線路沿いの道 -11ページ目

ふきのとう

スキー場の近くまで遠出して、みほとふきのとうを探した。

変電設備の置いてある、フェンスの下で、それを見つけた。


俺たちは、いそいそとふきのとうを採り

ビニール袋に詰めた。


そこから川沿いを走ると、今度は

「あそこにコゴメがあるよ」

と、みほが云った。


俺には分からなかった。

だいたい、遠くからコゴメを見つけられるその視力に

舌を巻いていた。


土手に下りると、ぎざぎざの葉っぱの野草を

みほは見せてくれた。

「それが、コゴメ?」

俺が聞くと、

「育つと、広がってこうなるんだよ」

と、教えてくれた。


ぜんまいなども、そういう性質らしい。

丸まった葉が、成長すると

広がり、ギザギザっぽくなる。


家に帰り、採ってきた山菜を天ぷらにした。

山の味がほろ苦く

口の中に広がる。


しあわせというのは

ふきのとうを見つけたこと、それだけではない。

ふきのとうを二人で見つけ、食べたことを

今、こうやって語れることだ。

父の最期

漂白したように白い壁。

実際、漂白しているのだろうか。

病院の壁。


父の肌は、土色と黄色の混ざった

肝臓をやられた人間に特有の

切ないほどに干からびた

死相を濃く見せる色に、変わっていた。


情けないねぇ。


父は、そう云った。

やつれて、こけた頬。

リネンの下で丸めた、子供のように細い足。


すでに自分で歩くことはできず

間もなく、麻酔で眠った父。


あのとき、父は

自分でなにもできなくなったことを

「情けない」と愚痴たのだろう。


父はあれから、2週間で逝った。

俺はまだ、生きている。


情けないのは、俺のほうだ。

絵と音

制作屋。

それが俺の仕事だ。


クリエイターなどと名乗ったこともあったが

カタカナが嫌いで、今に至る。


要するに、絵を描いたり、文をしたためたり

時には、音を繰り出したりする。


腕は、ひどく悪い。

絵が下手で、音楽など奏でる力量がない。

それでも、仕事にはなる。


必死で、それらしくする。

そこまでは、できるのだ。


立ちふさがる大きな壁。

俺のたどり着けない場所。


そこに行くことができたら

もうすこしマシな人間になれただろうか。


絵がうまくなりたい。

もっと良い音を奏でたい。


そんな純粋な欲望だけは

まだ心の底で燃えている。