シングルマザーのサニーは、
お金のメンタルブロック解除をして
子どもの不登校・離婚を乗り越えて
パソコン1台で自宅起業を果たしました🌟
不登校児の母親は
家庭にも社会にも居場所がない
という経験をしまして
子どもが学校を休み自宅にいても
自宅リビングで仕事ができる環境を
「自宅起業」という形で作って、
経済的に自立→離婚
で、今は福岡で子どもたち2人と一緒に
平和な生活をおかげさまで
手に入れました
そんな私の自己紹介、ぜひ
ちょっと読んでみてくださいね♪
サニーです。
10日間以上ご無沙汰を
していました(≧◇≦)
実は、この約10日間のうちに
私のお誕生日もあったのと
(もう何度目かの19歳ですw)
去年の12月末にこのブログ立ち上げ以降、
たまたま1月は休日が2日間だけ
だったこともあって、
逆に2月に入ってからは
多めに休みを取り、娘と一緒に
美容サロンに行ったり、
博多駅にお買い物に行ったりと
少し遅めの冬休みを楽しんでました🌟
そうなんです、
基本、仕事大好き人間なので
仕事のスケジュールが入っているのは
何のストレスもなくて、楽しいですし
休みたい時には、連休で休めるので
とてもありがたいです
ちなみに、JR博多駅の駅ビルに
仕事の合間に通うのが大好きで
今日の午後もサクッと行ってきました🌟
博多駅前を歩く人の多くは
観光客の方で、めっちゃ多国籍で
刺激が多いです💕
マルイの地下街でのお食事も
色とりどりでとっても美味でした💕
娘も息子も、
私が学生時代から大好きだった
無印良品とKALDIでの買い物を
一緒に楽しんでくれているのが
嬉しいなっていつも思います💕
(博多駅の駅ビルに店舗が入ってるんです)
あと筑紫口側にある
ヨドバシカメラにも
しまパトならぬ、ヨドパト(?)に
時々行っています
めっちゃローカルな話ですねw
でもこんな風に、離婚後は
好きなことができる生活ができて
しあわせで、支えてくださる周囲の
皆様に本当に感謝です🌟
さあ、そんなこんなで、・・
今回の【第10話】というのは
本来であれば、話の展開を
もう少し先に進める予定でしたが、
前回の【第9話】の文字数が、
結構なボリュームになったために
当初予定していた
/
【第9話】の後半部分
\
として、お届けしたいと思います。
具体的には、今から約10年程前に
娘の不登校が一番ひどい状態だったので
「えいっ!」とひとっ飛びに
アメリカに逃亡した話です。
なぜそんな大胆な行動を
取ったのか?というと、
それくらい辛かったからです
でも、アメリカに行ったおかげで
「世界はとにかく広い!」
「不登校がどうのと言われない別世界がある!」
というのは、
当時小学校1年生だった娘にも
ちゃんと伝わったので、
ちょっと無理をしてでも
諦めずに行動してよかったと
今振り返ってしみじみ思います。
今回の展開では、
若干箸休め的に、アメリカで
実際に撮影した写真も少し掲載して
当時を振り返ろうと思いますので
一緒にアメリカ旅行気分を
楽しんでいただけると嬉しいです🌟
まずは、前回までのあらすじから
進めていきましょう♪
🌟前回までのあらすじ🌟
夫を疑似介護したことで
サニーは在宅でできる仕事に
活路を見出し、離婚を急ぐ道を
私は選択しようと決めます。
そんな私が進んだ道は
ネットビジネス塾の世界は
魑魅魍魎化で距離を置くも
ミスターエックスさんとの出会いで
わずか数か月でブログ安定収益を
組み立てることができました。
そのタイミングで、ミライちゃんとも
仲良くさせていただき、娘にも
優しく接してくれる彼女のおかげで
居場所を見つけることができました。
不登校の状況は変わらずとも
ミスターエックスさんから
アメリカに行くのはどうか?と
打診が来て、私は即レスで
子どもたち2人も連れて行く!
と決めたが、現実逃避の気持ちが
強くなりうつ気味に・・・
しかしようやく、アメリカ渡航の
当日がやってくるのです。。
※連載本編は、改行の雰囲気がちょっと変わります
連載「シングルマザー、自宅起業をする」 ~不登校・離婚を乗り越えて歩んだ11年間の記録~
【第10話】アメリカ7日間の旅で子どもたちと一緒に見た景色
記憶が断片的すぎた、暑かった夏は過ぎて、ふと秋の爽やかな風が足を通り抜けていくのを感じて視線を上げると、近所の田んぼには黄金色の稲穂が揺れる季節になっていました。
あの頃は、ドル円相場が当時としては円安になっていて、1ドル120円を超えていた時期だったので、ああ~ドルがもっと安く買えた時期にまとめて購入しておけばよかったーなんて思っていたものです。
※今はもっと相場が動いてしまったので、1ドル120円でも安く感じますよね
なので、アメリカに渡航するまでにあと1週間を切った頃に、近所の銀行に行き、まずは300ドル分くらいを細かい金額の紙幣で換金しておきました。
当時住んでいた地域は、最寄りのJRまで車で30分はかかる場所でした。
でも、夫や夫家族の力は借りずに、最寄りのバス停からまずは最寄りの私鉄駅まで出て、そこから電車に乗ってJRに乗り換えて・・・と、子どもたち2人と大きめのスーツケースを持って行こうと計画していました。
ところが、お義母さんが、
「最寄りのJR駅まで、車を出して送って行ってあげるよ」
と、出発前日に声をかけてくれました。
心の中では、もう離婚すると決めていたので、一瞬は「どうしようかな?」と思ったのですが、いずれ離れてしまう孫たちとの残り少ない触れ合う時間を考えると、これは送迎の打診に感謝の気持ちを持って、お願いをすることにしました。
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この先の連載で書いていく後日談にはなるのですが、このアメリカ出発の日から約4年がすぎて、時期的には離婚がようやく成立して半年経った頃に、お義母さんは病気により他界してしまいました。
新居で(一応)夫婦で暮らしていた頃は、お義母さんは元気だったのですが、私が子どもたち2人を連れて突然別居したことがよほどショックだったのでしょう。
何が直接的な原因かは、(元夫にも確認できていないので)わからないことが多いのですが、別居をした翌月に、お義母さんの病気が判明していました。
離婚調停において、病気のおばあちゃんの存在が、調停員の人たちには同情票のようになって、「奥さんの方が悪い」と私が完全に悪者という雰囲気になったことは、今では🌟感謝の過去🌟として自分史にしまい込んでおこうと思っています。
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話を戻しましょう。
そんな経緯もあって、アメリカに渡航する当日も夫は「興味がない」という雰囲気で、いつも通り会社に出勤していきました。
一応、「今日から7日間は3人ともアメリカだからいない」ということは、ザックリ口頭で伝えておきましたが、どんな返答が夫からあったのか?が全く記憶に残っていません💦
朝9時。
車のタイヤが、うちの自宅駐車場の砂利の上に乗った音がして、バタン!と運転席をいつものように勢い良く閉める音が聞こえてきて、子どもたちのおばあちゃんは迎えに来てくれました。
まだ幼い孫たちを連れて、アメリカ旅行なんて、おばあちゃんの立場からすると相当心配だったかもしれませんが、そのことには触れずに、ただただ予定している電車に間に合うようにと娘と息子に声をかけてくれていました。
最寄りのJR駅まで、30分ほどの道のりは、「THE 秋の日本、美しい田舎の風景」が車窓からずっと見えていました。
ハンドルを握るお義母さんと私が、車内でどんな会話をしていたか?は、すっかり忘れてしまったのですが、ただただ私の記憶には、田んぼに黄金の稲穂がこうべを垂れてたわわに実る景色が残っています。
「あ~・・・キレイだなぁ。。。」
と、少しぼーっとしながら思っていました。
やがて、最初の目的地のJR駅まで到着しました。
トランクに入れておいた、重たいスーツケースを取り出して、無邪気に会話している子どもたちも連れて、おばあちゃんにはお礼を伝えて、1週間行ってきますと声をかけて、駅改札に向かいました。
「気をつけて行ってくるんだよ」
と、ちょっと寂しそうな表情で、孫たちに声をかけてくれたおばあちゃんの横顔が私の視界に入ってきて、少し申し訳ない気持ちになりました。
でも、私は娘が不登校だったとしてもしあわせな大人になる道を作るとすでに強く決めていたので、引き返す選択肢はありませんでした。
成田空港までは、2時間ちょいくらいの道のりだったのですが、上野駅まで出て京成スカイライナーに乗って、なるべくスムーズに空港に到着できるようにと動きました。
到着したのは、成田空港の第二ターミナルでした。
ミスターエックスさんも、とある地域から国内線に乗って、成田空港で待ち合わせになっていましたので、予定していた待ち合わせ場所に向かい無事合流しました。
写真は、ちょうどミスターエックスさんと合流した直後くらいに撮影したものです。
実は他にも、同じJALの国際線で一緒に行く人が数名いたので、ワイワイしながら出国ゲートに向かいました。
途中で、飛行機の座席で寝てもちょっと首がラクになる枕を買うために、ショップに寄ったのですが、なぜかレジで私、英語で話しかけられまして^^;;;
よほど、気持ちが日本国内ではなく、海外にすでに飛んでいってたのか?と今更ながら当時を振り返って、思ったりしています。
国際線の出発時は、少し早めに空港に到着するのが慣例ですよね。
なので、この時の私たち一行も出発の3時間程前には到着していたので、そこからはゆっくり空港内を回ったり、出国手続きをしたりして、待っていました。
上記の写真は、搭乗ゲートをくぐってJAL機に乗る直前で記念撮影してもらった当時の写真(本物)です。
懐かしいなぁって思いますね*^^*
成田空港から、最初の到着地のサンディエゴ国際空港までは確か飛行時間は10時間弱くらいだったでしょうか。
座席が、ちょうど最後尾の席だったので、シートを子どもたちの自由に倒して、目の前の画面で映画やゲームが楽しめて、下の子はまだこの頃で3歳だったのですがぐずることもなくて、なんとか乗り切ることができました。
フライトアテンダントの方々も、うちの子どもたちに優しく話しかけてくれて、ちょっと暇した時なども間が持ったのは、とてもありがたかったです。
私はというと、子どもたちの座席と通路を挟んですぐのところ(上記のカメラのアングルからも伝わるかな)の座席でして、さらに私の隣にはたまたまですがミスターエックスさんが座ったので、色々仕事の話なども含めて、ゆっくり話すことができました。
機内食は2回出て、国際線の食事って豪華だなぁと思ったのですが、美味しすぎて写真を撮る前に食べてしまったのは、今ではいい思い出ですねw
初めてのアメリカまでのフライトは、無事にサンディエゴ空港に到着して、トランジットでデルタ航空に乗り換えることになるんです。
日本を出発した時は、秋の景色でしたがサンディエゴはメキシコとの国境に近い空港のため、空港建物の窓から外を見てみると、完全に夏の景色でしたし、気温も暑かったです。
機内で少しは寝れたので、子どもたちもなんとか乗り換え準備をして、初めて降り立った異国の雰囲気を楽しみつつ、国内線の出発ゲート内にあったフードコートで小休止つくことにしました。
写真後方、一緒に写っている子連れの女性は私の妹と甥っ子ちゃんです
色々あって、結果的には一緒にアメリカに渡航してくれたんですよね。
※この経緯は本作品内では省略しますね
英語は少しは読めたのですが、料理の名称となるとさっぱりわからずに、最早野生の勘でフードコートで娘と息子と一緒に料理を注文したのは、とてもアミューズメントで刺激的でした。
あ~楽しかったなぁ(≧◇≦)
その後、定刻通りにデルタ航空に乗り換えて、ソルトレイクシティ空港に向かいました。
デルタ航空の機内は、日本国内で言えばジェットスターやピーチのような感じで、フライトアテンダントの方も女性より男性が多くて、重たい荷物でもひょいと持ち上げて座席上の荷物入れに収納するのを手伝ってくれて、とても助かりました。
この先も写真は撮影しているのですが、どうもプライベート感満載でこちらのアメブロには出せないのですが、今回の記事で貼った写真だけでもなんとなく雰囲気は伝わったのではないか?と思います
到着したソルトレイクシティ空港は、現地時間で確か18時を過ぎていたと思いますが、時計が日本時間のままだったので正確な時間がわかりません。
息子がさすがに約24時間の旅に疲れて、完全に寝落ちしてしまい、スーツケースの上で寝ている状態のままホテルまで移動させました。
ミスターエックスさんに、娘を見てもらいながら、ギリギリ無事にホテルの部屋まで安着できた時には、本当にほっとしましたし、移動を助けてくれたすべての方々がに感謝の気持ちでいっぱいでした。
アメリカ滞在期間の体験記は、実は別のハンドルネームで書いてあるブログで、もう少し詳細に書いてはいるのですが、ざっくり解説しますと、
- あまりにもお米がなくて、「お米が食べたい~」となってタイ米のランチをゲットできて、娘も息子も大喜びだった
- そのことで、日本っていいよねと再認識できたw
- 不登校のことなど、一切触れることのないストレスのない7日間を過ごせて、めちゃくちゃリフレッシュできた
という、この3つに集約できます。
日本に住んでいることも「いいよね」と思えたことは、ショック療法じゃないですが、体験できてよかったですね。
そんなわけで、旅行日程を全て終えて、無事にまた成田空港に戻ります。
夫には、地元のJR駅までのお迎えは、さすがに子どもたちの体力を考えると、「これはお願いしよう」と腹を括って頼みまして、地元駅に迎えに来てくれました。
そのことには感謝ですね。
でも、アメリカでどんな体験をしてきたのか、どんな風に夫にアメリカでの時間を報告したのか、実はここも全く記憶がありません。
何も話さなかったのかもしれませんし、報告したことでの会話のキャッチボールがなかったのかもしれません。。
帰国後は、また何も変わらず娘の不登校状態は続くのですが、私の心は晴れやかでした。
なぜなら、海外の風景を娘と息子にそのまま見せることができて、当面は日本国内で窮屈を感じることはあるかもしれないが、世界はここだけではない、別世界もたくさんあるという確信を私自身、心の底から思えたことが大きかったかもしれません。
そんな風に、娘の小学校1年生の2学期は進んでいくのですが、、、11月に入った頃に、ある事件が起きるのです・・・💦
つづくーーー🌟
あとがき
【第10話】を最後までお読みくださり、ありがとうございます!🌟
今この連載を書いていて、振り返ってみると、アメリカ渡航はもう9年も前の話です。
娘はこの当時の記憶は結構覚えていて、今でも当時のことを私に聞いてきてくれるので、嬉しいなって率直に思います。
息子はというと、さすがに当時3歳だったこともあって、「全然覚えてない」と言い切っていますが、健康で一緒についてきてくれたことは、貴重な親子の時間になったので、ありがたかったです。
この時期、本当に辛くて、なかなか未来に希望を見出せない時期もながかったわけですが、帰国してから、気分が晴れたこともあって、ぐっと前向きに物事を取り組めるようになりました。
その時に書いたメモが、写真フォルダにまだ残っていたのですが、今読み返してみても超前向き波動で、とても勇気づけられます。
もしその実際のメモをご覧になりたい方は、サニーの公式LINEで話しかけていただけたらプレゼントしますので、お声がけくださいね*^^*
何か、本連載を読んでくださっている方にお役に立てると嬉しいです♪
というわけで、次回またまた起こる事件の詳細を綴っていこうと思います🌟
⇒「【第11話】不登校の原因が母親のネグレクトではないか?と学校から疑われ...
」
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