの子もだんだん色気が出てきたみたいで勉強に身が入らなくなると困りますわ」
「そんんなことないですよ、美登里ちゃんは一生懸命勉強しています。成績も良くなっていますし、先日のセンター模試もA判定出ていました。」
「それならいいわ、先生にお任せしていますもの。安心していますわ。」
そう言ってさらに次のようにきりだした
「先生、もう25でいらっしゃるわね?どなたか心に決められた方お見えになりますか?」 突然のことで少し躊躇った。
「いいえ、私なんか相手にしてもらえません。ましてや結婚なんて考えたこともありません」
「それなら丁度良かった、良いお話があるのよ。」といって写真を取りだした。
写真を受け取りじっと見つめる。
私よりもずっと年上のな感じがする小太りの大柄な女性が写っている。
(好きなタイプではないな)
「良いお嬢さんでしょ?」
「・・・・」
「お家は大きな和菓子屋さんで、ご本人も名門私立G女子大の英文科をご卒業されているのよ。今は高校の英語の先生をされているし、お年は先生と同い年の25才で、ご長男は・・・・」
と次々に説明が続く。
ボーとしながら聞いているとインターホンが鳴り美登里ちゃんが帰ってきた。
{2}
美登里ちゃんは入って来るなり、母親の顔と私の困った顔を見て
「ママ、そんなもの先生に見せないで!失礼でしょ!ねえ先生!」
私はニコニコしながら
「よくあることだから、平気だよ。」
確かに写真を見せられることは多いのであるが、その都度どのように断るかを考えるのが面倒くさいのが本音である。
「すぐに、お返事いただけなくても結構ですから、一度預かってもらえませんこと?」
「わかりました」と言ってウ"ィトンのバッグにしまい込んだ。
「美登里ちゃん、夕食済んだら早速始めようか?それまでここで待ってるから」
そう言うと母娘は食卓のある部屋に入っていった。
(さあ、どのように返事しようか)
再び写真を取りだし、じっと見る。
写真屋で撮影したものでなくスナップ写真が一枚だけ。
ブランド物と思わせる薄紫の上下を身につけ、すまして山茶花の垣根の前で立っている。
おそらく今年の冬に撮ったのだろう。山茶花の花が咲いている。
不美人というわけでは無いが可愛くもないし美人というわけでもない、少し老け顔なところが損をしていると思う。真面目な英語の教師という感じである。
公務員とくに学校の先生は結婚後も仕事を続けることを希望し、家庭には入りたがらない事が多い。そう思うとこの人は先生同士の結婚のほうが向いているだろう。医者や看護婦は病人に対するホストやホステスみたいなものだから一緒にはやれないだろうな。
そんなことを考えていると、美登里ちゃんが部屋に入ってきた。
「先生、興味あるの?ちょっと見せて、いいじゃない!?ママの持ってきた写真なんでしょ?」そう言って隣に座り込み写真をのぞき込んだ。
「ふーん、おばさんね。止めた方がいいよ。先生には合わないと思うわ。女の感だけど」母親が入って来る前に美登里ちゃんの部屋に移動した。
「さあ、今日は数学を先にしようか、まず解らなかった問題から片づけよう」
「お見合い、止めた方がいいわ。お願い」
「うん、解ったよ。帰りにお母様に返すから勉強しよう」
そう言って勉強を始める。 、
決められた時間内は、美登里ちゃんも私の言うことを素直に聞いて予定通りのペースで勉強が進む。二時間ほどで今日は終わりにした。
耳元で「きっと、写真返してね」と小声で囁くので「わかった」と小声で返事をした。
「約束よ」
「まもるよ」
「じゃあ、キスして」
母親の入ってこないことを確認して素早く左の頬にキスをしようとした瞬間、美登里ちゃんが顔をこちらに向けたので唇にキスをしてしまった。
美登里ちゃんの大きな瞳が私を見つめる。
私もジッと見つめて無言で頷きながら離れる。
「どきっ」と心臓が大きく拍動したかと思うと急に体が熱くなってきた。
仕事ではどんなことをしても平気な自分が、こんな気持ちになるとは予想外だ。
やはりこの場の雰囲気や高校生ということで罪の意識があるからなのだろう。
何事もなかったように応接室に入ると、いつものようにコーヒーが出されていた。
「先ほどのお写真、お返しします。まだ結婚するには早すぎると思っていますし、国家試験の前ですのでご遠慮させていただきます」
美登里ちゃんの目の前でお母様に写真を手渡した。
「そう、残念ね」と言いつつ奥様は嬉しそうな眼差しで写真を受け取った。
(なんだ?試されたのか?)
先ほどのキスのこともあるので今夜は早く帰ることにした。
いつものようにマンションの玄関で見送ってもらい、急いで自分のマンションに向かって足を速めた。
先ほどのキスを思い出すと、初恋の時のような甘酸っぱい気持ちで苦しくなってきた。
(美登里ちゃんはまだ子供だ、自分のように二つの顔を持つ身には相応しくない。諦めろ!手は出すな!)自分に言い聞かせながら歩く。部屋に戻ると早速シャワーを浴び勉強会の割り当て問題を解き始める。
一時間ほどで片づけ、クラッシック音楽を聴きながらベッドに入った。
4) 生い立ち
高校は公立高校の中では全国でも大学進学率の高いA高校。
私の親は職人で、学歴も家柄もなく、おまけに裕福でもない。
ボサボサ頭で安物の眼鏡をかけ、真面目に勉強していたので成績だけは割と良かった。
高三の同級生に病院のお嬢さんで高橋由美がいた。
彼女は美人と言うほどではないが、小柄で可愛い子であり、勉強も割と良い方で医学部を目指していた。
私は数学や物理・化学が得意だったせいか、彼女は時々質問してきた。
家柄が違いすぎるので、恋愛感情は抱かないようにしていたし、自分を好きになってくれるとは全然思っていなかった。
そんな矢先、授業後の教室で二人だけで勉強をしていたところを、生活指導の先生に見られ、後から職員室へ呼ばれ「赤城は真面目で成績も良いのだけれども、高橋由美はPTA会長のお嬢さんで、学校での生活を注意するようにとの要望があるから、今後二人だけになることはしないように」と注意をうけた。
思いがけない注意にムッとしたが、素直に指導に従った。
その後は休み時間にかぎり短時間、彼女の質問に応えた。
彼女のほうも変だとは感じたが、お互い受験勉強が忙しくなりそんな機会も無くなった。
教師の引き裂き事件が合ってから逆に彼女への思いが強くなり、理学部志望を医学部志望に変更し、彼女の大学がある都市の国立T大医学部を受験することにした。
前期試験当日、私は受験会場に向かう途中で白い子猫が車にひかれそうになるのをみて思わず飛び出して子猫を抱きかかえて飛び退いた。このとき体が車に触れたようで、空中をゆっくり飛ばされていることが分かった。(これで俺の人生は終わりか・・)
次の瞬間何かに頭を打ち付けたらしく意識がなくなった。
(おい、いつまで寝ているのだ!いい加減に目を覚ませ!お前は死んではいない!)
そう呼ばれて、ゆっくりと目を開ける。(眩しい!)
何か白いものが左右にゆらゆらと動いている。
焦点が合うにつれて、それは医者と看護婦の姿になってきた。
医者は驚いて「君は、2週間眠り続けていたんだ。あれだけの事故にあっても傷ひとつないし、意識が戻らないのが不思議だった。私の言うことが解るかい?」
「ええ、よく判ります。」
白い子猫を救ったことまでは覚えているのだが、その後のことは覚えていない。
何か大事なことがあったような気がするがどうしても思い出せない。
その後の検査で特に異常はなかったので退院した。
もちろん事故のせいで前期は受験できず、後期も受けたが不合格だった。
普通ならショックのはずだが、事故以来いろいろなことに悩まなくなった。
こういったところは仕事はきついがあまり個人を詮索しないので就職しやすい。
仕事はウェイター、呼び込み、皿洗い、掃除、使い走りなどいろいろ。
19才になったばかりの私には見るもの全てが新鮮で興味深く、いかに客を満足させ喜ばせるかが重要である事を知る。
全て金の為に仕事をしている。学校の成績などは所詮お遊びでしかないことも分かった。
人が嫌がることも厭な顔をしなかったし、童顔でもあったので割と可愛がってもらえた。
はじめは怖い世界かと思ったが、ここで働く人たちは表社会の人たちに比べれば、むしろ正直な人たちが多く、ひとたび仲良くなればかえって信頼できるくらいである。
眼鏡を外した私を見て「眼鏡ないほうが格好いいじゃない。女の子みたいな顔をしているのね、コンタクトにしたら?」と若い女の子に言われた。
その後は眼鏡を外し、コンタクトを使用した。
いろいろな遊びも女性の扱いも、この世界の人たちから教わり、随分とお世話になる。
T大はあきらめK大医学部に運良く合格した。
高橋由美に連絡しようと思ったが、今更なので止めることにした。
家庭教師の需要も多く、しかも医学部生は家庭教師のアルバイト料はかなり多かった。
家庭の収入が少なく成績も良い方だったおかげで奨学金も難なく借りられた。
3) 医学生 雨宮美鈴
階段教室の左隅最前列が俺の定位置。
第二内科の助教授の講義は人気が無く、出席者は十人程度。
内科学総論ではあるが何のことはない、教科書を一人で音読し、一人で頷いているだけなのでほとんどの学生は出席するだけ無駄と思っている。
とうの助教授も出席者が少なくても別に気にしていないようだ。
この助教授は出席者が一人もいなければ講義をしなくてもいいと思っているらしい。
無能なのかと言えばそうでもなく、専門分野の循環器では国際的に有名な賞をとっている。
俺は日頃アルバイトで忙しいので、授業中にしか勉強をする時間がないので講義は欠かさず出席しノートを取り、その場で記憶することにしている。
BSTの臨床実習も始まり、そのグループごとに各科を二週間ごとにまわっていく。
俺は目立たない学生で、これといって仲の良い友人は無かったが、試験の成績はわりと良かったのでクラスメートの雨宮美鈴が見かねて誘ってくれた。
彼女は入学した時から名簿番号が近かいので、教養の頃から実習も同じであった。
俺にとって話をする数少ない同級生の一人である。
彼女は眼科開業医の娘で器量は普通でクリッとした眼が可愛いと言えば可愛い。
おしゃれには気を遣っているようで、さすがに開業医の一人娘だと思わせるほど、ブランド物を毎日変えていた。
性格は明るい方で、ものごとをはっきり言うたちである。
ボーイフレンドは何人かいたようだが、少し我が儘なところがあり暫くすると別れてしまう。成績は中くらいで良くも悪くもない程度である。
部屋に入ると爽やかなシトラスの香りがする。彼女は薄紺のワンピースで、化粧は薄目でルージュはピンク。香水はクリニーク・ハッピーらしい。
「赤城君、来たのね。まだみんな来ないけど、何してるのかしら?」
「さあ、知らないなぁ、もうすぐ来るだろ?」
爽やかな香水の香りが心を擽る。
彼女は窓の外を眺めている。
(最近、雨宮は綺麗になってきたな)そんなことを思い彼女の横顔を見ていると、不意に
「ねえ、赤城君、ちょっと眼鏡外してみて?」と言ってきた。
一瞬戸惑ったが
「いやだよ」
「どうして?」
「変な顔、見せたくない」
「どうして?そんなに変だと思わないけど・・。それにね前から時々気になることがあるの。いつもボサボサで地味な服装してるけど、かすかに素敵な香りがすることがあるの」
「シャンプーしたときじゃぁないのかな」
「そうかしら、あなた黙っているけど不思議と気が利くのよね」
(今日の雨宮はどうしたというのだ?なにかあったのか?)
「普通だよ」とぶっきらぼうに返事をした。
(どっかで見られたのか、それとも彼女また別れたのかな?)
「赤城も雨宮さんも、待たせてごめん。」
「早速、始めよう。今日は誰からだ?」
「私よ」と雨宮が返事をして小児科学の問題集を広げた。
それぞれ決められた範囲の問題を解いてきて、分からないところをお互いに教え合うことが始まった。
裏門を出ようとした時、後ろから雨宮の呼ぶ声がして、息を弾ませながら駆けてくる雨宮の姿が目に入った。
「ねえ、ちょっとお話ししたいから一緒に帰らない?」
帰るだけならいいかと思い、思わず「いいよ」と返事をした。
「じゃあ、一緒に来て」と言い、俺を駐車場の方に連れて行く。
雨宮の車は赤のアルファロメオ 156。
(さすが、医者のお嬢さん、いい車乗ってるな)
「きれいな車だね、なんて言うの?」
「そんなこと後でいいでしょ、さあ乗って」
言われるまま左側の助手席に座った。
雨宮の運転は割と乱暴で気の強さを象徴している。
「ねえ、さっきの続きだけど。眼鏡外して見せてよ」
「見るほどのものじゃないよ」
「いい線いってると思うんだけどな、赤城君、真面目だし勉強できるもんね」
「そんなことないよ」
「どこに住んでるの?」
(しまった!)とっさに
「犬塚駅の近くで降ろしてくれればいいよ」と返事をした。
「ふーん、今あんな所にいるんだ」
俺は話題を変えようと
「雨宮さん、勉強進んでる?」
「あまり進んでないわ、最近やる気がしないのよ」
「まだまだ先だから、のんびりやればいいよ。僕だって決められた範囲するのが精一杯だし・・・。」
「赤城君できるからいいわよ、私なんて親からいろいろ言われて厭になっちゃう」
「それだけ大事にしてくれるんだから良いじゃない?」
「赤城君、ご両親は?」
「しがない職人さ、雨宮さんの家とは大違いだよ」
「家なんて関係ないわ!私自由がいいもの。家や親に縛られてるの我慢できない!」
どうも親からいろいろ言われているらしく、急に言葉を荒げた。
(どおりで先ほど物思いにふけって窓の外を見ていたのか)
「あっ!ここでいいよ。ありがとう」
「こんなところで良いの?近くまで送るわよ」
「変な所に住んでるのを知られると恥ずかしいので、ごめんな!また今度な!今日はありがとう!」
(しまった、余計なことを言ってしまった)
急いで車から降り、雨宮に手を振って別れを告げ、近くのコンビニに入っておにぎり2個とお茶を買う。
いつも夕食をごちそうになるのでそれまでの間の繋ぎに少し食べておくことにしている。 急いで自分の部屋に戻り、家庭教師用の服と眼鏡に替える。
そんなことを思い出しながら 三十分ほど歩くと美登里ちゃんのマンションに着く