もしかしたら、あの夜の涙も『それ』だったのかもしれない。


馨の心はいつも泣いていたのかもしれない。


沙耶は一人ぼっちの部屋で馨を思っていた。


馨はいつも沙耶の一番近くにいた。


幼い頃からずっと・・、そのことに疑問を持ったことは無かったしこれからも変わらないと思っていた。


このままじゃいけない。


一人でちゃんと生きていかなきゃ。


困ったことにぶつかると、いつも馨に助けを求めた。


いつも嫌な顔一つしないで受け止めてくれた。


だけど、これ以上はもう・・。


沙耶はいつも思っていた。


自分の全てを賭けて向かっていくモノを見つけたい・・と。


沙耶には何も無かった。


将来に対する夢も、こうありたいという目標も持てないでいた。


ずっとそうだった。


あの頃からずっと・・。

沙耶の心の中に馨に対して言葉にならない感情が生まれていた。


『妹』だと今まで特別意識したことは無い。


これまでと同じでいられるはずがない。


同じモノを取ろうとしてちょっと手が当たっただけで、思わず手を引っ込めてしまう・・こんなこと、今まで考えられないことだった。


馨が何と言っても、何も知らなかったあの頃には戻れない。


このことは、はっきりしていた。


沙耶は一人家を出てマンションを借り暮らし始めた。


馨はそれをただ見守ることしかできないことにもどかしさを感じながらも、何ができるのかもわからないまま日々を過ごしていた。


沙耶の部屋は、スッキリと片付いていた。


必要なモノがあるだけ。


年頃の女の子の部屋にしては寂しい感じがする。


そんな風なことを馨が言った。


「掃除だって簡単な方が良いでしょ。


モノが増えるとその分だけ大変になるのよ。


それに、ここには眠りに帰るだけだから・・。」


そう言った。




「迷惑かけてすみませんでした。


おかげさまで元気になれました。


これまで休んだ分、しっかり働きます。


よろしくお願いします。」


「待っていたよ。


沙耶、文章を書くことは好きか?」


「そんなこと考えたことありませんが、書くことが苦になると思ったことはありませんでした。」


「そうか、なかなか良かったよ、あの記事。


機会があったらまた書いてくれるかな?」


「はい、勿論。」


彼に頼まれて『命』の記事を書いた。


病院に行き医師の話を聞き、図書館で資料を集めた。。


あの日、沙耶は隠された事実を知ることになった。


あんなことさえなければ、今も何も変わらず毎日を過ごしているだろう。


沙耶は忙しく動き回っていた。


いつも馨のことを思っていた。


馨の気持ちを思っていた。


そして・・、気が付いた。


馨は事実を知って動揺しなかったのではなくて、何も無かったように見せていたのだということを。


今まで気にも留めていなかった馨の言葉の一つ一つが今になってとても重く感じる。


私のために・・。


ただそれだけのために・・。

「そんなこと心配しなくていいから。」


「あれ?


眠ってたんじゃないの?」


「俺、知ってたんだ。


もうずっと前から。


確かなモノは何も無かったけど、遠い過去の記憶を整理すると、いつも同じ疑問にぶつかる。


でも、はっきりとした事実を知ることが怖かった。


だからずっとそのままにしていたんだ。


沙耶だけには知らせたくないと思った。


多分、父さんも母さんもそう思っていると感じたから、俺は聞かなかった。


結局、知ってしまったんだな。


その時が、早いか遅いかの違いでしかなかったんだな。


俺は沙耶の前からいなくなったりしない。


今までと何も変わらないさ。」


「知ってたの・・。」


「ああ・・。」


馨は静かに頷いた。


「そうだったのか。


やっぱり馨はすごいよ。


こんなこと知っても顔色一つ変えないで私と向き合っていたんなんて。


嫌味で言ってるんじゃないよ。」


「沙耶、俺はそんなすごい人間なんかじゃないよ。


オマエはいつも俺のことを買い被り過ぎている。


俺もバカだから、そんな沙耶の期待に応えられるように頑張っていただけのことだ。


心でずっと気にかかっていても確かめられずにいた俺の気持ちは、きっと誰にも理解できないだろう。


勿論、沙耶の気持ちは俺にはわからないけど。」


「私の気持ち?


いろんなこと考えて、泣いて落ち込んで・・そして吹っ切れた。


だから大丈夫。


ゴメンなさい、心配かけて。」


沙耶は笑顔を見せた。


「じゃあ、今まで通りだな。


何もかも。」


馨はそう言いながら沙耶の心の中を思っていた。


事実を知って受け止めた。


そしてそれを乗り越えて生きることを決めたのだろう。


だけど、心の傷なんてそう簡単に消えるモノじゃない。


沙耶は静かに笑って見せたが本当はまだ泣いているのだろう。


代れるモノなら代ってやりたい。


自分がこの家の人間でないなら、どれだけ気持ちがラクか知れない。


不可能だが・・。


「私、一人で暮らそうと思うんだ。


会社の近くに部屋を借りて・・。」


「それって、吹っ切れてないってことだろ。」


「前からそう思っていたの。


ただ、言えなかっただけ。」


「ここから出て行くなんて言うなよ。


俺の傍にずっといればいい。」


つい、言ってしまった。


自分の心を悟られたのではないかと馨は一瞬思った。


今、言ってはいけない。


男として沙耶を愛しているのか、兄としてなのか、その境目が見えない。


二人の距離は遠い昔からずっと同じなのだ。

「ただいま。」


誰かいても誰もいなくても家に帰ると沙耶はいつもこう言う。


今日もいつもと同じだった。


返事は無かった。


誰もいないのだろう。


その時、ドアの開く音がした。


「沙耶、帰って来たんだな。」


「馨、ただいま。


心配かけてゴメンね。」


「どこ行ってたの?」


「とっても寒いところ。


田舎。


朝起きると外は真っ白で眩しくて異常に明るいの。


人の足跡なんて一つも無い。


そんな中を一歩一歩、歩いた。


私にはそれがとても新鮮だった。


そのうちに人の足跡や車のタイヤの跡とかで汚くなってしまう。


でも、夜が来て朝が来れば、また真っ白な世界になる。


そんなに雪が深いところにも、もうじき春がやって来る。


雪の下の土の中で春を待っている草花がある。


春になったらそれを見に行くつもり。」


「沙耶、オマエに何が起こったんだ?


俺は・・。」


「馨、大丈夫?」


「少し、眠らせてくれ。」


短くそう言った。


馨はずっと沙耶を探していた。


何処というあても無かったが、じっとしていられなかった。


いつもの冷静な姿はそこには無かった。


しばらくして沙耶は馨の部屋に入り、眠っているその傍に腰かけた。


「馨、驚かないで聞いてね。


私は、この家の子どもじゃないんだ。


だから、馨の妹じゃないんだよ。


こんなにやさしくて頼りになる馨が兄貴じゃないなんて、信じたくないけど、本当のことなの。


知ってしまったからには、黙って妹やってることもできなくて・・。


でも、馨を失ってしまうなんてこと、考えるだけで哀しかった。


ねえ、馨はどう思う?


どこの誰かもわからない私と、この先付き合ってられないよね。


いままで、ありがとう。


これまでの馨との日々は私にとって一生忘れられない思い出にする。


こんなことならもっと大切にしておけば良かった。


馨との時間。


失うとわかってから気が付いたって仕方ないのにね。」

「お待たせしました。


テーブルへどうぞ。」


沙耶はホッとした笑顔を見せながらそう言った。


「まあ、本当に上手なのね。」


テーブルの真ん中に飾られた花が料理を一層引き立てる。


「本当だな。


それではいただくとしようか。」


「はい。」


「美味しいですよ、本当に。


レストランで食事をしている気分だわ。」


婦人はとても嬉しそうに微笑む。


「喜んでもらえて私も嬉しいです。


もう少しここに置いてもらおうかな。」


「沙耶、暖かくなったらまた来ればいい。


畑にはチュウリップをたくさん植えているから見においで。


帰ろうという気持ちがあるうちに戻らないと、今度は戻れなくなってしまう。


ここでずっと暮らすのも悪くないと思ってしまったら、戻れなくなる。


ここはとても良いところだが、そんな怖さも持っているところだ。


わかるよな。」


主人が静かな口調で言った。


食事を終えて片づけを済ませた後も、三人はテーブルを囲んで話し込んでいた。


ここに初めてやって来た頃の話や、子ども達のこと、そして今の生活について。


今だから懐かしそうに話す二人だけど、きっと当時は大変だったのだろうと沙耶は思っていた。


そして二人は最後までどうしてここに来たのかその理由を聞きはしなかった。


聞いて欲しかったわけではないが、それが不思議だった。




その日の朝も、昨日の朝のように寒い朝だった。


太陽がもう少しで顔を出しそうなのだが、今はまだ曇りだった。


「ありがとうございました。


お二人とも身体に気を付けてくださいね。」


「暖かくなったらまた来るといい。


沙耶・・。」


主人は何かを言おうとして、次の言葉を飲み込んだ。


沙耶は何となくではあったが、彼が何を言おうとしていたのかわかったような気がした。


そして、なぜ黙ったのかも。


ほんの数日間のここでの日々が沙耶の心を静めた。


辺り一辺の銀世界。


この静かな大地が沙耶の心を受け止めた。


言葉が無くても風の声が聞こえる。


誰もいなくても、どこまでも真っ白に輝く広い世界がある。


どうしょうもなく荒れ果てた心に冷たい風が吹き込む。


とてつもない強さとともに・・。


ここに来ることで何かがわかることを期待していたのではない。


あの家に居るのが辛くてただ出て来ただけだった。


問題の答えなんて一生見つからない、そう思っていた。


このまま、誰にも何も告げずにどこかに行ってしまうことも考えた。


だけど今、自分のいた場所に帰ろうとしていた。