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春の観劇―シアタークラシックス MINI COLLECTIONS Ⅲ 第1部

前回のブログに引き続いて?これも3月の観劇ですがなかなかPCに向かう時間が取れず…今頃。モノローグとミニプレイの組み合わせ、小品ばかりですがどれも人生を鋭くえぐった作品揃いでした。

 

モノローグとは演劇の中で登場人物が相手なしに語るセリフのことですが、この公演のモノローグは劇の一部でなく、そのものが作品でごく短い一人芝居とも言うべきものでした。

 

第1部のモノローグはネット社会の不気味さを語る『ヤツラ』、現代医療の限界を語る女性の話『今という時代』、そして一番ずきんと来たのが『遺された者』。

 

 

語り手イヴォンヌの親友は生い立ちも結婚生活の不幸なために精神をわずらっていました。イヴォンヌはそんな親友が語るつらさをいつもただ聴いて受け入れていました。否定したり、自分の考えを押しつけたりせずに。それは精神状態が落ち込んでいる人に対する接し方としては正しいとされていること、精神医学系の本にはそう書かれています。でも結局、親友は自殺してしまいました。イヴォンヌは思うのです。自分の本当の思いを彼女にぶつけるべきではなかったかと。それはだめな親のこともめちゃくちゃな夫のことも「ふっきってよ!」という言葉。

 

私はずっと昔、海外留学していた人とつきあっていた頃のことを思い出しました。その人はうつ状態になったので修了せずに年度の途中で帰国すると国際電話で言って来ました。私は彼自身が志願して給費留学の試験までクリアした留学を中途でやめてしまうのは将来のためによくないと思いました。でももしここで厳しい言葉をかけたら自殺でも

してしまうかもという気がして「あなたがそう決めたなら何も言わない」と答えました。いいところへ就職できなくても生きていてくれた方がいいと。そうイヴォンヌの友人とちがい、彼は今も生きています。でも私たちはハッピーエンドにはなりませんでした(笑)。

 

うつの人には「がんばって」とは言わない、そうそれはマニュアル通り。でも自分の本当の思いを告げなかった自分が、どこか不誠実というのか、卑怯だった気もするのです。「帰って来ちゃだめ!」と言ったら彼の命にかかわる事態が起きたかも、でもそのリスクを

覚悟することが愛することだったかも?正解はわかりません。

 

第1部のミニプレイは『ボン・ヴォヤージュ』。独身のまま中高年になった3姉妹が女性ばかりの豪華客船クルーズの旅に出ることになり、次女ドッティの家で長女ロッティが楽しげに旅行の準備について話しています。はしゃぎまくっているロッティですが実は癌を

わずらっています。おくれてやってきたのが三女スコッティ。一見するとうらやましい身分にも見える三人姉妹ですが、実は彼女たちの両親は酒浸り。もっとも辛酸をなめて育ってきたのが最年少のスコッティだったのです。スコッティはこの旅で『女性』のパートナーと

出会いたいと望んでいることを姉たちに告白します。だから姉たちにくれぐれも自分のことを年の離れた妹だと他の客たちにちゃんと話してほしいと。

 

今、日本でも話題になっているLGTBの問題、そしてちゃんと育ててもらえない子供たちの問題。それらのつらさを抱えつつ、前に歩こうとする女性たちの姿。服や帽子を買うこと、旅に出ること、未知の人に出会うこと、それらもすべて険しい人生の山を登る一つの足掛かりなのですね。

 

 

高橋和己著 『悲の器』(河出文庫 2016年9月刊)

55歳の法学部教授の正木典膳は病気の妻の看護のためにやとった45歳の家政婦米山みきと関係を持っていましたが、27歳の令嬢栗谷清子と婚約。米山みきはそれを婚約不履行ととして訴えます。典膳は逆にみきを名誉棄損で告訴。

 

知識階級の家の裏側! どろどろの昼メロ風愛憎劇という感じですが、

この三角関係をめぐる物語に戦前から戦後の大河ドラマとも言うべき

歴史が映し出されていきます。

 

 

雇い主を訴えた米山みき側の弁護士並川俊雄は戦前、正木典膳が恩師宮地博士と共に発行していた雑誌『国家』が弾圧を受けた時、最初に拘引された人物でした。当時の並川は宮地グループの中心人物ではなく、編集を手伝っただけの大学院生。この小説によれば幹部ではなく、

末端の人間をいきなり検挙するのは体制側が都合の悪い組織を萎えさせるための常套手段。

 

宮地博士門下のうち、荻野助教授は発表した論文をとがめられて大学から追放され、富田副手は失踪、後にアナーキストのグループに入って銀行を襲撃、獄中で発狂して亡くなります。宮地博士は荻野や富田ほどにはお気に入りでなかった典膳に養女の静枝を嫁がせます。典膳は検事に転職する、つまり体制側に敢えて入り込むことによって恩師とそのグループを権力から守りますが、それは恩師を含む周囲からは変節として非難されることでもありました。

 

上記の三角関係、若く美しく教養もある―ピアノがリサイタルが開けるくらい上手な栗谷清子が典膳と婚約するのがちょっと不可解ですが、このような大変な時代を自分の弱さと卑怯な面にも向き合いつつ生きてきた典膳の持つ何か、清子の同年代の男性の持たない何かが気になってしまったのではないでしょうか。もちろんこの年の差カップルは

ハッピーエンドにはならず、典膳は地位を失い、兄弟や子供たちからも愛情が得られず、老いて没落して行くのですが。

 

荻野助教授は獄中転向して釈放され、戦後、長野県の教育長になりますが在職中に自殺。典膳は信州に荻野の遺族をたずね、自分よりも恩師に期待されていたにも関わらず、法学界から離れてしまった荻野のことを回想します。そして荻野未亡人から荻野と富田の遺稿を託されます。それを見て典膳は富田が本当には発狂していなかったことを知るのです。

ちなみにこの信州が舞台のシーン、長野県出身の私には非常に既視感があります。

 

癌で亡くなる典膳の妻静枝。養父の意向に逆らえず典膳と夫婦になり、

二人の子をなしたもの、夫にはあまり愛情が持てず、お酒におぼれたり、キリスト教に熱を上げたり。臨終の際も典膳の末弟でカトリック司祭の規典に看取ってもらい、教会式の葬儀にします。死後に静枝の日記で、彼女は生涯、自らの思想を貫いたために破滅した富田を思いつづけていたことが判明します。そう思って最初の方を読み返してみると典膳と婚約したころの静枝は富田の話ばかりしています。

 

この小説を読んだのは3月で、ブログに書かなきゃ、書かなきゃと思いながら5月になってしまいました。読むのにも2週間かかったけど

(通勤時間しか読書しないせいもありますが)、

何ともいえず中身が濃くて、得たものも大きくて言葉にするのが難しいのです。

 

具体的に言える一つのことは、主人公正木典膳の心理描写でいわゆる学者、知的エリートと言われる人の意識―をしっかりと知ることができました。私は自分は知識人ではありませんが仕事で知識人によく接するので、これからの生活に役立てることができるでしょう。

 

物語の終わり近くで典膳は米山みきのことを、戦争で夫を失い、

子供も病気で亡くし、自分の妻にもなれなかったから

「結局、この世に生きて何もしなかったことになる」と

言ってのけます。「どうしてそんなことがあなたに言えるの!」

と叫びたくなります。この人、みきさんが家を出ていってから

自分の着るものがどこにあるかわからなくなったくせに! 

エリートなら自分以外の人の人生をこんな風に評する権利があるのでしょうか? 

 

著者の高橋和巳は中国文学者でもあり、大学で教えていたので学問の世界に生きる人の意識を熟知していたのでしょうし、またその意識を肯定していたわけでもないと思います。どっぷりエリート気分でいたらこの小説は書けなかったでしょうから。

 

私は女性だし、年齢的にも近いので、どうしても静枝やみきに共感してしまうのでしょうか。

 

高橋和己は60年代から70年代にかけて非常に読まれた作家とのことです。ネットの批評でこの小説について「今はもう古い」とおっしゃる人がいたけれど、私はそうは思いません。恋愛観や女性の社会とのかかわりは書かれた頃とちがっているけれど、主人公が法学教授なので小説の中で憲法の問題なども出てきますし、忘れるべきでない多くのことがつまっている小説です。

 

この小説も買って手元に置いておくべきかもしれません。

高橋和己の他の作品も読んでみたいと思います。体調のいい時に(笑)。

 

 

 

 

 

満開の藤、クローバーとユウゲショウ 春の雑草の移り変わり

 

 

 

春の雑草にも移り変わりがあるようで、ホトケノザとオドリコソウはみかけなくなり、

カラスノエンドウも花より実が目立つようになりました。 

 

母のお気に入りは今、黄色い花たち。 花壇の縁の石の間から生えているカタバミ。

 

 

そしてノゲシ。花の終わった後の綿毛もかわいいですね。

 

 

 

近所の神社の鳥居のそばで雑草と思えないほど豪華に咲いている

オニタビラコ。

 

 

そしてユウゲショウ。 漢字で書くと夕化粧。何だか時代劇に出てくる桃色系の

着物を着た遊女のような風情です。

ユウゲショウとクローバー、白とピンクのコラボがなかなかきれいです。

 

 

    雑草を眺めていると「栄華を極めたソロモン王でさえ、

この花の一輪ほどにも着飾っていなかった」という

  新約聖書の中のキリストの言葉に納得してしまいますね。

まったく自然がこんなに小さくて完璧なものを作るのは不思議です。

そりゃアートフラワーとか?人間も作ることがあるけど、こうはできませんもの。

 

 

雨上がりの散歩 咲き始めの藤 タイみやげのジャスミンティ

4月15日、荒天の予想でした。 午後からは晴れるとのことなのでお昼を食べてから母を

散歩に連れていく予定でいました。ところが10時近くなるとお日様が顔を出したので

母が「(近所の神社に)お参りに行くの?」と言います。 まだ風が強かったので

どうしようかと思ったのですが、母は昼前に出かけて午後はゆっくり昼寝したいらしいので

10時過ぎに散歩とお参りに出ました。

 

神社にお参りした後、公園の藤棚の下にあるベンチで一休み。 早くも

藤が咲いています。 風が吹くと花の香りがしました。

 

ツツジは花盛り。ツツジからもやはりよい香りがしました。

シランも見頃。

ケヤキの若葉も輝いていました。

これはアリウムの1種だと思いますがツツジの根元で咲いていました。

 

家に帰り、日曜日の恒例でカレーを作りました。 このところ

昼食後の楽しみはジャスミンティ。 タイに単身赴任している友人の

旦那様のプレゼント。 カレーやシチューを食べた後の気分を

さわやかにしてくれます。

スイトピー柄のカップは一昨年、定年退職した同僚からの誕生日

プレゼント。これも重宝しております。

 

カップにジャスミン茶を入れてお湯を注いで飲んでいます。

母にも煎れてやったところ、知らない間にカップの中のお茶の葉まで

食べてしまいました。 別に食べても大丈夫だけど渋かったのではないしょうか(笑)。

 

トルストイ民話集 イワンのばか 他八編 中村白葉訳 岩波文庫

この本の中のお話で『イワンのばかとそのふたりの兄弟』と『人にはどれほどの土地がいるか』は子供の頃に童話として読み、あらすじはおぼえておりました。でも人生の道半ば、曲がり角かなあという今、あらためて読むとズシリと来ます。特に『人にはどれほど~』の方が…。

千ルーブリ均一で日没までに歩いた土地をすべてもらえると言われ、歩きすぎて命を落とす男、よくばり過ぎを戒める話として記憶していましたが、子供の時には気づかなかったこと…主人公、パホームは死に至るまで欲に捉われっぱなしだったわけではないのです。まず「年寄りどものきげんをとれば」安く土地が手に入るといわれてバシキールへ来て、土地入手遠足の前夜、主人公は悪魔と死んだ自分の不吉な夢を見ます。でも中止できません。

 

歩き始めてからも左にまがろうかという時に亜麻がよくできそうな窪地をみるとほしくなってまた歩いてしまう、夕暮れ、自分が死ぬのではないかと思いつつも、いまになって立ちとまったらばか呼ばわりされるのではないかと考えてしまう。そんな主人公の心理がちゃんと細かく描かれています。この道はよくないとわかりつつ、止まれない…残念なことに人生にはそういうことが起きてしまう、私の人生にも、ああ…。

 

 

収録されているお話の中で一番、凄みを感じたのがが『作男エメリヤンとから太鼓』。エメリヤンの美しい妻を奪おうと「一日で大伽藍を建てろ」とか「宮殿の周りに河を掘れ」とか次々と無理な仕事を命令する王様。しかしエメリヤンはすべてクリアしてしまいます。貧しくさえない男の分不相応に美しい妻を狙う権力者、日本の『絵姿女房』のお話と同じモチーフ。

 

でも恐ろしいのはエメリヤンに出された最後の課題「どこともわからないところへいってなんともわからないものを持ってくるように」。どこへ行っても、何を持ってきても「それはちがう」といえばエメリヤンを罰することができるから。生きているとこういう課題をつきつけられているように感じることが実際にありませんか? 何を言ってもしても「ちがう」と否定される経験。否定する側はこちらが何をどうするかなどに関わりなく、私がしたことだから否定すると決めていると思わざるを得ない事態。

 

妻はエメリヤンに「兵隊のおっかさん」に相談に行けといいます。エメリヤンに兵隊たちはいいます。実は自分たちもどこともわからないところへ行き、なんともわからないものをさがしている」と。そして「兵隊のおっかさん」である老婆はエメリヤンの話を聞き、

「どうやら時節が来た」と言います。そして「ひとが、父よりも母よりもよく言うことをきくもの」が求めるものだと。

 

エメリヤンが見つけたそれはある男が持っていた「から太鼓」でした。予想した通り、王様はそれを「ちがう」と否定します。しかしエメリヤンがそれをこわしてしまおうとたたき出すと兵隊たちは皆、エメリヤンについていくのです。

 

 

結末はエメリヤンは妻を連れ帰り、王様は改心します。「兵隊のおっかさん」がいう「時節」は革命あるいはクーデターの時節だったのですね。

 

父や母よりも、王様よりも人を動かしてしまうものが「から太鼓」つまり正体不明な何かであるということ、それも世界の現実。読み終えた後、呆然としてしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブルーベル、八重桜、深紅のボタン

日曜日、母と買い物兼散歩に出ました。

 

先週咲き始めていたブルーベルとシランが見ごろになっていました。

白いツツジのつぼみです。

 

 

これは近所のファミレスの駐車場の白い八重咲のボケ。暖かくなると白い花

が魅力的に感じます。

 

これは個人の御宅の敷地内のものですので写真は撮らなかったのですが

八重桜と深紅のボタンも観賞させてやることができました。 下の写真は

母と見たものではなく、9日に買い物にいったスーパー近くのものです。

写真は母に見せてやりましたけど。

ついでですが…ようやく一パック200円台のいちごを買うことが

できました(笑)

つげ義春 『無能の人・日の戯れ』

生活苦に追われる売れない漫画家が夢想しながらの貧乏生活を描いた連作漫画と聞いて、いつか読んでみたいと思っておりました。

 

興味深く読んだのが『石を売る』

マンガ業、中古カメラ売り、古物商どれもうまく行かず、石屋になった主人公。石屋と

いっても石材店ではなく、拾い集めた石を「観賞用」として売る掘立小屋の店を多摩川の河原に出したのです。一つの石の中に山水景情を連想させる石を「水石」というのだそうで。売れることはあまりなく、夢想にふける日々。奥さんにぐうたら、能無しと罵られ、そのそばでは息子の三助がゼイゼイとぜんそくの発作、寝そべって背中を向けたまま、奥さんに「(息子の)面倒をみてやれ」という主人公……自分が起きて手当してあげなさいよ。

 

それにしてもこの三助くん、喘息もちなのにお母さんを手伝って団地のチラシくばりを

する感心な子です。

 

表題作『無能の人』では寝そべってばかりいる古本屋で『美石趣味』などの本を入手する

主人公。石のオークションがあると知り、彼にとっては大金の費用を払って参加します。趣味人といえば金持ちばかりと思っていたがどことなくうらぶれた人ばかりだと感じる主人公。やはりもうかりません。

 

一番好きだと思ったのは『鳥師』。メジロ、ウグイスなどの和鳥専門の鳥屋が舞台。この作品が書かれた70年代にも既に珍しい存在だったようです。店内には5,6羽しか鳥が

いなくて客の姿も見えない店。この鳥屋は主人公に「以前はメジロで身代をつぶすほど熱心な鳥マニアもいて、すばらしい鳥をつかまえてくる名人の鳥師もいた」と語ります。その凄腕鳥師に初めて出会った時、鳥師の後姿は「ワシのような大きな鳥に見えた」と。かの鳥師がとらえてくる鳥は玄人衆と言われるマニアの間で争奪戦に。しかしやがてブームは去ります。

 

ある雨の日、久しぶりに現れた鳥師は体調が悪そうでした。白鷺を一羽連れていましたが鳥屋は買いません。 数日後川の水門の上にいる鳥師に気づく鳥屋。その姿はやはり大きな鳥のように見えました。その鳥は水門から飛びたちます。飛び立つ、つまり病気になった鳥師は自ら命を絶ったのでしょう。 

 

それにしても白鷺を連れ歩く男っておとぎ話めいています。ひっそりした店で年老いてうらぶれた鳥屋が語る追憶。それを聞いた漫画家は自分も飛んでみよう、つまり死んでしまおうかと水門に登ろうとしますが、そこへ息子がやってきて呼びかけます。「ぼく、迎えに来たよ」。

 

この三助くん、石を売るお話の中でも父を迎えに来て石の指導者の色っぽい妻に誘惑されそうになっていた主人公を救うのです。

 

つげ義春は私の両親と同じ年代です。漫画家自身がモデルだとするとこの三助少年は私と同じ年代?かな。そのせいか読んでいて子供時代を思い出しました。ありましたよ、この鳥屋さんのようにひっそりした店が私が育った町にも。

 

 

 

 

 

松本清張『隠花の飾り』

隠花、つまり日陰の女、何かではずれをひいてしまった女性たちを

描いた短編集。 殺人が出てくるお話もありますが、推理小説と

言うよりは登場人物たちの心理描写を味わう本でした。

 

 

 

裏表紙のキャッチコピーは「愛を求めるあまり転落してゆく女たちを描く

傑作短編十一編」 この言葉にぴったりなのがいわゆる不倫の愛の葉てを

描いた『足袋』、『百円硬貨』、『遺墨』。 

 

端然として威厳を感じさせる謡の師匠が商事会社の総務部長への

想いを断ち切れずストーカー風になってしまう『足袋』

 

愛する男の妻に離婚を承知させるための金3000万円を届けに行く伴子。

ところが降りた駅で男に電話するための小銭がなくて追い詰められる

『百円硬貨』。1万円札しかなくなってしまった理由が男を喜ばせるために

シューマイを買ったからというのが切ないですね。 携帯がなく、

出先では公衆電話を使っていた時代のお話です。 

 

『お手玉』 かわいい題名ですが、地方の温泉街で起こった男女のもつれに

よる殺人のお話。特に謎解きがあるわけでもなく、ワイドショーの再現ドラマ

のように顛末が語られているだけなのですが、それでも面白く読めてしまいました。

 

年老いた男性と女ざかりの女性とのカップルも登場します。60年代、戦火のベトナムを旅する金髪の女性の恋を日本人たちの目から描いた『北の火箭』。 

 

『箱根初詣で』

年末年始の温泉と初詣の旅の途中で偶然、亡くした夫の同僚の妻絹江を見かける慶子。十五歳年上の夫弘吉は「死んだ妻の前夫が、一流商社の若いエリート社員だったことにいつまでも嫉妬を持ちづづけていた」。 慶子と絹江の夫は出張先のニューヨークで交通事故死―というのは表向きだけで、

エリートにふさわしくない事件で命を失っていた。 行きの飛行機の中では

連帯感を持っていた3人の未亡人が帰りの飛行機では険悪に―甘酒を飲んだり、餅花を買ったり、見た目は楽しげに箱根を旅していながらも人生の苦さをかみしめるヒロインの心理。 

 

個人的に一番好きなのは作家を目指す主婦の物語『再春』。 中央の新人賞を得た和子は郷土史会の会員仲間川添菊子にに新作の題材について相談します。 菊子はこの地方の信望厚い名流夫人。菊子から聞いた話で

和子は会心作を書きますが、なぜか盗作だと非難されることに。

 

清張はあとがきで「三十枚でも、百枚にも当たる内容のものをと志向した」

と言っております。確かに短編でありながら、女性たちの人生の流れも

見通せるような小説集でした。

 

 

 

 

 

 

 

春の雑草を楽しむ

今の季節は桜のような人にもてはやされる花ばかりでなく、雑草の類も目の覚めるような美しさです。 そう、「番茶も出花」というのか、美人でなくても若い女性が

魅力的なように(笑)

 

春を告げるショッキングピンク? 小さなスイトピーの

ようなカラスノエンドウの花。これだけたくさん咲いていると思わず見とれてしまいます。

 

これは春の青、イヌフグリ。母が「かわいい」と喜んでみていたので写真に撮りました。

 

 

両親が60代のころに家族で湯田中温泉へ行った時、宿でもらった楊枝入れにオドリコソウを生けてみました。 こうして写真を撮るとわりと見栄えのする

生け花作品みたいです。

 

母が私が子供のころ働いていた会社で何かの賞でもらったとっくりとホトケノザ。 

 

背景が白い紙の時はピンクがかって見えて、コルクボードだと青みを帯びて見えるのが不思議です。 ちなみに雑草の花にはたんぽぽのように家の中に

入れると花がつぼんでしまうものもありますがホトケノザとオドリコソウは

屋内でも咲いているようです。

 

身長15センチのキューピーにとってはナズナの花も白いアジサイのようですね。

 

 

 

 

中目黒で

30日午後、友人との観劇のために中目黒に行きました。 劇場が開くまで時間があったので目黒川沿いをお花見しました。 交通整理のおまわりさんが

必要なほどすごい人でした。

 

 

ここでも低い位置の桜があってうれしい! やはり葉が花と一緒に伸びる

種類のようです。

 

まだつぼみの多い枝垂れ桜。 舞妓さんのかんざしのようです。

 

神社でみつけたなんと根から咲いている桜。 こんな不思議な

美しいものを見たら、何かいいことありそうで(笑)。

 

やはり植え込みの上に落ちていた花を拾ってしまいました。

手前の小さめで花びらの切れ込みが多くピンクの濃いのが枝垂れ桜です。

 

ここ数年、関東では桜が群生しているいわゆる花の名所に行っていなかったので貴重な午後となりました。