あの日を境にして2人は少しずつ親しくなった。


哲也は人見知りをするタイプで多くの友人を持つことよりも、心を許せる親友が1人か2人いればそれで満足する人間。


その人との関係を大事にする。


周平にどこかしら似ているとのぞみは思った。


そして、そのことが少し嬉しかった。


今ののぞみも哲也のような人間と一緒に過ごすことのほうが好きだった。


「一緒に遊びに行こう。」


と、友人は何かある度にのぞみを誘ってくれる。


だが、出かけるのは5回に1回程度。


「看護士さんて大変だものね。」


相手はいつもそう言った。


「ごめんね、せっかく誘ってくれたのに。」


そう言って電話を切る。


仕事がそんなに大変だと思ったことはそんなに無い。


どんな職業だってラクなモノは無いだろうし、自分の選んだ看護士という仕事に誇りを持っていた。


あんな言い方をされることが、いつものぞみを嫌な気持ちにさせる。


学生時代、独りでいることが怖かったのに、最近は静かに独りで過ごす時間がとても好きになった。


これまで独りで眺めていた海をこの頃は2人並んで見ていることが多くなった。


哲也はのぞみの隣に座って広くて大きな海を羨ましそうに見ている。


哲也の後ろ姿。


約束してここに来ることもあったし、偶然一緒になることもあった。


始めの頃はお互い、この場所に自分以外の人間がいることで気を遣うことがあったが、今ではそんなことも無くなった。


近くの自動販売機で温かいコーヒーを買い、そっと近寄って哲也の頬にあてる。


そんなある日、


「頼みたいことがあるんだ。」


「何?」


「遠山さんを描きたいんだ。


ダメかな~?」


「私を??


何を言ってるの。



ダメに決まってるでしょ。


私なんて・・。」


「遠山さんは、いつも通り何も変わらないでそうやってくれてればいいんだ。


俺が勝手に描くから。


内緒で描くのはルール違反のような気がしたから言ってるんだけど。」


「私でなくたって、もっと他にそれらしい人っているんじゃないの。」


「俺、知り合い少ないから・・。


いや、そうじゃなくて・・、遠山さんを描きたいんだ。」


哲也の顔はいつもと違って怖いくらいに真剣にのぞみを見つめた。


「勝手にすればいいでしょ。」


快くとは言えないが、そういうことになった。


哲也の一生懸命さが彼女に届いたのだ。


哲也は黙ってスケッチに集中している。


眩しそうに瞳を細めたのぞみ。


風になびく長い髪を指先で直すのぞみ。


何かを封じ込めるように閉じられる瞼。


その全部を1つ1つ確実に受け止めながら・・。


そんな日を積み重ねる。


哲也が近くにいる時も、のぞみの心はいつもどこかに旅に出ているように自由だった。


2人が並んで眺めている海。


のぞみはのぞみの世界に、哲也は哲也の世界にいる。


お互いの心の中にあるものが何なのか、ほんの少し気にかけながら。


冷たい海から吹き荒れる風に自分の身体をさらす。


それは時に、自分を傷つけているかのように見える。


いつだって、どんな時だって何も言わず何も変わらない海。


誰かに何かを求めたり、進むべき道を訊ねることもしなくなった。


どんなことも自分で考えて決めることができるようになった。


少しだけ自分は強くなったのかもしれないとのぞみは思っていた。


「俺、遠山さんのこと、好きになったみたいなんだ。」


「??何をわけのわからないことを言ってるの。」


「こうやって遠山さんを描きながら俺の心は不思議なくらいいろんなことを感じ取る。


頭の中でさまざまな想像が駆け巡る。


ここにこの人は何を求めてやってきているのだろうか。


どうしてこんな顔をしているのか・・って。


病院で見る笑顔からは考えられない寂しさを感じるんだ。


遠山さんの全部を俺は受け入れることができると思う。」


「本当におかしな人ね。


私を描きたいと言った時もそう思ったけど、今ので決まりだよ。


私は何も求めてないし、こんな寂しそうな顔なんてしてないよ。


さよなら。」


これまで1枚1枚丁寧に描いてきた哲也の絵は、のぞみが投げつけたことによって空中を静かに舞った。


そして、風にのって方々に飛んでいき何枚も海面に落ちた。


「あ~~。」


哲也はそれをしばらく黙って見つめていた。


彼の驚きとも落胆とも取れる声を聞いて振り返った。


のぞみも今の行動を悔やんだが、素直に謝ることが出来ずその場を去った。

何も言わない彼の頬にひとすじの涙


ココからは一緒に進めない


つないだ手が少しずつ離れていくのを感じた


今は受け入れて生きる道しかない


私の存在が彼の重荷になるくらいなら


ココからは別の道を選ぶ


そばにいるだけが全てじゃないと思える


そんな愛を彼が教えてくれた



離れていても彼を感じることができる


心のずっと奥の一番大事なところで


繋がっていると信じられる


そんな愛を彼が与えてくれた


だから大丈夫


ちゃんと生きていける


彼への思いを心に抱いたまま



「山本さん、薬飲むのを忘れないでくださいね。」


白髪頭で背の高い婦人に向かって声をかける。


「のぞみちゃんに叱られると怖いから、ちゃんと覚えておきますよ。」


そう言いながら婦人はとても嬉しそうな笑顔を見せる。


「ホント、おだいじに。」


白衣を着た看護士は丁寧に少女の手に包帯を巻いている。


「もう痛くないでしょ。


萌ちゃん、泣かないで頑張ったんだもの、あと少しで治るからね。」


「のぞみちゃんに会えなくなっちゃう。


この手、治らなくたっていい。」


「そんなこと言わないで。」


看護学校を卒業してこの小さな街で働き始めた。


車を走らせれば、いつだってあの場所に行ける。


ただ、それだけの理由でこの街を選んだ。


穏やかに過ごす時間が欲しかった。


のぞみの1日は、朝8時半には病院に着き、午後の診察が終わると夕方の6時半には病院を出る。


院長夫妻はのぞみをとても可愛がった。


夕食を一緒にと誘ってくれたり、そう、今暮らしているマンション(どう見てもアパートにしか見えない)を紹介してくれたのも彼らだった。


「私達には娘がいないから、あなたのことが娘のように思えてね。」


そう婦人はよく口にした。


3人の子供はみな息子で、それぞれ自分の選んだ道を歩いている。


親の側はいつも気にかけているが、彼らはそんなことお構いなしで元気でいるとも言ってこない。


1番下の哲也だけは今も自分の進むべき道を探していた。


年はのぞみと同じ26歳。


あれは、4年前のことだった。


「哲也、こちらが今度働いてもらうことになった、遠山のぞみさんだ。」


「そう。」


「よろしくお願いします。」


のぞみは軽く頭を下げた。


初対面の時の哲也に対する印象は最悪だった。


(友達にはなれそうにないな。


私の苦手なタイプかもしれない。)


哲也は笑顔を見せるわけでもなく、自分にはどうせ関係のないことだ、とでも言っているような表情。


関係ないといえばその通りなのだが、挨拶くらいしたっていいじゃないの!ということだ。


顔を合わすことも無いだろうとこの気持ちは胸の中にしまった。



それからしばらく時間が過ぎて、季節は秋を迎えようとしていた。


病院の仕事を終えて、いつものように車のドアに手をかけた時、


「遠山さん、途中まで乗せてもらえませんか?」


哲也が言った。


ここに来て半年、『遠山さん』と呼ばれたのはどれくらいぶりになるだろうか。


『のぞみちゃん』か『看護士さん』のどちらかだったから。



陸はいつも『のぞみ』と呼んだ。


周平にもそう呼んで欲しいと言った。


「のぞみの名前、すごくいいよな。


『未来』の繋がってる感じで。」


周平にそう言われるまで、自分の名前に何の愛着も持たず、どうせだったら漢字の方がよかったのに・・そんな風に思っていた。


周平のモノの考え方はいつもどこか自分とは違っていると感じながら、そんな彼の世界がとても好きだった。


周平はドイツに行ってしまった。


陸とはいつの間にか距離が遠くなってもう随分と時間が経った。


のぞみは自分の道を歩いている。


けれど、心のずっと奥では3人で過ごしたあの季節を1番愛おしく思っていた。



「あっ、哲也さん、何ですか?」


「もう帰るんですよね。」


「ええ。」


「途中まで乗せてってもらえないかと思って。」


「どこまで?」


「防波堤まで。


でも、あの分かれ道の所でイイですから。


そこから先は歩きます。」


「海ですね。


どうぞ。」


「ありがとうございます。


日没を描こうと思って。」


スケッチブックと鉛筆を指しながら少し照れくさそうに言った。


「じゃあ、時間早いじゃないですか。


まだ3時ですよ。」


「少しぼんやりしたいから。


そんな時に1番の場所なんだ。」


この人もあの場所で心の洗濯をしているのだろうか。


『自由奔放』という言葉はこの人のためにあるのではないかと思うような暮らしぶりなのに。


心にしまいこんだ周平が顔を覗かせた。


周平が好きだと言ったあの場所を好きだと言う人がここにもいた。


「私も独り、防波堤にいることがあります。


今まで1度も会ったことが無かったなんて不思議ですね。」


潮の香りを運んでくる風をこの人もここで感じていたのだろうか。


何を求め、何を探しているのか。


「ありがとうございました。」


「いえ、気にしないでください。」




あれから8年、周平は26歳。


ピアニストになった。


ずっと欲しいと思っていたモノも、無理にしまいこんできた感情も、ピアノが受け止めてくれた。


周平を苦しめていたモノの根っこにあったのが『音楽』で、彼を救ってくれたモノも皮肉なことに『音楽』だった。


周りの人間達は、才能は受け継がれるモノだと言った。


音楽家を両親に持つ周平の今のこの道は、生まれてきた時、既に約束されていた結果だと誰もが思っていた。


けれど、豊かな感性が育つ環境ではなかった。


誰に押しつけられたのとは違い自分で抑えてきた。


いつの間にか、そのことすら忘れ、とても長い間過ごしてきたのだから。


あの時の陸の一言が無ければ、今もあの頃とさほど変わらない日々を過ごしていることは間違いない。


「陸は、変わらないな。


ラジオの向こう側であの頃の俺みたいに元気をもらってるヤツが、きっとたくさんいるんだろうな。」


「そんな、大袈裟なものじゃないさ。


なあ周平、ドイツってそんないイイ所か??」


「落ち着ける場所なんだ。


ドイツに特別な何かがあるわけじゃない。


俺には最初からそんなモノありゃしない。


だけど、なぜだろう・・・ずっと長い間暮らしてきた場所だからだろうな。


いつか2人で歩きたいよ。


あの街を・・。


坂道を駆けあがって、そこから見える街をゆっくりと眺めたい。


俺が幼い頃たった独りで見ていた世界を陸に見せたい。」


「そうだな・・いつか・・。」



チーズケーキが美味しいと最近話題のカフェで、妹と待ち合わせていた。

「春菜、待ったか?


昨夜、陸と飲んでて朝帰ったから、目覚まし止めてまた寝てた。


あと少し・・もう少し・・って思ってたら・・ゴメンな。」


「お帰り、お兄ちゃん。


やっと会えた。


8年振りだね。


ずっとずっと会いたかったんだよ。


お母さんにお兄ちゃんのこと話すと泣くから言わないことにしたんだ。」


「初めまして、兄の三上周平です。」


そう言って右手を差し出す。


「原田直彦です。」


2人は握手を交わした。


運ばれてきた紅茶にミルクを注ぎながら、春菜は2人の顔を交互に見つめていた。


母親に直彦を紹介するときは少しも緊張しなかったのに・・。


この静かな時間が余計に春菜の心をドキドキさせる。


母のようにあれこれ聞かれるのも気恥ずかしいのだが、周平のように何も言わず向かい合ってるだけの、こんな状態の方が、どうすれば良いかを考えてしまう。


そんな時、


「僕は兄だとは言っても、兄らしいことをしてやった記憶がありません。


僕たち2人の場合、一緒に過ごした時間は少なかったものですから・・。


だけど、大事な妹です。


いままでも、そしてこれからも同じだけ・・。


春菜をよろしくお願いします。


幸せになってください。」


「ありがとうございます。」


「お兄ちゃん、3人で食事でもどう?」


「ありがとう、でも、あまり腹減ってないんだ。


2人で行けよ。」


「わかった。


お兄ちゃん、1度くらいは家に戻ってきて。


お母さん、きっと喜ぶから。」


「そうだな。


じゃあ、僕はこれで失礼します。」


そう言って周平は席を立ちその場を去った。


あの春菜が結婚か~。


優しそうな相手だった。


幸せな家庭を築けるといいな。


心からそう思った。


父は最後まで芸術家であり男だった。


そして最後まで心を開くことができなかった。


周平に父親は存在しないのと同じだった。


だけど、彼の死を知った時、訳もなく頬を涙が流れた。


そんな自分が以外だった。


その時を想像したことは1度もなかったが・・。


母親は芸術家の部分を持ちながら、春菜の母親でもあった。


そしてこの俺の・・。


父が亡くなって日本に戻ってきた時そう感じた。



周平は懐かしい場所へと向かっていた。


誰もやってこない静かなあの防波堤へと・・。


哀しいくらいの誰もいないこの防波堤に腰かけて、周平はのぞみのことを思っていた。


どこで何をしているのかさえも知らない今、会いたいと思ったところでどうにもならないことはわかっているが・・。



「俺のせいで2人は違う人生を選んだんだな。


俺が2人の間に入ってしまったから。


あんな中途半端なことしないで、ずっと独りでいれば良かったんだ。」


周平は2人に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


本当に、陸とのぞみは似合いのカップルだった。


グランドでサッカーボールを蹴る陸を、多くの女子生徒達はじっと見つめていた。


陸の動作の1つ1つに彼女達のため息がもれる。


シュートが外れてがっかりしたところや、相手チィームにチャンスを奪われたときの悔しそうな仕草、そしてシュートが決まったときのあの満足そうで嬉しそうな笑顔。


そんな姿を2人はグランドをぐるりと囲むコンクリートの階段に座って眺めていたり、教室の窓から見下ろしていたりした。


「周平と出会わなければ2人は上手くいっていたのに・・、なんて俺は1度も思ったことは無い。


きっと、のぞみもだと思う。


のぞみは、俺の言葉を黙って待っているような女じゃない。


俺が言わなくたって、どうしても言いたければちゃんと言える女だ。


だからずっと友達でいられたんだと思う。」


「どこで何をしているんだろうな。」


「きっと元気だろうよ。


のぞみはどこに居たってな。


周平、いつまで日本に?」


「春菜の結婚式が来月の3日なんだ。


それが済むまで。


式の前に相手の男に会って、式に出て、旅行を見送って、それから帰るよ。」


「そのためだけに、戻って来たのか?」


「まあな。


あの頃も春菜は俺にとても優しかった。


両親が別れた時、まだアイツは3つだった。


再会した時、16になっていた。


突然現れた自分の兄貴だという男に対して、


『お兄ちゃん、お帰り。』


そう言って、真っ黒に汚れた小さなウサギのぬいぐるみを差し出した。


俺はガラにもなく胸が熱くなったよ。」



5歳の周平は眠る時、ウサギのぬいぐるみを枕元に置いていた。


昼間はおもちゃ箱に他のおもちゃと一緒に無造作に投げ込まれている。


眠る時はそれを探し当ててベッドにもぐりこむのだった。


出発の前夜、それをどうしても見つけることができず部屋の中を探し回っていた。


春菜が抱きかかえていた。


どうしても離さない。


母親は無理にそれを取り上げ周平に渡した。


勿論、春菜は大きな声をあげて泣いた。


「春菜にあげる。」


周平は言った。


あの時、小さな心で感じたのだろう。


もう明日からは一緒にいられないのだと。


最後に兄貴らしいことでもしておきたかったのかもしれない。


春菜が今差し出したのは、その時のぬいぐるみだったのだ。



「春菜ちゃん、結婚するのか。


美人になっただろうな。


あの頃だって人気あったんだから。」


「そうだったか?


まあ、性格の良さは俺も認めるよ。


どんな男か会ってみることにしたんだ。


結婚式で『初めまして・・。』なんて嫌だって春菜があんまり言うから。」


「周平、人間付き合いしてるんだな。」


「そりゃ~、もう子供じゃないんだ、『俺には関係ない。』てそっぽ向いてるわけにいかないことばっかだよな。


こんな人間になれたのも、陸のアノ一言のおかげなんだ。」



陸が周平に言った言葉。


ドイツに発つ日、空港のロビーで。


「もっと、真面目に生きてみろよ。


全部捨てたような顔してないでさ。」


本当にその通りだった。


全てを見透かされた。


図星だった。


「陸に何がわかる。


こうやってなけりゃ、俺は生きてられなかった。


温かいものに囲まれて育ってきたヤツには、俺の今までってのは決して想像することはできないだろう。


話したところでわかるはずがない。」


とても感情的に言った。


そんな周平の態度に陸はひどく驚いた。


でもその後すぐ、笑って言った。


「あるじゃん。


周平にも熱いモノが・・。


安心したよ。」と。