あれから8年、周平は26歳。


ピアニストになった。


ずっと欲しいと思っていたモノも、無理にしまいこんできた感情も、ピアノが受け止めてくれた。


周平を苦しめていたモノの根っこにあったのが『音楽』で、彼を救ってくれたモノも皮肉なことに『音楽』だった。


周りの人間達は、才能は受け継がれるモノだと言った。


音楽家を両親に持つ周平の今のこの道は、生まれてきた時、既に約束されていた結果だと誰もが思っていた。


けれど、豊かな感性が育つ環境ではなかった。


誰に押しつけられたのとは違い自分で抑えてきた。


いつの間にか、そのことすら忘れ、とても長い間過ごしてきたのだから。


あの時の陸の一言が無ければ、今もあの頃とさほど変わらない日々を過ごしていることは間違いない。


「陸は、変わらないな。


ラジオの向こう側であの頃の俺みたいに元気をもらってるヤツが、きっとたくさんいるんだろうな。」


「そんな、大袈裟なものじゃないさ。


なあ周平、ドイツってそんないイイ所か??」


「落ち着ける場所なんだ。


ドイツに特別な何かがあるわけじゃない。


俺には最初からそんなモノありゃしない。


だけど、なぜだろう・・・ずっと長い間暮らしてきた場所だからだろうな。


いつか2人で歩きたいよ。


あの街を・・。


坂道を駆けあがって、そこから見える街をゆっくりと眺めたい。


俺が幼い頃たった独りで見ていた世界を陸に見せたい。」


「そうだな・・いつか・・。」



チーズケーキが美味しいと最近話題のカフェで、妹と待ち合わせていた。

「春菜、待ったか?


昨夜、陸と飲んでて朝帰ったから、目覚まし止めてまた寝てた。


あと少し・・もう少し・・って思ってたら・・ゴメンな。」


「お帰り、お兄ちゃん。


やっと会えた。


8年振りだね。


ずっとずっと会いたかったんだよ。


お母さんにお兄ちゃんのこと話すと泣くから言わないことにしたんだ。」


「初めまして、兄の三上周平です。」


そう言って右手を差し出す。


「原田直彦です。」


2人は握手を交わした。


運ばれてきた紅茶にミルクを注ぎながら、春菜は2人の顔を交互に見つめていた。


母親に直彦を紹介するときは少しも緊張しなかったのに・・。


この静かな時間が余計に春菜の心をドキドキさせる。


母のようにあれこれ聞かれるのも気恥ずかしいのだが、周平のように何も言わず向かい合ってるだけの、こんな状態の方が、どうすれば良いかを考えてしまう。


そんな時、


「僕は兄だとは言っても、兄らしいことをしてやった記憶がありません。


僕たち2人の場合、一緒に過ごした時間は少なかったものですから・・。


だけど、大事な妹です。


いままでも、そしてこれからも同じだけ・・。


春菜をよろしくお願いします。


幸せになってください。」


「ありがとうございます。」


「お兄ちゃん、3人で食事でもどう?」


「ありがとう、でも、あまり腹減ってないんだ。


2人で行けよ。」


「わかった。


お兄ちゃん、1度くらいは家に戻ってきて。


お母さん、きっと喜ぶから。」


「そうだな。


じゃあ、僕はこれで失礼します。」


そう言って周平は席を立ちその場を去った。


あの春菜が結婚か~。


優しそうな相手だった。


幸せな家庭を築けるといいな。


心からそう思った。


父は最後まで芸術家であり男だった。


そして最後まで心を開くことができなかった。


周平に父親は存在しないのと同じだった。


だけど、彼の死を知った時、訳もなく頬を涙が流れた。


そんな自分が以外だった。


その時を想像したことは1度もなかったが・・。


母親は芸術家の部分を持ちながら、春菜の母親でもあった。


そしてこの俺の・・。


父が亡くなって日本に戻ってきた時そう感じた。



周平は懐かしい場所へと向かっていた。


誰もやってこない静かなあの防波堤へと・・。


哀しいくらいの誰もいないこの防波堤に腰かけて、周平はのぞみのことを思っていた。


どこで何をしているのかさえも知らない今、会いたいと思ったところでどうにもならないことはわかっているが・・。