中年の研究〈71〉
自分らしく生きる贅沢
中年をどう生きるか・・・・。そのポイントは「自分らしく生きる」ということではないだろうかということで、これまで〈65~70〉以下のようなことを述べてきました。(1)四十になったら惑わない(2)好きなことをする(3)人と余計な競争をしない(4)あくまで自分らしく(5)内なる声や燃えるものに従う(6)五十歳でギア・チェンジする。
ここであらためてその「自分らしく生きる」ということを考えてみたいと思います。自分らしくというと何となくリッパ なイメージがあります。カッコ良い とも思います。しかし、自分らしくというときのその「自分」を見つめてみると、私自身はかなりカッコ悪いし、いい加減だし、いろんな弱点や矛盾したものを抱えている。
だいいち、カッコ悪いということでいえば、身体上の欠点、洗練されていない話し方や立ち居振る舞い等々、何ひとつ、自信あり! というものはない。いい加減という点では、例えば、人の悪口を言ってはいけないと「善人」ぶるときがあるかと思いきや、つい悪口を言ってしまうこともある。一貫性がないので自分でもあきれる。
そのほか、この「自分」は、間違い・失敗・勘違い・思い込みがしょっちゅうだ。またいちど落ちこんだら無力感をずっと引きずることもある。
他人をホメたりすことはあるものの、時に言い争いもお手の物だ。いやはや、つまり私自身の「自分」は、ちっともリッパでもカッコ良くもないのだ。なにも自慢しているわけではないが「自分」は不完全なのである。
しかし「自分らしく」というとき、そんな不完全な自分をあるがままに受け入れたい。なぜなら、完全な自分、完全な人園なんていないだろうし、かりにそんな人がいたとしても、誰も近寄れないに違いない。そうだとしたら「自分らしく」といっても肩ひじを張る必要はなく、素の自分、欠点や弱点もひっくるめたあるがままの自分を素直に受け入れた“自分らしさ” でいいのだと思う。
ところで、そういう風に「自分」を幅広いものと考えると「あるがままの自分」の中には「惑う自分」や「競争心のある自分」、好きなこと以外にもつい首を突っ込んでしまう「道草を食ってしまう自分」という「自分」もいて、
結局、冒頭で、「自分らしく生きる」ことが大切だとしてあげた、たとえば四十になったら惑わないも、人と余計な競争をしないも、そう簡単にはいかないということに気づく。
けれども私はその上で、やはり中年からは、惑いつつもあまり惑わず、競争しつつも競争しすぎず、道草をしつつも好きなことに専念して生きていきたいものだと思っている。
『自分らしく生きる贅沢』(ベロニク・ヴィエン 著 岸本葉子 訳 光文社)にはこうあった。
「 自分が何を望まれているか、相手から読み取ろうとするのはやめましょう。自分らしくふるまえばいいのです。不利な状況を、なりたい自分になるチャンスにしてしまえば。キャサリン・ヘップバーンは言いました。『あなたらしくいなさい。人に追従するのは骨が折れるだけよ』
人として道に迷ったときには、ためらわず正しいと思う方を選びましょう。ただし、自分なりの倫理観を持っているからといって、人よりも高潔だと思ってはいけません。
逆にもし倫理観から外れる行いをしてしまっても、落ちこむことはないのです。あなただって、普通の人、聖人ではないのだから。優越感を抱かないための、いちばん簡単な方法は、素のままのあなたでいることです。他人の前にいるときも。」
———自分らしく生きることが贅沢? エッ? と思わなくもない。しかし、いろんな期待やしがらみから心を解き放ち、不完全な自分を良しとし、人に追従せず、自分らしくふるまい、素のままの自分でいることは、確かに贅沢なことなのかもしれない。
差別について考える⑥
●ハンセン病のことを知らないでいた私
私は父親がハンセン病療養所に勤めていた関係で小学1年生のときから高校3年までの12年間を家族と共に官舎で過ごしました。しかし、当時、ハンセン病(当時は“らい病”と呼ばれた)の患者さんが近くの療養所にいた環境だったにも関わらず、私はハンセン病のことをよく知りませんでした。
子どもは学校生活が中心で、ハンセン病は療養所で働く大人が関係する領域であり、当然ながら子どもが入り込むことはなかったからです。それは私が高校卒業と同時に官舎を出て上京し大学に進学、卒業後に社会人になってからも変わりませんでした。親もとを離れたときからハンセン病のことをふだん思い出すことはありませんでした。
だが今は違います。私はハンセン病の元患者がこの日本で偏見と差別の嵐にどれだけさらされ、人権を侵害されてきたか、その歴史を少しずつですが学んでいるところです。
・ハンセン病は治る病気
熊本県のホームページに、ハンセン病への偏見と差別をなくすための正しい理解を促すための記事が載っています。それによれば(以下記事を引用・参考させて頂きます)ハンセン病は1873年(明治6年)にノルウェーのハンセン医師が発見した「らい菌」という細菌による感染症です。「らい菌」は人に発症させるという点ではとても弱い菌ですが、感染すると皮膚や抹消神経がおかされる病気です。が、治療を早期に行うことで、知覚障がい(痛みや温度感覚等がなくなる)、運動障がいなどは起こりません。誰でも「らい菌」に触れる可能性はありますが発症する人、発症しない人は個人の免疫力や栄養事情によります。
ただ現在では、衛生状態が良く、先進国においては、新規感染者はほとんど発生していません。日本国内においても新規感染者発生数は毎年約数名です(母国で感染していた外国人が来日した後、発症するケースがほとんどです)。1943年(昭和18年)にアメリカで「プロミン」という治療薬が発表され、その後、日本でも製造できるようになり、さらにいくつかの薬剤を組み合わせた多剤併用療法によりハンセン病は治る病気になりました。
また、仮にハンセン病に感染しても自然治癒することがあるうえに、治療法が確立している現在では、早期発見と早期治療により、障がいを残すことなく、外来治療で治すことができます。このため、ハンセン病の早期発見と早期治療が出来るよう、ハンセン病に対する十分な知識を持った医療従事者の育成が重要となります。
・強制隔離政策が偏見と差別を生んだ
では、偏見や差別があるのはなぜなのか? それは、隔離政策などにより、社会の中に(ハンセン病は)「怖い病気」として定着したからです。明治になり、諸外国から文明国として患者を放置していると非難をあびた政府は、ハンセン病患者を一般社会から隔離する政策をとるようになりました。患者を療養所に強制隔離するときに患者の家を消毒したりすることで、「国が法律までつくって、隔離するのだから、ハンセン病は感染しやすい怖い病気」という考えが広まりました。
また、治療薬が使用されるようになるまでは、発病すると病気が進行することが多く、皮膚感覚の喪失、四肢・顔面等のマヒ、変形などの症状から不治の病であるとか、発病が一定の家族内に遺伝する病気と誤解されていたことなども差別されてきた理由にあげられます。
・隔離により数々の人権侵害が行われた
国がハンセン病患者を一般社会から隔離する政策をとったことで次のような数々の人権侵害が行われました。○ハンセン病患者を県からなくす「無らい県運動」が官民一体となって行われた。○ハンセン病療養所内において、退所も外出も許可されず、職員不足などを補うため、看護、耕作などの作業(患者作業)を強いられた。○療養所長に懲戒検束権(療養所内の司法権・警察権)が与えられ、療養所内に監禁室が設置された。○療養所内において、結婚の条件としての断種や、人工妊娠中絶が行われたりした。○家族への偏見や差別を恐れ、療養所ないでは偽名を名乗ることを余儀なくされた。
■漫画『はだしのゲン』を読む
<38>
死ぬも地獄 生きるも地獄 ⑨
●米ドロボウと疑われたゲンの母・君江
ゲンと母親と赤ん坊は、原爆が投下された広島を離れて半農半漁の江波にある母の親友・キヨの家に身を寄せますが、そこで親友の義母と子供たち―辰夫と竹子から熾烈なイジメにあっています。
そんなある日のこと、ゲン親子が家に来たために自分たちのご飯が少なくなって腹をたてている辰夫と竹子が家の米櫃からだいじな米をとって、隠れた場所で二人して「米はうまいのう」とバリッバリッ、食べます。
黙って食べたことがばれたら母と祖母に叱られるから、それは二人だけの秘密です。一方そんななか、親友の義母(辰夫と竹子のばあちゃん)が、ゲンの母が赤ん坊に米で作ったおも湯をのませ、ゲンにお守りを頼むところを目撃。
米はお乳のでない母のためにゲンが田舎の似島からもらってきたもので、母は残り少なくなっていたそれを大事に使って赤ん坊のおも湯にしていたものです。
そうとうは知らない義母は、「フン こまっているわが家の米は へい気でたべて 自分たちの米は かくしていやがる・・・」「まったく ずるい おんなじゃ・・・」と。
そこへ、「・・・・おかしいわ」「おかあさん 米が すくなくなっているのよ だれがとったの かしら?」と親友・キヨが怪訝な顔で義母に打ち明けたから大変です。
「な・・・なんじゃと!」「わかった!」「キヨ おまえは とんでもない ドロボウ ネコを この家に おいたのう」「ま・・・まさか・・・君江ちゃんが・・・」「わしは さっき みたんじゃ あの君江が 米を かくしてもっている ところを・・・」「あの女 ゆるせんぞ」「お・・・ おかあさん なにかのまちがいでしょう」
●警察につきだされることになった君江
そうとは知らず、おも湯をつくる米を鍋に入れた君江がカマドを借りにきます。
すると義母は、「キヨみたか・・・ピカでまるやけに されたのに なんで あいつは 米をもって いるんじゃ あいつが 米を ぬすんだんじゃ」「あんな ドロボウネコは この家に おいとけん わしが おいだしてやる」と拳を握ります。
君江が、米はゲンがもらってきてくれたもので、赤ん坊の乳にどうしてもいるからゆるしてくださいと頼んでもダメです。「おまえみたいな ドロボウネコは 警察へつきだしてやる」「さあ 警察にいこう」と強引です。
困った顔のキヨに、君江が「キ・・・ キヨちゃん あたしは とったりしないわよ」「キヨちゃん しんじてよ」と言うと、義母は、「ええい ぬすっと たけだけしいとは おまえのことじゃ」バシッ、とキセルで君江の頭を叩きます。
「おどりゃ この クソババア」
「よ・・・ よくも おかあちゃんを なぐり やがったのう」「あの米は わしが この手で もらってきたんじゃ」「おどりゃ なんの証拠が あって わしらが とったと いうんじゃい」。勿論、ゲンです。
ゲンに「クソババア」と言われた義母は、「米が なくなって いるのが なによりの 証拠じゃ」「この家には おまえたちの ほかに とるものが いるかっ」と言い、君江の腕を引っ張って「さあ警察へ いって しらべてもらおう」と。
ゲンは、「かあちゃん とりもしないのに いくな!」と止めますが、君江は「元 かあさん いくよ とっていないんだから しらべて もらえば はっきりするだろう」と、「はよう きんさい」とせかすクソババアとともに警察署にむかいます。
「エヘヘ おもしろく なったのう 竹子」「ばあちゃん あいつらを しっかり いじめてやれば ええんじゃ」。
米櫃からだまって米をとって食べ、騒動のもとになった辰夫と竹子が家の中でほくそえみます。
●屈辱的な「始末書」を書かされた君江
「さあ はよう その始末書に 名前とボ印をおせ」「おまえも 強情な 女じゃのう せっかく 林のばあさんが 始末書だけで ゆるしてやろうと いうとるのに ええかげんに せえや」「ぬすんで いないのに なんで 罪を みとめる始末書を かかなくては いけないんですか」「あたしは 米を ぬすんで いません 警察は なんであたしが ぬすんだと きめるん ですか しらべてください」。
しかし警察官は、バンッ、と机を叩き、「きさま ええかげんに せえっ」「わしは いそがしい んじゃ」と聞く耳を持ちません。
「江波にすんでいる人間でドロボウをするものはおらん」というのが”決めて”のようです。
「駐在さん この女 監獄へ いれてやりんさい」とクソババアがけしかけます。
警官は、「監獄へはいると とうぶん でてこれないぞ おまえには 赤ん坊や子どもが いるんだろう 泣いて おまえのかえりを まっているぞ」と脅し、「はよう 始末書に 名前をかけっ」と君江に迫ります。「ううう」。
〈うう・・・ 元 かあさん くやしいけど 名前を かくよ・・・〉。「そうか やっと 罪を みとめたか」。「ううう」。君江は、ぶる、ぶるペンを震わせ、ボタッ、と用紙に涙を落としながら「中岡君江」と名前を書き、拇印を押します。
「林のばあさん これで ええのう」「監獄へ ぶちこんで やりたい とこじゃが よめの 親友じゃけん しかたがないですよ」。「・・・・」。涙がこぼれた君江はヨロヨロと外へ出ます。その君江の背中に「フフフこれで あいつらは 家をでていくわい・・・」とクソババアは言います。
●弱腰になる母を励ます成長したゲン
「お・・・ おかあちゃん なんで 泣いとるんじゃ」。母の帰りが遅いので心配して赤ん坊を抱きながら探していたゲンが、目から大粒の涙をこぼして海の近くでしゃがんでいた君江に声をかけます。「警察で わしらが 米をとって いないことが わかったん じゃろう」。「・・・・」
君江は言葉を返します。「元・・・ あのピカドンは 原爆は・・・ 死ぬも地獄・・・ 生きるも地獄だね・・・ あのピカさえなかったら」「かあさん こんな くやしい みじめな つらい おもいを することも ないんだよ・・・」
母の言葉を聞き、母が警察で身の証しを立てられかったことを察したゲン。
「おかあちゃんの ばかたれー なんで だまって ドロボウに されたんじゃ わしら 米を とって いないじゃないか!」と怒ります。しかし君江は「しかたが なかたんだよ おまえたちのことを おもうと・・・」と力なく言い、そして「元 もう あの家に かえるのは やめよう どこかへいこう」と言います。しかしゲンは反対します。
「いやだー おかあちゃんが ドロボウに されて でていくのは わしはいやだー」
「かえるんじゃ あの家に かえるんじゃ ドロボウじゃ ないことを はっきり させるんじゃ 犯人を わしが みつけてやるわい」
「いやだ いやだよ あの家に かえるのは もう いやだよ」「おかあちゃんの ばかたれ! このまま だまって いるのか」。
ゲンと母・君江がこうして対立する場面は、以前にもゲンと母親が対立したことがあったことを思い起こさせます。
最初のそれは、ゲンが見た、父・姉・弟が帰ってきた夢をめぐって、夢を信じたゲンと、彼らは火にやられて死んだのだから諦めようと言った母との悶着。
そしてもう1つのそれは、ゲンが家の焼け跡に進次たちの骨を掘り出しに行こうとしたときに、君江が、骨が出たら生きている望みが消えて恐いので「お・・・おやめっ」「げ・・・元やめてよ」「ほりだすのはもうすこしあとにしようよ」と言って、ふたりの考えが衝突した場面です。
けれども、そうした時の母子の対立とは違い、今度のは、母・君江がいわば現実から逃げようとするのに対し、ゲンは母がドロボウの濡れ衣を着せられたまま引き下がるのは絶対に嫌だというゲンの正義感の強さ、現実の困難や権力的な横暴から逃げまいとする強さが感じられます。
官憲の拷問に対してもひるむことのなかった父・大吉にしてこの息子、ゲンありといったところです。
ゲンは母の割烹着の端を引っ張りながら言います。
「おかあちゃん かえろう 元気を だせよ 強くなって くれー」。「ううう」「わしの かあちゃんは ドロボウじゃ ないわい」「ドロボウじゃ ないわい」。
海辺の堤防の上でのこの母子の場面は、俯瞰や海の側からとらえる構図を重ねていて、それらはまるで映画のカメラワークのようです。名場面だと思います。
●”いじわる3人組”のいる家に帰った君江
「ねーんねん ころりよ おころりよ」
部屋で君江が赤ん坊をあやしています。
米をとってもいないのに始末書を書かされ、もう親友・キヨの家に帰るのはやめようと思った君江でしたが、「あの家に かえるんじゃ」「犯人を わしが みつけてやるわい」というゲンに説得されて、クソババアと悪ガキどもいるキヨの家に帰ってきたのです。
それを障子のかげで見てババアがそばのキヨに言います。「まったく しょうこりもなく かえってきたよ あきれた ドロボウネコじゃ」「キヨ おまえから はっきり でていけと いえっ」
「親友に あたしの 口からは いえません」。「フン おまえが いえない んなら わしが いうてやる」
「あんた・・・ うちは ドロボウを おくわけには いかん すぐ でていきんさい」とババアが君江に言います。
「ドロボウじゃ ないことを はっきり させたら でていきます このままでは みじめ すぎます から・・・・」。「まだ おまえは ドロボウじゃ ないと いうのか まったく おそろしい おんなじゃのう」「しかたがない 警察に きてもらって つれていって もらうぞ」「・・・・ ・・・・」(耐え忍ぶ君江)。
幼いゲンと赤ん坊をかかえ自由な行動がとれない身とはいえ、母・君江の置かれた状況はあまりにも気の毒すぎて、読んでいて、いたたまれなさでいっぱいです。
●米ドロボウの疑いが晴らされた君江
しかしこのあと話はあっと驚く結末が待っています。外は、ザ— ザ―, 雨です。
廊下を、そろり そろり 誰かがつま先立ちで歩いています。またも米櫃から米をとって食べに来た辰夫と竹子です。
「あんちゃん だれも おらんよ」
「ようし みはっとれ」エへへ一度 米を たべだすと やめられんわい」「竹子とったぞはようたべよ!」。辰夫が米櫃からとって袋に入れた米を手に持ち、そばの竹子にそう言います。「うん」。
・・・・・と、次の瞬間、ドロボー、と大声がします。その声はゲンです。
「どろぼうじゃ どろぼうじゃ みんな でてこいっ」。ガン ガン、と棒でタライを叩いています。ゲンがいる所は天井の梁の上です。そこから二人の所業を見おろして見ていたのです。「どうせ おまえらだと おもっていたわい」
「アワワ・・・こ・・・ こしが ぬけて たてんよ」。二人は,、驚きのあまり腰を抜かしたのです。そこへ、ドタ ドタとクソババアとキヨと君江がやって来て、現場を見て「あっ」「うっ」と.なります。事の真相を知った辰夫と竹子の母親・キヨは「辰夫 竹子」と叱ります。「お・・・おかあちゃん ご・・・ ごめんよ・・・」
と、そこへ梁の上からゲンが飛び降りてきて、「くそババア よくも おかあちゃんを 米ドロボウに したのう あやまれ」「はよう あやまれっ 警察へ いって とりけせっ」とババアに言います。
しかし「うるさい おまえらが この家に こなかったら こんなことは おこらなかった んじゃ あやまるのは おまえらじゃ」とババアは開き直ります。(みごとです・・)
ゲンは左手であごの下を掴み、「おどりゃこ・・・ この くそババア」と詰め寄ります。
「な・・・なにをするか」。「わしのかあちゃんを よって たかって いじめやがって」。ギギギ。
「元 おやめ」「は・・・ はなせ かあちゃん」。「元 あたしらが ドロボウじゃ ないことが わかれば もう ええのよ」「おばあさんの いうとおりよ あたしらが この家に こなかったら こんな いがみあいは なかったんだよ うらんじゃ いけないよ」・
「・・・・ ・・・・」(神妙顔のおばあさん)。
「元 かあさんは ドロボウじゃ ないことが はっきりして 気持ちよく この家から でていけるよ ありがとう」。「うううう」
「キヨちゃん さようなら めいわくを かけたね ゆるしてね・・・」。
「き 君江ちゃん ご・・・ ごめんね」
●原爆は 死ぬも地獄 生きるも地獄
ザ― ザ―ぶりの雨の中、ゲンが再び荷を積んだリヤカーを引きます。「あめあめ ふれふれ かあさんと じゃの目で おむかえ うれしいな ピチピチ チャプチャプ ランラン」。左手を突き上げて歌うゲン。
隣の、雨除けのコモを被った、赤ん坊を抱いた君江が「・・・ 元・・・」と言い、ゲンをガシッと抱き寄せて言います。「ううう 元ありがとう かあさん うれしかったよ おまえの気持ち・・・ ごめんね つらいおもいをさせて・・・」
「な なくなよ かあちゃん わしも なきたく なるじゃないか」
ザーと降りしきる雨の中で、道に立ちすくんだ二人が泣き声を上げます。
「ううう ううう」「うわ~ん うわ~ん」。
そして、作者は第2巻の終りを最後のコマでこう結びます。
「 原爆は 死ぬも地獄 生きるも地獄・・・ 生きのこった 多くの人が 悲しみのつらい涙を 各地でながしつづけていた」 ―2⃣ 麦はふまれるの巻(完)―
●“傘泥棒“の実話が”米ドロボウ“へ
読み終えた第2巻にある、姉の英子に似た夏江や弟の進次に似た隆太が登場する話は、ストーリーを面白くしています。しかし、「夏江」や「隆太」は明らかにフィクショナルなキャラクター。同じように、ゲンと母親と赤ん坊が半農半漁の「江波」にある母の親友の家で酷いめにあう意地悪な「ばあさん」と「辰夫」と「竹子」の3人もフィクショナルなキャラクターと思われます。
しかし漫画の中の話は作者中沢啓治さんの母親が実際に「江波」の町で体験したことが基になっていました。『はだしのゲン自伝』(1994年 教育資料出版会)にはこうあります。
「 わが家族に部屋を貸してくれたM家の姑は、母が勝手な真似をすると快く思わず、みずから先頭に立って近所の主婦を集め、母が傘を盗んだと言いがかりをつけた。『この女は、街から来た恩知らずの泥棒猫だ!』と大声でわめき散らし、母の腕をつかみ、『この女は、警察へ連れて行き刑務所へ入れてもらわんといけんっ!』と引きずり出した。
『傘を盗んだか盗まないか、六畳一間の部屋を探せばすぐわかることだ。どうか自由に調べてくれ!』と釈明しても聞き入れず、『こんとな泥棒猫は許せん!』と、むりやり母を引きずり、江波の川岸にあった駐在所へ突き出した。私は悔しさに腹わたが煮えくり返る思いで、後ろからついて行った」。
「母は見せ物小屋の出し物のようにさらされた」。「母は必死で警官に釈明したが、M家の姑の言い分を聞いて母を責めた。
このとき、もし私が青年だったら、この場にいた奴らを皆殺しにしていたかもしれない。それほどの怒りを覚えた。母は悔しさに震え、盗みもしない傘を『二度と盗みません』と誓わされる始末書を書かされ、怒りに震えた指でむりやり捺印させられた」(略)―—。
こうした実体験が漫画の中で、母・君江が “米ドロボウ” と疑われ散々な目に遭った話に創作されていたというわけです。
ー続く
2023年10月12日(木)