沙耶はそれからまた眠っていた。


もう日曜日の昼になっている。


どんなに悩んでいても、どんなにこんな自分が嫌いだと思っていても、疲れ果てた身体は眠ることをまず選択する。


夢を見るでもなく、静かに深く眠ることが出来る。


幸せなことだと思った。


精神的に追い詰められると眠ることもできなくなるという。


まだそこまでではないのだと、自分に言い聞かせる。


夜になってから電話が鳴った。


「沙耶、どうしても話したいことがあるんだ。


少しだけそっちに行ってもいい?」


いつもの彼と様子が違っていた。


「いいけど・・。」


話があるなんて、何だろう。


今まで一度もそんな風に言ったことなんて無かった。


何をそんなに急いでいるのか・・。


今日でないといけないこと?


沙耶はそう思った。


秀にしてみれば悩んで悩んでやっと決めた心が揺れてしまわないように、誰かに告げたかったのだ。


秀のマンションからここまで車で十五分くらい。


そしてやって来た彼は、いつもの彼だった。


「急に押しかけてゴメン。


ホントは昨夜、会った時に話そうと思っていたんだ。


俺、会社を辞めて日本に帰ることにした。」


「えっ?


どうして?」


「家の仕事を手伝うことにしたんだ。」


「家の仕事?」


「高知で小さな工場をやってるんだ。


父親と兄貴ではやっぱり大変そうなんだ。


俺がいたからって何かがそう大きく変わるわけじゃないけど、これまでずっと自由にさせてもらってたわけだし、この辺が潮時なんじゃないかって思ったんだ。」


「潮時って??」


「ここにいても何があるってわけでもない。


何かあるはずだって高校を卒業してすぐここにやってきた。


でも、八年かかっても何も見つけられなかった。


自分を諦めるのにいい機会なんだ。」


「秀は、それでいいの?


お父さんやお兄さんだって喜んでくれるかな~?」


「沙耶には俺の気持ちなんてわからない。」


「じゃあ、私の気持ちは?」


「沙耶の気持ち?」


「ゴメン、今は私の問題じゃなくてしゅうのことだよね。


秀は何も話してくれなかった。


どうしてここに来たのか。


本当は聞きたかった。


だけど、聞けなかった。」


「もういいんだ。


俺にしかできない生き方を探しに来たけど、もうわかったんだ。


誰もが歩いている普通の道を歩こうって。


俺には特別な才能なんて無いってことが、ここで生活してみてやっと自分で納得できた。」

電話の着信音で沙耶は目を覚ました。


「沙耶、俺、約束忘れてるの?」


「あっ、ごめんなさい。


帰って来ちゃった。」


「寝てたのか?


調子悪いのか?」


「大丈夫、ここのところ忙しかったから。」


「沙耶、無理すんなよ。」


「ありがとう。


寝てればすぐによくなるから。


今日はゴメンね、約束破って。」


秀は沙耶が強そうに見えて本当はそうで無いことを知っていた。


助けて欲しい時も助けてと言えない、辛くても辛いと言えない、そんなところもちゃんとわかっていた。


でも、何がそうさせたのかを聞くことが出来なかった。


秀は、同じ出版社に勤めている。


海外留学にやって来てそのままこの国に残った。


倉田 秀、二十六歳。


ここに来て八年。


人当りもよく誰からも好かれている。


彼とは食事をしたり映画に行ったりの付き合い。


会社に入って初めてできた友人。


最初のうちは言葉が思うように通じなくて困ったことはあったが、それも時間が解決してくれた。


友人もできた。


でも、ここにいる沙耶はいつも少しだけ無理をしていた。


ニセモノの自分だと思っていた。


あの日、飛行機から降りた時からずっと・・。


そんな中で秀は少しだけ『素』の自分に戻れる相手だった。


だけど気持ちにブレーキをかける自分がいた。


自分のことを何も話さない秀に対しても無理に聞き出すようなことはしなかった。


沙耶も、自分のことを詳しく話したことは無かった。


映画に行ったり食事をしたり、他人から見ると二人はきっと恋人同士に見えるだろう。


秀は、自分と似ている、そう思うようになっていた。


沙耶がずっと隠し続けているモノを、一緒にいると一瞬ほんの少しだけ感じることがある。


大切な何かを置いてここにやって来たとか、何かから逃げてやってきたのか、それはわからないけれど。


沙耶は大学を卒業して出版社に就職していた。


ファッション誌の担当で、洋服・アクセサリー・小物・・などの取材をしている。


特別やりたいと思っていた仕事ではないが、やり始めると面白くて引き込まれる。


季節を先取りして流行の先端を見ていた。


この仕事に就いてオシャレに興味を持つようになった。


身長百六十センチ・体重四十七キロと、特別太っているわけでもなく痩せているわけでもない。


そんな自分を洋服や小物で違う自分を作ることに楽しみを感じていた。


小柄な女の子に見えるようにとか、背が高く見えるようにとか・・。


外見をいくら変えてみたところで中身が空っぽなのだからどうしようもない。


でも逆に、中身が変えられないなら、外見だけでも・・そう思ったりもした。


自分のような女の子も大勢いると思った。


女の子はオシャレが好きで、新しいモノが好きで、本当に忙しい性分だ。


全ての人が当てはまるとは言わないが、きっと多い。


自分のためだったり、彼のためだったり、理由はそれぞれあるだろう。


沙耶はそんな彼女たちを何歩か後ろに下がったところから見ていた。


共通点は幾つもあった。


でも、肝心なところで違っていた。


誰といても何をしても、心から一生懸命になれない自分がいた。


その日は思ったより取材が早く終わった。


ここ二・三日ずっと夜遅くまで仕事が続いていたので、こんな日くらい早く帰って休むよう上司は言った。


こんな日は沙耶にとって一番怖い日だ。


時間に追われて走り回っている方が余計なことを考えずに済むので、気持ちとしては楽だった。


でも、少し身体の調子も良くなかったので帰って休むことにして電車に乗り家へと向かった。


寝る前に飲んだ卵酒が効いたのか沙耶はぐっすりと眠った。


秀と会う約束があることも忘れて・・。

隼人は大学に入ってもサッカーを続けていた。


だけど、何か違う気がしていた。


でもそれが何なのかわからなかった。


小学校の頃からサッカー選手になることが夢だった。


今ほどサッカーと言うスポーツが目立っていたわけではなかったが、野球よりも好きだった。


そんなある日、隼人はケガをしてしまった。


自転車で転んだのだ。


全治三か月。


治療をしてリハビリをして・・気の遠くなるような日々。


目の前が真っ暗になった。


もうサッカーが出来なくなったらどうしよう。


そんなことばかりが頭に浮かんでくる。


医者は、一緒にがんばりましょう・・と言ってくれたが、焦りと不安は大きくなるばかりでどうにもならない。


こんな時、なぜだか悪いことばかり考えてしまう。


これまでサッカーだけやってきて、自分には他に何も無い。


先のことを考えると怖くて仕方がない。


高一の時ケガをしたことがあった。


あの時は軽かったからこんなこと考えもしなかった。


それでも早く治して練習に参加したいと、うずうずしながらグランドを見ていた。


そんなある日、沙耶が言った。


「隼人はグランドが一番似合ってる。


でも、無理しないでね。


今しか出来ないことがきっとある。」


その言葉に腹が立った。


「偉そうなこと言うなよ。


今の俺の気持ちの何がわかるって言うんだよ。」


きつい口調で言い返した。


今思うと焦っている心の中を見透かされたようで我慢できなかったのだろう。


「ゴメン。」


それっきり沙耶は黙ったままだった。


それからだ、沙耶は俺に何も言わなくなった。


今気が付いた。


・・何でだろう、今頃になってこんなこと思い出すのだろう。

「志保、来てくれたんだね。


ありがとう。


じゃあ、元気でね。」


「沙耶も元気でね。


メールするから。」


「うん。」


結局、沙耶は何も持たずに行ってしまったと志保は思った。


寂しとか辛いとかも通り過ぎて、本当に何も持たずに。


沙耶の力になれなかったことが悔やまれて仕方がなかった。


でも、沙耶は何度も繰り返し言ってくれた。


「志保と友達になれて良かった。


楽しかったこの六年間を絶対に忘れない。」と。


この言葉にどれだけ救われたか知れない。


だけど、自分が救われたって何にもならないと思った。


そして飛行機は離陸した。




沙耶は自分で自分が嫌になった。


こんな自分とずっと付き合っていかないといけないなんて・・。


でも、その反面これで少しはラクになれるとも思った。


新しい自分になればいい、そう思うことにすればいい。


忘れてしまいたいと思っても忘れることなんてできない。


でも、少し離れたところに置いておくことならきっとできるはず。


時が過ぎて、様々なことを受け入れることが出来るようになった時、取りに行けばいい。


その時には、あれほど苦しかったことも懐かしく思えるようになっているかもしれない。


いつだったか志保は言った。


「ドイツで暮らすなんて誰にでも経験できることじゃない。」


これがチャンスだとしたら、きっと何かある。


そう自分に言い聞かせることで、何とか歩いて行けそうな気がした。


飛行機の窓から見える白い雲も味方に思えた。


沙耶は深く息を吸いフーっと吐き出した。