「山本さん、薬飲むのを忘れないでくださいね。」


白髪頭で背の高い婦人に向かって声をかける。


「のぞみちゃんに叱られると怖いから、ちゃんと覚えておきますよ。」


そう言いながら婦人はとても嬉しそうな笑顔を見せる。


「ホント、おだいじに。」


白衣を着た看護士は丁寧に少女の手に包帯を巻いている。


「もう痛くないでしょ。


萌ちゃん、泣かないで頑張ったんだもの、あと少しで治るからね。」


「のぞみちゃんに会えなくなっちゃう。


この手、治らなくたっていい。」


「そんなこと言わないで。」


看護学校を卒業してこの小さな街で働き始めた。


車を走らせれば、いつだってあの場所に行ける。


ただ、それだけの理由でこの街を選んだ。


穏やかに過ごす時間が欲しかった。


のぞみの1日は、朝8時半には病院に着き、午後の診察が終わると夕方の6時半には病院を出る。


院長夫妻はのぞみをとても可愛がった。


夕食を一緒にと誘ってくれたり、そう、今暮らしているマンション(どう見てもアパートにしか見えない)を紹介してくれたのも彼らだった。


「私達には娘がいないから、あなたのことが娘のように思えてね。」


そう婦人はよく口にした。


3人の子供はみな息子で、それぞれ自分の選んだ道を歩いている。


親の側はいつも気にかけているが、彼らはそんなことお構いなしで元気でいるとも言ってこない。


1番下の哲也だけは今も自分の進むべき道を探していた。


年はのぞみと同じ26歳。


あれは、4年前のことだった。


「哲也、こちらが今度働いてもらうことになった、遠山のぞみさんだ。」


「そう。」


「よろしくお願いします。」


のぞみは軽く頭を下げた。


初対面の時の哲也に対する印象は最悪だった。


(友達にはなれそうにないな。


私の苦手なタイプかもしれない。)


哲也は笑顔を見せるわけでもなく、自分にはどうせ関係のないことだ、とでも言っているような表情。


関係ないといえばその通りなのだが、挨拶くらいしたっていいじゃないの!ということだ。


顔を合わすことも無いだろうとこの気持ちは胸の中にしまった。



それからしばらく時間が過ぎて、季節は秋を迎えようとしていた。


病院の仕事を終えて、いつものように車のドアに手をかけた時、


「遠山さん、途中まで乗せてもらえませんか?」


哲也が言った。


ここに来て半年、『遠山さん』と呼ばれたのはどれくらいぶりになるだろうか。


『のぞみちゃん』か『看護士さん』のどちらかだったから。



陸はいつも『のぞみ』と呼んだ。


周平にもそう呼んで欲しいと言った。


「のぞみの名前、すごくいいよな。


『未来』の繋がってる感じで。」


周平にそう言われるまで、自分の名前に何の愛着も持たず、どうせだったら漢字の方がよかったのに・・そんな風に思っていた。


周平のモノの考え方はいつもどこか自分とは違っていると感じながら、そんな彼の世界がとても好きだった。


周平はドイツに行ってしまった。


陸とはいつの間にか距離が遠くなってもう随分と時間が経った。


のぞみは自分の道を歩いている。


けれど、心のずっと奥では3人で過ごしたあの季節を1番愛おしく思っていた。



「あっ、哲也さん、何ですか?」


「もう帰るんですよね。」


「ええ。」


「途中まで乗せてってもらえないかと思って。」


「どこまで?」


「防波堤まで。


でも、あの分かれ道の所でイイですから。


そこから先は歩きます。」


「海ですね。


どうぞ。」


「ありがとうございます。


日没を描こうと思って。」


スケッチブックと鉛筆を指しながら少し照れくさそうに言った。


「じゃあ、時間早いじゃないですか。


まだ3時ですよ。」


「少しぼんやりしたいから。


そんな時に1番の場所なんだ。」


この人もあの場所で心の洗濯をしているのだろうか。


『自由奔放』という言葉はこの人のためにあるのではないかと思うような暮らしぶりなのに。


心にしまいこんだ周平が顔を覗かせた。


周平が好きだと言ったあの場所を好きだと言う人がここにもいた。


「私も独り、防波堤にいることがあります。


今まで1度も会ったことが無かったなんて不思議ですね。」


潮の香りを運んでくる風をこの人もここで感じていたのだろうか。


何を求め、何を探しているのか。


「ありがとうございました。」


「いえ、気にしないでください。」