これはシューマンを偏愛する天才ピアニストの音楽小説であり、彼に焦がれる「私」が語る青春小説であり、冒頭からありえない謎が提示されるミステリー小説でもある。様々な要素を含んだ物語を、何かひとつのジャンルにまとめるなら、シューマン小説と呼ぶのが僕にはすっきりする。この物語はどこを切り取っても、そこからシューマンの音楽が聴こえてくる。
私は、シューマンのコンチェルトを弾く永嶺修人の姿をありありと思い描くことができる。
いくぶん高めの椅子に座り、両腕を鍵盤に向かってやや突っ張るようにした姿勢と、僅かに左に傾けた首の形を想うことができる。速い楽句を軽やかに粒だてようとうるときには、すっと尻を後ろにずらして体勢を低くし、強くオクターブのユニゾンを叩き出そうとすれば、尻を浮かせ、ほとんど立ち上がるような格好で上から指を鍵盤に振り下ろす様子を想うことができる。
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ページをめくるほどにシューマンの音楽が聴きたくなる。それは、そこから他の音楽に広がることなどなく、ただひたすらシューマンの音楽だけで完結してしまうような、いびつに歪んだ音楽の愛し方になる。特定の何かを愛するというのは、そういうものかも知れない。愛するゆえに盲目となり、盲目ゆえに世界はどこまでも広がってゆく。
「鼓膜を震わせることだけが音楽を聴くことじゃない。音楽を心に想うことで、僕たちは音楽を聴ける。音楽は想像のなかで一番くっきりと姿を現す。耳が聴こえなくなって、ベートーヴェンはよりよく音楽を聴けるようになったんだ」
永嶺修人はよくいっていた。そうして、私がこの曲を「聴く」とき、ピアノの前に座っているのは、リヒテルでもリパッティでもなく、永嶺修人その人なのだ。
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鳴り響く音楽のなかで、物語は手のひらからこぼれ落ちていく。僕はシューマンの何を知ることができ、彼らの何に触れることができたのか。鮮烈なイメージが脳裏に焼き付きながらも、それは蜃気楼のようにゆらめき消え入りそうで、遠くが透けてみえる。




