龍一夜で変わった生活習慣おばけくん

  元気な高齢者が語る「元気な秘訣」を聞くと何か得した気がする。長生きをされている方の言葉だけにありがたみがある。最近私が耳にした秘訣は◇歩く◇お肉を食べる◇クヨクヨしないだった。簡単そうだがマネようとしても簡単ではないものもある。生活習慣をすぐには変えられないからだ。

 

 私は60歳になる前「60歳になったら酒を飲むのをやめよう」と思った。酒は百薬の長とはいうものの 段々 病気もしやすくなるだろうから飲酒による体へのダメージをなくそうと考えたのだ。もう何十年も浴びるほど飲んできたから「もういいだろう」と。しかし「思う」のは簡単だが「思った通りにはいかない」ものだ。そうは問屋がおろさず60歳を過ぎてからも延々飲み続けていたニコニコ

 

 だがそんな意志薄弱な私が生活習慣を一夜にして変えたものがある。「食べ過ぎない」ようにしたことだ。これまで、健康のためには「食事は腹八分」がいいと耳にタコができるほど聴いてきた。しかし「ムリは体に悪い」と満腹になるまで食べてきた。そのためいつの間にか標準体重は10キロも超過していた。腹囲も90センチを超えていたので “メタボ” である。高血圧症なので注意が必要な体の状態であった。

 

 お腹の回りが “浮き袋”のようになっていくのにあせり、なんとか体重を減らそうと試みた時期が何度かあった。腹筋運動をしたり、通販で買った電池でブルブル振動する器具をお腹に巻いてそれをブルブルさせ脂肪を落とそうと頑張ったものだった。

 

 だがいずれもムダな努力だった。ハートブレイクバカみたいである。そのため 「自分には減量は絶対にムリだ」とあきらめていた。しかし「食べ過ぎない」ようにしたら3ヵ月間で体重が4キロ減った。きっかけは2011年6月に放映された「NHK特集」だった。

 それは、人間の遺伝子の中でふだんは眠った状態にある “サーチュイン遺伝子” を働かせるスイッチを入れると、人は老化を遅らせ長生きするというものだった。

 

 どうすればスイッチが入りその遺伝子が働きだすかといえば、カロリー制限をする。つまり「食べ過ぎない」ということだった。ちなみにその “サーチュイン遺伝子” は数十億年前に人類が飢餓状態に陥った時に出現した遺伝子だそうで食料が豊富になり飢餓から免れるようになると休眠状態になったという。カロリーを制限し空腹感になることで休眠状態から目覚めて本領を発揮するというのである(ホントかいな)。

 

 番組を見たその夜、私は「よしやってみよう!」と思った。「カロリー制限をする(食べ過ぎない)ことで老化が防げ、長生きでき、体重を減らせれば一石三鳥だ。

 朝はバナナ1本と市販の野菜ジュースとヨーグルトとコーヒー1杯。昼はヨーグルトとクッキー少々とコーヒー。そのぶん、夜は好きなアルコールを飲みながら刺身や焼き魚、お肉や野菜などを我慢せずに食べたタコ

 

 脂肪がつきにくい食べ方は、本当は、朝と昼はしっかり食べて、夜は早めに、少なく食べる(朝:5,昼:4,夜:1の割合)というのが理にかなっているそうである。だが私は夜に「少なく」ができなかった。しかしそれでも、増える一方だった体重が驚くほど減ったのである。

 

 元気な高齢者が語る数々の「元気な秘訣」はそれを真似れば高齢になったときの自分も元気でいられるかもしれないと希望を与える。

 

 とはいえ、これまでの種々の悪い生活習慣が体に染みついていてそこから抜けだすにはもう無理かもしれないとあきらめの気持ちを抱く人も少なくないだろう。

 

 しかし、元気な高齢者からせっかく「元気な秘訣」を聞いた以上は、まったくやらないよりは、ニコニコ自分にもやれそうなことはやってみたほうがよいに違いない。

               セキセイインコ黄                 

 

 ハートブレイク差別について考える

 ●”無邪気“さと”差別心“を越えてチューリップ

 繰り返しになりますが父親がハンセン病国立療養所の職員だったため、私は小学校1年生のときから高校3年まで官舎で過ごしました。官舎の近くには広い敷地の中に療養所があり、また官舎群の一角には患者さんの子供たちが(親と隔絶されて)生活する施設(保育所)がありました。

 

 私はその施設に毎日のように入り浸り、漫画を読んだり、同級生や下級生たちと野球や卓球をして日が暮れるまで遊んでいだものでした。その頃の私は天真爛漫、無邪気そのものでした。

 

 いつも一緒に遊んでいた患者さんの子供を差別したという記憶はありません。しかし「差別する心が一切ないという人はまずいない」(『差別の教室』の著者)らしく、記憶を思い起こすと、確かに何かの折りに“差別心”が生じ、心の中で、彼らを「患者の子」と思ったことがあったような気がします。

 

 そうだとすると私の心の中にも、意識して「差別する」というハッキリとした気持ちはなかったものの「患者の子」という形で「差別する心」があったものと思われます。

 そんななか、当時は幼かったから仕方がなかったとはいえハンセン病とその患者の歴史について何も知りませんでした。高校を卒業して官舎を出た後も長い間、無知のままでした。しかし大人になり、私は遅ればせながら、ハンセン病患者とその家族が偏見と差別のなかを過ごしてきた歴史の一端を知るようになりました。

 

 ●ハンセン病 偏見と差別の歴史(Ⅰ)ふたご座

 それでは、ハンセン病の患者はどんな差別と人権侵害を受けてきたのだろうか・・・。最近、私はそれがわかる文書を見つけました。熊本県のホームページ上で「ハンセン病国家賠償請求訴訟」として纏められている文書がそれです。以下に、その文書から抜粋したものを再構成して引用させて頂こうと思います(~⑨まで)。 

 

 ◇ハンセン病はらい菌による感染症だがうつりにくい病気であることは戦前から知られていました。にもかかわらず、日本政府は強制隔離政策を長く続けてきました。

 最初に対策が講じられたのは1907年(明治40年)の「らい予防ニ関スル件」という法律でした。それ以前は放浪するハンセン病患者を主に外国人の宗教家などが救済してきました。何ら救済措置をとらない日本政府に対して海外から強い批判があったなかで、国はハンセン病を文明国にあるまじき「国辱」と捉えていました。

 

 ですから1907年に制定された法律は、放浪する患者を警察的に取り締まる意味を持っていました。その法律に基づき、全国にハンセン病療養所が造られていきました(私が少年時代に父が職員として勤めていた療養所は調べてみたら、周辺住民による反対運動が起きたりしたなか、私が生まれる6年前の1943年(昭和18年)に開園しています)

 

 ◇1916年(大正5年)には、療養所の所長に対して「懲戒検束権」が与えられました。所長は裁判手続きによらず自由に療養者に対する懲戒が実施できました。各療養所には監禁室が設置され、極めて恣意的な処分がなされました。特に療養者たちが恐れたのは、全国の「不良患者」を収容する目的で1939年(昭和14年)に設置された群馬県栗生楽泉園の「重監房」と呼ばれた拘禁施設でした。

 

 厳重な施錠がなされ、光も十分に差さず、冬期には零下17度まで気温が下がりました。監禁されると十分な寝具や食料も与えられず、記録によるだけでもここに収容された92人のうち14人が監禁中または出室当日に死亡したといいます。

 

 療養所は社会と完全に隔絶された治外法権の収容所となっていきました。1931(昭和6)には、新たに「らい予防法」が制定。それは、戦争とファシズムを背景に「民族浄化」の理念のもとでハンセン病を根絶するという目的を持っていました。

 

 この法律により、放浪する患者のみでなく、全ての患者が収容されることとなり、それとともにわが国のハンセン病絶対隔離政策が確立されました。そしてこの絶対隔離主義を背景に全国的に「無らい県運動」が展開され、そうしたなかで人々にハンセン病は恐ろしい伝染病であるという恐怖心が植えつけられていったのです。

              えー  

  ■漫画『はだしのゲン』ラブラブを読むうお座 

        <39>

     麦よ出よ

 ●原爆の残酷さを知ってほしかった宇宙人あたま

 『はだしのゲン』第1巻 “青麦ゲン登場の巻” では戦前の軍国主義下の日本とともに主人公ゲンの家族の暮らしが描かれました。父・大吉が反戦思想の持ち主だったため一家は非国民といじめられ攻撃されました。父が警官から拷問を受ける場面は生々しくて痛々しいかぎりでした。続く第2巻の “麦はふまれるの巻” では原爆の地獄絵図が描かれるとともに、原爆投下による家の火災で父と姉と弟の命を奪われ残されたゲンと母が戦後の焼け跡で必死に生きる姿が描かれました。

 

 そうしたなか、被爆のシーンはあまりにもリアルで怖いものがありました。それもそのはずで、『はだしのゲン わたしの遺書』によれば、作者の中沢啓治さんは自らが被爆した6歳の時の網膜に焼きついていた原爆の姿を「戦争で、原爆で、人間がどういうふうになるかということを徹底的にかいてやるぞ」と思っていたからです。

 

 本当は、もっともっとリアルに描きたかったそうですが読者から「気持ち悪い」という声が出だしたため、心外だったけれども「読者にそっぽを向かれては意味がないと思い、かなり表現をゆるめ、極力残酷さを薄めるようにして」描いたそうです。

 そのため常に「こんな甘い表現が真に迫っているだろうか。原爆というのは本当はああいうものじゃない。ものすごいんだ」という気持ちが離れなかったそうだ。

 

 中沢さんは漫画家仲間からも「お前の漫画は邪道だ。子どもにああいう残酷なものを見せるな。情操によくない」と叱責されたことがあったそうです。しかし中沢さんは「原爆をあびると、こういう姿になる」という本当のことを子どもたちに見せないと意味がないと思い、また、原爆の残酷さを目にすることで「こんなことを決して許してはならない」と思ってほしかったそうです。

 

 またそれだけではなく、中沢さんは被爆後、「人間の悪い本性をさんざん見てきた」ため、『はだしのゲン』は、優しさや思いやり、家族愛も意識して描いたとのこと。それは「次の世代の子どもたちには、人間の嫌な部分ではなく、よい部分をバトンタッチしてやりたい」という思いだったようです。

 

 ●登場人物や敵役が物語を面白くさせる恐竜くん

 『はだしのゲン』における被爆の場面は、読者からも「気持ち悪い」という声が出たというように、確かに、「気持ち悪い」絵です。しかし不思議なことに、『はだしのゲン』は一度読みだしたらページを繰る手が止まりません。理由は簡単。ストーリーが面白いからです。たしかに被爆の場面は「気持ち悪くて怖い」が、主人公ゲンの成長物語が面白いので読むのがやめられないのです。

 

 そこで私は1巻と2巻を読み終えたところで、『はだしのゲン』の “面白さ” について改めてそのワケを考えてみました。ただし、面白いのは成長物語だからだという以外のワケです。その結果今回注目した点は、ストーリーにつきものの「登場人物」(キャラクター)です。

 

 つまり登場人物そのものが『はだしのゲン』を面白くしているということです。

その最たる人物は作者の分身だという主人公のゲンです。腕白で、ユーモアがあり、心優しい少年です。ゲンの他にはゲンの家族が登場します。彼らはストーリーの要です。 

 そしてストーリー中に起こることは全て登場人物の行動から端を発しますが、その点で第1巻の中で主人公ゲンと同じくらいに際立つ登場人物は父・中岡大吉です。

 

 大吉は反戦主義者のため、町内会の竹やり訓練で屁を連発するなどして軍国主義に染まる世の中に反抗する剛毅な男です。その大吉の “敵役” とも言うべき人物が町内会長の鮫島です。鮫島は敵役だけあって卑劣な男です。竹やり訓練をバカにした大吉を警察に告げ口して大吉を逮捕させたり、中岡家は非国民だから付き合うなと町内の人にふれ回ります。また中岡家が大事にしていた麦畑を夜中に荒らしてだめにしました。

 けれども、この卑劣な登場人物のお陰で、ストーリーがドラマチックで緊張感に満ちた展開になっているのです。つまり物語が面白くなっているのです。

 

 つぎに、第2巻で展開されたストーリーを面白くさせていた登場人物を挙げるとすると、なんと言ってもそれは近藤隆太でしょう。隆太は原爆で両親を亡くした原爆孤児です。しかしゲンは、家の下敷きになり業火に焼かれて死んだ弟の進次に隆太がそっくりなので「おまえは進次じゃ」と逃げる隆太を追いかけまわします。

 

 隆太と仲間らがねぐらにしている防空壕にゲンが追いかけてきたところで、ゲンは隆太の仲間に頭を棒で殴られ気絶し「そのへんのに埋めてしまえ」といわれます。

 またその後も、ゲンが隆太を進次だと思いこんでいるため、ゲンと、隆太とその仲間の間では何度か殴り合いが勃発します。つまり登場人物・隆太そのものがプロット(筋。筋書き)でありストーリーを牽引しているのです。別の言い方をすればストーリーを面白くさせているのは登場人物・隆太の存在なのです。

 

 そして、第2巻のストーリーをさらに面白くさせている登場人物は、ゲンと母と赤ん坊が半農半漁の江波で居候した母の親友・キヨの家で、彼(彼女)らを徹底的にいじめぬいたキヨの義母とキヨの子供の辰夫と竹子です。

 

 “義母” は辰夫と竹子の “ばあちゃん” で、ゲンが “くそババア” と呼ぶほどの嫌な人物です。孫の辰夫と竹子が、「あいつらがいつまでもいたら わしらめしがくえなくなって そんするぞ」と不満をもらすと、「そうじゃ おいだせ!」とその “くそババア” は二人をけしかけます。

 

 また、辰夫と竹子がゲンの頭を丸ハゲと笑いながら棒でポコポコ叩き、赤ん坊をつねっていじめため、怒ったゲンが二人をバキッと殴ったら、「おまえは とんでもないやつじゃ 両手をついて あやまりんさいっ」と言って、ガツッとキセルの金具でゲンの頭を殴りました。

 

 そして家の米をゲンの母・君江が盗んだと言い張って村の駐在所へ連れて行き、君江に「米を盗みました」と始末書を無理やり書かせます。その後、ゲンは母が濡れ衣だったことを証明しますが、しかしゲンと君江と赤ん坊は居候先から出ていくことになります。

 

 考えてみると、ゲンが口にしたこの “くそババア” もいわば第1巻の町内会長の鮫島と同じ “敵役”。しかしやはりこの敵役が登場人物として存在し、あらん限りの悪意を言葉にし、行動するからストーリーが面白いのです。

 

 ●敵役は “エンターテイナー” 的な存在イルカ

 つまり、『はだしのゲン』には「気持ち悪い」場面が多々あるにもかかわらず漫画のページをめくらずにいられないのは、登場人物たち―—例にあげた、“ 町内会長” の鮫島、死んだはずの “弟にそっくりの隆太” や、ゲンがつい口にせざるをえなかった “くそババア” 、その孫の “辰夫” や “竹子” ——の言葉や行動が引き起こす出来事が面白いストーリーになっていて、読んでいて飽きさせないからでした。

 

 とりわけ第1巻の町内会長の鮫島と、第2巻の終盤に登場したどちらも敵役のくそババアは、話に緊張感をつくり、話をドラマチックに盛り上げるエンターテイナー的な存在といえるでしょう。

 

 「上手に描かれた敵役はストーリーに興奮をもたらしてくれます」。作家のリー・ワインダム女史は『童話の描き方』(1984年 講談社)でそうのべていますが確かにそうです。しかしながら、そうした敵役や隆太のような登場人物は、基本的にはあくまで、主人公ゲンがストーリー中の出来事を通して何かを学びとり、変化し、人間的な成長を経験していく、そのために関係がある人物たちといえるでしょう。

 

 ●貸間はあるのに家が借りられない親子ショボーン

 ―—そういうわけで、第1巻と第2巻を読み終えたところで、私はそれらを改めてふり返り、その面白さのワケを「登場人物」の面からアプローチしてみました。

 

 で、ここからは第3巻 “麦よ 出よの巻” へ読み進もうと思います。

 

 その前に簡単に第2巻をおさらいすると、第2巻は、8月6日の原爆で父と姉と弟を亡くしたゲンが、焼け跡の中で母と赤ん坊の3人で生活する姿が描かれました。

 業火に巻かれて亡くなった父と姉と弟は家の焼け跡から骨になって見つかりました。そのためゲンの夢に現れた父たちがそのうち「みやげを持って帰ってくる」という望みは打ち砕かれゲンと母は悲しみにくれます。結局、出会った姉の英子に似た原爆症の夏江も、弟そっくりの原爆孤児の隆太も、残念ながら本当の英子、進次ではありませんでした。そんなこんなで、生きている望みをすっかり失った母とゲンは、しかし元気を出して赤ん坊をつれて江波に向かいます。ところがその江波で、親子は散々な目に遭います。居候先の家でいじめられ、あげくの果てに母の君江が米ドロボウをしたと警察沙汰になったのです。しかしドロボウじゃないことをはっきりさせた親子は居候先を出ていくことにしリヤカーに荷物を積みザーザー降りの雨の中で肩を寄せ合って泣きます。「原爆は 死ぬも地獄 生きるも地獄・・・生きのこった 多くの人が 悲しみのつらい涙を 各地でながしつづけていた」——作者は第2巻の最後のコマをそうした言葉で結んでいました。

 

 さて、いよいよ第3巻です。

 江波で居候していた家を出たゲン親子は、家を借りようと、雨の中、「貸間アリ」の札が出ている家を訪ねますが、どこも貸してくれません。ピカで焼け出され、保証人がいないうえ、お金を一銭も持っていない得体のしれない「こじきみたいなやつに」部屋は貸せないとことわられます。

 

 「フン こじきの くせして 一人前に 部屋を かしてくれとはなまいきだよ」。妻に「塩だ 塩をもってこい」という大家から「二度とくるなっ」と塩を投げられます。

 

 また、家を貸して死なれたたら、死体を引き取りに来る人もおらず、葬式代やなんやかやで大損する。だから「ピカを うけたやつには かさないほうが まちがいがないんだ」と言う大家もいます。2巻の終りにあった、「原爆は死ぬも地獄生きるも地獄」とはこのことです。

 

 ●作者の思いがダイレクトに現れた言葉グー

 そんな親子の苦境を傘の中から見ている女性がいます。親子が江波で居候していた家の、君江の親友・キヨです。キヨの義母とキヨの子どもたちからのいじめを受け、家を飛び出した親友親子のことが気になってあとをつけていたのです。

 

 キヨは幼い頃を回想(フラッシュ・バック)します。キヨをいじめている子どもたちを君江が、「キヨちゃんを いじめると あたしが しょうちせんよ!」と叱っています。また、土手の上で、「キヨちゃん これ いっしょにたべよう」「ありがとう 君江ちゃん あたいの家 びんぼうじゃけえ こんな うまいおかし たべたことないの・・・」と二人が並んで座っています。

 

 そうした思い出が回想されるだけに、キヨは親友の親子が放っておけないのです。

 

 一方、家が借りられなかった親子は、原爆で焼け出された人たちが収容されている小学校に行きますが人が大勢でわりこむ余地がありません。親子はなんとか落ち着くところをみつけなくては・・・と切実に思います。

 

 そして二人は嘆きます。「お金がほしい・・・ゼニさえあれば・・・」と母・君江。「江波のやつらは つめたいのう みんな こまっているのに たすけて くれても ええじゃないか・・・」とゲン。しかし民江は言います。

 

 「どこでも おなじよ みんな 自分が かわいいからね」「だけど かあさんは 日本人の いやらしさを つくづく 思いしったよ よわいものを みると ようしゃなく いためつける いやらしさを・・・ね」。

 

 ・・・・・このゲンと母親との会話には、作者が幼い頃に実際に江波で「よそ者」としていじめを受けたことによるトラウマのようなものが強く込められているように感じられます。いじめは壮絶で、中沢さんの母は、傘泥棒をしたと警察に引きずり出されたということでした(漫画では “米ドロボウ” をしたと描かれていますが)。

 

 また、『はだしのゲン自伝』(1994年 教育資料出版会)によれば、中沢さん自身は、学校で、「後頭部のヤケドがやっと固まったところを『ハゲ! ハゲ!』と指さされはしゃぎ立てられ、おもしろ半分に殴られた」ということです。そしてこうのべています。

 

 「 私は、この江波の町で、人間の正体を見た。日本人の正体を見た。『民主主義』『愛』『平和』『正義』『弱い人を助け合いましょう』『めぐまれない人に愛の手を・・・・』、なんと空虚で空々しい言葉と標語であろうか。人間がそんなに綺麗なことを言える動物か。日本人は、弱い者に対しては容赦なく威張り、いじめ抜く本性を持っていることを知った。

 

 一皮捲(めく)れば醜い本性を現わし、襲いかかってくるのだ。とくに戦争という状況が人間の醜さに油を注ぎ、一気に燃え上がって広がるのである。その意味で、人間を獣以下に落とし入れる戦争を起こした奴らを、私は許せないと思う。

 

 私たち家族は、この江波の町にいじめ抜かれ、こずかれ、追いまわされ、『いまに殺されるのではないか・・・・』と母は言い、『早くこんな嫌な町を逃げ出そう』を家族の合言葉のようにして、夜になると廃屋となった陸軍兵舎に行き、せっせと板や材木集めにがんばった。一日でも早くわが家を建て、この町を抜け出せる日を楽しみにして・・・・。」

 

 こうした箇所を読むと、母・民江がゲンに向かって言った言葉——ー

 

「だけど かあさんは 日本人の いやらしさを つくづく 思いしったよ よわいものを みると ようしゃなく いためつける いやらしさを・・・ね」

 

 ——ーは、作者の気持ちが強く、ダイレクトに滲み出ていることをうかがい知るのです。

ー続く

            チューリップ黄ふたご座ちょうちょラブラブパンダ

          2023年10月22日(日)

               おばけくん